第一章 コリン
*偉人の言葉
真実を語るのは実に難しい。青年でそれをできる者は稀である。
——レフ・トルストイ(Leo Tolstoy)
霧はすでに晴れていたが、海にはまだ湿った冷気が名残りのように漂っている。
ランデヴェネックの港は先ほどの戦闘の余韻に包まれながらも、すでに次の動きへと移りつつあった。撤退してきた船団と後から噂を聞きつけて押し寄せてきた新たな船団が入り混じり、港はざわめきを増している。黒漆塗りの巨艦リヴェンジ・クイーンの船長室では、エドガーは椅子に深く腰を預けて足を組んでいた。
「次は夜戦だ。……あまり間を空けたくない。準備が整い次第、また向かわせよう」
部屋の空気がわずかに張り詰めた時、ニールが一歩前に出た。
「それ、僕らも観戦するべきじゃない? ほら。戦場は間近で見る方が多くを学べる。それに霧も晴れたことだし、今すぐ偵察部隊を送ろうよ。こういうのは敵情視察も重要だ」
ニールが一瞬だけ窓の外へ目をやり、エドガーは目を細めると口元に薄く笑みを浮かべる。
「……いいだろう。じゃ、どの船団でもいい。小型の奴らに伝えてこい」
「了解」
エドガーは再び背もたれに身を預けて天井を見上げ、ニールは踵を返して船長室を出た。湿った風が吹き抜ける中、ニールは甲板を突っ切るように歩いていく。彼の視線の先には船の隅で海を見ていたコリンの姿があった。ニールはコリンに近づくと呼びかけた。
「コリン」
コリンが振り向く瞬間、ニールは声を落とす。
「逃げて」
「……え?」
コリンの目が見開かれるもニールは続ける。
「アメリアの元へ行って。旗はわかるよね? 黒地にハートを貫く剣だ、第八船団に敵情視察をさせる。それに乗じて君だけでも逃げないと」
コリンの表情が歪む。
「……嫌だ。なんでぼくだけ——」
「いいから行け」
低い声が割り込んで二人が振り向くと、ジャスパーが立っていた。彼の隣にはマテオが腕を組んでいる。ジャスパーはコリンを見下ろしながら言う。
「時間ねえんだよ。ぐだぐだ言ってる暇あるなら、走れ」
「ふざけないでよ……! みんなも——」
「オレたちは残る。お前は違う。ここにいる意味、分かってんだろ」
コリンが食い下がるもマテオが言い切った。コリンが言葉に詰まっているとジャスパーが口を開く。
「だったら、今は行け」
三人の大人の視線がコリンに向けられる。逃げ道はあるが、選択肢はない。
「……っ」
コリンが歯を食いしばった瞬間、マテオに背中を強く押された。
「行け!」
コリンは三人にタラップへと押し出され、ほとんど放り出されるように黒船を降りた。コリンは睨みつけるように振り返ると甲板の上で三人が見下ろしている。
「……クソが」
コリンは吐き捨てると踵を返して走り出した。向かう先は第八船団、アーシャたちの元へ。コリンの背後では、すでに別の船団へと伝令が走り始めていた。夜戦、偵察、そして次の戦い。港では怒号と足音、帆を張る音が入り混じってどこか落ち着かないざわめきが続いている。コリンは人の波を縫い、積荷の間をすり抜け、怒号を背に受けながら半ば不貞腐れたように駆けていた。
「……くそ、くそ……!」
コリンが毒づきながら足は止めなかった。振り返ったら、戻ってしまいそうだったから。やがて第八船団の旗、黒地にハートを貫く剣を見つけるとコリンは勢いよくタラップを駆け上がり、甲板を横切ってほとんど転がり込むように船長室の扉を押し開けた。突然の音に室内の空気が跳ね、中にいたアーシャとフェリスが弾かれたように立ち上がる。窓際で外を見ていたアランも振り向いて片目でコリンを捉えた。
「……無事だったか。お前一人だけか、他はどうした」
アランが掠れた声で問うもコリンはとぼとぼと歩いて机の前まで来ると、視線を落として口をへの字に曲げた。アーシャとフェリスが顔を見合わせ、アランは言葉を待っているとコリンが拗ねたような声で言う。
「……追い出された」
子どものように納得していない響きに、アーシャがわずかに目を見開く。フェリスも息を呑むが、アランは真顔のまま淡々と返した。
「……生かされたって言え」
呆れを含んだアランの声音にコリンの肩がぴくりと動き、指先が机の縁をぎゅっと掴んだ。
「……勝手すぎるよ」
「そうだな。だが、それが“戦場にいる側”の判断だ」
アランがコリンを見下ろしながら言うと、コリンはようやく顔を上げた。
「……じゃあ、ぼくは違うっていうの」
アランは一瞬だけ視線を細める。
「違う。お前はまだ選べる側だ」
「……意味わかんないよ」
コリンが視線を逸らし、アランは窓の外へ視線を戻した。港はまだ騒がしい。戦いはまだ終わっていない。そして、ここに戻ってきたこの少年もまた、その渦の“外側”に立たされたのだと理解していた。
「まあまあ、まずなんか飲もうか? あたし、ギャレーに行ってくる」
「僕もだ。少し確認したいことがあるから席を外すよ」
アーシャが空気を和らげるように言って軽く手を振り、フェリスも頷いて船長室を出ていった。扉が閉まり、部屋に残ったのはコリンとアランだけだった。外のざわめきだけが遠くに聞こえ、アランは一度だけコリンを見て執務机の椅子を引いた。
「……まあ、座れよ。ガキ」
アランがぶっきらぼうに言うとコリンはむっとした顔で眉を寄せた。
「……あんまガキって言わないで」
コリンはぼそっと言いながらも素直に椅子に腰を下ろすとアランはふっと息を漏らした瞬間、小さく吹き出して堪えきれなかったように肩を揺らす。
「……は、それ昔のルキフェルを思い出すな」
不意に出た名前にコリンが顔を上げ、アランは少しだけ視線を遠くにやると口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
「あいつもな。頭はいいんだが……ガキのくせに大人ぶって、スカしてやがった。で、そういう時に限って、本物に叩き潰される。俺とか、フランソワにな」
どこか懐かしさが滲むアランの声音に、コリンは視線を落として口を尖らせた。
「今でも、そういうとこあるよ。なんかさ、素直じゃないんだよね。ぼくより子供なんじゃないかって思うときある」
「違いねえ」
アランはくつくつと喉の奥で笑い、コリンはしばらく黙っていたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「……ジャスパーが教えてくれたんだ。アランさんって、ルキフェルの先生なんでしょ。クォーターマスターの」
「ただの老耄だ。俺はもう引退した身」
「なんで引退したの?」
「……若い奴に道を譲るのも指導者の役目だ」
アランは興味なさげに言うが、コリンは引かない。
「でも、今はここにいる」
「非常事態だからだ」
コリンの真っ直ぐな言葉にアランは目を細めた。半分は本当で、半分は嘘だった。アランの視線はコリンではなく、もっと遠く、もっと昔を向いていた。
——あれは、十年前だったか。
フランソワ船団に一人の少年が加わった。赤髪の軽薄そうな顔をしたガキだが、左耳に目が止まった。髪の隙間から一瞬だけ覗いたトルコ石のイヤリング。アランの心臓が止まりかけた。見間違えるはずがない。ゼフィランサスと、その妻アルマが揃いで身につけていた片割れ。
片方はエル・イエロ島に残された。あれはゼフィランサスの遺品。ならば、目の前のそれは。
「お前それ、どこで手に入れた」
アランは思わず口に出すと少年——ジャスパーは首を傾げてあっけらかんとした顔で言った。
「覚えてねえ。けど、昔から着けてる。なんとなく外せねえんだよな」
何度聞いても答えは同じだった。覚えていない、理由も分からない、でも手放せない。アランは推し下ろすような声で言った。
「……それ、あまり人に見せるなよ。常に髪か帽子で隠しておけ」
ジャスパーが目を瞬かせる。それ以来、あの赤髪は必ず耳を隠すようになった。アランの言葉に逆らわなかった。……そして、アラン自身も決めたのだ。ゼフィランサスの謎とアルマの行方を追うために、真実を探るために船を降りると。
アランは思考を切り離すように瞬きをすると、コリンがこちらを見ていた。
「……じゃあ引退した時の話、聞かせてほしい」
少しだけ遠慮がちな声にアランの眉がわずかに動くとため息を吐いた。
「そんな面白い話じゃねえぞ」
「いいから」
コリンの好奇心溢れる目にアランはしばらく黙り込むと、視線を外して腕を組んでしばし唸った。語るつもりはなかったがふと脳裏に浮かんだ、船上での投票を。
「……わかった」
アランが諦めたようにぽつりと語り始めるとコリンが身を乗り出した。
「次のクォーターマスターを決めるための投票があってな。立候補者は二人。一等航海士と俺が推薦したガキだ」
「ガキって……」
「ルキフェルだ。当時、まだ十六」
コリンの目が少しだけ丸くなるもアランは苦笑しながら続ける。
「フランソワが名前を読み上げて船員どもが手を挙げていく。数える奴がいてな、上がった手の数を適当に紙に書いていく。大層なもんじゃねえ、簡素な投票だった。……結果はあっさり決まって、ルキフェルの当選した。一等航海士はそのまま船を降りた」
コリンが息を呑む。アランの目が細くなって声に掠れが混じる。
「投票の後、ルキフェルが俺のところに来て言いやがった。『みんな、あんたを見ていた。俺じゃなくて、俺の後ろにいたあんたを』。……拗ねたガキみてえな顔でな。だから俺は言った。次の航海でお前は実力者だと示せ。投票で選ばれた以上、船団のために役目を負うんだ。それと、こうも言ったな。俺が教えた通りにやればいい。お前は孤立しがちだ、何かあればフランソワに相談しろ。セドリックでもいい。ジャスパーは……深刻な悩みには向かないだろうが」
コリンが思わず吹き出し、アランもくつくつと喉の奥で笑う。
「……あいつも、その時ばかりは珍しく笑ってたな。……で、そのまま俺は降りた。船員どもにやたら労われてな、別に死ぬわけでもねえのに」
アランが面倒くさそうに語り終えるとコリンが小さく笑う。
「……いい船だったんだね。クォーターマスター歴、長いの?」
「ああ。元々、海軍員だったし」
「……え?」
コリンの口がぽかんと開き、アランは気にも留めず淡々とした口調で続ける。
「測量士だ。海図引いて、距離測って……そういう仕事だ。で、ある任務で理不尽な命令で仲間を失って上官ぶん殴って逃げた。逃げた先で、海賊に転身だ」
コリンは目を丸くしてさらに身を乗り出した。
「じゃあさ、その眼帯は? ファッション?」
「違う。暗闇に慣らすためだ。夜の間に何かあれば、すぐ外せるようにな」
アランは指先で眼帯に触れと何の躊躇もなく眼帯を外した。露わになる灰緑の眼にコリンは思わず息を呑んだ。
「ほらよ、ちゃんと見えてる。左右で色が違うだけだ」
片方は琥珀。もう片方は灰緑。光の加減でわずかに揺らぐ色にコリンは思わず声を漏らした。
「……すご」
アランは気にした様子もなく、再び眼帯を付ける。
「国から逃げた先で、この目を気に入ったやつがいた。商船で逃げ回ってるうちに捕まって、捕虜として扱われたが、すぐ契約を交わして海賊になった。そこの船長が、俺の目と技能を見てクォーターマスターを任せてきたのが始まりだ」
「へえ……」
コリンは感心したように頷くとアランは少しだけ口元を緩めた。
「そうそう、しばらくしたらフランソワも乗ってきたな。あいつは確か……まだ二十歳にもなってなかったはず——」
ガタンと椅子が鳴り、コリンが顔を強張らせて勢いよく立ち上がった。アランがコリンに目を向けて低く問う。
「……どうした?」
コリンは喉を詰ませて一歩、後退さる。
「それって…………ゼフィランサス海賊団?」
アランの目が鋭くなり、隠していたはずの気配が露わになる。さっきまでの穏やかさはどこにもない。値踏みするような彼の視線に押され、コリンの背に冷たい汗が流れて思わず数歩後退った。アランはコリンと距離を詰めながら口を開く。
「……やっぱりな。フランソワの船に集まるやつは只者じゃねえ」
コリンは押されながらもアランから視線を逸らさず、言葉を選びながら紡ぐ。
「ぼくたち……ルキフェルの記憶探しをしていたんだ。ほら彼、記憶喪失だから。今はこんなことになっちゃって中断してるけど……ゼフィランサスについて調べていたんだ」
アランの目がわずかに細くなるも、コリンは構わず続ける。
「ねえ、彼の元に居たなら教えてくれない? ルキフェルのために——」
「無理だ」
アランが反り刀のように遮るとコリンの肩がびくりと揺れる。
「ど、どうして……?」
「俺は何も知らない。ある時、あいつがガキを船に連れ込んできて一時的に保護していただけだ」
「……本当に、それだけ?」
コリンがなおも食い下がるもアランは押し黙っていた。彼の脳裏には十九年前の記憶が駆け巡っている。
——二十年前。船長室の扉が閉じると外の喧噪は断ち切られ、室内には船体の軋みと波音だけが残る。窓際に立つ男、ゼフィランサスが振り向いた顔にいつもの笑みはない。
「……来たか」
フランソワは無言のまま、自然と背筋を伸ばす。アランも眼帯の奥の視線を鋭くし、リュウは一歩だけ前に出て、静かにゼフィランサスを見据えた。ゼフィランサスはしばし沈黙したまま、窓の外——青い海に目を向ける。まるで言葉を選んでいるというより、決断そのものを噛み締めているかのようだった。
「……お前たちに、話しておかなければならないことがある。正直に言えば、ずっと迷っていた。今さら話すべきか、それとも……知らないままでいさせるべきか」
フランソワの喉がごくりと鳴る。リュウは微かに眉を寄せたが、何も言わない。アランだけがすでにただ事ではないと悟っていた。やがて、ゼフィランサスはゆっくりと三人を見渡す。黄金の瞳が珍しく揺れていた。
「だが……お前たちも、あの子のことでいずれ向き合わなければならん。ルキフェル……あの子の本当の名は——ラウルだ。ラウル・レオパード。フランス海軍参謀官、エリオット・レオパード。——あの子は、その息子だ」
フランソワの顔色が消えて一歩後ずさる。
「……嘘、だろ……俺たちは、何を拾ったんだ……?」
ゼフィランサスは三人を真っ直ぐ見て答える。
「——獣だ」
記憶はそこで終わらない。
——四ヶ月後。二〇〇八年二月十八日、硝煙に包まれた海。
ゼフィランサスはイヤリングと羅針盤を外してアランに押し付けた。
「これをエル・イエロ島に。オレはもう終わりだ、死んだと伝えてくれ」
「ふざけるな。まだ全てを聞いていない」
アランの声が震え、ゼフィランサスは笑うと、すぐ真剣な目つきになってアランの肩を掴んだ。
「悪いな。明かしてやれない。そんなに知りたいならお前が自分で探せ。……ただし、ダラス家に気をつけろ。あいつらは全部を滅茶苦茶にした」
ゼフィランサスはアランから身を離すと部下に合図を送った。数人の男達がアランを囲み始める。
「じゃあな。精々長く生きろ、相棒」
ゼフィランサスは背を向けると双剣を抜いた。
「逃げろよ。ここに、お前の仕事はない」
アランは徐々に遠ざかる背に向かって喉が裂けるほど叫んだ。
「ゼフィール!!」
——風のように去る背中を、見送ることしかできなかった。
「……知らねえよ」
意識が現実に戻り、アランは声を押し殺して吐き捨てる。
「知らねえよ、何もな」
コリンは思わず息を呑んだ。嘘だ分かるが、それ以上踏み込めなかった。アランは視線を外して海を見る。琥珀の片目は何も語らなかった。何も知らないでいることがあの男に対する最後の筋だと思っていた。低く吐き捨てるような声がまだ室内に残っていると、その空気を割るようにガチャリと扉が開いた。
「じゃーん、見て」
アーシャが両手にグラスを持って入ってくる。
「ザウアークラフトウォーター。今日は自分で作ってみたの」
彼女は空気の重さなど意に介さない様子で机の上にコトンとグラスを置くとコリンが目を瞬かせた。
「……ザウアークラフトウォーター? 懐かしい。子供の時、船の上は基本それだったな」
アランは無言のままグラスを手に取ると記憶を探った。
——これは水の保存に困って知恵を出し合って作った代物だ。
ゼフィランサスが笑いながらジョッキを差し出してきた記憶が微かに揺れ、アランは押し込めるように一口飲んだ。ほんのりとした酸味、懐かしい味だった。コリンもグラスを傾けると乾いた喉にじんわりと染みた。アーシャは満足げに笑った。
「でしょ? ちゃんとできてるでしょ。あ、あとお客さん来てるよ。ほら、ニコラくん。みんな、船でしれっと来てる」
突如爆弾が落ち、アランとコリンがほぼ同時に手を止める。
「……え?」
「……は?」
声が重なったタイミングで扉がバタンと再び開いた。
「お疲れさまっす! ただいま着きました!」
明るい声と共にニコラが顔を出すと軽い足取りで室内踏み入れた。
「隣に停めてます。ほら、マルクさん世間じゃ死んだことになってるんで、ひとまずボクだけ来ました。リー・ウェンの皆さんも来てますよ」
「すごいね! 港がカオスすぎて潜伏し放題だよ」
アーシャがパアッと顔を輝かせると、くるっと振り向いて両手を広げた。
「海賊界、終わってるー!」
アーシャが無邪気に笑うとアランは片手で額を押さえて本気で唸る。
「……頭が痛え」
あの爽やか仮面——ニールのニコニコ顔——がこの調子じゃ兄貴の顔をぶん殴りたくなる。いやそれより情報量と状況の混沌に思考が追いつかない。コリンはしばらく呆然としていたが、やがて息を吐いた。
「……ニールたちに追い出されても、味方はたくさんいる」
コリンの瞳が徐々に光を取り込んでいく。それから間もなく、コリンとアラン、フェリス、アーシャはニコラに先導される形で隣に停泊している船へと移動した。近づいた瞬間、誰もが帆船の性能の違いに気づく。船体の造りも帆の張り方も装備も、どれも一段上だ。アランが思わず舌打ちする。
「……いい船だな」
「まあ、いろいろと」
ニコラは肩をすくめた。五人が甲板を縦断して船長室の扉を開けた瞬間、コリンは思わず足を止めた。
「……え、ちょっと待って」
そこにいたのはマルク、ティエン、イヴォン。そして、東洋の装いの三人。空気の密度が明らかに違い、コリンは視線を巡らすと部屋の隅にいる一人を指差した。
「あ、リー・ウェンだ」
コリンに指された男——ヤン・ジュンジャーはゆるやかに微笑んだ。
「お久しぶりです。たしか、ルキフェルさんと一緒にいた方ですね。トルチュ島ではお世話になりました」
「いやいや。こちらこそ、その節はどうも……」
コリンは慌てて手を振り、ヤンはくすりと笑うと自分の隣にいる二人へと手を向けた。
「こちらの二人は仕事仲間です。どうかお気になさらず」
紹介された二人、その一人——ワンは一歩前へ出た。
「では、私はしばらく港を調査していようか。気になることもあるし、少し席を外すよ」
彼女の隣でポーランが軽く手を挙げる。
「おいらもー」
二人はそのまま踵を返し、船長室を出ていった。ヤンは二人の背中を見送りながらぽつりと呟いた。
「仕事熱心ですねえ」
コリンはしばらくその場の空気に呑まれていたが、やがて、を決したように口を開いた。
「ええと……ちょっと整理させて」
コリンの視線が机の周りを一人ずつなぞる。まず、目についたのは背中に斧を担いだマルクだ。
「あ、マルクは知ってる。世間的には死んだことになってるのに、軽率に第八に何度か来ていたから」
「軽率にって言うな。ちゃんと顔は隠してる」
マルクの眉がぴくりと動くが、コリンは聞こえないふりをすると杖をついたイヴォンに目を向けた。
「ええと、あなたは?」
イヴォンは杖をつき直した。その動作一つにも妙な重みがある。
「退役軍人だ。フランス海軍では元第八部隊、内部粛清が主な任務だった」
コリンの顔が引き攣るとイヴォンは気にした様子もなく続けた。
「ここにいる連中はみんな仲間だ。一応、アランが中心だけど。安心していい」
安心していいという言葉が逆に怖かった。コリンの眉間に皺が寄る。どう考えても安心という言葉が似合う面子ではない。場に馴染めず、コリンの視線が泳ぐとアランが口を開いた。
「んで? お前はこのあとどうしたい」
コリンは一瞬言葉に詰まると少しだけ拗ねた声で答えた。
「どうしたいって言われても……追い出されたしなあ。ぼく、何すればいいんだろう」
「ほう。それは一体?」
ヤンが興味深そうに首を傾げ、コリンはあからさまに不機嫌そうな顔をした。
「なんかさ。第八に敵情視察をさせる一方で、ぼくを逃がす算段らしい。嫌だって言ったのに無理やり追い出された」
その瞬間。アランの鋭い声が割り込む。
「だから、 “生かされた”って言え。仲間が命張ってるんだ」
アランの鋭い声が割り込み、コリンがびくりと震える。コリンが言葉を失っているとヤンが穏やかに拾う。
「他の皆さんは今、どちらに?」
コリンは少しだけ顔を顰めた。
「あの気色悪いエドガーの船だよ。みんな、いる。……ルキフェルも」
——ん? てかちょっと待って。
コリンは視線をぐるりと巡らせると弾かれたように声を上げた。
「なんでリー・ウェンがいるの?」
ヤンは一瞬だけ目を細め、すぐにいつもの笑みに戻る。
「わたしは依頼で動いています。他ならぬマクシミリアン・ブーケ隊長から」
「……はい?」
コリンが露骨に嫌そうな顔を浮かべた。彼の中で理解と拒絶が同時に押し寄せた時、船長室の隅にこれまで控えていた若者ティエンが少し身を寄せるようにしてニコラに耳打ちした。
「……その人、誰?」
ニコラは同じように小声で返す。
「海賊討伐部隊の隊長さん。フランソワ船長と相対した人」
ティエンの目がわずかに見開かれ、ニコラは声を落として続ける。
「船長が亡くなった時、かなり話題になっていたよ。つまり、民衆の間じゃ英雄みたいな存在かな。ボクらとしては海軍の中でも天敵みたいなやつ」
ティエンは黙って頷いたが視線の色が鋭さを増す。一方、コリンは二人のやり取りには気づかないままヤンを睨んでいた。
「……なんでぇ?」
コリンの声に明確な苛立ちが混じるも、ヤンは柔らかく微笑んだ。
「情報を商いにしている以上、依頼人のプライバシーに関わることは教えられませんね。……と、言いたいところですが、組織としてはあなた方を全面的に支援する方向性です。もちろん、お教えしますとも」
コリンの眉がさらに寄るとヤンは腕を組んだ。
「マクシムさんは海賊たちの拠点調査を依頼されています。わたしたちはこれまでマクシムさんの“南”という推測をもとに、沿岸部の港を聞き込みしながら辿り着きました」
アランの目がわずかに細くなるもヤンは気にせず続ける。
「場所はこうして見つけられた。ですので、あとは周辺の詳細調査のみとなります」
ヤンはコリンにニコリと笑った。
「さて、情報交換としましょうか。何か、ありますか?」
「……いや」
コリンの顔がさらに歪む。言葉が出てこない、理解が追いつかない。状況は整理されているはずなのに混乱は深まっていた。
「……なんで、そんな普通に話してんの……うーん……」
コリンは腕を組んで唸った。視線も落ち着かず、思考だけがぐるぐると回っている。そんな彼の様子をヤンは変わらずにこにこと眺めていた。
——ムカつく。こいつは何なんだ。マクシミリアンの味方なのか。それとも、ここにいる全員の味方なのか。……いや、もっと厄介だ。目に曇りがない。商品を渡すことで、本気で相手の役に立っていると信じている目。“善意”を疑っていない人間の目。一番、扱いに困るやつだ。
「……どうしろっていうんだよ」
コリンが吐き捨てた時、アランがぼそりと呟いた。
「情報には情報だ」
コリンが顔を上げて言葉を転がす。
「情報……情報かあ……」
コリンの思考が遡る。ここはランデヴェネック。その前はサン・マロ、エドガーが潜んでいた入江。ニールの情報戦にマテオの潜入。そして、海軍への情報の横流し。そこまで辿った瞬間、コリンの目が見開かれる。
「……あ、ちょっと待って。また情報を流せばいいのか」
——エドガー? いや、もう海軍は把握してるはず。マテオが流した。それに、あの隊長なら多分全部見えてる。じゃあ、他に……。
「……あれ、待って。海軍って……旧ブルボン派が絡んでること知ってるのかな……?」
コリンはすっとヤンを見上げた。
「情報交換なんだけどさ。ちょっと依頼っぽくなってもいい?」
「内容によりますね」
ヤンはわずかに目を細めた。変わらぬ柔らかさだが、値踏みしている。コリンは続けた。
「ぼくたち、エドガーと契約してるんだけど。サインした時にエドガーが言ったんだ。『拠点を移動する。目星はもうついてる。ランデヴェネックだ』って。ぼくも他のみんなも……こんな場所、知らなかった。君は知ってたの?」
ヤンは一瞬だけ考えて答える。
「知識としては知っていました。かつて海軍が喉から手が出るほど欲しがった土地がある、と。ですが、夢幻で終わりましたね。わたしもこの地を訪れたのは初めてです」
「この土地は誰のものでもないよ」
別の声、ティエンの声が割り込んだ。ティエンがいつの間にかコリンのすぐ近くに来ている。
「周辺に村はあるけど、権力者が握ってるって話は聞いたことない。……表向きではね、たぶん」
「……君、誰?」
コリンは少しだけ引き気味に見上げ、ティエンは軽く笑った。
「気楽にティエンって呼んでくれ」
だが、コリンはスルーして再びヤンへ向き直った。
「何が言いたいかっていうと……エドガーって、ここに来るの初めてなんだ。でもさ、拠点移動の話をした時には海図も用意されてたし、航路も決まってた。これも旧ブルボン派が教えたんじゃないかって思ってる。それに、ぼくたちがここに着いた時には物資も揃ってたんだよ。港としての整備も、ちゃんとされてた。まるで最初から準備されてたみたい。これも旧ブルボン派が関わってるなら、まだ物的証拠が残ってるかもしれない。……たぶん、エドガーの船にある。証拠探し、してくれないかな」
少年の提案にしてはあまりにも盤面を見据えすぎて、マルクが思わず眉を顰めた。
「何言ってるんだ。あいつの元へ潜り込めってか? そんな危険な依頼——」
「あ、いいですよ」
ヤンがあまりにもあっさりと言い、コリンが素で聞き返す。マルクも言葉を失った。アランの片眉がわずかに上がるが、ヤンはにこやかに続けた。
「わたし、商人でもありますので。あ、そうだ」
ヤンが思い出したように腰のポーチに手を入れた。彼がごそごそと何かを探って取り出したのは小さなガラス瓶、中には青い液体。光を受けて、わずかに揺らめく。
「これ、渡してみますか」
「は??」
コリンが声を裏返らせ、マルクは完全に沈黙した。アランがじっと瓶を見る横でティエンがすっとニコラの肩を掴んだ。
「ちょっとこいつ、酸欠になってきたから外に連れ出すわ」
「え、ちょ、やめて、ボクどこも悪く——」
ニコラが慌てて言い切る前に、ずるずると引きずられていく。
「ちょっ、待っ、ちょっとぉぉぉー!」
二人が船長室を出ていって扉が閉まる。一瞬の静寂のあとマルクが深いため息を吐く。
「……オレも腹減った。後輩二人に酒でも奢る」
彼が視線を向ける先、アーシャとフェリスは完全に思考停止していた。
「ほら、行くぞ」
「え、ちょ、待って今のなに——」
「いやちょっと整理させてほしいんだけど——」
抵抗も虚しく二人は連れていかれ、マルクの背にアランが声を投げる。
「顔はちゃんと隠せ。それと、背中の斧もな」
「わーってるって」
マルクは振り返らずに手を振り、三人とも船長室を出ていく。扉が閉まって静かになった。残されたのはアランとコリン、ヤン。それからイヴォン。イヴォンは椅子に腰掛けたままヤンの手の中にある小瓶をじっと見つめていた。青い液体。揺れる光。その色が妙に引っかかるが、思い出せない。沈黙の中でヤンだけが変わらず微笑んでいた。これが何でもない提案であるかのように。コリンはヤンの手の中の小瓶をじっと見つめた。
「……なにそれ。毒?」
「いいえ、幻覚剤ですよ。夢蛇というものです」
ヤンは珍しい香辛料でも説明するかのように続ける。
「東洋の密林で採れる植物素材を煮出し、エキスを抽出したものです。煙で吸うか、煎じて飲むか。人によって見るものが違うのです。記憶だったり、夢だったり……」
ヤンが指先で小瓶を軽く傾けると中の液体が光を受けてゆっくりと揺れ、コリンの顔が露骨に引いた。
「……東のもの? なんでそれがフランスにあるの」
「密輸品なんです。つまり、勝手に持ち出されて運び込まれたもの。我々も調査中でね、犯人は未だに分かっておりません」
コリンはしばらく黙っていたが、やがてぼそりと呟いた。
「物騒な世の中だ。なんで持ち歩いてるかは聞かないでおくよ」
ヤンはくすりと笑い、コリンは首を傾げてヤンを見上げる。
「……それで? それ持って、エドガーの元に行くの?」
「はい、そうです。貴族社会にも裏社会にも顔が利くリー・ウェンですよ? 人の懐に入るのは得意中の得意ですから」
ヤンの笑みは柔らかいはずなのに、どこか冷たい。コリンはぞわりと背筋に寒気を感じた。
「……じゃあ、よろしくお願いします」
「承知しました。ついでに、あなたのお仲間とも接触しましょうか。彼らにもお話を伺いますね」
ヤンが扉へ向かうとコリンも彼の後に続いた。扉が開き、二人の足音が遠ざかっていく。船長室に残されたのは二人。アランとイヴォン。あの青色が脳裏に引っかかる。イヴォンは眉間に皺を寄せたまま動かなかった。
——暗い部屋。湿った空気。縛られた身体、動かない手足。視界がぐらぐらと揺れている。目の前に二人の男。一人が近づいてくる。手には小瓶、青い液体。同じ色だ。喉の奥が焼けるように乾いて何かを飲まされた。意識が崩れる。痛み。記憶。現実と夢の境界が溶ける。声が出ない。視界が歪む。
「……ッ」
イヴォンの指がわずかに震え、呼吸が乱れるがすぐに抑え込む。杖先が床を引っ掻く音に気づいて、アランがチラリとイヴォンを見た。
「……どうした」
「……いや、何でもない」
イヴォンは数度瞬きして視線を上げた。アランはしばらく彼の顔を見ていたが何も言わず、あの小瓶の意味に思考を巡らせていた。




