第二章① ヤン
コリンとヤンは、ランデヴェネックの湾に停泊する黒い船を見上げていた。潮風に煽られた黒い帆が低く軋む。
「……じゃあ、頼んだよ。くれぐれも気をつけて」
コリンの声は掠れていたが、ヤンはいつもの柔らかな笑みを崩さず頷く。
「承知いたしました。無事に済みましたら、報告を兼ねて第八船団へ向かいます」
それだけ言うと、ヤンは振り返らずスタスタと桟橋を進み出した。コリンは彼の背をしばらく見送ったあと、額に滲んだ汗を拭って踵を返し、人の流れに紛れて港の雑踏へと消えていく。ヤンが黒い船の舷側に足をかけた瞬間、空気が変わって数人の海賊がヤンを取り囲む。
「……東洋人だ。珍しいな」
「何の用だ?」
低い声が重なり、目つきは鋭い。手がいつでも抜ける位置にあるが、ヤンは一切怯まず場違いなほど穏やかに口を開いた。
「少々、面白い品を扱っておりましてね。この辺りで話の分かる方がいると聞いたものですから」
海賊たちの目が揺れ、ヤンは逃さず続ける。
「無論、安くはありません。ですが……価値は保証いたしましょう」
「……好きにしろ。ただし妙な真似はするなよ」
海賊の一人が吐き捨てるように言い、海賊たちは離れていく。その一部始終を少し離れた場所から見ていたニールがヤンに声をかけながら近づいてくる。
「……ちょっと、なんでいるのさ」
ヤンは振り返るなり目を細める。
「おや、これはこれは。あなたのお仲間から依頼を受けまして」
「いや、そういうことじゃなくてさ……」
ニールは額を押さえ溜め息を吐いた。
「……もしかしてコリン?」
「ええ。あの少年だけではありません。アランさんも、わたしの仕事仲間も、この地に来ております」
「……は?」
ニールは口をあんぐりと開け、言葉を失った。ヤンは天気の話でもするかのように続ける。
「現在、旧ブルボン派の動向を調査中でして。エドガーと接触しようかと考えております。何か手掛かりはございますか?」
ニールは数秒、ヤンの顔を見つめると息を吐いて声音を明るく変えた。
「……ああ、それならエドガーじゃない方がいい。もっといいカモがいる」
ヤンの目が細くなり、ニールは軽く顎で船内への階段を示した。
「この階段を降りて、船尾側の一室に“代理様”がいる。フェルナンドの代理。部下からは嫌われてるけど書類関係は全部あいつ任せ。エドガーは片付けが壊滅的に下手でさ。結局、その無能が一括管理してるってわけ。……分かるでしょ?」
「ええ。実に分かりやすい」
ヤンは小さく笑うとニールの視線が鋭くなって踵を返す。
「精々頑張りなよ」
ニールの背を見送りながら、ヤンは楽しげに声を漏らす。
「……案内が良すぎますね」
ヤンは階段へと足を向けた。船尾側の一室は、外の喧騒が嘘のように静かだった。彼が扉を開けた瞬間、鼻をつくのは紙とインクの匂い。目につくのは整然と並べられた帳簿、束ねられた書類。この船の中で、唯一秩序が存在している場所だった。その中心に男——カシリオがいる。彼は机に肘をつき、書類を捲っていたが、ヤンの気配に気づくと顔を上げた。
「……誰だ?」
警戒というより不機嫌、自分の領域に踏み込まれた苛立ちの方が強い。ヤンは一歩、室内に入る。
「失礼いたします。噂はかねがね。これほど整った管理をされているとは」
「……ほう?」
カシリオの眉がわずかに動いたのをヤンは見逃さない。
「船長は豪胆なお方と伺っておりますが、それを支える方がいなければ、組織は回りません」
カシリオは椅子に深くもたれかかり、口元を歪めた。
「分かってるじゃないか。……そうだ。この船の書類は、すべて私が見ている。カシリオだ」
「お目にかかれて光栄です」
ヤンは軽く頭を下げた。彼の手にはいつの間にか小さな瓶が握られている。
「少し落ち着くお飲み物です。重要なお話ですので」
「……ふん。まあいいだろう」
カシリオは一瞬だけ訝しげな顔をしたが、すぐに鼻で笑った。ヤンは「グラスを二つ」とカシリオに頼むと、程なくしてグロック入りのジョッキが運ばれてきた。カシリオはジョッキを取って何の躊躇もなく口に運び、ヤンもまた自分のジョッキに口をつけたふりをする。ややあってカシリオの呼吸がゆっくりと変わり始め、瞳の焦点が僅かに揺れた。
「……それで?」
ヤンは椅子に腰を下ろし、穏やかに問いかけた。
「最近、大きな“取引”はありましたか?」
カシリオの視線が宙を漂って記憶と現実の境界が曖昧になり、思考がゆっくりとほどけて口元が緩んだ。
「……取引……ああ、ある……あったとも……この港の使用許可、特別なものだ……普通じゃ手に入らない……」
ヤンは懐から手帳を取り、羽ペンを拝借して白紙のページにインクを走らせた。
「特別、とは?」
「……先に来ていた、我々より前に……港に……サロン服を着た男が……」
「その人物は?」
「知らん、名は聞いていない……だが船長の知り合いと……海賊にしては身のこなしが……優雅すぎた……まあ……フェルナンドも……優雅だからな……」
ヤンは淡々と書き留めていった。日付、許可証、資金の流れの断片が形になっていく。
……旧ブルボン派は実働している。机上ではない。誰だ。
カシリオがふらつきながら立ち上がる。
「……見せてやる。証拠だ、全部ある……」
カシリオが書棚の奥へと歩いていくと隠された引き出しの鍵を開け、書類の束を取り出して机に並べた。ヤンは一瞥しただけで書類の構造を把握する。位置、順序、並びを記憶に焼き付けると同時に必要な箇所だけを素早く手帳に書き写す。金額、日付、署名。そして、痕跡。無駄はない。時間もない。やがて、ヤンは手帳を閉じて立ち上がった。
「大変、興味深いお話でした」
カシリオは椅子に戻り、満足げに目を細めた。自分が何を話したのかも、どこまで見せたのかも理解していない、心地よい余韻だけが残っている。
「……また来たまえ」
「ええ、ぜひ」
ヤンは軽く一礼すると扉を開ける。外の喧騒が再び流れ込み、彼は何事もなかったかのように歩き出した。ヤンは胸の内で静かに結論を出す。確証は得た、あとは繋げるだけ。ヤンが甲板に出ると潮風が頬を打って思わず目を細めた。船内の閉じた空気とは違う、開けた匂い。ヤンが視線を巡らせると船の隅に三つの影があった。ニール、マテオ、そしてジャスパー。ヤンはそのまま、迷いなく歩み寄ると気配に気づいたニールが問う。
「……つかめた?」
「ええ、十分すぎるほどに」
ヤンが頷くとマテオが低く言う。
「気をつけろよ。書類が抜けたってバレたら——」
「ご心配なく。全てここに入っております」
ヤンは穏やかに遮ってこめかみを指で叩くと、マテオの口元が歪む。
「やっぱり怖えよ」
ジャスパーが肩をすくめる。
「敵に回したくねえタイプだな。あんた」
「わたしは依頼で動いているだけです。……小さな依頼人にね」
ヤンが淡々と返すとニールがすかさず口を開く。
「その言い方、本人が聞いたら怒ると思うけど」
「でしょうね」
わずかに笑い、ヤンは視線を三人へ巡らせると声を落とした。
「ところで……この戦争の背景で蠢くものについて、何か心当たりはありませんか?」
風が吹く中、最初に口を開いたのはジャスパーだった。
「……あるな。この港に来る直前、妙な連中と会った。ダラス家だ、貴族連中。数ヶ月前、フランソワが死ぬ前も接触してる」
ヤンの瞳がわずかに細くなるもジャスパーは続ける。
「……僕も見た。たしか一ヶ月前、サン・マロでダラス家の次男を名乗る奴と前にも会ってる。あいつ、間違いない」
ニールは一瞬言葉に詰まるも声を潜めて言い切った。マテオが腕を組んで目を逸らして言う。
「そういえば、一ヶ月前くらいにサン・マロで黒い連中が第五船団に来てフェルナンドに接触してた。……で、その黒い服の連があのダラス家と一緒にいたらしい。その次男坊も同じ時期にサン・マロにいたなら偶然じゃない」
風が強く吹き抜け、帆が鳴って船体がわずかに軋んだ。ヤンは一度だけ目を伏せる。ダラス家、黒衣の集団、旧ブルボン派。点が線に変わってその先にある“意図”を測るとヤンは静目を開いた。
「……なるほど。裏側は思っていたよりも賑やかですね」
三人の前ではヤンは変わらず穏やかな表情を保っていたが、内側では均衡が崩れていた。ダラス家はただの貴族ではない、現国王の側近として仕え、王権を支える名家だ。断罪を掲げる現王朝の中枢にいる存在、そんな彼らが海賊と接触している。……あり得ない。いや、この三人は冗談を言っている目ではない。とりわけ、ジャスパー。この男がああいう目で語る時は確実だ。ニールの言葉も曖昧さがない、恐怖を押し殺した声音だった。そして、マテオ。断定はしないが、線を引くように結論へ近づける言い方。やがてヤンの思考が一つの結論に辿り着く。
……そういうことですか。
ダラス家こそが旧ブルボン派。だが、ヤンはすぐ視線を落とした。断定には早い、先ほどの書類にその名はなかった。拠点、資金、確かに支援者はいるが、ダラス家と直結している証拠はない。別の一派、あるいはさらに上位の何者か
——わたし一人で追うには範囲が広すぎる。持ち帰るべきですね。
ヤンは手帳を開いて数行だけ走り書きするとパタンと閉じ、顔を上げた時にはすでにいつもの表情に戻ってた。
「興味深いお話をありがとうございます。では、わたしはこれにて」
ヤンは一礼すると三人に背を向けて歩き出して黒船を降りた。足が桟橋に触れた瞬間、ヤンは顔を歪めるとすぐに消した。潮の匂い、雑多な声、海賊たちが行き交うランデヴェネックの港、ヤンは人波の中へと一定の歩幅で歩き出し、やがて第八船団へと戻ると甲板を抜けて船員の一人に声をかけた。
「コリンさんは?」
「船長室だ」
ヤンは頷くと扉の前へと向かい、ノックもせず扉を開けた。
「——おや」
椅子に座っていたコリンが弾かれたように立ち上がる。
「おかえり! どうだった?」
「これから調査報告書を作成いたします。その過程でお話ししましょう」
コリンが一瞬きょとんとする。
「……調査報告書? それ必要なの?」
「ええ」
ヤンは淡々と答えながら執務机へ歩み寄る。
「調査依頼の場合、報告書を発行して依頼人へお渡しすることを義務付けられております」
ヤンが引き出しを開けると中には何も書かれていない羊皮紙が大量に収められていた。ヤンは羊皮紙を数枚取り出すと机に広げ、羽ペンを手に取ってインクを含ませる。
「へえ……ちゃんとしてるんだね」
コリンが感心したように呟くが、ヤンの意識は紙の上にあった。ペン先がサラサラと走って文字が綴られていく。彼の脳裏には先ほど目にした書類の構成が浮かび、配置と余白、そして文言の癖をなぞるように自分の形式へと落とし込んでいった。ヤンは手を止めないまま言う。
「結論から申し上げますと証拠はきちんと残されていましたよ。律儀に」
「え、あったの!?」
コリンが素っ頓狂な声を上げ、ヤンは口元を緩めた。
「ええ。日付と資金の流れ、許可証の存在も確認済みです」
「それで、例のブツは使ったの?」
ペン先は止まらず、行を変えて項目を整え、情報を配置していった。コリンが身を乗り出す。
「ええ、使用しました。ずいぶんと夢見心地な方でして。……あ、エドガーではありませんよ。ニールさんから書類管理を任されている部下がいると伺いましたので、そちらへ狙いを変更しました」
コリンが「うわ……」と上擦った声を漏らすもヤンは紙の上に淡々と事実を並べていく。
「効率の問題です。管理者を押さえた方が全体像に早く辿り着けますから」
ヤンはさらさらと最後の行を書き終え、ペン先をわずかに浮かせるが、まだ終わりではない。ヤンの視線が新たな羊皮紙へと移って手元に引き寄せ、インクを含ませた。
「……さて、ここからが本題。この件、単なる拠点支援では済まない可能性が高いです。もう少し踏み込んだお話になりますよ」
ヤンは一度ペンを止め、コリンをチラリと見た。
「事態は思っていたより複雑です」
「複雑?」
「あなたは、ダラス家がどのような連中かご存知ですか?」
「知らないよ。貴族ってことくらい」
ヤンは一瞬だけ手を止め、再度ペンを走らせた。
「それなら知らない方がいいこともありますね」
コリンは眉を顰めるが、その間にもヤンの思考は高速で巡っていた。証拠はまだ足りないが、依頼人が求めているのはそこではない。コリンが欲しているのは、あくまで旧ブルボン派の動向。余計な情報は混乱を生むだけ。ヤンは視線を落としたまま書き進め、書くべきものだけを書いていく。ヤンはダラス家の名は一切記さず、やがてペン先を止めると数枚の羊皮紙を揃えてコリンへと差し出した。
「完成しました。こちらが今回の成果でございます」
コリンが書類を受け取ってパラパラと目を通す様子を見ながらヤンは続ける。
「お代は結構です」
「え?」
「先ほど頂いた情報と同等の価値がありましたので」
コリンは少しだけ目を丸くし、また紙へと視線を落として読み進めるが、次第に表情が曇っていくと報告書を胸に抱えてヤンを見上げた。
「これ、海軍に渡してもいいかな」
「お好きにして構いませんよ。あなたのための報告書です。所有権は、あなたにあります」
「じゃあ……これ、海軍に届けてくるね」
「……あなたも、なかなか大胆ですね」
「だって、他に方法が浮かばないんだから。もう滅茶苦茶だけどさ。……最後に勝てば、いいや」
無鉄砲。計画と呼ぶには粗すぎるが、真っ直ぐだ。ヤンは思わず口元を緩める。
「……そういうやり方も嫌いではありませんよ」
その後、コリンは甲板で指示を出していたアーシャを見つけると、彼女に駆け寄った。
「今さ、第八って船出せる?」
アーシャが振り返ると神妙な面持ちで呟く。
「……出せるよ。どこ行くの?」
「ブレストの近く。できれば、隣町とか」
「……は?」
アーシャの顔が固まる。
「ちょっと待って、今なんて言った?」
「ブレストの近く」
「いやそれは聞こえてたけど、正気?」
アーシャは腰が抜けそうになるのをどうにか堪えるが、二人のやり取りの最中にも第八船団はすでに動き出していた。フェリスを中心に船員たちが一斉に散り、帆の準備と物資の確認、出港手順の確認をしていく。
「偵察だ。次戦に向けてのな」
誰かがそう言えば、この船団にとって“動く理由”はそれで足りる。コリンは一瞬だけ彼らの様子を見て、ヤンを見つけた。
「一緒に来てほしい」
ヤンは首を横に振った。
「申し訳ありません。アランさんと周辺調査に出ている同僚と話がありまして、今回は同行できません」
「……そっか」
コリンの肩が目に見えて落ちた時、軽い声が割り込む。
「じゃ、オレで」
コリンが振り向くとあの青年——ティエンが立っていた。いつの間にいたのか分からない。
「暇してるし。護衛くらいならやれるよ」
ティエンがヘラリと笑うと、コリンは数秒見つめて半ば投げやりに言う。
「……もう誰でもいいよ。来て」
「了解」
ティエンはこくりと頷いた。
こうして、今日会ったばかりの正体もよく分からない青年が同行者に決まった。




