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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】7・8巻「真相編」  作者: セキユズル
第二章「人は善にも悪にもなれる。闇の中に光があり、光の中にも闇がある」
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第二章① ルキフェル

 乾いた打音が草原に響いた。何度目かも分からない打ち合い。荒い呼吸と乱れた足運び、力任せに振るわれる木剣がカンッと軽い音を鳴らした瞬間、ルキフェルの手から木剣が弾き飛ばされて草の上に転がった。


「……っ!」


 ルキフェルが目を見開いて思わず手首を抑え、リュウは息を整えて構えを解いた。


「気が乱れているぞ、呼吸を忘れるな」


 一歩も動いていないように見えてすべてを見切っている。ルキフェルは歯を食いしばった。


「……ちっ」


 ルキフェルは目つきを鋭くさせて舌打ちすると、すぐに木剣へ駆け寄って掴み上げ、土と草を払う間もなくリュウへと踏み込む。


「まだだ!」


 ルキフェルが叫びながら雑に振り下ろす。リュウは半歩だけ身体をずらして軌道を逸れると続けざまの一撃、二撃、三撃を最小の動きで受け流し、木剣を持つ手を軽く捻ってルキフェルの木剣を弾いた。


「ぐっ……!」


 ルキフェルの体勢が崩れて足がもつれ、呼吸が乱れるが彼はその場に踏みとどまった。荒い息が喉から漏れ、肩が上下するも目だけは死んでいない。リュウはルキフェルの様子をしばし見つめた後、息を吐いて口を開く。


「今日はここまでだ」

「……は?」


 ルキフェルが顔を上げ、息を荒げたまま睨みつける。


「いや、まだやれる! もう一回!」


 ルキフェルが踏み出そうとするが、リュウは掌を見せて制して首を横に振る。


「今の状態で続けても意味がない。呼吸が乱れ、心が先走っている。力もまた制御できていない。均衡を欠いた力は己を損なうだけだ」

「はぁ? そんなこと言われても分かんねーよ!」


 ルキフェルの苛立ちが掠れた声に乗り、リュウは一瞬眉間に皺を寄せるもすぐ背を向けた。


「帰るぞ。日が暮れる」


 ルキフェルは奥歯を噛み締めると木剣を握る手に力が入った。悔しさが胸の奥で渦を巻く。まだやれる、まだ足りない。だが、リュウは振り返らず草の上を歩いていく。ルキフェルは舌打ちを一つ残して吐き捨てる。


「……くそ」


 ルキフェルは渋々とリュウの背を追って歩き出した。沈みかけた陽が二人の影を長く伸ばしている。


 教会の脇に建つ、木造の小屋。小さな窓から差し込む夕の光が室内をやわらかく染めていた。

 窓辺に置かれた机を前に、フランソワは頬杖をつきながら本を開いている。

 

 二十五になった彼の横顔はどこか穏やかで、紙をめくる指はゆっくりで急ぐ様子はない。

 彼が読んでいるのは教会の本棚にあった一冊。本来ならば触れることすら躊躇うような書物だが、あの神父は笑って言った。——読みたいなら持っていきなさい、と。フランソワの目が文字を追うだけで不思議と心が静まる。届かないと思っていたものが、すぐ側にあるような感覚。見えない光にそっと触れているような。


 風が窓を揺らす直後、扉が開いて外の空気と共に二つの気配が入ってくる。フランソワは顔を上げて振り返ると声を漏らす。


「あ」


 リュウが玄関扉の脇に木剣を置き、彼の後ろにいるルキフェルは俯いていた。乱れた呼吸に汗に濡れた髪、不機嫌そうに歪んだ表情。——いつもの光景だ。フランソワはくすりと笑ってパタンと本を閉じる。


「悪い悪い、今から飯の支度するわ」


 フランソワが椅子から立ち上がると腕を軽く回しながら台所の方へ向かう。


「汗でも拭いてろ。風邪ひくぞ」


 フランソワは振り返ることもなく付け足した。リュウは編み上げブーツと袴の裾を払ってからテーブルに向かい、ルキフェルはその場に立ち尽くして小さく舌打ちを落とす。


「……ちっ」


 ルキフェルは身体に残る風を振り払うように肩を揺らし、自室に向かうと木剣を部屋の隅へと立てかけ、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。まだ呼吸は荒いが、整えようとはしなかった。リュウは自室へ消えていくルキフェルの背を一瞥した後、机の上へ視線を流した。革表紙で閉じられた本を一瞬だけ見て、次に台所へと向けると、火を起こして手際よく鍋を扱うフランソワの背を見つめた。


「最近、熱心だな」

「そうかー?」


 リュウの言葉にフランソワは振り返らず肩越しに答えた。


「まあ、読むもんがあるっていいもんだろ」


 包丁の音が一定のリズムで続き、リュウは椅子に座って火の揺らぎを見つめる。やがて夕餉の匂いが小屋に満ちていき、三人は卓を囲んだ。簡素な食事だが、温かい。湯気がゆらりと立ちのぼる。フランソワとヨシマサはぽつぽつと話している。天気のこと、町のこと、取り留めのない些細な話。ルキフェルは黙々と食べ進め、やがて先に食事を終えると皿を持ち上げて立ち上がり、無言で台所へ向かった。水桶の中で水音が響き、ルキフェルは皿を沈めて手を拭くとフランソワが彼の背に向かって軽く声をかける。


「おやすみ」

「……ん」


 ルキフェルは手短に残して奥の寝室へ消えていく。戸が静かに閉まり、フランソワは苦笑した。


「……気難しいやつ。前はあんなにはしゃいでたのになあ」


 リュウは皿を置いて目を細めた。


「気難しい、か。だいぶ荒いぞ。最近は特にな」

「だよなあ。話もろくに聞きやしねえし」

「聞いてはいる。理解が追いついていないだけだ」


 リュウが即座に返すとフランソワは「おお」と小さく声を漏らし、苦笑を深めた。


「それが一番めんどくさいんだよ。さて、どうしたもんかねえ」


 フランソワが腕を組んで天井を見上げ、リュウは少し考えてから淡々と言う。


「放っておけ」

「え?」

「自分で気づくのを待つしかない」


 火の音がぱちりと鳴り、フランソワはしばらく黙り込んだあと声を漏らして笑った。


「それ、あいつにはきつくねえ?」

「きついな。だが、それしかない」


 リュウの言葉にフランソワは息を吐いた。


「じゃあ、せめて俺は飯をちゃんと食わせとくのが役目ってか」

「それで十分だ」


 卓上の蝋燭の火が揺れ、小屋の中には穏やかな静けさが戻ってきた。寝室ではルキフェルがため息を一つ吐くと力を抜くようにベッドへ身を投げた。


「……はあ」


 彼が仰向けで天井を見上げるとベッドがギシリと鳴った。ぼんやりとした視界でも頭の中は静まらない。



 ——つい最近だ。耳に残っている、同世代の連中の笑い声と軽口がこびりついて離れない。


「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか」


 誰かがわざとらしく朗読するように言い、くすくすと笑い声が混ざる。言葉の意味なんて分からないが、嘲るような響きだけは分かる。


「……何それ?」


 ルキフェルが眉を顰めると、相手は目を丸くして見せる。


「え、知らないの? 落ちた人の名前を持ってるのに?」

「さあ」


 ルキフェルにとって興味もなければ知る気もないが、別の声が重なってくる。


「でもさあ、落ちた人の名前つけるって変じゃない?」


 笑いと視線、じわじわと囲まれる感覚にルキフェルの声が低くなって苛立ちが滲む。


「何が言いたいんだよ」

「いやさあ。ルキフェルって、あの男二人と暮らしてんじゃん。母ちゃん、いないの?」


 ルキフェルは一瞬面食らうも即座に吐き捨てる。


「知らねえ。どうでもいい」

「どうでもよくなくない? 自分だけ違うって思わないの?」


 ——違う。


 耳の奥に引っかかってルキフェルは視線を逸らした。空気が変わって笑いが消える代わりに、冷たい視線が向けられる。


「顔も傷だらけだし、おかしいと思わない?」


 ルキフェルの心臓がドクリと波打ち、視線が刺さって息が浅くなった。


「……ルキフェルってさ、捨て子でしょ。——母親いないし」


 その瞬間、ルキフェルの中で何かが切れて次の瞬間には掴みかかっていた。


「ふざけんな!!」


 拳が振るわれる。ぶつかる音がして誰かが叫ぶ。押し倒され、引き剥がされ、また殴る。ぐちゃぐちゃのまま取っ組み合いになる。痛みなんてどうでもいい、ただただ黙らせたかった。全部、全部、全部。気づけば、ルキフェルの周りには距離ができていた。誰も近づかない、ひそひそ声が耳に届いてくる。


「あいつ、やっぱり名前の通りだ」

「悪魔なんじゃないの?」


 笑いと怯えを孕んだ視線に、ルキフェルはひとり背を向けて立っていた。



 ——ひとりで。


 ルキフェルは目を閉じた。ベッドの上に寝かせた拳が震える。


「……くそ」


 胸の奥に残るものは怒りでも悔しさでもない。もっと形の曖昧な、どうしようもない何かだった。



 翌朝、まだ空気の冷たい時間帯にルキフェルは小屋を出た。音を立てないように戸を閉めて砂利道を歩き出す。向かう先は町の外れにある小さな港。漁師たちの手伝い、日課のようなものだ。理由なんて大したものじゃない。ただ身体を動かしている方が楽だった。余計なことを考えずに済む。ルキフェルが港に着くとすでに何人かが出発の準備をしていた。縄をまとめる音に木箱を運ぶ音、潮の匂い。漁師の中でもまとめ役みたいな男を見つけ、ルキフェルは彼の背に声をかける。


「おはよう」


 男が振り返ると目が見開かれて身体が強張ったが、すぐに表情を戻して手元の作業を再開した。


「ああ、おはよ。今日もよろしくな」


 ルキフェルは手の甲で頬の傷に触れ、ざらついた感触に顔を顰めると肩を落とした。


「……やるか」


 ルキフェルは一人呟くと作業に加わった。網を運び、縄を引き、船に荷を積んで沖へ出る。ルキフェルが作業に没頭するうちに先ほどの感覚は少しずつ遠のいた。声をかけられれば返す、指示があれば従う。


 ひと段落ついた頃、船は浜へと戻って荷を降ろし、漁師たちは砂浜に腰を下ろして粗い息を吐きながら休憩に入る。ルキフェルも少し離れた場所に腰を下ろした。砂に手をつけて掬うと、指の間からサラサラと零れる。波の音が規則的に響いて誰かの笑い声が遠くで上がる中、ルキフェルは渚を眺めていた。寄せては返す波、同じ動きを何度も繰り返しているだけなのに不思議と落ち着く。風が頬を撫で、塩の匂いが鼻を抜ける。何も考えなくていい時間、いや考えないようにしているだけかもしれない。ルキフェルが水平線に目を向けると、いくつもの帆船が小さく浮かんでいた。


 ゆっくりと進む影、あの船にはどんな連中が乗っているのか。

 どんな顔で、どんな声で、どんな風に笑うのか。仲間はいるのか、家族は。

 ——自分とは違うのか。


 朧げに考えると誰かの声がして意識が戻る。


「よう」


 ルキフェルが振り向くと、さっきの漁師が小さな袋を手に立っていた。


「ほら、今日の分だ」


 男が袋を軽く投げ渡し、ルキフェルが両手で受け取ると袋の中で軽い音たちが重なった。中身は小銭が少し、子どもの小遣いみたいなものだ。


「……ありがとう」


 ルキフェルが礼を言うと漁師は頷いて彼の隣にどかっと腰を下ろした。


「そういえば、娘から聞いたよ。最近、勉強会に来てないんだって?」


 ルキフェルは思わず息を止めた。勉強会、町で不定期に開かれる子どもたちの集まり。数人の顔と笑い声、言葉と殴り合いと視線が浮かんでくる。


「……うーん、ちょっとね」


 ルキフェルが曖昧に返すと漁師は特に深く考えた様子もなく言う。


「君、昔から頭いいもんなあ。読み書きも計算も、あっという間に覚えちまって。だから、もう必要ないんだろうってみんな言ってるらしい」


 みんな。ルキフェルは視線を海に戻した。違う。必要がなくなったから行かなくなったんじゃない。最初は楽しかった。笑って騒いで、誰かと肩を並べて。同じものを見て、同じことで笑って。けど、少しずつ視線が変わって距離ができて、何かがズレていった。自分でも原因が分からないまま、気づいた時にはもう戻れなかった。そして、あの喧嘩で全部が泡となって弾けた。ルキフェルは歯を食いしばると、漁師が立ち上がりながら言う。


「顔出せば、あいつらも喜ぶと思うぞ」

「……働いてる方が好きだ」


 漁師は「そっか」とだけ言って手をひらひら振りながら去っていく。足音が遠ざかると再び波の音だけが残った。ルキフェルの胸の奥には黒く、重いものが沈んでいた。どうすることもできないまま。やがて、漁師たちの気配は消え、笑い声も足音も遠ざかっていく。ルキフェルはしばらく座っていたが、立ち上がると靴を脱いで砂の上に放り、裸足で水際へと歩いていった。波が寄せる中へ、足を踏み入れるとヒヤリとした感触が足先から伝わって思わず肩を強張らせた。


「冷てえ」


 ルキフェルがもう一歩踏み出すと波が足首を撫で、すぐに引いていく。また寄せて、また引くという単純な繰り返しを感じる。眺めているだけでは退屈だったから触れてみた。ルキフェルはしゃがみ込むと手を水に入れ、指の間をすり抜ける冷たさを掬い上げてまた落とすのを何度か繰り返すうちに、砂の中に白いものが見えて指で掘り出した。小さな貝殻、欠けもなく形が整っている。ルキフェルは貝殻を光にかざして裏返した後、浜に目を向けると貝殻をもう一つ見つけた。また一つ、また一つと傷のないものだけを選んでいく。拾っては見て、気に入らなければ戻すの往復。気づけば波と戯れていた。足を濡らし、砂を掘り、貝を探す。


「悪くない」


 風が吹いて海が鳴る。それだけでいい気がした。仕事も人も、あの視線もあの言葉も全部遠い。ここには何もない。何もないからこそ楽だ。ルキフェルは手の中の貝殻を見つめ、砂の上にそっと置いた。


「しばらく、ここでいいか」


 誰もいない海辺に言葉が溶け、ルキフェルは再び水に足を浸して静かな時間の中へ身を沈めていった。


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