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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】7・8巻「真相編」  作者: セキユズル
第一章「しばらく、こちらでお世話になります」
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第一章③ ルキフェル

 アーシャ海賊団は緩やかな航海を続けている。ジブラルタルへ向かう航路は決して静かなものではなかった。スペイン沿岸に差しかかる頃には幾度となく他の海賊団の影が現れる。ポート・ロイヤルから来たという一団、アゾレスで補給を終えたばかりの船、どれも獲物を探している目だったが、そのたびに五人組が甲板に現れて凄みを聞かせると、相手の呼吸が変わって近づこうとしていた船が距離を取る。もちろん、何も残らないわけではない。名前も知らぬ海賊たちの間に噂が流れていく。


「あの五人組。関わるな。目を合わせるな」


 そうして、アーシャ海賊団は戦うことなく海を抜けていった。ジブラルタルを越え、地中海へ。そこから先は妙な苦戦を強いられる。


「……で、どれがメノルカだ?」


 ジャスパーがぼやいた。似たような島影、似たような港、地図と実景がどこか噛み合わない。結局、数日ほど同じ海域を彷徨う羽目になったが、皮肉にもその迷いが彼らにわずかな余裕を与えていた。戦いから切り離された時間、海と風に任せて漂う時間、やがてようやく目的の島へ辿り着く。



 スペイン領、メノルカ島。フェリスが先に町へ入り、軽く偵察を済ませて戻ってきた。


「この島には五鬼衆の噂も手配書もないよ」


 ルキフェルが桟橋に足を下ろした瞬間、思わず歩みを止めて外套のフードの奥から町を見渡した。潮の匂い。乾、いた風、石造りの建物、遠くで鳴る声。


 ——懐かしい。


 まだ少年だった自分がフランソワとリュウに手を引かれて、この地に降り立ったあの日。断片のような記憶がふいに繋がって足元が一瞬揺れた気がした。


 仲間四人はそれぞれに視線を巡らせながら自然と歩き出す。町の中へ、過去と現在が交差する場所へ。ルキフェルはもう一度だけ周囲を見渡したあと彼らの背中を追った。噴水広場にて、石造りの縁に腰掛ける子供たちの笑い声が乾いた空気に弾けていく。追いかける足音、水しぶき、転んで、また立ち上がる光景をルキフェルは呆然と眺めていた。マテオとジャスパーも少し離れた位置で同じ方向を眺めている時、彼らの背後から足音が近づいた。


「聞き込み、できたよ」


 振り返るまでもなく、ニールの声だ。コリンも一緒にいる。


「今ある教会は何年も前に町の中へ移動したってさ。ルキフェルが言ってた場所は……もう使われてない。今はただの廃墟だって」


 ルキフェルは一瞬だけ目を閉じて口を開く。


「……東洋人は?」


 ニールもコリンも首を横に振る。ルキフェルは自分に言い聞かせるように呟く。


「……そりゃ、そうか。もう十年も前の話だ。いなくなってても……おかしくない」


 剣の師匠、あの男の姿はもうこの島にはない。それでも不思議と取り乱すことはなかった。ひとつ、またひとつと消えていくだけのことだと、どこかで理解している。ルキフェルの胸の奥で何かが静かに線を引いた時、マテオが隣に並んで息を吐く。


「で、どうする?」


 ルキフェルは広場の子供たちをもう一度だけ見た。笑い声が遠くに聞こえる。


「……廃墟になった教会に行こう。あそこは前の住処だった」


 五人は自然とその場を離れて賑わいから外れ、石畳を抜けて町の端へ向かった。人の気配が途切れていき、風が強くなる。冬の草原が視界いっぱいに広がっていた。乾いた茶色い草がさわさわと鳴る中を、五人は並んで歩いていくと、やがて廃墟と化した教会へ辿り着いた。町の喧騒から切り離されたこの場所はすっかり沈黙しており、蔦が絡みついた石造りの建物がぽつりと佇んでいる。壁は風雨に削られ、窓は割れ、かつての面影をかろうじて残しているだけ。ルキフェルは教会の前で足を止めて見上げた。


「……何か思い出した?」


 ニールの声が落ち、ルキフェルは視線を外さずに答えた。


「思い出したっていうか……懐かしい、な。けど、それだけじゃない気がする。教会って聞くと……もっと何か、あるはずなんだ」


 ルキフェルの言葉を探すような声音を受け、ニールが俯いて考えると口を開く。


「洗礼を受けたことは?」

「いいや。神父は住まいをくれただけ。信仰を押し付けてはこなかった。フランソワは……よく聖書を読んでいた気がする」


 五人組の脳裏に同じ光景がよぎる。契約の儀、新たな船員を迎える際にフランソワは必ず聖書を手にしていた。誓いの言葉は軽くない。海賊であっても、それだけは変えなかった。ジャスパーが肩をすくめる。


「うーん、教会にはからっきし縁がないなあ。祈ったって飯は降ってこねえし」


 どこか現実的すぎる彼の言葉にマテオが鼻で笑う。


「全くだ。神が裁く? オレはもう、何度も裁かれてる」


 コリンは少しだけ視線を落とした。自分は、むしろ忌避される側だった。思い出すのは奇異の目、理解されない力、遠ざけられる距離。神に救われる側ではなく、弾かれる側が自分の立ち位置だった。ルキフェルは眉間に皺を寄せて口を開く。


「……神? 俺は誰にも祈らない。祈ったところで、何も変わらなかったから。でも……昔、祈っていた気がする。誰に何をかは……思い出せない」


 ルキフェルの言葉が落ちた瞬間、ニールの中で何かが引き裂かれた。教会、祈り、神、断片が無理やり繋がる。好きだった少女と身分の違い、届かない想い。やがて訪れた死。白い布に包まれた小さな体を、神父と並んで埋葬したあの日。土をかける自分の手が震えていた。


 ——神のそばに居たい。


 修道士になりたいと父に告げた瞬間、怒号と酒の臭いがまとわりついて、腕が振り上げられる。気づいた時には刃を握って、動かなくなった体を見下ろしていた。ニールは自分の手を見つめた。白く見えるほど力が入っている、神に仕えようとした直後、この手は神に背いた。胸の奥がひどく冷える。


 ——自分はもう戻れない。


 風が廃墟を抜け、蔦がかすかに揺れる音が響く。血の記憶が消えない。ニールは自分の手を見つめたまま呟く。


「……君は、ここでどんな生活をしていたの。神のそばにいられなくても……救われる道は、あるんだろうか」


 ルキフェルは風の音に耳を傾けたあと囁くように言う。


「救われる道、か。別に救われなくてもいい。自分の道は、自分で見つけろって教わった」


 ニールの顔が固まり、マテオが眉を顰める。


「それ、誰の教えだよ」


 ルキフェルは口元を緩めて仲間たちを振り返ると指を一本立てた。


「俺の師匠だ。人は善にも悪にもなれる。闇の中に光があって、光の中にも闇がある。それが、この世界の仕組みだってさ」

「んー……なんか、むずいこと言ってんな」


 ジャスパーが首を傾げ、ルキフェルはくつりと笑う。


「そうだろ? でも、それが日常だった」


 ルキフェルは少しだけ視線を遠く、草原へと向ける。


「ヨシマサが難しいこと言って、フランソワが分かりやすく教えてくれた」


 ルキフェルが一歩踏み出すと、風が彼の外套を揺らした。


「あと、ヨシマサはこうも言ってた。力は均衡してこそ意味がある。奪うためじゃない、調和のために振るうんだって」


 ニールはゆっくりと目を閉じた。胸の奥にあった冷たい塊が少しだけ緩む。神ではない、祈りでもない。目の前にいる誰かの言葉が、自分の中に入ってきて肩の力が抜ける。


「……僕はたぶん……生きた人の言葉に救われるみたいだ」


 空っ風が通り抜けていく。ルキフェルはしばらく教会を見つめていた。崩れかけた石壁、蔦に覆われた入口、風に揺れる影。やがて、ルキフェルはふと視線を外すと踵を返した。


「……けど、素直になれない時期もあった」


 ルキフェルは苦笑しながら砂利道を外れ、草の上へと足を踏み出した。乾いた音が消える代わりに、柔らかな感触が足裏に広がる。


「いつだったか、あれも十四の時か。町に仕事に行って……帰ってきたら、ヨシマサと剣術の稽古」


 ルキフェルは歩きながら遠くを見るような目で続ける。


「あの頃は基礎を疎かにしがちで、とにかく早く強くなりたくて……いつも焦っていた」


 ルキフェルの言葉に呼応するように、風の温度がわずかに変わった。冷たかったはずの空気がどこか柔らかくなり、空を覆っていた灰色の雲がゆっくりと裂けて光が差す。淡く薄く、やがて強さを増した光へと変わり、雲が水平線の向こうに捌かれて青空が広がる。足元の草が揺れ、踏みしめたはずの枯れ草はいつの間にか青さを取り戻していた。風が頬を撫でる。懐かしい温度、懐かしい匂い。ルキフェルは何も疑わず歩き続けた。


 ——あの頃の、自分の歩幅で。


 突如強い風が吹き、外套が大きく翻って視界が揺れる。ルキフェルは強風を顔面に受けて思わず髪を抑えた。目を閉じると肩に乗った重みが飛ばされて軽くなる。ルキフェルが勢いで振り返ると、そこにいたのは仲間ではなかった。長い白髪が風に靡く、静かな立ち姿。穏やかな顔立ちが少し見上げる位置にある。


 ——リュウ・ヨシマサ。記憶の中にしかいないはずの男が立ち、木剣を構えている。


「——来い」


 ルキフェルは息を吸って腰に手をやった。あるはずのないものが、あった。木剣の柄に触れ、細い手とまだ幼さの残る指で引き抜くと重心を落として構え、淡く光る翡翠の瞳で正面に立つリュウを見据えた。


「……っ!」


 ルキフェルは声を上げた。青い、荒い。抑えの利かない衝動のままに踏み込んで振るう。力任せに連続で間を置かずに叩きつける。ただ速く、ただ強く。理も間も考えない。それでも届かず軽くいなされ、受け流され、紙一重で外される。リュウの木剣は最小限の動きですべてを捌いた。ルキフェルの剣は空を切り、焦りが募って息が荒くなる。それでも止まらない、ただ振るう。何度も、何度も。


 ——強くなりたい一心で。


 乾いた木の音が何度も重なって空気が震え、青空の下で少年と師が向き合っていた。

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