第三章① 五人組
ルキフェルの背後で砂を踏む音が重なった。ザクザクと乾いた音が近づき、ジャスパーとマテオ、コリンとニールがルキフェルの周りに集まる。
「うわあ……思ってたより綺麗じゃん」
最初に声を上げたのはコリンだ、視界いっぱいに広がる海を見渡して無邪気に笑う。ジャスパーが腕を組んで目を細めた。
「見ろよ、あの街。あれは……スペインか? フランスか?」
ニールが遠くでぼんやりと浮かぶ大陸を見ながら答える。
「方角から考えるに、あれはアフリカ大陸だね。距離的にも妥当だ」
マテオが鼻を鳴らした。興味があるのかないのか分からない、いつもの調子だ。ルキフェルはまだ残っている熱を押し込むように目頭を軽く押さえた。潮風が頬を撫で、彼はゆっくりと手を下ろして息を吐く。あの桟橋の先に立っていた影がまだ瞼の裏に残っていた。ルキフェルが振り返るとコリンが彼の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
ルキフェルは一瞬だけ言葉を探して小さく息を吐いた。
「……別に。ただ、少し驚いた。案外、昔のことを覚えてるんだなって」
「前に言ったでしょ。普段は閉まってるだけで、きっかけさえあれば開くものだよ」
コリンが肩をすくめる。ルキフェルはもう一度だけ海へと視線を向けた。寄せては返す波、遠くに揺れる帆影。風に乗って塩の匂いが届く。この景色の向こうに、もう過去はない。ルキフェルは息を整えて告げる。
「マルセイユに行こう。羅針盤、取り戻さなくては」
ルキフェルは四人の間をすり抜けて歩き出すと、砂を踏む音がまた控えめに鳴る。
「お、やっとその気になったか」
「最初からそう言えばいいのにさ」
ジャスパーが笑い、コリンが肩を竦める。マテオは無言で三人の後を追い、ニールは最後に一度だけ海を振り返ってから歩き出した。その後、五人は港でアーシャ海賊団と合流してマルセイユへ向けて出発する。順風満帆——。
「いや、問題あるだろ」
甲板の上、マテオが潮風を受けながら腕を組む。
「それも一つじゃない、二つだ。まず一つ目、セドリックの住まいが分からん。二つ目、オレたちの顔。……このまま上陸したら普通に捕まるぞ」
ルキフェルが何か言おうと口を開きかけるとマテオは即座に遮る。
「お前、今『なんとかなる』って言おうとしただろ。やめろ、今度こそ通用しないからな」
ぴしゃりと言い切られ、ルキフェルは目を細めて口を閉ざした。ジャスパーが半ば呆れた声を漏らし、隣のニールに視線を向ける。
「ニール」
「ちょっと戦争で頭使いすぎたから何も考えられない」
「いやまだ何も聞いてないけど!?」
ジャスパーが思わず声を上げ、コリンは彼らのやり取りを見て息をついた。
「……大丈夫? この人たち」
潮風が吹き抜ける中で、ニールが口を開く。
「じゃあ、アメリアとフレデリックに……」
「あ、ちょっと無理ー!」
「エル・イエロ島まで長距離想定してるから、補給作業したーい」
ニールが言葉にしかけた瞬間、甲板からアーシャとフェリスの声が飛んできた。ニールが口を閉ざし、完全に出鼻を挫かれた顔を横目にジャスパーが言い放つ。
「じゃあ、変装するか」
ルキフェルが即座に眉を顰めた。
「髪は隠せても、顔は隠せないだろ」
「だったら今だけ崩せよ。前髪下ろしてさ、目元隠せばそれっぽくなるだろ」
ルキフェルはジャスパーに言われた通りに髪を崩し、いつもは整えている前髪を無造作に下ろすと視界が少しだけ狭くなった。彼の横でコリンがぽつりと呟く。
「伸びたよねえ」
ルキフェルは鬱陶しそうに前髪を指で払った。しばらくの沈黙、全員がそれぞれに考え込む中でマテオが呟く。
「……しょうがねえ。結局、あれしかねえか」
「……あれ?」
ルキフェルが視線を上げ、ジャスパーもニールもコリンもほぼ同時にマテオの方を見ると同じ角度で首を傾げた。
マルセイユに到着した。アーシャ海賊団は着くなり補給作業へと散っていく。港は昼間にも関わらず活気に満ち、船員たちの怒号と荷の軋む音が絶えない中、五人は目立たない程度に身なりを崩して簡単な変装を済ませた。
「行くぞ」
マテオが先に動き、五人は人混みの中へ滑り込んだ。港を抜けて通りを横切り、細い路地へ。追う者もいないのに走る足は止まらない。やがて、人気のない裏通りへと入り込んだ瞬間、マテオが投げ縄を屋根に向けて投げた。頭上で引っかかる音がすると間髪入れずにマテオが壁を蹴って駆け上がった。マテオの影が屋根から消えると、続いてルキフェルも跳んで荒い呼吸のまま縄を持って登り出す。
「……っ」
やがてルキフェルの指先が屋根の縁を掴んだ時、彼の視界に影が落ちてマテオの手が差し出された。
「ほら」
ルキフェルは彼の手を掴むとぐっと引き上げられ、体が一気に屋根の上へと持ち上がって瓦の上に転がるように着地する。
「はぁ……っ」
ルキフェルが息を荒くしている間にも下では次の音が続く。ジャスパー、ニール、コリン。三人が順に鉤縄を使って登ってくる。
「ちょ、待て待て待て!」
「うお、落ちる落ちる!」
「いや無理無理無理!」
騒がしい声が上がるたびルキフェルとマテオは彼らに手を伸ばし、次々と引き上げていった。ようやく全員が屋根の上に揃う。
「……はぁ……っ」
「ぜぇ……っ……」
マテオ以外の四人がその場に崩れるように座り込み、荒い息を吐き続けた。対してマテオは呼吸一つ乱さず、腕を組んで四人を見下ろす。
「お前ら……体力落ちた?」
「違うよ!! 何が『街中は無理でも屋根ならいける』だよ!」
ニールが即座に噛みつき、肩で息をしながら睨み上げる。
「死ぬわ!!」
ニールの叫びにジャスパーが横で笑いを堪えきれず吹き出した。
「ははっ……いや、確かにこれは……きついな……!」
コリンは仰向けになったまま空を見上げて呟く。
「……普通に階段でよくない?」
「目立つだろ」
「正論だけどさぁ……!」
マテオが即答するとニールの声が屋根の上に虚しく響いた。マテオは屋根の縁に足をかけて街の様子を軽く見やる。
「まあ安心しろ。あとは屋根から屋根へ飛び移るだけだ。距離も近いし、落ちて死ぬことはないだろ」
「無理無理無理。僕ら、あくまで海賊であって強盗じゃないから」
即座にニールが首を振った。
「似たようなもんだろ」
「違うよ!」
「じゃあ他に案あるのか?」
マテオは肩をすくめ、ニールが表情を消して黙った。風の音が屋根の上を抜け、ルキフェルが立ち上がって踏み出す。
「考えても仕方ない。行くぞ」
ルキフェルが進もうとした瞬間、ジャスパーが彼の肩を掴んで引き止めて呆れたように覗き込む。
「いやいやいや。すぐそれ言うじゃんお前。だから計画性ゼロって言われるんだぞ」
コリンは屋根の縁へと歩み寄って眼下を見下ろす。
「……これ、普通に怖い」
マテオが切り替えるように前方の屋根を指さす。
「ま、いいだろ。引き続きオレが先導する。セドリックがどこにいるか探そうぜ」
そう言うとマテオは躊躇いもなく助走をつけて跳美、次の屋根へ軽々と着地すると四人を振り返りもせずに言う。
「ほら、来いよ」
残された四人は顔を見合わせ、ニールが観念したように息を吐く。
「……はぁ。死なないって言ったからね、今」
「言ったな」
ジャスパーが笑い、ルキフェルは何も言わず一歩前に出た。コリンは最後にもう一度だけ下を見て「やっぱ怖いって」と呟きながら後に続いた。五人は屋根から屋根へと飛び移りながら少しずつ街の奥へと入り込んでいく。一定の距離を進むたびに立ち止まり、屋根の縁から通りを見下ろす。人の流れ出入りする馬車、屋敷の規模と配置。
「……違うな」
「こっちも違う」
やり取りを繰り返しながら、モンレザール家の屋敷を探していた。最初はぎこちなかった足運びも次第に慣れていく。跳んで着地、次へ向かうのを繰り返すうちに恐怖は薄れて妙な高揚感が生まれた時、ニールの視界に影が屋根に落ちて横切った。
「……あれ」
ニールが顔を上げると、自分たちと同じ高さを滑空する一羽のワタリガラスが羽ばたいた。マテオもすぐに察した。
「行くぞ」
次の瞬間、五人は同時に駆け出す。カラスが飛び去った方向へ、屋根から屋根へと速度を上げて跳び移っていく彼らの様子を遠くから見ている者がいた。黒衣の男たちが音もなく影の中に溶け込むように立っている。
「五鬼衆だ、報告するぞ」
黒衣の男たちは一斉に動いて屋根から滑り降り、裏通りへ人目を避けて陰から陰へと移動していく。やがて辿り着いたのは人気のない路地裏の奥、暗がりの中に人影があった。黒衣の一人が膝をつき、頭を垂れる。
「導師、五鬼衆の姿を確認しました」
闇の中から二つの影が浮かび上がり、ドミニクが姿を現した。彼の側にはダミアンが控え、例の古文書を指でなぞるように持っている。二人は古文書の謎を解く手がかりを求めて伝説の情報屋のもとへ向かうため、この街を訪れていた。
「へえ……それは興味深い」
ドミニクが口元を歪めると黒衣の男が続ける。
「妙な連中でしたよ。全員、カラスを追っていた」
「なるほど。 彼に辿り着くつもりか」
ドミニクの目が細くなって視線を上げる。
「予定変更、先にあの連中を観察しようか」
黒衣の男たちは無言で頷き、ダミアンは顔を引きつらせた。
……こんなはずじゃなかったのに。
一方、五人組海賊はカラスを追いかけて屋根を蹴り、距離を詰めていた。やがてカラスは大きく旋回し、とある石造の屋敷のバルコニーへと舞い降りた。バルコニーに人影がある。ルキフェルは目を細めた。遠目でも分かる、見間違えるはずがない。
「——セドリック!」
セドリックがピクリと肩を振るわせ、声のした方へ身を乗り出して下を覗き込むが、屋根の上の人影まではハッキリと見えない。彼は眉を顰めて踵を返し、備え付けの望遠鏡を手に取って覗くと視界が一気に近づいた。
「……え」
見覚えがありすぎる。顔に刻まれた傷、記憶の中よりも遥かに成長した姿。
「……なんで」
セドリックの呟きがこぼれ、すぐに部屋へと引き返すと机の上の紙を引き寄せ、羽ペンを走らせた。書き終えると、彼はすぐにまたバルコニーへ戻り、カラスのハーネスに付けられた小さな筒へ紙を差し込んだ。
「頼む」
セドリックが指先で合図を送るとカラスが羽ばたいた。屋根の上、黒い影が五人組の元へと戻ってくる。カラスは五人のすぐ近くへと舞い降りるとニールが慎重に手を伸ばしてハーネスの筒を開ける。
「……やっぱり」
中から小さく折り畳まれた紙が現れた。ニールが紙を広げるとコリンも覗き込んだ。走り書きの文字だが、内容は明確だ。モンレザール家の屋敷への侵入経路、そして「裏口を開けておく。そこから入れ」という簡潔な一文。
「……早いね」
「相変わらずだな」
コリンが思わず呟き、ジャスパーが笑う。ルキフェルは視線を屋敷の方へ向けると表情を緩めた。
「行くぞ」
五人は同時に動き出した。次の屋根へ、その先へ。目指すのはモンレザール家の屋敷。
モンレザール家の屋敷。五人は夜気に沈む庭を慎重に進んでいた。時折、庭師が巡回で近くを通るたびに心臓が跳ね上がり、茂みの陰に身を潜めて息を殺しし、庭師の視線が離れたのを確認してから再び動き、やがて五人は件の裏口へと辿り着く。ルキフェルが扉に手をかけて軋む音を立てぬよう押し開くと、セドリックが灯りを背に立っていた。ルキフェルの口から掠れた声が漏れる。
「……セドリック」
ルキフェルは堪えきれず、セドリックの背に腕を回した。
「……っ」
セドリックは一瞬目を見開くもルキフェルを抱き返す。
「……デカくなったな」
しばしの静寂、やがてセドリックは視線をずらしてジャスパーに目を向けた。
「……お前も無駄にデカくなった」
「えへへ」
ジャスパーが頬を掻いきながら笑い、マテオとニールとコリンは目を見開いた。思っていたよりも整った顔立ち、洗練された佇まい、情報屋という響きから想像していた人物像とはあまりにもかけ離れていた。ニールはセドリックと視線がぶつかると目を細めた。
「この顔の人が手紙にダジャレをかましていたなんて」
「高度な言語遊びと言え」
その後、セドリックは五人を自室へと招き入れた。簡素だが温かい食事が並べられる。パンとスープ、それに少しの肉。
「……うま」
ジャスパーがぽつりと漏らし、食器の触れ合う音が部屋に響く。やがて夕食を終えるとセドリックが五人組を見渡しながら口を開く。
「……さて」
セドリックは執務机へ歩み寄って引き出しを開け、銀色の羅針盤を取り出した。
「ほら、ニールが必死に守ったものだ」
セドリックは羅針盤をルキフェルへ差し出すと、ルキフェルは丁重に受け取って視線を落とした。刻まれた紋章——鳥の頭と交差する双剣。ルキフェルは淡い光を反射する羅針盤を手の中で軽く転がす。
「……ありがとう」
セドリックが肩をすくめると、ルキフェルの背後に目を向けて指先でニールを差した。ルキフェルが振り返るとニールと目が合って口元を歪めた。
「お前にも感謝だな。これでカラスに謝ったらチャラにしてやる」
「いや全然チャラじゃないけど」
ニールがルキフェルをじっと見つめ、ジャスパーが吹き出す。コリンもくすっと笑い、マテオは肩を揺らしている。セドリックは彼らの様子を眺めながら息を吐いた。ルキフェルは視線を横に滑らせ、今度はマテオを見た。
「マテオも。フェルナンドから取り返してくれて、ありがとう」
マテオは一瞬だけ言葉を失うも目を逸らして鼻を鳴らす。
「……別に」
その時、セドリックは声を落とした。
「……フェルナンドか。君たち、あの知らせは聞いたか?」
「……?」
五人組が顔を見合わせて首を傾げると、セドリックは机の上の紙束から一枚を取り上げ、放るように投げた。ひらりと宙を舞い、ルキフェルが受け取って紙面に視線を落とし、ジャスパーとニールとコリンがひょいと覗き込んだ瞬間、四人の呼吸が止まる。
十二月十九日。
大海賊エドガー・ロジャースの右腕として知られる、銀の猫フェルナンド。
トゥーロンにて処刑。
ほんの一週間前の日付を見て、ルキフェルが掠れた声を漏らす。
「そんな……戦争が終わって、すぐじゃないか……」
セドリックは目を伏せて吐き捨てるように言う。
「……この国では、海賊は悪だ。悪は裁かれる。……ほんと、馬鹿馬鹿しい」
四人があの男の生き様を思い返している間、マテオは視線を落として奥歯を噛みしめる。——字が読めないことが、妙に腹立たしかった。コリンが顔を伏せて呟く。
「ねえ……ぼくたちも捕まったら、殺されるんだよね」
ジャスパーは視線を逸らし、ニールは唇を噛んだ。セドリックは机の上に広げられた紙に目を落としている。五人の指名手配書、一人一人の顔の下に書かれた罪状。ルキフェルは新聞を机の上に置くと、手の中の羅針盤へと再び視線を落とす。
「……捕まるわけにいかない。ここまで来て、真実が見えてきたんだ。こんなクソみたいな国に捕まってたまるかよ」
ルキフェルは羅針盤の蓋に指をかけて開くと、内部に埋め込まれた石が淡く光を受ける。かつてフランソワが嵌めた石。エル・イエロ島、フランソワが遠ざけようとした場所。ルキフェルの瞳が揺れた時、セドリックが羅針盤の蓋に刻まれた紋章をじっと見つめた。
「ゼフィランサス海賊団の印だな」
「……?」
ニールが顔を上げ、セドリックは少しだけ口元を緩めた。
「そうだな……君たちに豆知識でも披露しよう」
セドリックは机の端に軽く腰を預け、努めて明るく振る舞う。
「君たちが来るまで、少し調べ物をしていてね。その蓋、ゼフィランサス海賊団の海賊旗と同じ刻印だ。ほら、資料も揃えてある」
セドリックが机の上の書類を一枚引き抜いて差し出し、ルキフェルたちは吸い寄せられるように近づいて覗き込んだ。流麗な筆致で書かれた文字列と一つのスケッチ、海賊旗だ。ルキフェルは羅針盤の蓋と何度か見比べているとセドリックは語り出した。
「海賊旗っていうのはドクロが一般的だろう? 砂時計や剣なんかもよく使われる」
「あー、言われてみればそうかも」
ジャスパーが腕を組んで頷く横で、ルキフェルが舌打ちした。
「……お前、海賊何年目だよ。シンボル一つ一つに意味があるって古くから言われてるだろ」
「えー。だっておれ、フランソワ海賊団の旗しか知らないし。あとエドガー海賊団の三本の剣とか。他所は知らん」
ジャスパーが指を折りながら数えるように言い、ルキフェルは何か言いかけて口を閉ざした時、ニールがスケッチに顔を近づけながら細部をじっと観察する。
「これ、鳥頭だよね」
「……うん。でも、ちょっと怖いかも」
コリンが顔を曇らせながら言いながら視線をずらすと、カラスが机の端の止まり木に留まっていた。
「……似てる気がする」
「違いなんて分からん」
マテオがぶっきらぼうに言い切ると、セドリックはスケッチに描かれた鳥の頭を指先でなぞった。
「こいつはただの鳥じゃない。……ガルーダって知ってるか?」
「ガルーダ?」
ルキフェルが聞き返してセドリックが頷く。
「東の方に伝わる、神の鳥だ。神の乗り物とされていて、人間と鷲が融合したような姿で描かれる。ナーガ族っていう存在と敵対関係にあるらしい」
「……ナーガ?」
聞き慣れない音に皆が首を傾げ、セドリックは指を一本立てて語る。
「蛇神だ。竜の類とされることもある。……まあ、どっちも“神の側”の存在だけどな。面白いのは互いに“悪”と呼び合ってるところ」
コリンが息を呑むとニールは考え込むように顎に手を当てた。
「でも……なんで海賊旗にそんな神様を採用したんだろう」
セドリックは資料を机に置きながら言う。
「ゼフィランサスは生前、義賊的な活動をしていたらしい」
「……義賊」
ルキフェルがぽつりと呟くとマテオが腕を組んだまま口を開く。
「じゃあ、自分たちは善いことをしてるとでも言いたいのか」
セドリックは肩をすくめる。
「さあな。真意は分からんけど、俺の親父情報によると狙いは当然、貨物だ。そこは他の海賊と変わらない、けど盗んだ物は故郷の民のためだったとか」
「親父さん、なんで分かるんだよ」
「秘密だ。死んだ親父が呪ってくるから詳しくは言えない」
ジャスパーが眉を上げ、セドリックは軽く笑った。冗談めかした口調の裏で記憶がよぎる。
「……またかよ、あの人……!」
海賊狩りで名を馳せたルソー准将の命令で、父は幾度となく情報を集めては机に向かい、羽ペンを走らせながら愚痴を零していた。セドリックは一瞬だけ目を伏せるとコリンが声を上げる
「故郷……多民族集団のことだ!」
「……故郷のため、か。島の人間にとっては、そりゃ英雄だろうな」
ルキフェルの脳裏にマクシムの顔が浮かぶ。軍人でありながら復讐者でもある男。あのとき見た、揺るがない眼。ニールがセドリックをじっと見つめる。
「その親父さんって故郷の場所は突き止めたの?」
セドリックは首を横に振る。
「地図に載ってるぞ。カナリア諸島周辺にあるエル・イエロ島は古代から『世界の西の果て』と言われていたくらい重要な島だったんだ。別名、子午線の島」
「え。地図に載ってるなら、なんで誰も近寄らないの? 攻撃されそう」
コリンが首を傾げるとセドリックは苦笑した。
「ゼフィランサスは八つの船団を抱えていて、それぞれが独自にヨーロッパの海を荒らしていた。一箇所に留まるような連中じゃないが、そんな奴らの拠点を襲おうなんてとんでもない」
「うーん、改めて言葉にされると伝説って感じ」
ジャスパーが腕を組んで苦笑し、コリンが彼を見上げる。
「でも、当人たちは良いことしてるつもりだった」
「それは——」
マテオが口を開きかけるが、ルキフェルが割って入る。
「いや、わざわざ海賊旗に“神”を採用するくらいだ。ゼフィランサスなりの理念はあったはず。国に追われた者たちが身を寄せ合って、そいつらが海を荒らし回った。……私怨もあったんじゃないか」
セドリックが彼の言葉に目を見開くとすぐ頷く。
「……たしかに。現にガルーダは“悪を喰らう鳥”とされている。国家に向けたメッセージと捉えることもできるな」
マテオが天を仰いで吐き捨てるように言う。
「……ここでも復讐かよ」
ルキフェルは目を伏せてから首を横に振る。
「いいや。……報復だ」
五人それぞれの脳裏にある光景がよぎる。フランソワ海賊団が私掠免状を剥奪され、行き場を失った果てにフランスの海を荒らし回った日々。その言葉の意味を、知っているから。ルキフェルは手の中の羅針盤を見つめた。フランソワが自分から取り上げたもの。進むべき方向を封じるために。
——このままでは、先へは進めない。フランソワの意志ごと退かさなければ、自分が誰なのか辿り着けない。
ルキフェルは指先に力を込めて石をつまむも、石はびくともしなかった。
「……っ」
ルキフェルは歯を食いしばって少しずつ力をかけ、ギチギチと軋む音が鳴らした。固く嵌め込まれている、簡単には進ませないと言うかのように。ルキフェルはもう一度力を込めると爪が白くなって石が外れた。
「……取れた」
その瞬間、羅針盤の針が息を吹き返したように跳ね、ぐるぐると狂ったように回転して緩やかに止まった。向いている先は北ではない。別の方向、真実が隠された場所。ルキフェルは顔を上げてセドリックを見つめた。
「セドリック。フランソワがゼフィランサス海賊団の一員だったこと知ってたか?」
「……知らなかった。あいつが……」
セドリックの額が青くなるもルキフェルは続ける。
「エドガーもだ。二人とも多民族集団に拾われた孤児。これが指してるのは二人の故郷、エル・イエロ島だ」
セドリックの目が揺れ、ルキフェルは声を落として言い切る。
「俺たちは島へ向かう。会いたい人がいるんだ」
「それって……?」
セドリックが何度か瞬きをし、ルキフェルは一瞬だけ視線を逸らすもすぐに戻す。
「悪い、今まで話してなくて。……記憶喪失なんだ。今さらだけど、自分が誰だったのか知りたくて旅してる」
セドリックはしばらくルキフェルを見つめ、やがて口元と目尻を緩ませた。
「……そうかよ。じゃあ、気をつけて行け」
「ああ、世話になったな。そろそろ——」
ルキフェルが言いかけた突如、ガアガアッと騒がしい鳴き声が室内に響いた。
「……?」
全員の視線が一斉に向くと止まり木のカラスたちが落ち着きを失ったように羽をばたつかせている。セドリックの表情が一変して先ほどまでの穏やかさを消すと、鋭い目つきでバルコニーを振り返った。その時、コツンと硬いものが触れる小さな音がし、暗がりの奥に人影——ダミアンが現れた。コリンが裏返った声で張る。
「……あ、あいつ……! ピエールだ!!」
その名が響いた瞬間、ダミアンは一切の躊躇なく踵を返した。彼はバルコニーの手すりへ駆け寄り、一瞬だけ振り返ると手すりを乗り越えて柱を掴み、するりと身体を滑らせて庭の草地に足をつけると駆けていった。
「待て!」
ルキフェルが叫んで即座にバルコニーへ踏み出そうとするが、マテオが彼よりも速く絨毯を蹴ってバルコニーから飛び降りる。
「オレが行く! ここにいろ!」
「おい、早まるな! マテオ!!」
ルキフェルが手すりに身を乗り出して声を張り上げるも、マテオは庭の闇へと駆けていった。ルキフェルも舌打ちして手すりを乗り越えると自分も闇に投じた。
「だあああああああ、しょうがねえな!」
ジャスパーが頭を掻きむしりながら飛び出す。
「え、ちょ……どうするの!?」
「追うべき……だよね……!?」
コリンとニールが動揺していた時、ピィ――ッと鋭い指笛が夜気を裂いた。セドリックが合図を出した瞬間、バルコニーの縁から数羽のワタリガラスが一斉に飛び立ち、夜空を切り裂いていった。
「あいつらなら夜目が利く。ついていけ」
「……っ」
ニールとコリンは逡巡するも意を決してバルコニーに向かい、夜の闇へと身を投げた。
夜のマルセイユ。瓦屋根の上を影が走る。ダミアンは屋根から屋根へ飛び移り、同じように後を追うマテオが舌打ちする。
「……ちっ、速えな」
「待て!」
ルキフェルがマテオの背に向かって叫ぶも距離が離されていく時、バサッと上空を黒い影が横切ってルキフェルは思わず足を止めた。
「……上だ! あの子たちが追ってる!」
ルキフェルが振り返ると、遠くからニールが上空を指で差しながら声を枯らしている。ルキフェルが見上げると数羽のワタリガラスが一直線に前方へ飛んでいく。
「なら、ついていくのみ!」
ルキフェルが即断して進路を変えて屋根を蹴った。一方、マテオがダミアンとの距離を一気に縮めた時、シュッっと空気を裂く音が近くで鳴る。
「っ!」
マテオが反射的に身体をひねると、ナイフの刃が彼の頬をかすめた。別の影、黒衣の男が進路を塞いでいる。
「……誰だ」
マテオが低く問うも黒衣の男はもう一撃を繰り出してきた。
「チッ……!」
マテオが対峙している間にダミアンとの距離がさらに開く。
「おい、そいつ後回しだ!」
ルキフェルがマテオに追いつくと、今度は別方向から二つの黒衣が飛び出した。
「は!? なんだよこいつら!」
ジャスパーがルキフェルに追いついて声を上げる。
「……厄介だなあ」
ニールが眉を顰めて夜に紛れる黒衣に目を凝らした。コリンが飛び移るも屋根の端に足が着いた途端、滑ってバランスを崩す。
「うわっ!?」
「コリン!」
ニールがコリンの腕を間一髪で掴むと、黒衣の男が彼の背に目をつけて刃を振りかぶってきた。
「っ!」
ニールが振り返って目を瞑り、ルキフェルが黒衣の男の前に躍り出て半歩だけ身体をずらすと刃が空を切った。
「……遅い」
次の瞬間、ルキフェルは相手の手首にそっと触れて流すと黒衣の男の体勢が崩れる。
「な——」
言葉が終わる前にルキフェルは一歩踏み込み、肩と肘と腰と最小限の動きで力の流れを変え、地面へ叩きつけるでもなく自然に落とすと黒衣の男が音もなく沈んだ。ルキフェルの背後に迫ったもう一人が腕を振り下ろす。ルキフェルが男の腕に沿わせるように力を逃がして軌道を変えると、相手の勢いを利用して足を払う。男の身体から重心が消えて身体が浮くと落ちた。
「……なんだ、今の。触ってるだけじゃねえか」
ジャスパーが目を見開く横で、ニールがコリンの腕を引き上げながら言う。
「……違うよ。力を使ってない。相手の力を、そのまま返してるんだ……」
最後の一人がまっしぐらに来るとルキフェルは相手を流して崩し、相手が落ちるとルキフェルが三人を振り返って言う。
「……行くぞ。足止めに付き合ってる暇はない」
その頃、前方。ダミアンは一瞬だけ振り返て進路を変え、屋根から飛び降りて荷台の上の積荷を緩衝材に急ぎ狭い路地へと駆けていく。
「……! 逃がすか!」
マテオが屋根から一気に落下し、積荷から石畳へ緩やかに着地すると直ちに駆けていった。左右は壁、逃げ場は前だけ。ダミアンが前方に路地の出口を見つけると、ルキフェルの影が降り立った。
「終わりだ」
ダミアンが思わず急停止し、彼の背後ではマテオが速度を落として塞ぐ。上空ではカラスたちが舞い、完全な袋小路にダミアンは息を吐いた。
「……参ったな」
ダミアンが地を蹴って飛びかかり、ルキフェルが衝撃ごと受け止める。
「っ!」
二人がしばし押し合い、マテオがダミアンの腕を取り、路地に降り立ったジャスパーがすぐさまダミアンの足を払い、ニールも彼に続いてダミアンの動きを封じる。
「……捕まえた」
ルキフェルが息を切らして呟く中で、コリンは屋根の上からカラスたちと隣り合って眼下に広がる暗がりを見下ろしていた。




