第五章① Montage
マルセイユ。アーシャ海賊団はようやく補給を終えた。港に繋がれていた太い綱が外され、帆がゆっくりと広がっていく。朝の光を受けた白い帆布が風を孕んで膨らむたび船体がわずかに軋んだ。甲板には五人の姿があった。操舵輪に手をかけるジャスパーの隣で、ルキフェルは羅針盤の蓋を開く。真鍮の円盤の中で針がわずかに揺れ、やがて目的地を指し示した。ルキフェルの視線が水平線へと向けられる。
「……いよいよだ」
「ああ」
ジャスパーは口元だけで笑い、マテオが腕を組み、ニールが息を吐くとコリンはこくりと頷いた。船は港を離れていく。石造りの岸壁が遠ざかり、係留柱が小さくなり、やがて人々の騒めきも波音の中へと溶けていった。代わりに広がるのは果てのない海と、船首が外海へ向いた瞬間に帆が更に大きく膨らんでグンッと前へ押し出される。
そんなアーシャ海賊団の様子を離れた場所から見ている者がいた。賄賂——無論、銭と幻覚剤——の力で商船を乗っ取り、虎視眈々と狙う者たちが甲板上に立っている。
「……出たね」
ドミニクは甘い声を漏らし、望遠鏡越しに遠ざかっていく帆船を捉えながら目を細めた。
「いいね。逃げてくれると追う理由ができる」
彼の背後で黒衣の集団が並んでいた。ドミニクは望遠鏡を下ろして片手を軽く上げると、錨が上がる音が響いて帆が開く。音を立てずにもう一隻の船が動き出す。波を切る音すら抑え込むよう慎重に、先行する船の航路をなぞるように距離を保ったまま追う。ドミニクは肉眼では小さくなった帆を確かめるように目を細める。
「さあ、どこまで逃げられるかな」
海風が甘く歪んだその声を攫っていく。静かな追跡が始まった。
サン・マロ。こちらでもまた一隻の船が港を離れようとしていた。アランたちの船の甲板では、東洋人で構成された水夫たちが密輸品処分のため余すことなく積み込んでいる。ピエールは縄でメインマストに縛られ、無造作に座らされていた。
「出るぞ」
アランの一声で船が動き出し、やがて船はブレストへと辿り着いた。最終調整のための寄港。食料、水、火薬と航海に必要なものが次々と運び込まれ、甲板は再び忙しさを取り戻していく傍らで、もう一つ目を引く“荷”があった。ヘイロンの巨体の影が船縁に落ちる。木製の簡易スロープが渡され、数人がかりで誘導されていくが、本人は明らかに不機嫌だった。ヘイロンは鼻息を荒くし、地面を踏み鳴らすたび板がぎしりと軋む。
「ちょ、ちょっと待て……落ち着けって……!」
ディッキーが必死に手綱を引くが、ヘイロンは聞く耳を持たずドスンと一歩踏むたびにスロープが揺れる。
「壊れる壊れる壊れる!!」
カルロータが慌てて支えに入り、周囲の水夫たちも顔を引きつらせながら距離を取る。ようやくヘイロンの前脚が地面に着くと重さに耐えきれず板がわずかに沈み込んだが、ヘイロンは勢いよく飛び降りた。ドンッと鈍い音に石畳がわずかに震え、周囲にいた者たちが一斉に息を呑むが、当の本人は満足げに鼻を鳴らした。ディッキーがその場にしゃがみ込んで額の汗を拭う。
「はぁ、毎回これなんだよな……」
「ほんとにね……」
カルロータも肩で息をしていた。ヤンは腕を組んでじっと一連の光景を眺めたあと息を吐いた。
「……流石に連れて行けないですからねえ」
ヤンの呟きは風に紛れて消え、ヘイロンはすでに次の問題を起こしかけていた。積み上げられた樽に興味を示し、鼻先でぐいと押し始めている。
「やめろやめろやめろ!!」
「それ食料だから!!」
水夫たちの間で再び慌ただしさが広がる。ヤンは騒ぎを一瞥したあと踵を返した。向かう先はマクシム隊の宿舎。ヤンの背後で重い音が鳴った。振り返るまでもない、ヘイロンだ。ついてきている、しかも当然のような顔で。ヤンは一瞬だけ足を止めたが歩き続けた。制止はしない、無駄だ。石畳に響く規格外の蹄の音、ドスンドスンと一定のリズムで後をついてくる黒馬は、もはや同行者というより“移動する災害”に近い。
やがて、ヤンがマクシム隊宿舎の門を通り抜けた。ヘイロンもまた当然のように続いて敷地内に入った瞬間、鼻息を荒くして首を振り、前脚で地面を掻き始める。ヘイロンは「ここは俺のシマだ」と言わんばかりに樽を転がし、桶が跳ねて洗濯物が一瞬で空を舞い、蹄を踏み鳴らすたびに宿舎の前庭を震わせた。縄張り宣言だの音を聞きつけたのだろう、玄関の扉が開いてロザリーが顔を出す。
「……あら」
彼女は状況を一目見て数秒だけ沈黙し、その間もヘイロンは絶賛暴走中だったが、ヤンは気にせずヘイロンの横を通り過ぎ、ロザリーの前で足を止めた。
「お疲れ様です」
ヤンの背後で桶がもう一つ転がり、ロザリーは一度だけ桶に目をやるもすぐにヤンへと戻した。
「……これから昼食なの。食べる?」
「ええ、いただきましょう」
ヤンが頷くとロザリーは肩をすくめる。
「じゃあ、どうぞ」
ヤンはロザリーの案内のもと、宿舎の中へ入っていった。彼らの後ろではまだヘイロンが暴れている。誰かの悲鳴と何かが壊れる音が控えめに響くも、二人とも振り帰らなかった。アランたちが補給を終えるまで数日はかかる。それまでの間、ヤンは宿舎に居座るつもりだった。宿舎の扉が静かに閉まり、外ではまだ蹄の音が響いていた。
食堂では長机がいくつも並び、隊員たちは思い思いの席につき始めていた。……が、誰一人として手をつけていない。目の前には昼食がある。あるのだが、隊員たちの間に落ちる沈黙が妙に長かった。
理由は単純、この日の担当サミュエル・バティーユの料理が、あまりにも整いすぎていたから。皿の上には色彩が計算された配置で並び、焼き色のついた肉は中心に据えられ、肉の周囲を取り囲むように薄く刻まれた野菜が扇状に広がっている。さらに外側、淡い色のソースが幾何学的な曲線を描きながら流されていた。料理というより、もはや作品だ。
「……これ、崩していいの?」
ペネロペがぽつりと呟いた瞬間、サミュエルがすっと現れて腕を組んで皿を見下ろす。
「もちろん崩していい。が、その崩れ方にこそ美は宿る。最初から完成されたものではなく、手を加えることで変化していくもの。そこに、時間という要素が加わる。この配置は、その変化を前提に設計している。肉を切り分け、ソースを絡め、色が混ざり合うことで“調和”が完成する。つまり、これは未完成の美だ。戦場も同じ。初期配置だけでは価値は決まらない。どう崩し、どう再構築するか、その過程にこそ本質がある」
「……それ、戦闘に使えるか?」
グウェナエルが真顔で聞き、サミュエルは一瞬目を細める。
「概念としては応用可能だ」
「概念か……」
グウェナエルはそれ以上突っ込まなかった代わりに、彼の隣に座っていたソフィーが笑みを溢す。
「まあまあ。サミュエルさんがせっかく作ってくれたんですから、頂きましょう」
誰かがナイフを取り、皿の上の構図に最初の切れ目が入る。彼らから少し離れた席でマクシムは黙って眺めていた。彼の視線は料理ではない、人の動き。会話の流れと空気を淡々と観察している。
——近いうちに話すつもりだ。復讐計画を、この隊の人間たちに。
だが、グウェナエルの問いとソフィーの調子、それにサミュエルの“美”の話がマクシムの頭の中で引っかかる。
——感心しないな。ノイズが多すぎる。戦場に持ち込むには余計なものが多い。価値観も判断基準もバラバラだ。統率するには整いすぎていない。
「……まあいい」
マクシムは思考を打ち消してナイフを手に取った。
——どうせ、グウェナエルはついてくる。問題はない。
サミュエルの説明がまだ続いている横で、マクシムは構わず肉にナイフを入れた。構図を崩し、ソースを広げて食べる。少し離れたところでロザリーが呟いた。
「分かるわ。最初の形だけじゃなくて、崩れ方まで計算してるのよね。こういうの」
サミュエルが鼻を鳴らして頷き、ヤンは顔に困惑の色を浮かべながらフォークを手に取って皿を見下ろす。独り言をもらしながらも、きちんとナイフを入れ、崩れた料理を口に運んだ。
「……はぁ。食事でここまで語られるとは思いませんでしたよ。商売の席でも、もう少し簡潔です。……味は悪くないですね」
食堂に、ようやく食事の時間が訪れるが、それぞれの思考は別の方向へと動き始めていた。
港、補給作業の騒めきが波音に溶けている。ヤンは少し離れた場所に立ち、アランたちの船を眺めていた。甲板では荷の積み込みが続いている。船内では夢蛇の箱、食料、水の量の配置調整をしているらしい。ヤンは目を細め、風に流れる帆布の揺れを無意識に追う。
——急ぐ気だな。
そう判断した瞬間、ヤンの背後から声が落ちた。
「リー、情報が欲しい。最近の動きを手短に」
ヤンは横目で振り返ると、マクシムが立っていた。いつもの整った姿勢だが、よく見れば目の奥が妙に硬い。
——やはり来た。
「またですか。いいでしょう、まずは状況整理からいきましょう」
ヤンは肩をすくめて肩掛け鞄から資料を取り出す。紙を広げるヤンの指先は滑らかだが、彼の視線は一瞬だけマクシムの表情をなぞった。疲労。いや、違うな。抑えている。
「最近の海賊たちの動きは?」
「大きな動きはありません。先日の戦闘以来、おとなしいものです。エドガー・ロジャースとフェルナンドの処刑が効いているのでしょう」
ヤンが言い終えたあと言葉を切った。マクシムの反応を見るために。
「あの群衆の熱狂ぶりは……耐えられなかった」
マクシムから低く押し殺した声が漏れ、眉間に細い皺が寄る。皺はすぐに消えたが、消しきれてはいない。ヤンはその残り方を見ていた。群衆ではない、熱狂そのものに嫌悪を抱いている。つまり、制御不能のものを極端に嫌う性質。
「恐怖や支配の前では、人の感情は簡単に歪みます。だからこそ、冷静であることが必要です」
——この男は冷静でいようとしているが、それは保っている状態だ。崩れれば、一気に振り切れる。危うい。
ヤンは穏やかに助言したが、マクシムは一瞬だけ視線を落とし、浅く息を吐いた。
「……サン・マロを取り戻せたことは嬉しい。だが、命を差し出すのはいつも戦う者たちだ。群衆も、王宮も、上層部も……憎くてたまらない」
マクシムは遠くを見ている。目の前ではなく、過去でもなく、どこか別の場所を。ヤンは彼の横顔を見ながら息を吐いた。
——広いな、怒りの向きが。一点ではない怒りは扱いにくい。
「……それは、ゼフィランサスのことですか?」
ヤンは首をわずかに傾けると、マクシムの視線がヤンに戻った。
「いや、彼だけじゃない。すべての尊い同士たちのことだ」
マクシムと目が合い、彼の茶色い瞳の奥にあるものをヤンは測る。
——濁ってはいないが、深すぎる。
「……なるほど。ずいぶんと重いものを背負っているようですね」
「重荷だ。だが、背負うべきものだ」
ヤンは踏み込まない笑いを浮かべ、マクシムは即答する。その速さにヤンの目がわずかに細くなった。迷いはない、か。あるいは迷いを認めていないだけか。
「五鬼衆の居場所は?」
マクシムの声はすでに元の調子に戻った。切り替えが早い、ヤンは彼の変化を見逃さず答える。
「残念ながら不明です。あらゆる海を巡っている可能性がありますね」
「……さすが五鬼衆だ」
「ですが、いずれ手がかりは掴めるはずです」
マクシムは口を開きかけ、視線が一瞬揺れるも躊躇ず声を落とす。
「実は、五鬼衆の一人——ルキフェルと約束してるんです」
ヤンの指先が止まり、紙の端を押さえる力が強くなった。
「約束、ですか?」
「ええ。計画が成功した暁には、ルキフェルが僕を殺す」
風が吹き、ヤンの前髪がわずかに揺れた。前髪の影の奥で、ヤンの目がマクシムの横顔を鋭く捉えた。冗談ではない、本気だ。それを隠す気もない。自分を殺させる約束、正気ではないがこの男ならやる。
「……それで、彼らを呼び寄せたいと」
ヤンはゆっくりと瞬きをするとマクシムは厳かに答える。
「そうです。時期も近い。だから、五鬼衆を集める必要がある」
「その計画、もう詰めていますか?」
「まだです。細部はこれから」
ヤンは目つきを鋭くさせたまま、口元を少しだけ緩める。
「では、ひとつ情報を。スペイン沿岸部に、裏社会と繋がる者からの報告があります。密かに動く海賊と物資の情報です」
ヤンの脳裏に同僚の顔が浮かぶ。同僚は報告というより面白そうだから見てきただけだろうが、断片としては十分だ。マクシムが資料に目を落としながら呟く。
「使えそうだな」
「それと、これはポート・ロイヤルから来た船団が広めた噂ですが……個性的な海賊たちと遭遇したそうです」
「個性的?」
「詳細は不明です。ただ、同じ海域で複数の報告があります」
「……五鬼衆の一部かもしれないな」
「可能性はありますね」
その瞬間、アランたちの船の帆影が風に揺れ、マクシムの視線がアランたちの船へと流れた。
「リーさん。船を一隻用意してほしい。小型のガレオンでいい」
ヤンはほんの少しだけ返事を遅らせた。
「船を? 用途は」
「隊員を遠出させる。少人数で動ける船が必要だ。水夫も」
「目的地は?」
ヤンはマクシムの顔を真っ直ぐ捉え、マクシムは一呼吸置いてから答える。
「——エル・イエロ島だ」
ヤンはマクシムの目を見つめ返し、次に船を見つめた。
「……了解しました。こちらの船を回します。船員もつけましょう」
「いいのですか?」
「……まあ、都合よく船が空いていましてね。特別サービスですよ、お得意先ですから」
ヤンは軽く笑ったが、その笑みは目に届かない。マクシムは気づかず礼を述べる。あるいは気づいていても、流している。
「助かります」
マクシムが踵を返して立ち去った。決断を済ませた人間の歩き方と背を、ヤンはしばし目を細めて見送る。
——危うい。
均衡の上に立っている。そして、自分で崩そうとしている。
「……それでも行こう」
ヤンの声は風に紛れて消えた。彼の口元がほんのわずかに歪み、笑いともため息ともつかない形を残すと踵を返した。足取りは軽いが目は冷めたまま、騒めきの中へ溶け込んでいく。
それから、マクシミリアン隊の宿舎全体にどこか張り詰めた空気が漂い始めた。誰もが声を潜め、足音さえも意識的に抑えている。日常の延長にあるはずの場所が、ゆっくりと戦場の前室へと変わっていくような感覚。
ヤンは借り受けた一室にて荷物をまとめていた。衣類を畳み、必要最低限の道具を選り分ける。動きに無駄はないが、彼の指先はどこか慎重だった。長旅になると分かっているからこそ、選択は一つひとつが重い。
——せっかく、部屋を貸してもらったというのに。
ヤンは手を止めて息を吐いた。またしばらく空けることになる。戻ってくる保証もない。それでも、ここに痕跡を残していくような感覚が胸に引っかかった。考えすぎだな、と自分で打ち消す。必要なものだけを詰め、あとは置いていく。それがこの仕事の基本だ。ヤンが再び手を動かそうとした時、コンコンと控えめなノック音が響いた。ヤンが「どうぞ」と声をかけると、扉越しに柔らかな声が返ってくる。
「ヤン? 私よ、ロザリー」
ヤンは一瞬だけ眉を動かして扉へ歩んで開けると、廊下に立つロザリーと目が合う。いつもの穏やかな表情だが緊張が滲んでいる。
「お疲れ様です」
ヤンが軽く頭を下げるとロザリーも頷く。
「ごめんなさい、準備中に。シャルルが呼んでるの」
「……マクシムさんの執務室ですか」
「ええ。案内するわ」
ロザリーは踵を返し、ヤンは一瞬だけ部屋の中を振り返り、整えかけた荷物をそのままにして扉を閉めた。二人で廊下を並んで歩く。普段ならば他愛もない会話が交わされる距離だが、今は互いに言葉を選んでいるような微妙な沈黙が流れている。すれ違う隊員たちの表情も硬い。視線だけが一瞬交わり、すぐに逸れる。誰もが何かを察し、何も言わない。ヤンは空気の変わりようを肌で感じていた。やがて、二人の足が目的の扉の前で止まり、ロザリーが軽くノックをする。
「失礼します」
二人が扉を開けたところで、ピタリと足を止めた。シャルルが金の腕輪を手の中でひっくり返しながら、ひとり怪しげに唸っている。ヤンとロザリーは思わず顔を見合わせた。ヤンが先に口を開く。
「……シャルルさん。何をしているんですか?」
「いやあ、この腕輪がどうにも気になってな。ちょっと前から妙な臭いがしましてね。こう、事件の香りというか」
「それ、褒め言葉じゃないよね……」
ロザリーが呆れた息をつくが、ヤンはシャルルの手元にある金の腕輪へと視線を落とした。
——あの三男がやけに執着していた代物。
尋問の最中、取り乱したように「返せ」と喚いていたピエールの姿が脳裏によぎる。ただの装飾品にしては不自然だ。ヤンは腕輪に興味を示し、シャルルにそっと手を差し出した。
「少し……触ってもいいですか? 内側、見てみたいんです」
「お? もちろん。どうぞどうぞ」
シャルルは腕輪を差し出すと、ヤンは慎重に指先で内側の縁を探り、僅かな段差に気づいて爪先でカチリと音を立てた。
「……ん?」
次の瞬間、腕輪の内側にごく小さな溝が開き、目では捉えられないほどの薄刃と微細な粉末の仕込みが露わになった。ヤンの指先が一瞬だけ止まる。
「これ……毒ですね。ごく微量ですけど、皮膚からでも吸収できる類のものです」
ロザリーが一瞬言葉を失い、シャルルが低く唸る。
「……ダラス家の三男が、なんのためにこれを?」
腕輪の内側に隠された毒粉と薄刃に込められた意図を考えながら、ヤンは淡々と答える。
「まあ、いわゆる暗器というものですね。暗殺用か……あるいは、自決用か」
ロザリーが小さく息を呑み、シャルルは腕を組んでさらに深刻な顔つきになる。
「……あの男。今は君の下で匿っているそうだね。危険では?」
「お気遣いなく。——協力的な人たちが管理していますので」
ヤンは顔色ひとつ変えずに答えた。その「協力的な人たち」という言い方が妙に引っかかってシャルルは眉を上げたが、ヤンの脳裏には数人の顔がよぎっていた。無遠慮で粗暴で、妙に筋の通った連中。管理という言葉から最も遠い場所にいながら、結果だけはきっちりと残す連中だ。だからこそ、任せている。ヤンは腕輪から手を離すと思い出したように姿勢を正した。
「そうそう。マクシム隊長から頼まれていた船ですが……船はすでに港に入っています。積荷と人員の調整に二日ほど。終わり次第、出せます。さて、マクシミリアン隊の中で乗船する者は?」
シャルルは机の端に置かれたメモに指を這わせながら答える。
「隊長の指示だと……ロザリーとサミュエル、そしてペネロペ。この三人が乗ってエル・イエロ島に向かう」
「了解したわ」
ロザリーがこくりと頷く。旅立つ緊張よりも、任務を託された責任感のほうが勝っている表情だったが、ヤンはふっと視線を伏せて少しだけ真剣な声音に切り替えた。
「……わたしから、皆さんにお願いしたいことがあるのです。実は、手配している船にある積荷が載せられています。エル・イエロ島に着いたら、真っ先にそれを破棄してもらいたいのです」
「……なんで?」
ロザリーは思わず眉を顰め、ヤンは慎重に言葉を選びながら続ける。
「積荷の中身は……この西の地にあってはいけないものなんです。わたしたちの手で、確実に処分しなければならない」
シャルルは怪訝な表情でヤンと腕輪を交互に見たあと、急に「あ」と小さく声を漏らした。
「……ちょっと待ってろ」
何かに思い至ったような気配を残し、シャルルは急ぎ足で執務室を出ていった。扉が閉まる音が妙に大きく響いて、残された二人の間に不穏な沈黙が落ちた。しばらくして足音が戻ってくる。シャルルが片腕で抱えられる程度の、小ぶりな木箱を抱えて執務室に入ってきた。
「……これのことですね?」
シャルルが慎重な手付きで机に置いて蓋をそっと開けた瞬間、ふわりと薬草と鉄を混ぜたような、嗅いではいけない類の匂いが広がる。ヤンは一瞥しただけで「ああ」と声を上げた。
「それ、まだ使っていなかったんですね。そうです。その夢蛇、東洋で禁制品とされている幻覚性毒草の一種です。どういう経路かは分かりませんが、このフランスの地に密輸品として流れついていて。東洋人であるわたしたちとしては放置できず、一部を押収したものです」
ロザリーは数秒固まったあとギギッと歯軋りした。
「……あなた。数ヶ月前の密輸品の話、してたけど」
「はい?」
「もしかして……それのこと?」
「正解です」
ヤンの口元が楽しげになる。シャルルは木箱を見下ろし、眉間をぎゅっと寄せた。
「……じゃあそんなもの、ぼくに押し付けないでくださいよ。危うく、ぼくが犯罪者になるところだったじゃないか」
ヤンは悪びれるどころか笑って片手をひらひらさせ、さも常識のように続ける。
「いやあ、力になりたかったんですよ。それに保管先を分散させる方が、積み荷を狙う連中の混乱を招けます。一本にまとめておくと、盗まれたら一巻の終わりですしね。……ですが、この先、何があるかわかりません」
ヤンの表情が急に引き締まり、シャルル、ロザリーの順に視線を移してから木箱を見下ろす。
「どうでしょう。密輸品と共に行動するという以上——この幻覚剤を使用することも、視野に入れておいては?」
ロザリーが「はぁ!? 正気!?」と声を張り上げ、シャルルは「いやいやいやいや、使う前提で話しないで!?」と全力で首を振るが、ヤンは二人の大騒ぎをものともせず淡々と続ける。
「——あくまで万が一の時のため、です。相手は厄介です。一筋縄ではいきません」
シャルルは口をパクパクさせ、ロザリーは「厄介ってレベルじゃないでしょ」と呆れを通り越して幻滅している。ヤンはまるで二人の反応を想定の範囲内とでも言うように息をついた。
「もちろん、常用など考えてはいません。緊急時、どうしても状況を打破しなくてはならない局面があれば……役に立ちます」
シャルルとロザリーは互いに顔を見合わせて絶句し、ヤンはごく自然な調子で続けた。
「準備は、わたしがしておきましょう。煮出して液状にすれば扱いも容易になりますから」
「待て待て待て待て!!」
「なんで液体化を当然みたいに言うの!? やる気満々じゃないか!」
シャルルが素で叫び、ロザリーもこめかみを押さえて「怖い……東の人って怖い……」と小声で震えていた。ヤンは二人の反応に微笑すら浮かべず淡々としている。
「必要なものは、必要な時に使えるように。これが基本ですよ、シャルルさん」
「ダメよ! そんな危険なもの絶対——」
ロザリーは食い下がるが、シャルルは目を細めて息を吸い込む。
「……わかった」
「シャルル? ちょっと待ちなさい!」
シャルルはロザリーを見ず、ヤンをまっすぐ見た。声音は震えていなかったが、もう観念した人間特有の深い諦めが滲んでいる。
「島に向かう三人——ロザリー、サミュエル、ペネロペを守るためだ。リスクも承知の上で言う。……幻覚剤の準備は君に任せるよ」
「何言ってんのあんた!?」
ロザリーがヒステリックに叫ぶが、シャルルはもう木箱を手に取ってヤンの方へ差し出す。
「頼む。……できるだけ安全に扱ってくれ」
「承知しました。では、適切に仕上げておきます」
ヤンが箱を両手で受け取った瞬間、ロザリーが憤慨しながらシャルルの後頭部を小突く。
「ちょっと! 勝手に決めないでよ! 何よ任せるって!」
「う、うるさいな! ぼくだって好きで言ったわけじゃないよ! 誰かさんがすぐ刺客に突っ込んでいくから危険度が跳ね上がるんだ!」
「はぁ!? 関係ないでしょ! あんたの判断が早すぎるのよ!」
二人が取っ組み合い寸前の勢いでワーワーやり合う横で、ヤンはまるで「庭で犬が吠えてるな」くらいの顔で軽く一礼し、木箱を抱えたまま執務室を出て行く。向かう先は宿舎一階の食堂だ。
「……煮出すには、湯と鍋が必要ですね」
誰に聞かせるでもない独り言を残しながら、ヤンは淡々と階段を降りていった。
ヤンが食堂に足を踏み入れると昼下がりの光が斜めに差し込み、空気をやわらかく照らしていた。長テーブルの端でソフィーが分厚い本を開き、肘をつきながら読み耽っていると、ページをめくる指先が止まって顔が上がる。
「——あ、ヤンだ。どうしたの?」
ソフィーの声は素直で、どこかほっとした響きがある。ヤンは胸に抱えた木箱を抱え直して微笑んだ。
「少し、台所をお借りしてもよいですか?」
「もちろんよ。案内する」
ソフィーは本をぱたりと閉じて立ち上がり、ヤンを奥の厨房へ導いた。厨房は調理の準備が終わった直後らしく、香草とパンの香りがまだ漂っている。ヤンは手際よく水を張った鍋を火にかけると袖を少しだけまくり、木箱から取り出した細い包み——夢蛇の乾燥片を開く。鍋が湯気を立て始める頃、ヤンの背中を見つめていたソフィーがぽつりと声を落とした。
「ねえ、ヤン。……あの時、なんで私に毒をくれたの?」
鍋から立ち上がる湯気の向こうで、ヤンの指先がぴたりと止まって振り返る。湯気が彼の横顔を揺らし、黒い目の奥に淡い微笑が灯る。
「——ああ、あの時のことですか。医務室の前を通りかかった時、あなたの声が聴こえたんですよ」
「声?」
「ええ。『毒を持って毒を制す。第三の毒で先に仕込まれた毒を中和して吐かせる』。……そんな独り言が。つい、力になりたくなりまして」
「……え? わたし、声に出てた?」
ソフィーは思わず自分の喉元に手を当て、ヤンは再び鍋へ視線を戻した。赤褐色の蔓草と暗紫色の樹皮が、ゆっくりと色を滲ませていく。彼は長い箸でかき回しながら、うっすらと笑みを浮かべた。
——まあ、必要なのは量と使いどころですね。
鍋の中で煮詰まった夢蛇が、じわりと不気味な青を帯びはじめる。ヤンは火加減を調えながら振り返った。
「——空の瓶ってあります?」
ヤンの唐突すぎる問いに、ソフィーは瞬きをした。
「あ、あるわ。医務室に空の薬瓶がいくつか残ってるはず。取ってくるね」
ソフィーが小走りに食堂を出ていくと、ヤンは頷いて再び鍋へ向き直り、青く変色した液体の表面をそっと掻き混ぜた。甘ったるいのにどこか渋い、夢蛇特有の匂いがじわじわと空気を満たしていく。ヤンは口元を二の腕で覆いながら鍋を見つめる。
「……敵相手に使うなら、効果は素早くなければ」
ヤンの目の奥には研ぎ澄まされた光が宿っていた。彼は棚から小さな陶器の漏斗と細い布を取り出し、鍋の中身をゆっくりと濾し始める。落ちてくる液体は最初こそ暗い紫だったが、数度の濾過を経るうち澄んだ青へと変わっていった。
「……やはり、西の地で精製すると色が変わりますね」
彼は濾し終えた青い液体を細口の小瓶に注ぎながら眉を寄せた。
「——精製型《天眼滴》。これ以上は濃度を上げられませんが……十分でしょう」
液体は光にかざすと微かに揺れ、深い青の底に黒い影が走るように見える。ヤンは瓶の栓を固く閉めると、胸の奥に静かな緊張が生まれた。
「敵に用いるのは、あくまで最悪の時だけ。——どうか、使わずに済みますように」
ひとり呟いた彼の声は青い液体よりも冷たい。ちょうどその時、食堂の方からソフィーの足音が近づいてきた。
朝の光が港を淡く照らす。シャルルは宿舎前に立ち、選ばれた三人──サミュエル、ペネロペ、ロザリー──を迎え入れる。マクシムはこの場にいない。
「船が着いた。すぐに出発だ」
シャルルの声は冷静だが、どこか緊張感を孕んでいた。三人は頷き、装備を整える。
——まずはサミュエル、ペネロペ、ロザリーをエル・イエロ島へ向かわせる。
マクシムの指示がシャルルの頭の中で木霊する。三人に与える任務は単純で重要だ。シャルルは三人を前に立たせ、指示を丁寧に伝える。
「島に着いたら、まず住民の安全を確認すること。そして私達の計画が本格的に動き出すことを必ず報告してくれ」
三人は無言で頷き、シャルルは地図を片付けるとポーチに手を伸ばした。小さな青い小瓶が揺れ、シャルルが小瓶を手に取ると、ペネロペとサミュエル、ロザリーの視線が集まる。
「さて、君たちにはこれも持たせる。これは夢蛇の蔓と天眼樹の皮を合わせて作った幻覚剤だ。状況次第では、君たちや島の住民の安全を守るために使うことになる。用法は慎重に。絶対に軽々しく使うな」
「……危険ね」
ロザリーが眉を顰める。シャルルは注射器とともに小瓶を三人に手渡す。
「使い方はシンプル。予め注射器にこの液体を入れておき、相手の隙をついて注入。絶対に安易に手を出すな。万が一の時にだけ使え。理解したな?」
「はい」
三人は同時に答える。彼らの目に光る決意は、マクシムの炎に照らされた覚悟と呼応していた。シャルルは頷き、ブレスト港の方向を見つめた。
「さあ、行け。君たちの判断に任せる。これが、我々の計画の第一歩だ」
ブレスト港に場所を移すと三人は桟橋を歩き、アランたちの船へと向かった。朝日に照らされる港の波間に小瓶が揺れ、三人の掌で光を反射している。三人が船の甲板に足を踏み入れると波の揺れが小さく体を揺らし、風が頬を撫で、港の匂いが鼻をくすぐった。
サミュエルは舷側に手を置き、目の前の海を見つめる。普段は冷静な彼も、仲間たちと共に進む決意を思うと胸が高鳴る。人を動かすより船を動かす方が自分にとって自然だと考えていた彼だが、今回は違う。故郷を思い、マクシムのために動く自分を認めざるを得ない。ペネロペは拳を握って誓う。
「海賊上がりの私でも……この人たちのためなら全力を尽くす」
過去の自分なら躊躇したかもしれない決断も、今は迷いがない。隊長に命を預ける覚悟が彼女の胸を熱くする。ロザリーは甲板の先端に立ち、遠くに広がる水平線を見据えた。
「どこへ行くか迷っていた私の航路を、あなたが定めた……」
王宮を切り捨てた自分が、初めて明確な目的を持ったことに胸を震わせる。復讐のために進む道だとしても、この航路は彼女にとって唯一の解放でもあった。その時、シャルルの声が再び甲板に響く。
「島に着いたら、状況を確認すること。万が一の時は幻覚剤を使え。ただし、冷静に判断しろ」
小瓶を握る手に力を込め、三人は互いに目を合わせる。
「わかっている」
船が桟橋を離れ、波を切る音がこれから始まる旅の緊張と覚悟を伝えた。ペネロペは心の奥で、サミュエルは目の前の海に、ロザリーは過去と未来に、それぞれの決意を刻む。復讐の炎に照らされながらも、互いの覚悟と使命が重なり合う光として。船は水平線の向こうへと進み、海風が髪を揺らし、波間には朝日が反射して煌めく。風の音に紛れてペネロペがぽつりと溢す。
「……メリッサ、あのとき言ってたよね。『復讐なんて大嫌い。みんな仲良くすればいい』って」
ペネロペが言葉にした途端、三人の胸にメリッサの笑顔がよみがえる。サミュエルは舵に寄りかかりながら苦々しい声を絞り出した。
「皮肉だな。僕たちは今、その真逆に向かってる」
「そう……叶えてあげられなかった。彼女が望んだ未来を」
ペネロペが唇を噛んで瞳を伏せ、ロザリーは声を振るわせる。
「……なのに私たちはこの道を歩いてる。どうしても」
三人の間に重い沈黙が落ちるも、サミュエルがやがて息を吐いて前方の水平線を見据えた。
「だからこそ、覚えておかないといけない。あの子が本当に望んでたものを。僕たちがどこまで行っても、忘れちゃいけない」
ロザリーは目を閉じて強く頷き、ペネロペもまた拳を握りしめながら呟く。
「……そうね。メリッサの言葉は、消えない」
——けれど、その願いはマクシムには決して届かないだろう。
船はなおも南西へ。メリッサの願いを胸に抱いたまま、その願いと逆行するかのように航路を進んでいく。




