第六章② ルキフェル
ルキフェルは目を見開いて呆然としていた。レオンとジャスパーが対峙する境目、下がった位置で二人を見つめている。ジャスパーは耳元のイヤリングに触れたまま俯き、レオンが重々しく口を開く。
「……信じられないかもしれないが、事実だ。そのイヤリングが証明している」
「……片割れって言ってたよね。もう一つは?」
コリンが恐る恐る尋ねるとレオンは首を横に振った。
「前は、この島にあった。けど、今はない。ここに残っていた方は戦火に巻き込まれて黒ずんでいた」
レオンはジャスパーの耳元へ視線を戻す。
「けど、君のは違う。色が落ちていない。アルマが着けていた、本物だ」
「そのイヤリングって……?」
ニールがレオンに向かって思わず言葉を挟み、レオンは目を細めた。
「元々、ゼフィランサス船長がアルマに贈ったもの。この島の仲間が二人のために作った。同じ手で同じ時に……二つだけ。だから、同じものは他に存在しない」
ジャスパーが唇を噛んでイヤリングに触れる手を下ろした。
「……いや、それはねえだろ」
ジャスパーはふいに踵を返し、ルキフェルが思わず声をかける。
「ジャスパー」
「わりぃ、一人にしてくれ」
ジャスパーが外へ出ていくと布の入口が揺れ、光が差し込んですぐに閉じた。ルキフェルは一歩だけ踏み出す。追うべきか、その逡巡が足を止めていた時、彼の肩に冷たい感触が触れ、反射的に振り返るとマテオが義手の左手で強く掴んでいた。彼の水色の瞳が鋭利を帯びて見据えている。ルキフェルは一瞬息を飲むもすいっと目を伏せ、踏み出しかけていた足を元に戻した。レオンは眉を顰めたまま四人に向き直る。
「君たちが誤解したまま進むところだった。言わない方がよほど非道だろう。……許してほしい」
それだけ言うとレオンは踵を返してテントの奥へと向かい、来客のための寝床を整え始める。
「しばらく、この島で過ごすといい。長旅で疲れたろう」
ルキフェルが立ち尽くしている横で、マテオがぽつりと漏らす。
「あいつ。遠くへ行ってるなんてこと、ねえよな」
「仲間の元から突然消えるようなやつじゃないよ。いずれ戻ってくる。……それまで待とうか」
ニールが首を振り、コリンも小頷いた。ルキフェルは揺れる布の向こうを振り返り、ジャスパーが向かった先の光をじっと見つめる。
——あいつには、両親がいた。
それなら、自分は。ここまで来て、何も持たないままなのか。ルキフェルの胸の奥に小さな炎が生まれる。羨望か違和か、自分でも分からないものが疼いていた。
その夜、夕食の時間になってもジャスパーは戻ってこなかった。誰も触れなかった、触れれば何かが壊れると分かっているから。島で採れた木の実と魚を囲み、簡素な食事を終える。味は悪くなかったはずだが、誰の記憶にも残らない。やがて、旅の疲れが一気に押し寄せたのか四人はほとんど同時に横になった。言葉も交わさないまま眠りに落ちていき、静かな寝息がテントの中に広がった。
——どれくらい経ったか、ルキフェルは不意に目を覚ました。理由は分からない。眠りが浅かったのか、それとも胸の奥に残った何かが意識を引き上げたのか。彼の視界の端で月明かりが揺れている。腹の上に重み、ルキフェルが視線を落とすとマテオの腕が乗っていた。無造作に投げ出された義手と生身の腕。ルキフェルは息を吐いてそっと退かすと身を起こし、隣で寝るマテオを流し目で見た。マテオの寝顔が浮かび上がる。目を閉じた彼の横顔はあまりにも静かで、綺麗すぎて思わず錯覚する。
——死んでいるみたい。
ルキフェルはすぐに考えを振り払って目を逸らした。少し離れた場所で、ニールとコリンが身を寄せ合って眠っている。規則的な呼吸と穏やかな寝息、ここだけ切り取れば平穏な光景だ。ルキフェルはしばらく三人を眺めて息を吐く。眠れない、横になっても目を閉じてもどこか落ち着かない。ルキフェルは慎重に立ち上がると足の置き場を選びながらテントの入口へと向かう。彼が布に手をかけて一瞬振り返ると、三人は変わらず眠っている。ルキフェルは目に焼き付けてからテントを抜け出すと、夜風が頬と髪を撫でた。
松明の灯りがかすかに揺れる集落を背に、ルキフェルは海辺を歩いていく。波の音だけが夜を満たし、やがて月明かりの中にジャスパーを見つけた。ルキフェルは思わず足が止めて立ち尽くす。
——気づかれない。いつもなら誰よりも早く気配を拾うはずの男が、今は世界から切り離されたようにいる。
ジャスパーは左耳に手をやってイヤリングに触れると、反対の手が動いた。小型ナイフの刃が月光をかすかに反射し、ゆっくりと耳元へ近づいていく。ルキフェルの指先がわずかに強張るが、ジャスパーの手がピタリと止まった。震えている、刃先が狙いを定めきれない。次の瞬間、ナイフが彼の手から溢れ落ちて砂が舞った。ジャスパーの身体から力が抜け、膝が崩れ落ちると息を吸う音が乱れ、肩が震え始める。ルキフェルには彼の顔は見えないが、背はハッキリと語っていた。手放したいのに手放せないもの、断ち切るにはあまりにも重すぎる繋がりを抱えたまま崩れている。ルキフェルは数秒、それとももっと長くか、時間の感覚は曖昧だったが、やがて目を背けて踵を返し、足音を殺しながら来た道を戻って集落へと引き返していく。
集落へ戻っても、ルキフェルはレオンのテントへ向かう気にはなれなかった。足は自然と逸れ、灯りの少ない箇所をあてもなく歩いて周囲を目でなぞる。起きている者はほとんどいない。わずかに灯る松明と遠くの話し声が夜の中に溶けているが、見張りが立っていない。外敵が滅多に寄り付かないのか。それとも、この島そのものが守られているのか。いずれにせよ、ここには警戒がない。どこか安心しきっている。ルキフェルは立ち止まって足元をしばらく見つめた。
……馴染めない。
ここは違うと本能が告げ、胸の奥にぽっかりと穴が空いている。埋まらない、何を当てはめても形が合わない。ルキフェルはため息を吐いてから歩き出す。向かう先は決まっていた。桟橋、アーシャ海賊団の船が遠目に見える場所。木板を踏む音が夜に小さく響き、ルキフェルは先端まで進んだところで足を止めると腰を下ろして片足を投げ出した。靴先が海面に触れるか触れないかの位置で揺れ、波がかすかに反射して月の光が揺れる。ルキフェルは海面を見つめていた。自分は誰で、どこから来たのか。ニールはフランスだと場所を示した。だが、本当にそれで足りるのか。その答えで、この空白は埋まるのか。分からない。
波の音が繰り返される中、ルキフェルは呆然と海を眺め続けていたが、波の単調なリズムの中でふいに気配が変わって目を走らせた。暗い海の中、それより濃い影が波を裂いてやってくる。小舟だ、誰か漕いでいる。アーシャか、フェリスか。それとも——。やがて小舟が桟橋付近で止まり、ルキフェルが人影を捉えたところで口を開く。
「……誰だ」
影がびくりと震えて固まり、小舟を再び動かして桟橋に飛び移るとおずおずと月明かりの中へ踏み出す。相手の顔——ダミアンが見えて、ルキフェルの目が思わず細くなる。
「……ピエールか。お前、勝手に抜け出して——」
ルキフェルが立ち上がって言いかけたところで、ダミアンが慌てて声を上げて縮こまる。
「ご、ごめんなさい!」
ダミアンが両腕で顔を隠した拍子に、月明かりが彼の手首を照らす。擦り切れた皮膚、赤く残る縄の跡。ルキフェルの視線が一瞬止まって言葉を探すように口を開く。
「あ、いや……そんなに怖がられても困る。……捕虜なんだからな」
夜風が吹き抜け、ダミアンは顔を隠したまま、ルキフェルは立ったまま様子を見ている。どちらも次の一手を測りかねて、やがてルキフェルが息を吐いて顔を横に振る。
「で、今日こそは慣れてくれたか。……俺たちに」
捕えてから二週間ほど、この男はほとんど何も語らない。意図的に口を閉ざしているというより、言葉そのものがうまく繋がらない。話そうとしても途中で止まる。結果として、何も引き出せていない。ダミアンはおずおずと顔を上げ、指の隙間からルキフェルに目を向ける。
「あの……せめて、殴らないで……」
「殴らないし、誰も手を出してないだろ」
ルキフェルが顔を顰めるもダミアンはジリジリと後退り、木板が悲鳴を上げていった。ルキフェルは彼の光を避ける仕草に思わず呟く。
「……影として生きてきたやつか」
ダミアンの動きが硬直し、ルキフェルは目を背けて海の方を向く。
「俺もそうだ。今でこそ、こうして歩いてるが……昔は誰にも見られないように生きてた」
波の音が重なり、ダミアンはゆっくりと顔を上げてルキフェルの方を見据える。
「影……? それは、その……」
言葉を探しているのか、それとも、どう受け取ればいいのか分からないのか。ルキフェルは肩をすくめて振り返る。
「なんでって? ……この顔以外に何がある」
ダミアンの視線が一瞬だけ揺れ、ルキフェルは気にした様子もなく続ける。
「見られるのが苦手なんだ、昔からな……病気なんじゃないかって思うくらい」
「……見られる……」
「そうだ。だから、俺は影として徹していた。自分の役割だと思いながら」
「……それって自分から、ですか……?」
ダミアンは恐る恐る訊ねるとルキフェルは少しだけ目を細める。
「ああ、そうだ」
ダミアンの指先がわずかに震え、桟橋に目を彷徨わせた。
「……ちょっと、違うかも。ボクは……それが、命令だから」
「……誰の?」
ルキフェルが腕を組んで首を傾げると、ダミアンがきょとんとする。
「誰の命令で動いてるかって話だ」
ルキフェルが語気を強めて言葉を足すと、ダミアンの肩がびくりと揺れて絞り出すように言う。
「……兄上」
「兄、か。お前たち、血の繋がった兄弟だろ。家族じゃないのか」
「そう、あ……いや、ちが……」
ダミアンの両手が落ち着きなく動き、視線も定まっていない。ルキフェルは彼の様子を見てきょとんとするも、頭の中で何かが弾けて繋がると口元を緩めて呟く。
「……ああ。家族であることと、円満であることは別なんだな」
ダミアンはおろおろと視線を彷徨わせ、ルキフェルは思わずため息を吐いた。
「お前、一旦落ち着けよ」
ダミアンの動きがピタリと止まった。ルキフェルはちらりと海を振り返り、月光が水面に揺れているのを一瞬だけ見て、再びダミアンへ視線を戻す。
「座れ」
ダミアンが「え」と声を漏らすもルキフェルは軽く顎で示す。
「いいから」
ルキフェルは先に動いて腰を下ろすと片足を投げ出し、もう片方もゆるく伸ばして隣を軽く叩いた。コンコンと木の音が夜に響く。
「ここ、来いよ」
ダミアンはすっかり硬直していた。命令なのか、試されているのか判断がつかないが、——やがてこくりと頷くと恐る恐る近寄り、ルキフェルの隣に腰を下ろし、ぎこちなく両足を桟橋の外へ投げ出した。ダミアンの視線が下へ落ちると、海面に揺れる月光、波に砕けてまた繋がる光を捉えた。
「……綺麗」
ルキフェルはダミアンの横顔を見て口を開く。
「光は眩しいだけじゃない。優しい光もある」
ダミアンが瞠目し、しばらく月光を追うように海面を見つめると手を伸ばした。指先が水面に触れ、びくりと肩が揺れるも少しだけ沈め、波が指を撫でる。
「……冷たい」
「そりゃそうだろ」
ルキフェルが横目でダミアンを見て鼻を鳴らす。ダミアンはもう一度手を伸ばして、冷たさを掌に馴染ませるように沈めた。掻き混ぜるように動かせば波が一緒に揺れ、月光も同じように揺れて光が歪む。ダミアンが歪みをじっと見つめると、しばらくして手を軽くすくい上げた。指の間からサラサラと水がこぼれ落ちる。
「でも……慣れたら温かい」
ルキフェルはダミアンの横顔を一瞬見て、また海へと視線を戻した。ダミアンが暫く波と戯れると、ふと動きが止めて月光の届かない暗い水面に目を向ける。
「……ボク、ずっと気配を消すように言われてたんです。呼吸も足音も、気配も……自然の動きも。全部、薄めろって」
波が寄せては返し、ダミアンは手を水から引き上げて濡れた手を眺めた。月光がかすかに反射する。
「任務が終わったら……また次の命令を待つだけ。存在を消すために、造られたみたいに思ってた。でも、ある時……ボクの中で何かが変わった」
波の音が少しだけ強くなり、ダミアンの意識が過去へと引き込まれる。
去年の冬。マクシムは今日もブレスト城へ向かっていた。彼が城門の前に立った瞬間、門番兵の一人が隣の兵に視線だけで合図を送る。
「今日はお引き取りください、隊長殿」
マクシムは一瞬言葉を失うも、すぐに前へ出た。
「通してください。今日は話があります」
「命令です」
「誰の命令ですか。僕は、彼らに会う権利があります!」
マクシムの声が強くなった瞬間、門番兵の一人が前に出て腕を伸ばし、マクシムの胸元を押し返す。
「下がってください」
「ふざけないでください! 今ここで話さなければ——」
マクシムの積もりに積もった苛立ちが雪を踏み割るように溢れ出るも、最後まで言わせてもらえなかった。マクシムが冷たい石畳に背中を叩きつけられる。
「っ!」
「抵抗するな!」
「……っ、く……!」
雪が舞い上がり、白の中に赤が滲んだ。ほどなくして兵たちは離れ、マクシムを一瞥して持ち場へ戻っていく。マクシムはゆっくりと起き上がった。雪を払う手が震えている。
「……っは、くそ……」
彼は来た道を引き返した。背中を丸め、雪を踏みしめながら一人で。その様子をダミアンは見ていた。
——またか。
そう思うはずなのに目を離せなかった。怒鳴り声、抑えきれない感情。帰り道で誰もいない方向に吐き捨てる毒。一見穏やかで理知的で善良な男だが、その内側には押し殺された怒りと悔しさが渦巻いている。
「……ああ」
ダミアンは自分の胸の内に生まれた感覚を、この時は言語化できなかった。理屈を越えて動こうとする衝動、傷つくと分かっていても前に出る愚直さ。胸の奥に初めて芽生えたもの、好奇心だと気付いたのは後になってから。
ダミアンは瞬きをして今に意識を向けたが、灰色の目はどこか揺れて自嘲のように微笑んで喉を震わす。
「……おかしくなったんです、それから。命令を受ければいいはずなのに、兄上たちが……怖くなった」
ダミアンの指先が膝の上でわずかに握られる。ルキフェルはダミアンの横顔を見ていた。揺れる月光に照らされる彼の表情はまだどこか不安定で、掴みどころがない。ルキフェルは羨望の溜め息混じりに呟く。
「おかしくなったんじゃない。——自分を取り戻しただけだ」
ダミアンが弾かれたように顔を上げ、ルキフェルは彼の目を見据えたまま続ける。
「変わったとか、おかしくなったとか、兄が怖いとか……今まで意識が向いてなかっただけだ。それが感情ってやつだよ。抑え込まれてたものが溢れた。……生きてる証拠でもある」
「生きてる……?」
「さっき、気配を消してただろ? 無駄だ、俺は気の流れを読むだけで気づく。誰も逃げられっこないし、逃げられるやつは人間じゃない。——お前は人間なんだから、怖がっていいんだよ」
ルキフェルは最後の一言だけ声音を和らげた。ダミアンは息を呑んで自分の右肩に触れる。
——鱗の肌。
ダミアンが口を開きかけて噤む様子を見て、ルキフェルが眉を動かして何かを勘違いしたようにぶっきらぼうに言い放つ。
「そういう時は、ありがとうって言えばいい。別に感謝なんか求めてないけど」
ダミアンは一瞬ぽかんとし、恐る恐る顔を上げてルキフェルを見る。
「……ありがとう」
ルキフェルは目を見開いてダミアンを見ていたが、少しだけ口元を緩ませる。
「……そういや、ちゃんと自分から話せるじゃん。さっきのやつ」
「……あ、なんか……話さなきゃって思って」
ダミアンがハッとしたように目を瞬かせ、ルキフェルは軽く頷いた。
「それでいいんだよ」
ダミアンの肩から力が抜けてホッと息を吐くも、ルキフェルがさらりと言ってのける。
「じゃあ、これで全部話せるな」
「……え?」
ダミアンが固まって間の抜けた声が漏れ、ルキフェルは真剣を帯びた目つきで言う。
「明日、尋問。ダラス家が企んでること全部話してもらう」
ダミアンの表情が固まっているとルキフェルは立ち上がって顎で示す。
「ほら立て、今日はこっちで寝てろ。眠れないなら、明日の尋問に備えてスピーチの練習でもしてこい」
ルキフェルが桟橋を歩きながら振り返り、ダミアンが慌てて立ち上がる。
「……はい! たぶん……今なら話せると思います。ボクが知ってることは、全部話すつもりです」
「じゃ、楽しみにしてる」
ルキフェルは振り返らず片手をひらりと振り、ダミアンも後に続いていった。レオンのテントの手前まで戻るとルキフェルはダミアンを一瞬見てぶっきらぼうに言う。
「縄は縛らないでおく。その手、痛そうだからな。……また逃げたら容赦しない」
ルキフェルがテントに入ると、一人残されたダミアンは自分の手を見つめる。
……ボクがピエールじゃないって言ったら、怒るだろうな。
彼の頭の中にドミニクの顔が浮かぶ。冷たい視線命令の声。逃げ場のない圧力に肩が震える。言うべきか、隠すべきか。命令と感情がぶつかり合って、恐怖が胸の中を締め付けていく。
一方、ルキフェルがそっと腰を下ろすとマテオが寝返りを打った。ルキフェルは一瞬動きを止め、すぐマテオと背中合わせになるように横になった。ルキフェルは目を閉じかけてふと思い出す。家族、繋がり、円満であることは別だと口にした自分の声。
「帰る場所、なくてもいいのかな」
背中に伝わる温もりを頼りに、ルキフェルは瞼を閉じた。すぐ近くでもう一人入ってきた気配がする、波の音が遠くで微かに響いていた。




