第五章② 五人組
空はずっと低かった。鉛色の雲が海面すれすれまで垂れ込め、視界を押し潰す。波はうねり、帆を叩きつける風は一定の方向を持たない。アーシャ海賊団は削るように進んでいた。羅針盤の針が唯一の指標だが、その針が指す先に安全がある保証はどこにもない。
「——舵、切るぞ!」
ジャスパーの声が風に掻き消されながらも甲板に響いた。彼は両手で操舵輪を握りしめ、波のリズムを読むように、風の癖をなぞるように体重ごと押し込み、感覚だけで船をねじ込んでいく。地図は役に立たない、経験もここでは半分しか信用できない。
「来るぞ、右舷!」
フェリスの叫びと同時に横殴りの波が船体を叩きつけた。軋む音を力で抑え込む。ジャスパーの目は一瞬たりとも海から離れない。勘と経験と、ほとんど野生に近い感覚だけでこの海域を捌いていた。船内では別の戦いが続き、ニールは濡れた紙を押さえ込みながら荒い息を整える。
「風向きが安定しない、これじゃ誤差が出るよ」
計算式をなぞる彼の指が止まらない、数値が意味を持たなくなる直前をどうにか繋ぎ止めている。ニールの隣で、ルキフェルは羅針盤を手にしていた。揺れる針のわずかな偏差を見逃さない。
「いや、ここで修正だ。流されてる」
「分かってる!」
ニールが吐き捨てるように返す。羅針盤と数式、感覚と理論がギリギリのところで噛み合っていた。
「おいコリン! そこ、またいってるぞ!」
「見えてる!」
甲板を駆ける足音、コリンは濡れた木材の上を滑るように走り、割れかけた板へと飛びついた。釘を打ち込み、縄を締め、応急の補修を叩き込む。波が来る、分かっていても止まれない。
「くそ……!」
コリンが歯を食いしばりながら体を低くする瞬間、海水が容赦なく叩きつけた。息が詰まるが、手は離さない。離せば船が終わる。コリンは板に体を押し付け、次の一手を打ち込んだ。喧騒から離れた場所、船内の奥で火が揺れている。マテオは鍋を掴み、体ごと固定していた。船が傾くたびに中身が跳ねるが、それでも火を絶やさない。
「……チッ」
味を見る余裕もないが、手は止めない。刻み、煮込み、ぶち込む。乱暴に見えて、その手際に無駄はない。
「ほら、食え」
マテオにぶっきらぼうに差し出され、皿を受け取るアーシャの手が震えているが、温かい。この状況で温かいものが出てくる。誰も礼を言っている余裕がない、それでも食べて飲み込む、生きるために。船は嵐を裂いて進み、波を踏み越え、見知らぬ海域を切り開く。他所海賊団の影が見えた瞬間、ルキフェルの視線が鋭くなった。
「——来るか」
こういう時はマテオが砲手長として甲板に飛び出し、砲撃で返り討ちにして切り抜ける。生きるか死ぬかの境界線の上で、羅針盤の針は揺れながらも同じ方向を指し続け、ルキフェルは針を見つめながら息を吐いた。
「……この先だ」
幾夜を越えた。嵐を抜け、波と敵とをくぐり抜け、それでもなお進み続けた末の、ある夜明け前。空はまだ暗く、東の端だけがわずかに白み始めている。
ルキフェルは寝室で目を覚ました。理由は分からない、意識だけが先に浮上してしまったような感覚だ。ルキフェルはしばらく天井を見つめていたが、やがて息を吐いて起き上がると部屋を出た。階段を上がって甲板へ出ると風が頬を撫でる。嵐を抜けた後の空気は妙に澄んでいた。風はまだ強いが、あの荒れ狂った日々とは違う。ルキフェルは立ち止まって背後を振り返った。船尾、操舵輪の前に立つ影はジャスパーではない。代わりの船員が舵を握っている。あいつは今、どこかで仮眠を取っているのだろう。当然だ、あれだけ舵を握り続けていれば身体がもたない。その時、ほとんど気配に近い足音に、ルキフェルは視線を向けるとマテオがいた。
「もしかして、寝れない人?」
ルキフェルは肩をすくめる。
「早く目が覚めただけだ」
「じゃあ、一緒に行くか?」
ルキフェルはマテオが頭上を指さした先を見上げた。メインマストの索具が闇の中へと伸びている。ルキフェルは一瞬だけ目を細めて頷くと、船員が索具を伝って上から一人降りてくる。彼と軽く挨拶を交わして道を譲り、二人は索具へと手をかけた。風が強くなって帆が軋む音が近くで鳴る。身体が覚えている動きで、ルキフェルは上へと登り始めた。そのすぐ横でマテオがスルスルと殆ど音も立てずに登っていく。
「お先に」
ルキフェルが真横を向く瞬間、マテオはもう一段上にいる。義手であるはずの腕を使いながら。ルキフェルは思わず息を吐いて苦笑を漏らした。
——よくもまあ、素早く登れるものだ。
マテオの役割上、索具に触れる機会は他の連中より少ないはずだが、それでも動きに無駄がない。慣れている、それもここ二、三年の話だというのに。ルキフェルは視線を上げると、先を行くマテオの背が夜明け前の空に溶けていく。
やがて二人は見張り台に腰を下ろし、明後日の方向を見たまま風に身を預けていた。ルキフェルは懐から羅針盤を取り出して針の揺れを確認し、船の進行と照らし合わせる。——問題はない。ルキフェルが蓋を閉じて懐へ戻し、しばらくしてまた取り出して同じ動作を繰り返す。三度目、ルキフェルの手が懐へ戻ろうとしたとき、隣からマテオの声が落ちた。
「怖くないのか。会いたい人が、もしいなかったら」
マテオは海から視線を外し、ルキフェルを見ている。いつもの棘のある言い方ではない、妙に柔らかい。ルキフェルは一瞬だけ言葉に詰まって羅針盤を見下ろした。
「……怖えよ。そりゃ生きていない可能性も考えたけど、それ以上に自分の中の恐怖と向き合わないと……強くなれない。強くなるには……自分の記憶の、空白を見つけなきゃ」
針がわずかに揺れるのを見届けてから、ルキフェルはゆっくりと蓋を閉じた。
「この先に彼がいなかったとしても。手にするのは、誰かが残した記録かもしれないし……不意に思い出す記憶かもしれない。……うまく言えないな。まあ、着いてから決めるさ」
それきり沈黙が落ち、風と帆の音だけが二人の耳に残る。やがてマテオがぽつりと呟いた。
「……お前は十分強いけど、オレは違う。知らなきゃよかったと思って生きてる。——掘り返したくもない」
ルキフェルは思わずマテオを見つめる。マテオはいつもの無愛想な顔ではなくどこか遠くを見るような、影を帯びた物憂げな表情を浮かべ、横顔は夜明け前の光の中で揺れていた。空がゆっくりと色を取り戻していく。夜の名残は薄れ、水平線の向こうから淡い光が滲み出す。海面に黒い影の輪郭が浮かび上がった。最初はただの揺らぎにしか見えなかったものが形を持つ。ひとつではない、いくつも点在している。
「お、島が見えるな。しかも一つだけじゃない」
マテオが息を漏らした。ルキフェルは前方を見据える。視線の先、波の向こうに連なる影。島だが、ただの孤島ではない。群れのように並び、互いに距離を保っている。その様を一度目に焼き付けてから、ルキフェルは懐に手を入れ、羅針盤の蓋を開いた。針が揺れ、ある一点を指し示すとルキフェルは顔を上げる。
「……あれだ」
マテオもまた針の先を見据えて目を細める。風が変わり、島から流れてくる空気が混じり始めていた。
「いよいよか。何が待ってるんだろう」
マテオは肩を鳴らすように動かして言い、ルキフェルは前方の孤島を見つめた。近づくにつれて輪郭が鮮明になってくる、何かがあるのはもう疑いようがなかった。
「……なんにせよ、ここからは覚悟が必要だ。人がいるなら、まずは敵意がないことを教えなきゃ」
ルキフェルが掠れた声で呟くと、マテオは小さく鼻を鳴らした。黒い影だった島は、もはや目的地へと変わっていく。二人は肩を並べたまま、言葉を交わさずにエル・イエロ島を見つめていた。
エル・イエロ島は思っていたよりも寂れている。もっと濃い緑に覆われていると思っていた。湿った密林が広がり、足を踏み入れればすぐに飲み込まれるような場所を想像していたが、違う。緑はあるが、点在しているだけ。剥き出しの岩肌、乾いた土、風に削られたような奇岩が海岸線に沿って無造作に並んでいる。生命の気配はあるのに薄い、どこか削ぎ落とされたような景色だ。船は沖合で錨を下ろした。この先は船では入れない、五人だけが小舟へと乗り移る。
「……行くぞ」
ジャスパーが舵を握り、他の四人は無言でそれぞれの位置についた。櫂が水を掻き、静かな音が海面に広がっていく。島がゆっくりと輪郭を持って迫り、やがて海の色が変わって深い青が淡く濁った。底が見える、浅瀬だ。
「ここまで」
ジャスパーが呟き、船底がかすかに砂を擦った瞬間にルキフェルが先に立って海へと足を踏み入れる。冷たい水が足首を包む。彼のすぐ後ろからマテオとニールも続き三人で小舟の縁を掴む。
「引くぞ」
ルキフェルの合図で、三人が砂を踏みしめながら力を込める。水が抵抗になるが、それ以上にこの島に触れているという感覚が妙に現実味を帯びていた。一歩、また一歩進んで水位が膝下まで下がり、足場が安定するとコリンも飛び降りて水しぶきが上がり、四人で力を合わせて小舟を引き上げる。砂浜に船底が乗り上げ、重さが抜けて動きが止まると音が消えて波の音が残る。
ルキフェルは顔を上げて周囲を見渡した。目の前に広がるのは見慣れない地形。彼の背後で水が静かに引いていき、足元に残る湿り気が陸であることをようやく実感させた。ルキフェルが一歩踏み出すと砂がわずかに沈み、もう一度だけ羅針盤を取り出して確かめるように蓋を開くと、針が一定の方向を示さず暴れていた。左右に振れ、細かく震え、落ち着く気配がない。
「……なんだ」
違和感に引かれるように、ルキフェルは視線を足元へ落とした。砂が動いている。風とは違う。波でもない、細かい粒がざわざわと震えて流れるように動いている。まるで、何かに引かれているように。ルキフェルはゆっくりと顔を上げた。
「……針と呼応してる」
「え、ほんと?」
コリンが足元を覗き込み、砂をつまもうとしてすぐに指を止める。
「あー、そういえば。特定の鉄にしか反応しない浜、みたいなやつ。トルチュ島の長老が言ってた」
「えー、そんな都合いいことある?」
ジャスパーが顔を顰めるもマテオが即座に返す。
「今まさに目の前で起こってるだろが」
ジャスパーは「いやまあ、そうだけど」と肩をすくめた。ルキフェルは足元の砂を暫し見つめたあと口を開く。
「……色んな人間が知恵を振り絞って作ったものだ。いつでも故郷へ戻れるように、帰る場所を見失わないように。俺はこの話を聞いて、ゼフィランサスにも故郷や仲間を想う気持ちがあったんだと思った。けど……今思えば、島に残る側が帰ってきてほしくて持たせたのかもしれない」
「なるほど。道具としての機能だけじゃなくて、願いも込められてるってことか」
ニールがため息を漏らしながら言い、ルキフェルは羅針盤の蓋を閉じた。カチリと大きく響き、五人はその場に立ち尽くしていた。沈黙を破ったのはマテオだ。
「ここに突っ立っててもしょうがねえ。動き回るか」
「えー、どっち行けばいいの」
コリンが顔を顰め、広がる砂浜と岩場をあてもなく見回す。目印らしいものは何もない。ニールが一歩前へ出て四人を振り返った。
「とりあえず海沿いに行こう。視界が開けてる方がいい、まず人を探さないと」
ルキフェルが頷いて足を踏み出そうとした瞬間、ジャスパーの声が鋭く飛んだ
「待て!」
反射的に全員の動きが止まり、空気が変わる。風ではない別の何かが混じって、ジャスパーは林の奥へ目を向けた。
「……来る」
ガサリと乾いた音がして、木々の奥から影が弾けるように飛び出した。一人、二人ではない。次々と、複数人が砂を蹴り、岩を越え、一気に距離を詰めて五人組を囲った。
全員男だが、顔立ちは統一されていない。肌の色も髪も、体格もバラバラだ。西洋、南方、北方と異なる出自の人間が同じ輪の中に立ち、言葉が飛び交った。聞き取れない音の連なり、短く鋭いもの、長く抑揚のあるもの、喉を鳴らすような発音。複数の言語が同時にぶつかる。意味は分からないが、敵意だけはハッキリと伝わる。
五人組は反射的に背中を寄せ合って円を作り視線を分散させて死角を消した。誰も指示を出していない。ルキフェルが武器を持っていないことを示す仕草をしながら叫ぶ。
「違う! 俺たちは敵じゃない!」
男の騒めきが強くなる。通じていない、あるいは理解した上で受け入れていない。一人がルキフェルの顔を見た瞬間、空気がさらに張り詰めた。露骨な警戒、いやそれ以上だ。敵を見る目、他の男たちにも視線が伝播して囲いが少し狭まった。コリンがジャスパーとニールの背後に半ば隠れるように身を寄せて呟く。
「どうしよう……」
ルキフェルたちは背中合わせのまま足場を確かめる。男たちが何かを叫び合って警戒だけは崩そうとしない中、ルキフェルの耳元にマテオの声が妙に冷たく落ちる。
「見てみろ、この島でお前を覚えてる奴がいるってのか」
ルキフェルの胸の奥でマテオの言葉が鋭く掠め、自分の中の何かを不意に逆撫でしたが反論する暇もない。その時、林の奥から突然ひとつの影が飛び出してきた。
また男だ、年若くはないが足取りは速く、迷いがない。彼が何かを叫びながらこちらへ駆け、囲んでいた男たちの一人がすぐに反応し、その隣の男へ言葉が渡って次の男へ、また次の男へと視線と囁きが走る。空気が変わる。目に見えぬ合図が波紋のように広がり、やがて男たちは徐々に武器を下ろしていった。
「……え?」
コリンが間の抜けた声を漏らす。男たちは互いに顔を見交わし、ひとり、またひとりと左右へ退いた。道が開く中心を、先ほど叫んでいた男が歩いてくる。ルキフェルは男の姿を見た瞬間、胸の奥を何かが強く打った。年は五十手前だろうか。濃い茶色の髪、灰青色の目、彫りの深い整った顔立ち。柔らかな印象があり、威圧感は薄いのに、その姿はどうしようもなく目を奪った。ルキフェルの喉が詰まって頭の奥で何かが軋む。
——包帯、酒精の匂い、揺れる船医室。
「いいや、放ってはおけん!」
「痛みは生きている証拠だ」
「大事な人を守れる男になる」
大きな手と潮風。
「願わくば、また会えることを楽しみにしてる」
——断片が断片のままルキフェルの胸の奥へ突き刺さる。目の前の男もまた歩みを止め、灰青色の目がルキフェルの顔を見つめた。眼差しの中に驚愕と信じられないものを見るような揺れが走っている。ルキフェルの視界が滲み、緩んだ口元から掠れた声が漏れた。
「……レオン」
男——レオン・マルヴォワの目が大きく揺れた。彼の唇が震え、ようやく絞り出すように名を呼ぶ。
「……ルキフェル」
もう駄目だった。ルキフェルが一歩踏み出して縋るようにレオンへ抱きついていた。レオンもまた彼に腕を回して衝撃ごと身体を受け止める。再会の意味を悟ったのだろう。周囲の男たちは顔を見合わせ、それぞれ短く言葉を交わしながら武器を収めていく。先ほどまでの殺気が嘘のように解けた代わりに戸惑いと安堵が広がっていった。
「あ……敵じゃない感じ?」
「みたいだね」
コリンが呟くとニールも肩の力を抜いて息をついた。ジャスパーは片眉を上げて、抱き合う二人を見ながら微笑む。
「なんだよ。最初から大事なとこ言っとけよな」
ジャスパーの隣でマテオだけは目の前の光景を見つめて少しだけ顔を顰めた。ついさっき、自分が吐いた言葉が脳裏によぎる。あれは明らかに余計だった。マテオは鼻を鳴らすと目を逸らした。ルキフェルはレオンの肩に顔を埋めたまま、声にならない呼吸を繰り返している。レオンはそんな彼の背をかつてのように大きな手でゆっくりと撫で、しばらくすると苦笑混じりに声をかける。
「……そろそろいいだろう」
レオンがやんわりと腕を引いて少しだけ力を込めて剥がすと、ルキフェルは名残惜しそうに一歩退くも目元はまだ濡れている。レオンは周囲に視線を巡らせて囲んでいた男たちへと視線を向ける。
「仲間が悪かった。外部から人が来るの珍しいんだ、許してやってほしい」
「……じゃあ、この人たちが多民族集団」
ルキフェルは息を整えながら振り返る。さっきまで自分たちを取り囲んでいた男たち、改めて見てもやはり顔立ちはバラバラだ。レオンはルキフェルの言葉にこくりと頷く。
「色んな場所から流れ着いた連中だ。行き場を失った者同士がこの島で生きてる」
レオンの視線がルキフェルの背後へ移り、四人と沖合に浮かぶ帆船を見つめた。
「……ルキフェルの仲間か。彼がいつも世話になってるらしいな」
レオンの言葉にコリンが少しだけ胸を張り、ニールは控えめに会釈した。ジャスパーは軽く片手を上げる。
「どうも」
ジャスパーが気の抜けた挨拶をした瞬間、レオンの視線が彼の赤い髪と左耳のイヤリングに止まった。彼の脳裏に昔の光景が蘇る。
——風に揺れる赤髪、柔らかな笑顔。灰青色の空の下で笑っていたアルマ。
レオンの瞳が揺れたが、すぐ我に帰って視線を逸らした。今は掘り下げる場ではない。レオンは軽く咳払いをするとルキフェルへ向き直る。
「えっと……まずは君たちを歓迎したい。そうだな……申し訳ないが、一度船に戻ろうか。俺が集落へ案内するよ」
「集落?」
ルキフェルが問い返すとレオンは頷いた。
「みんなが身を寄せ合ってる場所だ。こっちより、もう少し内側にある。あっちの方がまだ緑も多い」
風が草の匂いをわずかに運び、ルキフェルは安堵するように息を吐く。
「……わかった」
レオンは安心したように頷き、周囲の男たちへと視線を送って幾つか言葉を交わすと、彼らはそれぞれ頷いて散開していく。どうやら、陸路で先に戻るつもりらしい。五人組は顔を見合わせて頷き合う。
「行くか」
ジャスパーが軽く肩を回し、五人はレオンを伴って再び海へと向かう。彼らの背後では、男たちの足音が徐々に林の奥へと消えていった。
集落に着いた。アーシャ海賊団を沖合に残して桟橋に小舟を預け、ルキフェルたちはレオンの案内のもと島の内側へと足を踏み入れる。足元の土は乾いており、海岸の砂とは違うざらつきを持っていた。かつて帆船だった残骸と砕かれた木材、切り分けられたマスト、使い古された帆布が組み合わされ、簡素なテントのように組み上げられている。風を受けて軋む音がどこか船上の記憶を思わせた。
——これが家。
同じ形のものはひとつとしてなく、それぞれが歪で生き延びた証のように在る。至るところに張られたテントの間を人の気配が縫うように行き交っていた。やがて、子供たちの姿が目に入った。裸足で走り回り、笑い声をあげていた彼らはルキフェルたち見るなりピタリと止まって距離を取り、誰かが小さく何かを叫び、別の子供が応じて騒めきが広がる。レオンが子供たちの目線に合わせるように少しだけ腰を落とした。
「心配するな。敵じゃない」
ルキフェルが視線を感じて辺りを見回すと、テントの陰から女性たちがこちらを窺っていた。レオン曰く、この集落で三十人くらいが共に暮らしているとのこと。やがて、一行は集落の奥へと辿り着き、少しだけ広く開けた場所の一角でレオンが足を止めると一つのテントを指差す。
「あれが俺たちの家だ」
「……俺たち?」
ルキフェルが言葉に引っかかりを覚えて問い返した瞬間、布が揺れてテントの中から黒髪の女性が現れた。柔らかくまとめられた髪、穏やかな目元だがこの場所で生きてきた強さが宿っている。彼女はルキフェルたちを見ると驚きもせず、静かに会釈した。レオンが一歩だけルキフェルに近づいて声を潜める。
「俺の連れ合い」
ルキフェルの視線が女性からレオンへ移り、また女性へ向けられる。どこかで記憶が重なって数秒沈黙したあとルキフェルの口元が緩んだ。
「……よかったな」
レオンが苦笑し、黒髪の女性は彼らのやり取りを見つめながら柔らかく微笑んだ。その後、レオンの連れ合いが外で炊事の準備を始めると、香ばしい匂いがテントの中に緩やかに流れ込んできた。火の弾ける音が遠くで小さく響く中、レオンとルキフェルたちは円を描くように腰を下ろしていた。布越しに差し込む光が揺れ、空気はどこか穏やかだったが語られる内容は決して軽いものではない。ここへ至るまでの経緯、海での戦い。そして、フランソワとエドガーの最期。二人の名が出た瞬間、レオンの表情が曇って俯く。
「……そうか、あの二人が」
レオンはゆっくりと顔を上げ、まっすぐにルキフェルを見つめた。
「俺に会いに来たのは、記憶探しのためだったのか」
ルキフェルは一瞬だけ視線を逸らして語る。
「……ゼフィランサスの謎を追ってる。あの人のことを探らないと、自分が誰なのか分からないから」
ルキフェルは懐に手を入れ、羅針盤を取り出すと蓋が光を反射した。
「これ、旅の途中で見つけたんだ。こいつのおかげで、ここまで辿り着けた」
ルキフェルが差し出した瞬間、レオンの目がはっきりと見開かれたて手を伸ばすが、触れる直前に一瞬躊躇って恐る恐る受け取った。
「君が持っていたのか。ゼフィランサス船長の……遺品」
「それ、返すよ。この島の連中にとって大事なものだろ」
ルキフェルが声を落とすと、レオンは掌の中にある羅針盤を見つめていた。——哀悼か、回想か。いずれにせよ、今は誰も口を挟まなかった。その間に、ニールがルキフェルに身を寄せて囁く。
「……本当に返すの」
ルキフェルは視線を落として少しだけ肩を揺らす。
「こういうのは、在るべきところに返すもんだろ」
ニールは一瞬だけ言葉を失うもこくりと頷く。二人の横で、ジャスパーが片眉を上げた。
「ルキフェル的にはどうなん。懐かしい感じする?」
ルキフェルは少しだけ考えてテントの布越しの光へと目を向けた。子供たちの気配、火の匂い、人の騒めきを捉えてからルキフェルは渋い顔で俯く。
「……正直に言うと、ない。景色も雰囲気も、初めて来た感覚がする」
コリンが腕を組んで首を傾げる。
「うーん……また振り出しに戻る感じ?」
「どうだろう、ふるさと候補としてはフランス語圏かカスティーリャ語圏に絞られるんじゃない? 所作のことも気になるし」
ニールが軽い調子で言ってる一方で、マテオはテントの外を見て頭の中で別の線を辿っていた。レオンはしばらく羅針盤を見つめていたが、息を吐いて顔を上げ、その視線がルキフェルたちへと戻る。
「聞きたいことがあれば、聞いてくれ。俺でよければ力になる。……こっちも聞きたいことがあるし」
レオンの言葉にルキフェルは頷くと渋い顔になった。
「じゃあ、早速で悪いけど……俺と初めて会った時のこと、覚えてるか?」
一瞬の静寂、レオンは顔を伏せて腕を組んだ。
「覚えてるも何も……強烈だったぞ。二十年前の秋頃、夜中にゼフィランサスが君を抱えて帰ってきた。全身血まみれで……正直、生きているのが不思議なくらいだった。でも、ゼフィランサスは『まだ生きている。診ろ』と言ったよ。無茶な話だと思った、あの状態で助かる保証なんてどこにもない。それでも、放っておく理由もなかった。最低限の薬と酒精で、できる限りの処置をした。顔は包帯で覆って、感染を防ぐだけで精一杯だったな。」
ルキフェルの目がわずかに揺れ、レオンは苦笑を交えて続ける。
「君が目を覚ました時、混乱していた。痛みと恐怖で、まともに状況を理解できていなかった。周りの連中を敵だと思ったのか、手当たり次第に暴れ出したよ。……あれは止めるのに苦労したぞ。結局、フランソワとリュウ・ヨシマサが押さえつけてくれなければ船医室が壊れていたね」
レオンの語りが途切れるとテントの中に短い沈黙が落ち、ジャスパーが真顔で口を開く。
「二十年前か、他人目線で聞くと怖えな。ゼフィランサスもルキフェルも」
ルキフェルは目を逸らして頬を掻き、レオンはそんな彼の様子を見て笑った。
「無理もない。記憶喪失なら、なおさら『落ち着け』と言う方が酷だ」
マテオが腕を組んだまま口を開く。
「んで、ゼフィランサスがルカを拾った場所って何処だ」
「ルカ……?」
レオンは目を見開いて泳がせ、ルキフェルが即座に口を挟む。
「気にすんな。俺の愛称だ」
「ああ、なるほどね。——フランスの沿岸部だよ、それも北の方だ。海軍から逃げ回っている最中、仲間たちが『せめて船長だけでも身を隠してくれ』と説得したら、ゼフィランサスは『じゃあ、あそこに行きたい』とピンポイントで言った。……フランスのどこかまでは覚えていない」
マテオが小さく舌打ちし、レオンはルキフェルを見て少しだけ眉を寄せる。
「アランがいれば詳細に聞けただろうが……あいにく、彼は何年もここに帰っていない。……生きているかどうかも怪しい」
レオンの一言が落ちた瞬間、ニールの軽い声が割り込んでコリンも勢いよく手を挙げる。
「あ、僕、会いましたよ。……フランスで」
「ぼくも!」
「え」
レオンの目に困惑の色が浮かぶと、さらにジャスパーが肩をすくめる。
「いやあ、あの人はフランソワ海賊団の初期メンバーでしたからなあ。何年経っても眼光鋭いですよ」
レオンの思考が明らかに追いついていないところにマテオが追撃する。
「あの眼帯な。一度見たら忘れられない」
レオンの顔がまるで宇宙の真理に触れてしまった猫になってる横でルキフェルがぽつりと呟く。
「……アラン。なんで俺だけ会ってないんだよ。今どこにいる」
ニールが軽く息を吐くと頭の中で何かがひとつ噛み合って破顔する。
「けど、これで一個確定したよ。ルキフェルはフランス出身!」
ジャスパーが肩をすくめる。
「サン・マロとかいう私掠船の街出身だったらどうするよ」
「細かいことはいいんだよ。とにかく出身を確定してしまえば、まずアイデンティティの土台ができる」
ニールがムッとしている側で、コリンがルキフェルを見上げて微笑む。
「フランス語とカスティーリャ語がごっちゃになってたんだよね。でも、母国語はフランス語だ」
「……その話、よく覚えてるな」
ルキフェルが半ば呆れたような声音で言うとコリンは照れたように笑った。ルキフェルはため息を吐いて目を伏せた。自分が話したはずの過去を他人の口から整理されると、どこか不思議な感覚が残る。そこへ、レオンがぽつりと呟いた。
「……そんなこともあったな。すっかり忘れていた」
マテオが腕を組んだままルキフェルを見る。
「やっぱり、ここは故郷じゃなかった。またフランスに戻る必要があんのかよ」
マテオの声音に苛立ちが滲んでいる。遠回りを嫌う彼の短絡的な癖に、ルキフェルは肩をすくめるとテントの外へ向けた。子供の声、火の匂い、人の気配。
「俺にとっては、な。でも、誰かにとっては大事な場所だ。……あんま不貞腐れるな」
マテオが舌打ちしそうになったところ、コリンの素っ頓狂な声が裂いてくる。
「え、待って。じゃあルキフェルのお父さんって、ゼフィランサスじゃないことになるよね?」
「あ」
五人の思考が同時に同じ地点へ到達してシーンと静まり返った。新しく開いた穴、埋まったはずの謎が別の形で口を開け、その空白を見計らったようにレオンが鋭さを帯びた声質で口を開く。
「……さて、俺からも話がある」
レオンはジャスパーに目を向けると、彼の左耳に揺れるイヤリングを指差す。
「君、なぜそれを着けているのか聞かせてもらいたい」
ジャスパーはきょとんとした顔をしたあと軽くイヤリングに触れた。
「これ? これは母ちゃんの形見。……それが何か?」
レオンの瞳が揺れて慎重に問いを重ねる。
「お母さんの顔、覚えてるか?」
ジャスパーは少しだけ視線を上げた。
「んー……顔はぼんやりしてんな。でも髪はおれと同じ、赤かった」
その瞬間、レオンの呼吸が明らかに止まってルキフェルが眉を寄せる。
「……レオン?」
レオンはジャスパーを見据えて声を震わせる。
「……君の父親は、ゼフィランサスだ。君のお母さんはアルマ。二人でお揃いのイヤリングを身に着けていた。……君が着けている物は、その片割れだよ」
「……は?」
ジャスパーの口から掠れた声が漏れた。ルキフェルもニールも、コリンもマテオも言葉を持てず空気が重く沈んでいく。つい先ほどまでの新しい謎が些細なものだったかのように塗り潰された。別の、もっと大きな真実によって。




