第一章② Montage
アンジュ、スザンヌの実家。冬の澄んだ空気の中、屋敷前の石畳に二人の男が立っていた。シルバーブロンドの髪を持つヴィクトルと、彼の向かいに立つティエンだ。ティエンは軽く手を振りながら言う。
「……それじゃ、また何か分かったら情報持ち込むよ。協力してくれるなんて意外。ほんと感謝だわ」
ヴィクトルは肩をすくめた。
「いや、話半分で聞いただけだぞ。物的証拠を持ってきてくれたら本気で聞く」
「わかってるよぉ」
ティエンは苦笑混じりに頷くが、その目の奥にはわずかな焦りが滲んでいた。
「けどさ、あんまうかうかしてられないんだよ。こうしてる間にも夢蛇はフランスに持ち込まれてるかもしれないから」
ヴィクトルの眉がわずかに動くも頷くだけに留め、ティエンは屋敷の敷地へ足を向けて馬舎の扉を開けた。中から現れたのは漆黒の毛並みを持つヘイロン、ティエンが軽く手綱を引いて外へ導くとヴィクトルも彼らの後に続き、二人は屋敷の門を抜けた。
「あ、そうそう。例の事件のことでもう一個頼みたいことあってさ」
ティエンが思い出したように振り返り、ヴィクトルは足を止める。
「……なんだ」
「公的文書に触れられる人、知り合いにいれば紹介してほしい」
ティエンの声が少しだけ低くなり、ヴィクトルは目を細めた。
「まあ……いるにはいるけどね」
彼の脳裏に浮かぶのはただ一人。物静かで銅像のように揺るがぬグレゴワールの顔が過ぎるもヴィクトルはすぐに思考を押し戻した。
「けど、あんま期待するな」
「わかってるよ」
ティエンは軽やかに馬へと跨ると手綱を引きながらいつもの調子で続ける。
「じゃ、また会おうね。できればフィルマンさんのところにずっといてほしい」
ヴィクトルは小さく笑った。
「悪いけど、王宮が僕を必要としてるからね」
「相変わらず真面目だなぁ」
ティエンが肩をすくめた瞬間、ヘイロンが地を蹴った。黒い影が風を裂き、石畳を駆け抜けていく。ティエンの後ろ姿が小さくなっていくのをヴィクトルはしばらく見つめていたが、やがて地に落ちた枯葉に視線を落とす。
「……ダラス家。国家転覆が目的なら、早いところ尻尾を掴みたい」
ヴィクトルの瞳に冷たい光が宿る。冬の空気が吹き抜け、屋敷の門が重く閉じた。
ヘイロンが道中で何度か暴れたこと、そしてわずかな仮眠を挟んだことでティエンはどうにか二日かけてブレストへと戻ってきた。冬の空気を切り裂くように街へ入って裏通りへと足を向け、ヤンの店に着いた。ティエンが正面扉を押し開けると、乾いた木の軋む音とともに香辛料と紙の匂いが鼻をくすぐる。
「戻ったよ。スザンヌの兄に全部話してきた」
ティエンが軽く手を上げながら声をかけると、奥で帳簿を眺めていたヤンが顔を上げた。
「そうですか。これで、あなた方も王宮と繋がりができたわけですね」
ティエンは肩の力を抜きながら店内を見渡すと親指で店の外を差した。
「ヘイロン、もう限界っぽいからさ。ちょっと暴れたし」
「ええ、見れば分かります」
ヤンは窓の外へと視線を向けた。
「ヘイロンはわたしが預かりましょう。あなたはチャンと共にサン・マロへ向かってください」
影のように作業していたチャンが顔を上げて一度だけ頷き、ティエンは彼と目を合わせてから再びヤンへと視線を戻した。
「……んで、あんたは一緒に行かなくていいの?」
「あ、わたしはこの街にいますよ」
「……は?」
ティエンの顔が固まり、ヤンはそんな反応など意に介さず肩を軽く回した。
「ちょっと疲れたので休憩します」
「……え? みんな動いてるのに!?」
ティエンの裏返った声に店内の空気が揺れ、ヤンは棚に手をかけながら淡々と言う。
「今回の戦争でかなり長距離を移動しましたからね。組織の仲間に任せて、わたしは休暇を楽しみますよ」
完全に仕事を終えた人間の顔に、ティエンは顔を引き攣らせた。
「……いや、ちょっと待てよ」
「待ちません」
「え、冷た」
ティエンの横でチャンが息を吐いて首を振る。
「……行きますよ」
チャンが外へ向かって歩き出し、ティエンは一度だけヤンを振り返る。
「ほんとに来ないの?」
「ええ。楽しんできてください」
「はあ!?」
ティエンは納得いかず頭を掻きむしるが、チャンの背中はもう遠ざかり始めている。
「ちょ、待てって!」
結局、ティエンは慌ててチャンの後を追うしかなかった。店の扉が閉まって静けさが戻り、ヤンは窓の外、冬のブレストの空を眺めながら椅子に腰を下ろした。
「……たまには休むのも悪くないですね」
ブレスト城、大元帥執務室。隣室ではエリオットが臥している。彼の気配を背に、総司令部は最小限の人員で回されていた。イザベルとルソー、アルフォンスがじっとして張り詰めた空気の中、ノックがした。
「入れ」
イザベルが告げると扉が開き、ベルリオーズが姿を現す。彼の腕には黒いカラス、ノクターが停まっていた。
「副司令官。父上からのお手紙です。おそらく……例の件のことで」
イザベルは差し出された封書を受け取ると、封を切って視線を落とした。紙の上をなぞる瞳が細くなり、彼女は最後の一文まで目を通すと紙を畳んだ。
「……何が書かれている?」
ルソーが眉を顰めて問いかけ、イザベルは視線を上げないまま答える。
「あとで共有するわ」
ルソーが思わず唸るも、イザベルは手紙をアルフォンスへと差し出した。
「これ、第二部隊の報告書と共に記載して」
アルフォンスは一瞬だけ間を置き、手紙を受け取った。
「……内容は?」
「必要な範囲でまとめて」
「承知しました」
アルフォンスは頭を下げ、書類の束へと視線を落とした。ルソーは腕を組んだままイザベルを横目で見る。
「いつも以上に慎重だな」
「情報は扱い方を間違えると毒になるものよ」
イザベルは軽く肩をすくめた。隣室から微かに寝息が聞こえ、静寂の中でイザベルはすでに次の一手を見据えていた。
ブレストの街は冬の夕暮れに沈みかけていった。港から吹き上げる冷たい風が石畳を撫で、人々の吐く息は白く滲む。市場通りはまだ賑わっていた。魚を並べる声、値を競う商人の声、荷を運ぶ足音。ヤンは何気ない足取りで歩いていたが、ふと足を止めた。人の波の向こう、立ち止まることなく周囲を観察している男がいる。服装はありふれていた。外套も帽子も、どこにでもいる市民のそれだが動きが違う。無駄がない、目的のない者の歩き方ではない。ヤンの目が思わず細くなる。
「……あれは」
男がこちらへ顔を向けて視線が交わったが、そのまま人波に紛れて消えていく。ヤンは男の背中を見送ることすらせず息を吐いた。
「……なるほど」
あの顔、あの視線。記憶と照らし合わせるまでもない、ダラス家三男ピエール・ダラスだ。それにあの周囲に漂う、わずかな気配。表には出ていないが、確かにいる。数は……ひとつではない。
「五、いや……それ以上」
ヤンは目を伏せた。夢蛇、あの幻覚剤を追う者たちがまだこの街に入り込んでいる。探している側と隠している側、どちらが先に仕掛けるか。答えはそう遠くない。
「……面倒ですね」
ヤンは進路をわずかに変えた。雑貨店へ戻る道ではない、人の流れがより密になる方向へ。
「この場所は、長居するには少し目立ちすぎる」
ヤンが視線を上げると遠く城壁の影が見えた。その先にあるのは軍の宿舎、人の出入りが激しく視線が散る場所。そして、戦力が集中している場所。
「……場所を変えましょうか」
雑踏の中、彼の姿は何事もなかったかのように溶けていく。
翌日、ヤンはまず黒馬ヘイロンの手綱を引きながらキール通りの宿舎へと向かった。彼が門をくぐるとすぐに人の気配が肌に触れる。数日前まで静まり返っていた場所だが、今は違う。戻ってきたのだ、マクシミリアン隊が。庭先ではちょうどグウェナエルが馬具の手入れをしており、彼はヤンの姿を認めると目を細めた。
「……戻ったのか」
「ええ。おかげさまで」
ヤンは穏やかに頷き、ヘイロンの首筋を軽く撫でた。
「この子の世話、ありがとうございました。随分と良い顔をしています」
「大したことはしてない。勝手に懐いただけだ」
グウェナエルは鼻を鳴らすも視線はどこか柔らかい。そこへ、軽い足音が近づいてくる。ヤンが振り返ると、ソフィーがヘイロンに近寄って微笑んだ。
「また会えたね」
黒馬は小さく鼻を鳴らした。一頻りの雑談後、ヤンは軽く頭を下げる。
「では、少し用事がありますので」
彼はヘイロンを残して宿舎を後にし、街へと戻った。仮住まいの雑貨店に残していた荷物を手早くまとめ、必要なものだけを選び、余計なものは置いていく。日が傾き始める頃、ヤンは再び宿舎の前に立っていた。石造りの扉の前で夕方の風が吹き抜ける。ロザリーがヤンを前に腕を組み、じっと彼の様子を見つめる。
「……それで? その荷物は何?」
ヤンはにこりと笑みを浮かべ、礼をするように頭を下げる。
「しばらく、こちらでお世話になります」
ジョルジュの絶叫が宿舎前に響き渡る。
「えっ、ちょ、ちょっと待て――ッ!!」
ロザリーは目を丸くし、サミュエルは肩をすくめる。ソフィーは苦笑いを浮かべ、ペネロペとリゼーヌは顔を見合わせた。拒む者はいないが、受け入れる準備もできていない。そんな空気の中でヤンは穏やかな表情で立っていた。
食堂に移るとヤンは木製の長テーブルの一角へ腰を下ろし、布袋から東洋の茶葉と菓子を取り出した。そこから先は思いのほか上手く懐に入り込めた。東洋の茶を前にして、最初は半信半疑だったロザリーもひと口含んだ途端に目を細める。香りは柔らかく芯がある。サミュエルも同じく黙って杯を傾け、ヤンのことをすぐに理解した。この男はただ気まぐれにあちこち出入りしている商人ではない。流行りものや珍品を売り歩いているだけの人間なら、こういう落ち着き方はしない。噂と空気を運び、必要な時に必要な場所へ現れる。
——なるほど、情報屋。それなら今までの動きの速さも妙な人脈の広さも、すべて筋が通る。
ジョルジュがヤンに対してあからさまに疑いの目を向ける一方で、ソフィーはどこか納得したように頷いていた。彼女にとってヤンは得体の知れない男である以前に、自分たちを何度も助けてくれた人物だ。その空気に背を押されるように、ヤンは笑みを崩さぬまま表向きの事情をさらりと語った。商人としての仕事を少し休むこと、宿代を節約するためにここへ来たこと。建前としては十分だったし、聞く側もそんな言葉を額面どおり受け取ってはいないが、だからといって追及する気も起きない。ヤン・ジュンジャーとはそういう男だった。
話題は東洋の術や兵法にまで及び、コリンの異能や発明の話まで飛び出した。そのあたりは、ヤンにとっても純粋に興味深かった。魔術や錬金術の扱いについて長々と語ったところで、額に汗を浮かべていたロザリーの反応まで含めて、食堂の空気はすっかり柔らかいものになっていき、途中から乱入者が現れる。廊下の向こうから足音と共に高い声が近づいてきたかと思えば、勢いよく扉が開いた。ペネロペとスザンヌだった。
「ほらやっぱりずるいです、皆さんだけで楽しんでるなんて!」
「あたしたちも混ぜてー!」
ペネロペは食堂に甘い香りが満ちているのを知った瞬間、目を丸くした。聞いてない、少し遅れただけで自分だけこういう場から自然に外れてしまうことがあるのを、彼女はよく知っている。だからこそ、卓上の東洋菓子を見て心底ほっとした。自分だけ仲間外れにされたわけではない。ちゃんと混ざれる、ちゃんと食べられる。そんな安堵が、菓子を頬張った瞬間の満面の笑みに出ていた。
一方、スザンヌは途中から話題が自分の実家や手紙の件へ移ると最初こそ少し肩をこわばらせていたが、褒められるうちに頬を染め始めた。シャルルに言われるがまま書いた手紙だが、その手紙が結果として陸軍を動かし、部隊の助けになった。役に立てた。その事実が彼女には何より嬉しかった。兄から昔言われた言葉がふと胸に蘇る。
——スザンヌは、剣よりペンの方が強い。
あの時は半分からかわれたのかと思っていたが今は違う。自分の言葉が誰かの役に立つ、誰かを動かす。彼女にとって剣を振るうこととは別種の誇りだった。だからこそ、ジョルジュやロザリー、ペネロペたちに感謝されるたび照れくさくてたまらないのに、胸の奥はじんわりと温かかった。人の役に立てることが、やはり好きなのだ。
その後も談笑はしばらく続き、場が落ち着いたところで、ソフィーが席を立ってヤンを部屋へ案内する。廊下を歩きながら彼女は必要最低限の説明だけを口にし、ヤンもまた必要最低限の相槌だけを返した。あてがわれた部屋はこぢんまりとしてはいるが、休むにも考え事をするにも十分な広さがある。ヤンは一歩足を踏み入れ、窓際に立って外を眺めた。ブレストの風、宿舎の空気、人の気配。どれも仮住まいの雑貨店とは違う。
「少しの間ですが、よろしくお願いします」
ヤンが穏やかに言うとソフィーは微笑んで頷いて部屋を出ていく。扉が閉まって一人になったヤンは窓の外を眺めていた。休暇、休養、宿代節約。どれも嘘ではないが、本音はもっと別の場所にある。この宿舎に身を置けば、いずれまた何かが動くという予感がした。それまでの待機である。




