第六章④ 各陣営、ここに集結。
対峙するは五鬼衆とフランス海軍マクシミリアン・ブーケ隊。子午線の島で再び剣を交えることになるとは、誰が想像しただろうか。マテオが叫びと共にカットラスを引き抜いた。
「なんでここにいんだよ!?」
「こっちのセリフだわ!」
「あなた達こそ、なんのつもりでこの島にいるの!」
ペネロペが即座に怒鳴り返し、ロザリーの声が重なる。
「それは……いや、それこそこっちのセリフでしょ!?」
間髪入れない応酬にニールが狼狽えながら声を上げる。
「紺色の制服がこの島にいるとか、どういう経緯!?」
コリンが叫びつつカットラスを構える。互いに譲らない、理解も歩み寄りもないく敵を見る目だけがある。
「君達にすべてを話す権利はない!」
サミュエルが冷たく言い放つと、ルキフェルが彼の腕を振りほどいて距離を取り、カットラスを抜くと刃がギラリと光った。
「邪魔する奴が誰だろうと容赦しない」
「待て、ルキフェル——!」
アランの制止も聞かずルキフェルは地を蹴って一直線にサミュエルへと飛びかかった。サミュエルの刃が閃いてルキフェルの猛攻を受け止め、金属のぶつかる音が弾けた。
「来るかよ!」
マテオが踏み込み、コリンも同時に動く。対するロザリーとペネロペ、二人のサーベルが正確に構えられると四つの影が交錯した。刃と刃が噛み合い、空気を裂き、集落が一気に騒めきに包まれる。
「待って、一旦話し合おう!」
ニールの声が響くが、誰の耳にも届かず斬り結ぶ音だけが支配する。アランが状況を見渡しながら舌打ちする。
「……チッ」
「ガキどもが……これでは死人が出るぞ」
その頃、帆船の甲板上ではヤンが顔を上げて遠くを見た。
「……何事ですかね?」
彼の背後では夢蛇の貨物を運んでいたワンやポーランたちも手を止めて顔を見合わせる。
「騒ぎか?」
「様子がおかしいっすね……」
騒めきが広がり、甲板の奥からティエンとニコラが現れた。
「なんだろう、みんな落ち着きがないような」
ニコラが呟くとティエンは遠い陸地を凝視した。少し離れた場所、マルクとイヴォンは隣り合って同じものを見ていた。マルクが望遠鏡を下ろして唸る。
「……おい。なんか、とんでもないことになってるぞ」
イヴォンは言葉を失ったまま頷いた。
そんな陸地側、レオンのテントでは入口の隙間からダミアンがそっと外を覗いていた。目を見開いたまま息を殺して、彼の視線の先には——混沌。集落の一角でレオンたち多民族集団は固まるように身を寄せ合い、戦況を見守ることしかできなかった。中心でルキフェルとサミュエルが激突して踏み込み、捌き、刃が交わるが主導権は明らかにルキフェルにあった。サミュエルの長身で荒さの残る剣筋を、ルキフェルは読んで流して逸らす。中華剣術の柔らかな動きで力を受け流し、踏み込みに合わせて体をずらし、刃が空を切る隙間に掌と肘で打つ。太極拳の打撃が要所で叩き込まれた。
「っ……!」
サミュエルの体勢が崩れると、ルキフェルが西洋剣術の鋭い一撃を放つが、それはフェイント。サミュエルのサーベルが反応した瞬間、カットラスの軌道が変わってルキフェルが踏み込んだ。とどめの一撃、一直線に向かうもサミュエルは寸前で躱した。カットラスの刃が空を裂き、先端がサミュエルの腰のポーチの紐を斬り裂いた。軽い音と共にポーチが地面に落ちて口が開き、中身が転がり出る。
——青い液体を宿した注射器が砂の上をコロリと転がった。
再び刃がぶつかり、鍔迫り合いに発展する。サミュエルの腕が押し返し、ルキフェルが押されるも歯を食いしばって力を逃がす。やがて、ルキフェルが一度距離を取って呼吸を整える暇もなく再び踏み込もうとした時、気の流れが変わって気配と違和感が周囲に充満した。ルキフェルの視界の端で何かが動くと同時に、集落の隅で戦況を見ていたダミアンの横を影が走り抜ける。一つではない、二つ三つ、いや数えきれない影が次々と音もなく気配だけを残していく。ダミアンの背筋が凍った。ルキフェルが足を止めて周囲を見渡すもすでに遅い、影たちは彼らを取り囲んだ。黒衣、顔を覆う布、手には短く鋭いダガーが円を描くように配置される。威嚇するように刃がわずかに揺れ、包囲の中でロザリーが息を呑む。
「……っ、この人たちは! サン・マロで遭遇したあいつら……!」
——同じだ。
海軍組の理解が戦慄へと変わる。混乱の中で敵が変わって戦場そのものが塗り替えられた時、密林の影がゆっくりと動いて軽やかな足音と甘い笑い声が響いた。
「……はは」
ねっとりとした声音に全員の視線がそちらへ向く。木々の間から一人の男が姿を現した。ドミニク・ダラスが口元に歪んだ笑みを浮かべ、愉悦を隠そうともしない瞳で集落を見渡す。
「いやあ……ずいぶん楽しそうだね」
ドミニクの声が落ちた瞬間、ニールの顔色が変わって血の気が引く。この島にいるはずがない、最も縁遠いはずの男がこの場にいることに理解が追いつかない。
「……っ」
「あいつ……!」
マテオが舌打ちして睨みつけると刃先が揺れた。
「……ドミニク・ダラスか」
アランが押し殺すように呟く。包囲の輪が狭まっていく中、ダミアンは多民族集団の怯えた気配を背に駆け出し、一直線にドミニクの前へ躍り出る。
「……待ってください! やめてください……!」
一方、小舟の底ではピエールが手首を滑らせて縄を外し、猿轡を乱暴に剥ぐと小舟から立ち上がって桟橋に飛び移るなり、集落に目を向けた。
「……兄上!」
ピエールが一直線に駆け出し、焦燥の声が空気を裂いた。ダミアンがドミニクの前で足を止め、ピエール混乱の渦へ踏み込んだ瞬間、ルキフェルたちは言葉を失った。同じ顔が二つ並び、アランでさえ眉を顰める。ドミニクが双子に目を見開くも、濁った瞳に愉悦が滲んで口元が歪んだ。彼の視線の先にダミアンが違和感に気づいて振り返ると、そこにはピエールが立っていた。
「……っ」
ピエールもまた足を止めて狼狽する。
「……なんだ、これは……」
コリンが呆然としたまま遅れて声を落とし、マテオは額に汗を浮かべて呟く。
「……ピエールが、二人いる?」
「影武者か……? 一体どっちが……」
ニールは声にならない息を漏らして肩を振るわせ、ペネロペもロザリーもサミュエルも唖然とした。ルキフェルはダミアンとピエールを交互に見ながら低く呟いた。
「……俺たち、何を相手にしてたんだ」
その時、レオンが目を見開いて声を張り上げる。
「まさか……双子か……!」
レオンの一言で多民族集団の中で波紋のように騒めきが広がる。
「双子、同じ顔……?」
「そんなことが……」
アランもまた沈黙したまま光景を見つめている。同じ顔の人間が二人、現実として見るのは初めてだ。
「……だからか」
アランの額に汗が滲んで脳裏に金の腕輪が浮かぶ。
——返せ! オレはあいつじゃない……。
「……なるほど」
アランが理解した瞬間、背筋に冷たいものが走る。そして当の二人、ピエールはダミアンを睨みつけていた。
「……てめえ」
殺意すら滲む声にダミアンは足がすくんで声を振るわせた。
「……兄上……」
その時、乾いた拍手が集落に響いて場の空気を嘲るように揺らし、ドミニクが笑いを堪えきれないまま手を打っていた。
「はは。いやあ、これは傑作だよ」
ドミニクがダミアンの脇をすり抜けると武器を構えるものたちを見渡した。
「まさか……本物のピエールもこの島に来ていたなんて。いやいや、まったく予想外」
ドミニクがピエールを見つめた後、ダミアンを振り返って高らかに声を張る。
「ご苦労だったよ、ダミアン。見事にピエールを演じて、海賊たちの懐に入り込んでくれた。……君も、たまにはやるじゃない」
ドミニクの一言が落ちて、音が消えて世界が止まった。ダミアンの中ですべてが崩れる。
——忘れていた。自分が何のためにここにいたのか。何を命じられていたのか。
ダミアンの胸の奥で何かが音を立てて壊れると、痛いほどの視線に周囲を見回す。ルキフェル、マテオ、コリン、ニールの目が変わっていた。怒り、失望、冷えた拒絶、そして裏切り者を見る目。
「……そんな、ちが……」
ダミアンの声が震える。言葉が続かない、否定したいのに何を否定すればいいのか分からない。ルキフェルと目が合って翡翠の瞳が突き刺さる。
「……俺たちを騙したのか」
ルキフェルの声に怒りが滲む。いやそれ以上の何か、信じていたものが壊れた音がした。ダミアンの足が揺らぎ、ピエールの声が沈黙を裂いた。
「兄上! 奪われた夢蛇は……あちらにございます!」
ピエールの指先が沖合に浮かぶ帆船を示し、ドミニクが緩やかに首を傾げる。
「さて、どうしたものかな。そうだねえ、ここは交渉といこう。夢蛇を渡してくれるなら、僕たちは引き上げるよ。ただし、どうしても拒むと言うなら……この島の連中の命はない」
ドミニクが指を鳴らすと周囲の暗殺者たちが一斉にダガーを多民族集団へ向けた。
「やめろ、卑怯だぞ!」
ルキフェルが叫んで地を蹴り、ドミニクへ斬りかかろうとするもマテオの鋭い声が止めた。
「ダメだ!」
ルキフェルが思わず土を踏み締めてブレーキをかけるとマテオを振り返った。
「マテオ、どうして……!」
「こいつに抵抗すんのはやめろ。みんな殺されるぞ」
マテオが歯を食いしばって唸っている側で、サミュエルが低く呟く。
「……多民族集団の無事を確認する。それが隊長から与えられた任務だ」
彼の横でペネロペが歯軋りして腰のポーチへ手を伸ばし、青い液体が光る注射器——天眼滴を取り出すと手のひらに乗せて見せつける。
「ほら、これ! 夢蛇の中でも特に強力なやつなんだって! これで……見逃してよ!」
周囲の空気が凍りつき、ドミニクの瞳に光が差した。
「……へえ」
ドミニクがペネロペに近寄って手を伸ばし、ペネロペは張り詰めた顔のまま差し出す一瞬、ロザリーが腰に帯びた短銃へ手を伸ばした。——その時、誰かの声が響いて集落全体を震わせる。
「その必要はない!」
ドミニクの手が止まって引かれ、振り返ると視線が密林へ向く。木々の奥、影が動いてジャスパーがカットラスを片手に現れた。ジャスパーは憤怒の形相でドミニクに迫ると押し殺すように告げる。
「ダラス家さんよ。狙うなら、おれにしろ。他のやつらに手を出すな!」
ドミニクの顔からすうっと感情が消え、先ほどまで浮かべていた愉悦も嘲笑も剥がれ落ち、空虚な眼差しでジャスパーを捉えた。
「……また君か」
ドミニクが吐き捨てると、ジャスパーに握られたカットラスの刃が光を拾って鈍く煌めいた。
「ぜんぶ、思い出した。ここで話すつもりはないけど、これだけは言っておく。おれは……大事なもん傷つけられるくらいなら、ゼフィランサスの血も罪も全部背負ってやる。だから、——おれを連れて行け!」
ジャスパーが息を吐くように声を張り上げた瞬間、ルキフェルは黒衣の集団を押し退けて声を重寝る。
「ダメだ、ジャスパー! お前が犠牲になるなんて許さない!」
ジャスパーはドミニクを見据えたまま言い切る。
「止めるなよ。おれはもう覚悟してんだ」
アランが一歩踏み出して怒気を孕んだ声音で叫ぶ。
「ジャスパー、ルキフェルの言う通りだ! ここで命を投げ出したら……アルマは、お前の母親がお前を守ってきた意味がなくなる! 彼女の意志ごと曲げていいのか!」
ジャスパーのアンバーの瞳がブレて多民族集団とレオンの方に向くと、レオンは首を横に振った。
「……じゃあ、どうすれば……」
ジャスパーの声が力を失って落ちた時、ルキフェルはなおもドミニクへ向かって怒りをぶつける。
「お前……俺たちの仲間に手を出そうって言うなら、俺が容赦しない!」
ルキフェルの叫びを、ピエールは目を細めて見ていた。
……五鬼衆の頭目、危険人物。こいつ、さっきから吠えてばかりで煩い。
ピエールが舌打ちして目を逸らすと、地面に転がったままの天眼滴が目に入った。その間、ドミニクは肩をすくめて退屈そうに声を上げる。
「君たちには時間が必要みたいだねえ。じゃあ、こうしよう。……ここから先はゲーム。僕たちは船に戻るとするよ。後日、答えを聞かせて。——ただし、時間はないよ」
そう言い終えた瞬間、ドミニクは指先で小さく合図を送り、黒衣の暗殺者たちが一斉に動いた。黒い影が散るように密林へ駆け出し、ルキフェルたちのすぐ脇をかすめるように通り過ぎ、ドミニクが指先をひょいと別方向を差せば、数人の暗殺者たちが進路を変える。狙いは一人、ニールが気づいた時には影が一斉に彼を囲んで押さえ込む。
「——っ!? 離せ……っ!」
ニールが兢々として叫ぶも、密林へと引きずり込まれていく中で声が遠ざかっていく。
「ニールッ!!」
ルキフェルの絶叫が響く瞬間、ピエールが注射器を拾い上げて音もなくルキフェルの背後へ滑り込むと、彼の首筋に針を突き立つ。
「——っ!?」
ルキフェルが息を詰め、青い液体が押し込まれる。熱とも冷たさともつかない感覚が瞬時に全身へ広がった。ルキフェルは呻き声を漏らしながら反射的にピエールを引き剥がすと、刺さったままの注射器を自分の手で掴み取り、強引に引き抜くと首筋から血が滲んだ。ルキフェルは注射器をチラ見してすぐにピエールを振り返った。
「てめえ、今何した……!」
嘲り笑うピエールを前に、ルキフェルは乱暴に投げ捨てた。転がった注射器がレオンの足元で止まる。集落の光景を一瞥しながらドミニクは軽く手を振った。
「じゃあね」
彼は背を向けて密林の奥へと消えていき、ピエールもまた体勢を立て直すと地を蹴ってダミアンの腕を掴む。
「来い」
「……っ!」
有無を言わせぬ力、ダミアンが抗う間もなく引きずられて同じように密林の中へ消えていった。取り残された空間には、奪われたものの大きさが遅れて現実としてのしかかってくる。
「……くそっ」
ジャスパーが吐き捨て、勢いよく仲間を振り返る。
「おい、あいつら追うぞ! 誰が敵とか、今は関係ねえ! 仲間が攫われた!」
混乱の余韻が残る中で、レオンは足元に転がった注射器を拾い上げた。少し残った青い液体が光を受け、中で鈍く揺れる液体の異質さに思わず眉を顰める。ルキフェルは首筋を押さえながら息を整えてカットラスを握り直し、ジャスパーとマテオとコリンへと順に視線を送った。
「よし、行こう」
三人が同時に動き出し、ルキフェルも、続こうと足を踏み出した瞬間、凍りつくような悪寒が背筋を走って肺がうまく動かず、視界が揺れてこめかみが脈打つ。
「……っ」
内側から何かが押し広げようとしてくる感覚に吐き気が込み上げ、指先が震えて足元が不確かになる。世界の輪郭がじわじわと滲み始める。
——色が、おかしい。
現実の色彩が剥がれ落ち、代わりに異様な色味が染み出してくる。紫とも緑ともつかない不自然な光が景色を侵食し、砂浜も木々も人の輪郭も歪んでいく。ルキフェルが耐えきれず膝をつくとマテオが駆け寄ろうとする。
「っ、ルカ……!」
「待て! 近寄るな!」
レオンの鋭い声が制した一言で、全員の動きが止まる。その間にも、ルキフェルの中で何かが崩れていき、視界の端を黒いものが這った。蛇、影だけの輪郭の曖昧な蛇が視界の隅を滑るように動く。消えたかと思えば、また別の場所に現れる。同時に光が見えて人の輪郭が奇妙な輝きを帯びた。皮膚の奥に、何か本質のようなものが浮かび上がって見える感覚。声が歪み、誰かの呼び声が重なって聞こえる。
「ルキフェル——!」
幾重にも、複数の存在が同時に囁いているように。意味を持つ言葉なのに神託のように遠く、現実から切り離されている。境界が曖昧になって、自分がどこまでで、世界がどこからなのか分からない。恐怖と同時に奇妙な恍惚が混ざり、深く沈んでいく感覚と共に視界が切り替わった。
世界が歪んで影が伸び、光が裂ける。音が遠のき、闇だけが濃く迫ってくる。軋む床板の音、冷たい空気を纏って誰かが近づいてくる。足音が異様に静かで重い。
「……だれ……?」
自分の声が幼い。影は返事もなく近づく。月光が裂け、刃が浮かび上がる。剣だと理解した瞬間、呼吸が止まって白刃が弧を描いた。熱で顔が裂け、世界が赤に染まる。逃げる。だが逃げ場がない。叩きつけられ、押さえつけられる。殺される。刃が振り下ろされる——。
「やめなさいッ!」
ヒステリックな叫び、母ミレーユが血に濡れながら立ちはだかる。
「ラウル! 逃げて!」
その瞬間、すべてが紅に染まった。母が斬られて崩れる。温もりが消える。理解が追いつかない。叫べない。壊れる。世界が砕ける。——そして、何もない闇に落ちていく。どこまでも、どこにも届かない場所へ。一連の光景が終わらず、何度も、何度も、何度も繰り返される。
「やめろ……」
ルキフェルが声を漏らすも景色が止まらない。呼吸が乱れて胸が潰れ、地面に爪を立てのたうち回った。
「っ、やめ……て……!」
叫びにならない声、視界の中で母が何度も死ぬ。刃が何度も振り下ろされ、血が何度も飛び散る。終わらない、終われない。掴んだはずの現実が指の隙間からこぼれ落ちて、何もかもが手の内から滑り落ちていく。
そんなルキフェルの様子を誰も動けずに見ていた。あの男が、あれほど冷静でどれほどの戦場でも乱れなかった男が、ここまで崩れる姿など想像したこともなかった。マテオの顔から血の気が引いている。
「……ルカ……」
コリンが思わずマテオの腕にしがみついた。ペネロペもロザリーもサミュエルも、誰一人として言葉を失っていた。そこへ、集落の桟橋に一隻の小舟が接岸してきた。マルクとニコラがロープで固定する間、ヤンが桟橋へ飛び移って駆け込んできた。彼が状況を見た瞬間、足を止めて両手で顔を覆って狼狽する。
「ああ、なんてこと……」
レオンは多民族の仲間たちへ鋭く指示を飛ばす。
「誰かドクダミを! 少量でいい!」
ルキフェルが地面を引っ掻いて藻がいていると、ジャスパーが彼の前に飛び出した。
「ルキフェル、おれだ! 聞こえるか!?」
ジャスパーの鋭い叫びが空間を貫いた。
——聞こえている。声は届いていたが、“現実の声”としてではない。
歪んだ世界の中でルキフェルは顔を上げた。涙で滲んだ視界の向こうに何かがいる、近づいてくる。ルキフェルの焦点が合わず捉えようとした瞬間、影の輪郭が揺れて形が変わった。ジャスパーだったはずの姿が闇に溶け、黒い影——あの夜の男が刃を持って歩いてくる。ルキフェルの心臓が跳ね、思わず飛び起きて後ずさった。
「……っ」
影は消えない、むしろ近付いてきた瞬間、また姿が変わって褐色の肌と長い黒髪、黄金の瞳を湛えた。
——ゼフィランサス。
揺れて切り替わる、闇の男とゼフィランサスと交互に何度も何度も、記憶にないはずの稲光が廊下の窓を裂くたび、姿が変わって迫ってくる。ルキフェルの視界の中で同一の敵として重なっていき、涙が頬を伝って更に視界が歪む。それでも、見えてしまう。ゼフィランサスの顔、その奥に重なる、あの夜の影。そして、“殺したもの”の記憶。
「……お前の、せいだ」
ルキフェルの口から掠れた声が漏れた。責める声だったのか、縋る声だったのか。もう、自分でも分からない。胸の奥で何かが暴れ出す。理性ではない、もっと原始的な何か。
——獣がもがき苦しんで鎖と檻を破る。
ルキフェルは視界の端に転がっていたカットラスを掴み取って立ち上がった。足元はふらついているが止まらない。
「ぜんぶ……ぜんぶ、お前のせいだッッ!!」
息を乱して絶叫し、踏み込んで振った刃が空を裂くが当たらない。躱され、影はすり抜ける。ゼフィランサスは消える。それでも、また現れる。また重なる、また迫ってくる。ルキフェルは何度でも振った。何度でも。何度でも。何度でも。叫びながら、悲しみを怒りを、理解できない何かをすべて刃に乗せて振り回す。過去に食い尽くされ、出口を失った獣そのもので。
「お前のせいだ!!」
ルキフェルの刃はなお空を裂いていた。速い、重い、だが当たらない。
ジャスパーはルキフェルの錯乱を躱し続けていた。一言も多く語らず、苦しげに眉を寄せ、目の前の男の叫びを真正面から受け止めながら、最小限の動きで刃を避ける。踏み込めば引く、振り下ろされれば流す、反撃はしない。二人の姿を見て、マテオは喉が裂けるような声で張り上げた。
「ルカ、やめろ!! ジャスパーが何したって言うんだよ!!」
コリンはマテオの腕を掴んだまま呟くことしかできなかった。
「……やめて……」
ルキフェルの耳にはもう意味を持った音として届いていなかった。彼らの背後でアランが手を上げて合図を送ると、多民族の者たちが包囲して距離を詰めるもジャスパーの声が鋭く空気を裂いた。
「手ェ出すな!!」
それから、ジャスパーはマテオとコリンに向かって刃を躱しながら叫ぶ。
「おれたちが……こいつを止めるって誓ったのに、今度こそ止められなくてどうする!!」
ルキフェルの視界の奥でまた別の光景が開いた。砂の感触、石畳、刺さるような視線。
——広場で小さな自分が囲まれている。声冷たい、硬い。
「緑のやつ」
「気味悪い目」
「邪悪」
胸が締めつけられ、息が詰まる。押され、叩きつけられる。痛みよりも拒絶されている感覚の方が強い。理由が分からない。分からないまま殴られ、押さえつけられる。視界が滲んで息が浅くなる。心臓の鼓動が速い。
——弱いからだ。
声が頭の奥で響く。誰の声か分からないが、納得してしまう。弱いから。だから、こうなる。だから……強くならなきゃ。胸の奥で燃える火が次の記憶と重なる。あの夜、血、母。自分の前に立つ姿。守ると言った声。そして——死。守られた結果、失った事実が鋭く突き刺さって胸が痛い、苦しい。
——置いて行かないで。
言えなかった言葉、届かなかった願いれが今になって押し寄せる。同時に別の感情が浮かぶ。もっと深い、もっと重い。
——何もできなかった。
守られただけの自分、立てなかった自分、助けられなかった自分が重なってくる。逃げ場がない、否定できない、胸の奥が潰れる。ルキフェルの動きが鈍って刃の軌道が乱れた。踏み込みが浅くなり、呼吸も荒く肩が上下する。
「……っ、は……っ」
空気を吸おうとしているのに、うまく入ってこない。それでもまだ振る。カットラスを振るが、遅い。さっきまでの鋭さがない。力はあるが、制御が効かない。
ジャスパーは彼の異変を見て目を細めた。
——変わった。さっきまでの暴走とは違う。これは崩れている、内側から崩壊している。
ルキフェルの腕が震え、刃先がブレまくった。
「……お前の、せい……お前の……」
息が続かず言葉が途切れ、胸を押さえようとして片手が一瞬離れる隙に、刃が下がって振り上げる途中で止まる。腕が上がらない、呼吸が持たない。
「……っ、は……っ……」
振り上げたはずのカットラスは中途で力を失い、指先から滑り落ちる。乾いた音を立てて刃が砂を打った瞬間、ルキフェルの喉の奥から押し潰されたような声が漏れる。
「……っ、ぐ……!」
胃の中身がひっくり返るような感覚が一気に込み上げ、視界がぐらりと傾いた。地面が遠のいて足の感覚が曖昧になり、膝が折れて両膝を砂に叩きつける。
「っ、は……っ、は……っ……」
吸っているのに足りない。吐き出しても追いつかない。眩暈が回り、視界がぐるぐると回転する。空と地面の境界が分からない。世界が傾いているのか、自分が崩れているのか。吐き気がさらに強くなってこめかみが脈打ち、耳鳴りと共に遠くで誰かが叫んでいる。
「ルキフェル!」
「ルカ!!」
「ルキフェル……!!」
ジャスパーとマテオとコリン。声は届いているが、まとまらず伸びて歪み、何重にも重なって頭の中で反響し、音の塊になって押し寄せてくる。
「……っ……」
背中を氷のようなものが這い上がってくる。歯が鳴って体が震え、視界の端にまた何かが蠢く。黒い影、歪んだ輪郭、さっき見たものとは違う。もっと近い、もっと嫌な感じがする。見てはいけないものがすぐそこにいる。
「……や……め……」
苦しい。気持ち悪い。逃げたい。その時、自分の名前が耳に残った。
「ルキフェル……!」
頭の中まで歪んだまま響くが、その一部が引っかかる。
「……ルキフェル……? 俺の……なまえ……?」
自分の口から掠れた声が漏れた瞬間、別の声が鮮明に、劈くように割り込んだ。
——ラウル! 逃げて!
女の声、あの夜の、あの瞬間の。あれが、すべてを貫いた。次の瞬間、感覚が反転してふわりと身体が軽くなる。さっきまでの吐き気も寒気も痛みも、すっと引いていく。境界がほどけ、柔らかく温かい、どこかに沈んでいくような安心感。浮かんでいるのか、落ちているのか分からない。ただただ心地いい。音が遠くなって光が優しく滲む。何もかもが、どうでもよくなる。眠れる、このまま何も考えずに、全部終わらせてもいい。
「……ああ……思い出した……俺……ラウル、だった……」
次の瞬間、視界が裂けて光が潰れ、プツンという音と共に意識が途切れた。ルキフェルの身体が前のめりに崩れ、砂の上に力なく倒れ伏した。呼吸だけ辛うじて残って、遠くで声がする。
「ルキフェル!!」
「ルカ!!」
誰かが叫んでいる。必死に届かせようとしているが、声たちは暗闇の奥へと木霊して沈んでいく。どんどん遠くなる、小さくなる、やがて消える。
残るのは——底の見えない闇だ。




