第二章② ルキフェル
この日を境にルキフェルの日常は徐々に海の色へと移り変わっていった。
朝、日が昇ればルキフェルは小屋を出るが向かうのは港ではない。仕事を避けるように海辺へ、波と風と砂だけの場所で時間を潰し、夕方になれば小屋へ戻ってリュウと剣術稽古だ。何度挑んでも叩き伏せられる。勝てるはずがないことくらい最初から分かっている。それでも木剣を力任せに、苛立ちをぶつけるように振るう。ほとんど憂さ晴らしだった。
「気が乱れている」
リュウがいつも通りの言葉を投げるも、ルキフェルはまた木剣を構えてまた負ける行程を繰り返す。夜になれば、三人で夕食を囲む。会話は少ない、ルキフェルは黙って食べて先に席を立ち、そのまま寝室で一人眠る。同じ一日、同じ繰り返し、少しずつ何かが外れていくような感覚があった。
ある日、フランソワが街に赴いて鍛冶屋の手伝いに入っていた。フランソワはすっかり町の何でも屋だ。鉄を打つ音が一定のリズムで響き、火花が散って熱気が肌にまとわりつく。
「なあ。お前んとこのガキ、最近来てねえな」
フランソワの隣で鉄を打っていた男が声を発し、フランソワは思わず手を止めて首を傾げた。
「え? いや、でも……あいつ、毎日外に出てるけど」
「うちだけじゃねえぞ」
男は鼻で笑って槌を振るいながら続ける。
「漁師のとこも最近来ねえって文句言ってた。なんだかんだで助かってんだけどなあ、あいつがいて」
鉄を叩く音がひとつ強く響き、フランソワの眉がわずかに寄る。
「……そうか。ちょっと、本人と話すよ」
男は「おう」と軽く返した。手伝いを終えたあと、フランソワは町で買い物をしていた。彼が袋を片手に歩いていると八百屋の女将が声をかけてくる。
「あら、フランソワじゃない」
「どうも」
フランソワが会釈すると女将は腕を組んで少しだけ顔を曇らせた。
「ちょっといい?」
「ん?」
「あんたのとこの子」
「ルキフェルがどうかした?」
フランソワが声を落とすと女将は一度息を吐いて言葉を選ぶように言う。
「ずいぶん前だけどね。うちの息子があの子と喧嘩して帰ってきたのよ。怪我してた。それだけなら、まだいいんだけど……ちょっと怖かったの」
「……何が?」
「ルキフェル本人は平然としてたの。何もなかったみたいに立っていたらしい」
女将は腕をさすりながら首を横に振った。
「ちょっと、普通じゃないって言ってた」
「……知らなかった。教えてくれてありがとう」
フランソワが頭を下げると女将は少しだけ安心したように頷いた。
「別に責めたいわけじゃないのよ。ただ……気をつけてあげて」
「ああ。本人に聞いてみるよ」
フランソワは踵を返した。帰り道、足取りは変わらず普段と同じだが、彼の内側は静かに煮え立っていた。何も言わず何も崩さず、ただ積み上がっていく。
「……あの馬鹿」
フランソは顔を顰めて囁き、声音に熱を帯びさせた。
夜、ルキフェルが寝室から出ると思わず足を止めた。フランソワとリュウがすでに卓についていた。食事の準備はされているが、誰も手をつけずこちらを見ている。フランソワの鋭い視線を受け、ルキフェルはぶっきらぼうに問う。
「……なに?」
「少し話がある」
フランソワが低い声で言い、続けてリュウが努めて穏やかに言う。
「座りなさい」
ルキフェルは小さく舌打ちをすると椅子を引いて乱暴に腰を下ろした。
「……で?」
ルキフェルが腕を組んで視線を逸らすと、フランソワは一瞬だけ息を整えてから言う。
「町の人から聞いたぞ。仕事、サボってるってな」
「……だから何?」
ルキフェルの声に棘が混じるとフランソワの視線が鋭くなる。
「喧嘩もしたらしいな。相手に怪我を負わせたって聞いた」
「返り討ちにしただけ」
ルキフェルが低く吐き捨てるフランソワは体のどこかが焼けるような苛立たしさを覚えた。
「人を傷つけたんだぞ。リュウは喧嘩のために、お前に稽古をつけてるんじゃない」
リュウは半着の袖に腕を隠したままルキフェルをじっと見ている。逃げ場を塞ぐようにフランソワは声を発する。
「このままなら稽古をやめることも考える」
フランソワの言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついてルキフェルの声が低く漏れる。
「……は?」
理解が追いつかない、いや理解したくない。ルキフェルは呼吸を荒くして机に手をつくと前のめりになった。
「なんで、なんでそうなるんだよ。俺がやられたから、やり返しただけだろ? 何が悪かったんだよ」
フランソワとルキフェルの目線がぶつかり、フランソワが重々しく口を開く。
「あくまでも自分が正しいとでも思っているのか」
ルキフェルの頭の中で何かが弾け、彼は卓を叩いて立ち上がると喉の奥から衝動を絞り出す。
「じゃあなんだよ、黙ってやられろって言うのかよ!」
フランソワの目が見開き、ルキフェルの怒声の余韻を断ち切るようにリュウが宥めるように言った。
「ルキフェル。怒っているだけでは何も分からない。何があったか、話しなさい」
ルキフェルは歯を食いしばって視線を逸らすと吐き捨てるように言う。
「……無駄だ、どうせ理解できないだろ」
「決めるのはお前じゃない。碌に話しもせずに分かった気になるな」
フランソワが強く言い切って見据え、ルキフェルはキッと睨み返した。空気が再び軋む中、リュウが二人の間に割って入るように言う。
「お互いに落ち着け」
リュウの冷たいほどに均一な言葉に、フランソワは息を吐いて視線を落とし、ルキフェルは拳を握って喉の奥から絞り出すように言う。
「……あいつらが、俺を……悪魔って言った」
フランソワの目が見開かれ、リュウの視線もわずかに揺れた。ルキフェルは淡々と続けるが、言葉の裏で何かが滲んでいく。
「この顔も名前も普通じゃないって、他のやつと違うって言われた」
ルキフェルの指先が言葉をなぞるように頬の傷に触れ、なぞるたびに感情が沈んでいくとフランソワを睨んだ。
「母親がいないから、捨て子なんじゃないかって」
小屋の中が静まり返り、フランソワの喉が痙攣し、リュウは目を伏せて顔を曇らせた。ルキフェルは声に再び熱を戻して机の上に置いた手に力を入れる。
「……だから殴った。あいつら、殴られて当然だ」
リュウが瞼をゆっくりと上げ、感情を挟まない声音で言う。
「……だから、やり返したということか」
ルキフェルが俯いていると間を置かずにフランソワが彼を見据えながら言う。
「だからといって、暴力が正当化されるわけじゃない。……どうせ、謝ってないんだろう。明日、皆に頭下げてこい」
「謝る必要なんてないだろ。俺は悪くない」
ルキフェルが言い切った。フランソワの表情がわずかに歪んで何か言おうと口を開きかけるが、ルキフェルが先に口を挟む。
「てかさ、なんで俺には母親いないの?」
フランソワとリュウが言葉を失っているとルキフェルは構わず続けた。
「みんな、ちゃんと親いるのにさ。俺だけ違うのは嫌だ」
ルキフェルの言葉は怒りというより、どこか幼い。押し殺していたものが滲み出ている。
「……こんな生活、もう嫌だよ」
ルキフェルがぽつりと落とした一言で、フランソワの頭の中で温度が瞬時に上昇して立ち上がった。
「踏み躙るな!! お前のために、俺とリュウがここまで来るのに……どれだけ苦労したと思ってる!!」
ルキフェルの目が見開かれるが、引かずに叫び返す。
「こっちが頼んだわけじゃないだろ、俺のこと連れ回したのはそっちだ!!」
フランソワが眉間に電光を走らせていると、ルキフェルは翡翠の瞳を水っぽく濡らして声を荒げる。
「血の繋がりもないくせに……父親ヅラすんな!!」
その瞬間、フランソワの中で何かが切れてぶつけるように言い放つ。
「ああ、そうかよ。じゃあ一人で生きてろ。お前の世話やんなくて済むから」
フランソワの言葉が落ちた瞬間、世界が止まってルキフェルは息を呑んだ。ナイフで胸を貫かれたような苦しさにルキフェルから表情が徐々に消えると、リュウの視線が剣筋のように鋭さを増した。フランソワ自身も言った直後に気づいて掠れた声で取り繕うとする。
「……違う。今のは、違う……」
ルキフェルは椅子を蹴り飛ばすと扉に向かってまっしぐらに向かう。
「ルキフェル!」
フランソワが声を荒げ、リュウが急ぎ立ち上がるもルキフェルは扉を乱暴に開け放って夜の闇へ飛び出した。凍てつくような空気、暗い砂利道、足音が夜に響く。ルキフェルはどこへ向かうかも分からないまま、その場から離れるために駆けて行った。
「待て——」
フランソワは反射的に扉へ向かおうとするが、彼の腕をヨシマサがガシリと掴んだ。
「……離せ」
フランソワは振り払おうとするがビクともせず、リュウは淡々と告げる。
「今は行くな。追えば余計に拗れる」
「じゃあ放っておけって言うのか」
「違う、私が行く」
フランソワの視線が揺れ、リュウはフランソワの手を離した。
「戻ってくるかは分からないが」
リュウはそれだけ言い残して小屋を出ていき、フランソワは荒い息を吐いて顔を両手で覆った。
ルキフェルの足は自然とあの場所へ向かっていた。海辺、波の音と寄せては返す一定のリズム。やがて、ルキフェルの足が止まると砂の上に崩れるように座り込んだ。呼吸が荒い、胸が痛いが、波の音が少しずつ均していく。ルキフェルは顔を膝に埋めた。何も考えたくない、何も思い出したくない、この音に沈んでいたい。……どれくらいそうしていたのか、彼の背後から均一に踏まれる砂の音とリュウの穏やかな声がした。
「落ち着いたな。やはり、ここにいた」
「……知ってたの?」
ルキフェルは顔を上げずに問うと、リュウは少しだけ視線を海へ向けて砂を踏み締める。
「遠目からな。ここは私も好きな場所だ。たまに立ち寄る」
波音が二人の間を満たし、やがてリュウが緩やかに微笑んで口を開く。
「君のことはいつも見ている。……見ているというより、目で追ってしまうという方が正しいな」
風が吹いてルキフェルの肩がわずかに揺れる。波が砕ける音の中で彼は顔を伏せたまま呟く。
「ヨシマサってさ、なんで必要な時にちゃんと現れるの」
リュウは波を見つめたまま息を吸う。
「……気を読んでいるだけだ。読むだけで、口にしていなくても心が叫びたがっていることも分かる」
「……どうやって?」
ルキフェルの肩がほんの少し揺れ、リュウは目を細めて波音に重ねるように淡々と語る。
「稽古の積み重ねだ。経験がすべて。日頃の鍛錬が感覚を研ぎ澄ましてくれる。相手の呼吸、間、視線。わずかな変化を積み重ねていけば、やがて見えてくる」
そこで不意に言葉が途切れ、リュウは口を噤むと深い息を吐いた。
「……だが、今回に限っては摩擦を恐れ、無意識に衝突を避けていた。……気づいてやれなくて、すまない」
リュウの言葉が落ちた瞬間、風が止まったように感じた。ルキフェルは初めて顔を上げ、ゆっくりとリュウを見上げる。
「……違う、俺が悪いんだ」
リュウがルキフェルを見下ろすと、ルキフェルは指先で砂を弄り始めた。
「自分が普通じゃないって……最初から分かってたはずなのに、言葉にされると悔しくて……カッとなった。でも、無理だ。今さら遅い。俺、他の人と同じように過ごせないよ」
ルキフェルが俯くとリュウは穏やかに応える。
「無理に合わせる必要はない。自分に合った道を探せばいい。自分の道は、自分で見つけるべきだ」
「……悪魔でも?」
ルキフェルは少しだけ顔を上げるとリュウは口元を緩めた。
「——君は人間だよ。……私からすれば、悪魔より人間の方が厄介だと思うな」
「……なんで?」
ルキフェルが首を傾げるとリュウは指を一本立てて語る。
「東にはこんな考えがある。人は善にも悪にもなれる。闇の中に光があり、光の中にも闇がある。——太極という考え方だ」
ルキフェルは目を輝かせて立ち上がった。
「あ、太極拳の太極?」
「そうだ。見てみろ、夜の海に浮かぶ船に灯が灯っているだろう」
ルキフェルも視線を向けると暗闇の中に小さな光が点々と浮かんでいた。波の向こう、遠くにいくつかの船の灯が揺れている。
「あんな感じだ。この世界の仕組みは」
リュウが穏やかに結ぶと、ルキフェルは夜の光景を見つめながら呟く。
「……それ、ちょっと分かりやすいな。いつもそうやって教えてくれたらいいのに」
リュウはわずかに笑うと、ほんの少し考えてから口を開く。
「君は今回人を殴ってしまったが……本来は奪うためのものではない。調和のために振るうものだ」
「でも……もう奪っちゃったよ。なんか、ダメだな俺。守りたいもののために強くなったのに……壊しちゃう」
ルキフェルが苦笑とも言えない表情で溢すとリュウは彼の言葉を受け止めるように落ち着いた声で言う。
「君は昔から精神面で揺らぎやすいところがある。制御するのに一筋縄じゃいかないらしい」
「……どうすればいいんだろ」
ルキフェルがため息を吐くと、リュウは顎に手を当てて言う。
「それなら、また太極拳でもやるか? 剣を振ってばかりでは、見えにくいものもある」
ルキフェルが顔を上げるも、少しだけ肩の力を抜いてぼやく。
「……結局、基礎かぁ。でも、俺やるよ」
リュウが頷くと、二人は海を背にして小屋へ向かって歩き出した。小屋の扉を開けると中にはフランソワが椅子に座ったままじっと待っていた。ルキフェルとフランソワの視線が合うと、フランソワが先に口を開く。
「……悪かった。さっきのは言い過ぎた」
ルキフェルは少し驚いたように目を瞬かせる。
「……俺も。あと殴ったの、悪かった」
フランソワは一度だけ頷くと少しだけ目を逸らした。
「明日、俺が皆に謝ってくる。……お前はどう過ごすか任せるよ、俺のことは気にするな」
ルキフェルは言葉に詰まって結局何も言えずに頷き、リュウは半着の懐に手を入れて二人を見つめていた。
それから、ルキフェルの生活は少しずつ形を変えていった。人との関係から距離を置き、代わりに寄り添うようになったのは海や風、草原といった自然だ。町の人間と無理に関わらなくなった分、空いた時間はすべて鍛錬に費やされる。
リュウの指導は相変わらず厳しいが、あの日を境にルキフェルの中で何かが変わっていた。以前のような焦りはない、感情に振り回されることも減った。太極拳を通して心と身体の動きが一致していく感覚を、彼は少しずつ掴み始めていた。剣術に移っても同じ、闇雲に振るうことはなくなり型と軸を意識するようになる。流れを読み、力を乗せ、必要な分だけ振るうだけで動きは見違えるほど鋭くなった。ルキフェルの変化にフランソワも機敏になっていた。
「おい。それ、ちょっと貸してみろ」
気づけばフランソワもまた稽古に加わるようになった。三人で剣を交え、語り合う。西洋の剣術と東洋の武術、異なる理が交差する中でルキフェルはふと思う。
——いいとこ取りすればいいんじゃないか。
型は大事だが、型があるからこそ外れることにも意味がある。ルキフェルは武術そのものへと傾倒していった。ただ強くなるためではなく理解するために、自分を制御するために。それでも、張り詰めすぎた時は海へ向かった。波に触れて風を受けだけで、どこか均されていく気がした。調和していると感じられる場所だ。
やがて、ルキフェルの視線は自然と遠くへ向くようになる。海の向こう、海の上。この島ではない、どこか。興味というより、逃げ道でも答えでもない。行ける場所があるのではないかという感覚。そんな日々の中で、フランソワはルキフェルが頻繁に海を見ていることにようやく気づいた。町に馴染まない、人と関わらない。武術に没頭し、そして海を見つめる。
——この島は、こいつの居場所じゃないのかもしれない。
フランソワの胸の奥に、ひとつの記憶が蘇る。エル・イエロ島、行き場のなかった自分を拾い上げた多民族の集団。その中心にいた男、ゼフィランサス。ルキフェルの秘密を知り、それを自分たちに明かした男。あいつのせいでルキフェルの人生は狂ったと思っていた。だから、思い出さないようにしていたが、ルキフェルが海を眺めるたびにゼフィランサスの背中がどうしても重なる。風のように現れ、風のように去っていった男。そして、自分を海の上へ連れ出した師匠。気づけばフランソワの思考もまた海へと引き寄せられていた。蘇る、あの感覚が、あの衝動が。
ある日、フランソワが荷物をまとめているのを見て、リュウが顔を顰めて問いかける。
「……どこへ行く」
「少し遠出してくる」
フランソワは肩に荷を担ぐとリュウを振り返ってニコリと笑った。
「心配すんな、必ず帰る」
それだけ言って、フランソワは行き先も告げずに小屋を出ていった。フランソワがいなくなったあとも、ルキフェルの生活は変わらない。いやより一層、研ぎ澄まされていった。リュウと共にひたすら技術を積み重ねる日々が続いていく。それから、しばらくしてフランソワがメノルカへ帰ってきた。以前よりやつれているが、彼の目は迷いを捨てた者のそれだった。小屋の扉が開き、室内にいたルキフェルが振り向く。
「戻ったんだね」
フランソワは軽く頷くとすぐに口を開いた。
「ルキフェル。リュウと少し話がある。海でも行ってろ」
「……なんだよ、それ」
ルキフェルは不満げに眉を寄せて小さく舌打ちすると外套を羽織った。
「……分かったよ」
ルキフェルがぶつぶつ呟きながら小屋を出ていった。扉が閉まると室内がしんと静まり返り、リュウが厳かに口を開く。
「それで、話とは」
フランソワは答えない代わりに荷物を床に置いて中を探ると、一枚の書類を取り出してテーブルの上に置いた。紙の擦れる音だけが響き、リュウの視線が落ちると顔が険しくなった。
——私掠免状。フランス海軍、トゥーロン司令部。
その名が刻まれた正式な文書を前に、フランソワは低く告げる。
「決めた。俺は島を出る。また海に出たくなった。……一緒に来てほしい」
リュウは書類を見つめ、しばらくの沈黙のあと首を横に振った。
「……悪いな、フランソワ。私は歳だ。もう剣を振るうことはない」
「そんな……どうして」
フランソワの声が揺れ、リュウは淡々と答える。
「引退だ。このまま穏やかに過ごしたい」
フランソワが言葉を失うと、やがて絞り出すように言う。
「……考え直す気は?」
「ない。もう決めたことだ」
フランソワは息を吐くとリュウは断固として続ける。
「お前は自分の道を行けばいい。だが、ルキフェルはどうする」
リュウの問いにフランソワは目を伏せて机上の書類に触れる。
「……三人で行こうと思ってた。ルキフェルの居場所は、この島じゃない。俺は、あいつに居場所を作ってやりたい。そのために、海軍に頭を下げて発行してもらったんだ。これがあれば、海の上で生きていける。当然、君も来てくれると思ってた。……どうしても、行かないのか」
リュウは毅然とした態度で言う。
「危険だ。これ以上あの子を連れ回せば、今度こそ平穏は訪れない」
フランソワが顔を上げて声を荒げる。
「けど、君だって分かってるはずだ! あいつが何を望んでるか!」
「ああ、もちろん」
「じゃあ、なんで……」
フランソワの言葉の途中でリュウは窓の外へ目を向けた。遠く風に揺れる草原、そして、その先の海を想像して彼は囁くように言う。
「……フランソワ。私は、そろそろ故郷が恋しい。長いこと西の地を彷徨っていたが、この歳になって帰りたくなった。……疲れたのかもしれんな」
フランソワの目が見開かれ、リュウは微笑を浮かべてフランソワに向き直る。
「私の居場所は海の上ではない。……陸にある。それも、ずっと東の方だ」
フランソワは声を押し殺していたが、やがて深く息を吐く。
「……俺たちの友情も、そろそろ終わりなのか」
リュウはわずかに目を細めて困ったように笑う。
「終わりじゃない。——道が違うだけだ」
その後、二人はルキフェルにすべてを話した。フランソワが私掠免状を手にしたこと、再び海に出て海賊として生きていくつもりであること。そこまで話し終えたあと、フランソワはルキフェルに重々しく告げる。
「俺は近日中に島を出る」
ルキフェルはすぐには意味を飲み込めなかった。いや、言葉の意味は分かっているが、それが現実になる感覚がまるでなかった。自分の意思とは違うところで、自分はリュウと残ることになっていた。決めたのはフランソワらしい。最初は大人しく従うつもりだったが、時間が経つにつれてルキフェルの胸の奥に苛立ちが募り始める。
——なんで、自分で決められないんだ。
その思いに行き当たった時、不意にひとつの記憶が蘇った。雨、冷たい潮風、濡れた甲板。剣を振るっていたフランソワの背中。六つの頃だった、雨に打たれながらも一心に剣を振るっていたフランソワを見ていた。水を吸った長い髪が顔に貼りつき、濡れた衣服は身体に張り付いていた。それでも、彼の動きには迷いがなかった。剣先から滴る雨水がまるで血のように見えたのを覚えている。あの時、自分はただ息を呑んで近づいていって、彼の背後からそっと服に触れた。振り返らないフランソワに向かって、無理やり顔を上げさせて傷の残った自分の顔を見せた。
「これ、おれの顔だよ。傷……完全には治んなかったよ。痕になっちゃった。でも、今は傷のこと、どうでもいいんだ」
あの時、自分が本当に怖かったのは傷ではなかった。寂しかった。ただ、寂しかった。今まで、フランソワがいたからどうにかなっていた。彼の存在が自分を保たせてくれていた、なくなって初めて気づいた。だから、願った。
「お願いだ。おれの前から消えないで」
あの時、フランソワは離れたりしない、ここにいると言ってくれた。もう一度ちゃんと向き合う、と。あの言葉に救われたのに、あの時は「守る」と言ってくれたのに。なのに……また離れようとしている。
その思いに突き当たった瞬間、ルキフェルはじっとしていられなかった。フランソワがフランスへ渡るため、港で船を探していると聞いた途端、ルキフェルは小屋を飛び出し、砂利道を無我夢中で駆けた。喉が裂けそうだ、息が苦しい。足も痛いが、止まれない。町へ、港へ、やがて人混みの向こうにフランソワの姿を見つけた瞬間、理性も誇りも全部投げ捨てていた。
「行かないでくれ! 俺はあんたについていく!」
声が掠れてみっともなかった。惨めだった。聞くに耐えないほど必死で、穴があったら隠れたかった。けれど、あれが間違いなく本心だった。振り返ったフランソワは目を見開いた。一瞬の驚愕、そして次第に困ったように笑う。
「……そうかよ。じゃあ、運賃は二倍だな」
最初、意味が分からなかったが遅れて理解が追いつく。
——連れていってくれるんだ。
その瞬間、ルキフェルは久しぶりに心の底から笑った。しばらく忘れかけていた、年相応の無邪気な笑顔で。それから、フランソワとルキフェルは旅支度を進めた。世話になった者たちのもとを訪ね、礼を伝える。交流のあった町の人々にも、教会の神父にも。
そして、出発の日。静かな入り江、あの海辺でフランソワとリュウは肩を並べて座っていた。風が船の帆を鳴らし、陽光が穏やかに波へ散っている。リュウは足を組み、海を見ながら言った。
「誰もが潮風を求めているようで、結局は風に流されているだけではないかと、時々思う」
「流されるのが悪いとは思わねえよ。問題はどの風に流されたいかだ」
フランソワが笑い、リュウは一瞬目を見開いて穏やかに頷いた。
「……ゼフィランサスの風、か」
「そうだ。あいつの風は、嵐みたいだった。怖くて、苦しくて……でも、一度吹かれたらもう陸には戻れねぇ。結局、俺も同じなんだよ。あいつに吹かれたまま、どこにも辿り着けねえでいる」
「……それでも、君はまだ帆を張っているんだな」
「当然さ。あいつが残した風を無駄にしねえためにもな」
リュウは声を漏らして笑ってフランソワの横顔を見つめた。
「結局、君も海に出たいだけではないか?」
「……出たいだけ、か」
フランソワは一度言葉を止め、微笑を浮かべたまま続ける。
「陸にいれば、誰かの都合で風が吹く。海の上なら風は誰のものでもない。……たとえ嵐でも、自分の選んだ風に飲まれるならそれでいい」
リュウはしばらく黙っていたが、やがて柔らかく言う。
「なるほど。君は風に逆らうことが自由だと思っているんだな」
「違うさ。逆らうんじゃない。どこに吹かれていくかを、自分で選びたいだけだ」
フランソワが首を横に振り、リュウはどこか哀しげに笑った。
「……それでも、風はいつか止むよ、フランソワ」
「そのときは、また帆を張り直すさ」
潮騒が二人の言葉をさらっていった。フランソワはひとつ息を吐いて微かに笑う。
「……でも、そうだな。俺は結局、あいつの風に生かされてる。たとえ吹き荒れても、あの風だけは……忘れられねえんだ」
フランソワのヴァイオレットの瞳には懐かしさと痛みが溶け合っていた。
——これが二人の最後の会話だった。
やがて、ルキフェルが駆けてくる。
「準備できたって!」
彼の明瞭な声に、フランソワとリュウは立ち上がった。三人で港へ向かい、フランソワが桟橋へ出たところで、リュウがルキフェルを呼び止めて彼の両肩を掴むと翡翠の瞳を覗き込んだ。
「武術を続けるなら、鍛錬を怠るな。それと……できれば、剣以外の道も視野に入れるといい」
ルキフェルは首を傾げるとリュウはにこやかに続ける。
「自分や人を守れる術は、何も武術だけじゃない。……誰かのそばにいるだけで、救われる命がある。人の心を居場所にすることだ」
意味までは分からなかったが、それでもルキフェルは素直に頷いた。
「……うん」
フランソワとルキフェルは船に乗り込んだ。帆が風を孕み、船はゆっくりと岸を離れた。ルキフェルが振り返ると、桟橋の上でリュウが穏やかな笑みでこちらを見送っていた。ルキフェルは彼の姿を焼きつけるように見つめ、やがて距離が開き、風と共にリュウの姿は小さく薄れていった。
その瞬間、ルキフェルはふと目を開けた。
目の前にあるのは海。立っている場所は砂浜。
あの頃、何度も訪れた海辺だった。思ったより長く記憶に浸っていたらしい。
現実へ戻ってきても余韻が抜けない。海を見ているが、海そのものを見ているわけではない。
——視界が滲んでいた。
ルキフェルが目を閉じると、あの日の師匠の姿が瞼の裏に浮かんでくる。潮風が暗褐色の髪を揺らし、ルキフェルは深く息を吸い込んだ。
溢れてくるものをどうにか鎮めるように、潮鳴りと泡沫に心を揺蕩わせた。




