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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】7・8巻「真相編」  作者: セキユズル
第十章「獣になんか負けない。——今度こそ、俺でいられるように」
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第十章② ダミアン

 パリ、ダラス家の屋敷。


 ダミアンは裏口から音もなく入り込んだ。屋敷の中は人の気配が薄い、使用人の足音もいつもより遠い。シルヴェストルはおそらく王宮へ向かったのだろうと判断すると、ダミアンは行き先も定めず歩き出した。廊下を抜け、階段を曲がり、さらに奥へ。気づけば、普段足を踏み入れない区画に入り込んでいた。光がない、窓のない廊下は冷たく、どこか湿り気を帯びている。開けた空間に差し掛かると半端に開いた扉が目に入った。ダミアンは足を止めて少しだけ様子を窺う。


 ……何も聞こえないが、妙に気になる。


 ダミアンは恐る恐る手をかけて扉を押し開いた。軋む音が小さく響いて現れたのは、地下へと続く階段だった。壁に据え付けられた蝋燭が細く揺れる炎で足元を照らしている。その先からかすかな物音、人の気配がした。ダミアンは一瞬だけ躊躇ってから、音を立てないよう慎重に足を踏み入れた。石の階段を一段ずつ降りていき、やがて辿り着いたのは小さな石造りの部屋だった。実験室のような空間と鼻の奥にまとわりつくような重い香りに、ダミアンは反射的に外套を引き上げて口元を覆った。


 作業台の前にドミニクが座っている。ドミニクは項垂れたまま肩で息をし、机に肘をついて額を押さえていた。目は焦点を結ばず、どこか遠くを見ていた。またやったのかと思った瞬間、ダミアンの喉から声が漏れる。


「……兄上」


 ドミニクがゆっくりと顔を上げ、濁った視界の中で焦点を合わせるように目を細める。


「……君か」


 ダミアンは部屋を見回した。瓶、器具、見慣れない粉末。整然としているようで、どこか歪んだ空間を前に口を開く。


「兄上、シルヴェストル様のお姿が見えなかったので……少し探していました。この部屋は……?」


 ドミニクは小さく息を吐いて椅子にもたれかかると指先で奥の方を示す。


「ここは夢蛇をお香にするための調合室。その赤い扉の向こうは在庫管理室。濃度が高いものは全部そこにまとめてある」


 ドミニクの視線がダミアンを射抜くと口元が歪んだ。


「……珍しいね、君の方から会話するなんて」

「いえ……ただ、気になっただけです」


 ダミアンの肩がわずかに強張り、ドミニクの虚ろな目の奥で興味の色が灯る。


「ふうん」


 ドミニクは吐き出すように笑った。蝋燭の火が揺れ、甘い匂いが部屋の隅々まで染み込んでいく。ダミアンは視線を逸らして棚へと歩み寄った。小瓶や箱に貼られたラベルには日付と簡単な記号が記されている。ダミアンは指先で小瓶のラベルをなぞった。——精製済み。ダミアンが別のものにも目を移して日付を確認していると、背後からドミニクの声が飛んだ。


「そういえば。絵、描くの得意なんだってね。知らなかった」

「……何故、それを?」


 ダミアンが恐る恐る振り返ると、ドミニクは椅子に座ったまま気だるげに指先を動かした。


「ピエールが言ってたよ。ほら、前にエドガーが陽動作戦で或る部隊を狙ったじゃない? 隊長さんたちの似顔絵を流したって報告があってさ。その時、ピエールが君のことを気味悪がってたんだよね」


 ダミアンの指先がほんのわずかに強く棚を押し、ドミニクは目を細める。


「あの隊長さん、なんて名前だっけ」

「……さあ。わかりません。命令の通りに書いただけです」


 ダミアンは視線を逸らしたまま答えるとドミニクがゆっくりと笑った。


「嘘はやめようね。君が、その隊長さんを気にしてることもピエールから聞いたんだ。……兄上も僕も、目を瞑ってあげてるだけだよ」


 甘い匂いがさらに濃くなり、ダミアンの視界が揺れて呼吸が浅くなり、背筋に冷たいものが這い上がった。ドミニクはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……まあ、君の気持ちもわかるけどね」


 ドミニクが立ち上がると壁に手をつきながら視線を宙に漂わせる。


「僕も、忘れようにも忘れられない存在がいるから」

「……それは、ゼフィランサスのことですか」


 ダミアンが反射的に口を開くとドミニクの動きがぴたりと止まって掠れた声を落とす。


「……まあ、あいつは別ベクトルで忘れられない存在だけどね」


 ドミニクはふらりと机へと近づくと指先で小瓶の一つに触れた。


「けど、僕が言ってるのは……まだ堕ちきっていない。でも、壊れたまま正気を保っている子のことさ」


 ドミニクは小瓶を持ち上げ、中で淡く揺れる液体を蝋燭の火にかざすようにしてじっと見つめる。


「そういう奴を見ると壊したくなる。堕ちていく様を見たいし、共に堕ちたいと願ってしまう」


 ドミニクが囁くように言うと小瓶を胸元へ引き寄せた。彼のうっとりとした視線が完全に別の世界を見ている。ダミアンは息を止めて目の前の男を見つめていた。


 ——違う。今、この瞬間に確信した。この人と自分は違う。


 甘い匂いがやけに強く感じられ、ドミニクはしばらく小瓶を眺めていたが、不意に視線を外して何気ない調子で口を開いた。


「そういえば、なんで戻ってきたの?」


 ドミニクの唐突な問いに、ダミアンは一瞬だけ息を詰めたがすぐに姿勢を正して淡々と答える。


「あれからブレストにて、城と海の監視を続けておりましたが……ある時、兄上が姿を消されました。私兵も誰一人連れずに。命令がなくてはどう動くべきか判断がつかず……一度、こちらへ戻るべきだと考えました」


 ドミニクは軽く肩をすくめた。


「ピエールか。あいつは……まあ、いつものことでしょ。どうせまた夢蛇探しに躍起になってるんじゃない?」


 そう言ってから、ドミニクは何か思いついたように口元を歪める。


「そうだ。君も暇なら、ちょっと頼みたいことがあるんだ」


 ダミアンは一瞬だけ視線を揺らしたが、すぐに伏せた。拒むという選択肢は、最初から存在しない。


「……承知しました」

「いいね。その顔」


 ドミニクは満足げに笑って踵を返す。ダミアンは何も言わず彼の背を追った。二人が地下室を出ると屋敷の廊下に足音だけが規則的に響いた。階段を上がて二階へ、さらに奥へ奥へと進む。やがてドミニクは一つの扉の前で立ち止まる。重厚な木製の扉、取っ手には古びた金属が使われ、長く触れられていないような鈍い光を放っていた。ドミニクは躊躇なく手をかけて軋む音と共に開ける。


「ここだよ」


 室内は薄暗く、冷たい空気が流れ出てきた。壁一面に並ぶ書架に古びた書物や巻物が整然と収められ、窓から差す昼の光がぼんやりと照らしている。ドミニクが足を踏み入れた瞬間、ダミアンを振り返って薄く笑った。


「さあ、手伝ってもらうよ」


 二人は書庫の奥へと進んでいった。そこには一枚の大きなテーブルが据えられている。上にはフランス全土の地図が無造作に広げられ、端はめくれ上がっていた。その周囲には埃を被った古い書物や使いかけのインク壺、散らばった羽根ペンが乱雑に置かれている。長く人の手が入っていないはずなのに、どこか使われ続けている気配があった。ドミニクはテーブルの前で足を止めて言う。


「ここで待ってて」


 それだけ告げると、ドミニクは振り返ることもなく奥へと消えていく。足音が遠ざかって静寂が落ち、ダミアンはその場に立ち尽くしたまま周囲へ視線を巡らせた。テーブルの向こう側、壁に掛けられた大きな何か。半ばまで垂れ下がった幕に覆われて全体は見えないが、隙間から覗く絵の一部だけで人物画だと分かる。にもかかわらず、ダミアンの胸の奥に説明のつかない違和感が生まれた。見たくないはずなのに、見なくてはいけないものを前にしているような曖昧な感覚。ダミアンは無意識にテーブルの脇を回り込んだ。足音は自然と忍び足になっている。彼が肖像画の正面に立って幕を見上げると、引き上げるための紐がすぐ手の届く位置に垂れている。ダミアンは一瞬躊躇するが、次の瞬間には指が動いて紐を引いた。布が擦れる音とともに幕がゆっくりと持ち上がり、差し込む陽光が画面を照らしていく。


 現れたのは貴族服を纏った、爬虫類の肖像だ。鱗のような質感の皮膚、細く裂けた瞳。

 それでもなお堂々とした威厳を持って描かれている。


 ダミアンの喉がわずかに鳴った。


「……トカゲ?」


 自分でも理解しきれないまま言葉が漏れた瞬間、不意にダミアンの肩へ重みが乗ってビクリと体が跳ねる。ダミアンが反射的に横を見上げると、すぐ傍にドミニクが立っていた。いつの間に戻ってきたのか分からない。肩に置かれた手はそのままに、彼はダミアンを抱き寄せるように引き寄せるが、彼の視線はあの肖像画を見上げていた。口元からは笑みが消え、目だけが細く光っている。


「さて」


 ドミニクがぽつりと呟くとダミアンの肩に置いていた手を指先で撫でるようにゆっくりと外し、振り返ってテーブルの方へ歩み寄ると机の上に一冊の書物を置いた。分厚くはない、簡素な装丁だ。ドミニクは何気ない手つきで表紙を開きパラパラとページをめくると、乾いた紙の擦れる音が静かな書庫に響いた。ダミアンはドミニクの横から本を覗き込む。紙面に並んでいるのは見たこともない奇妙な文字列、どの頁を見ても同じだった。既知のどの言語にも当てはまらず、ダミアンは思わず口を開く。


「……これ、なんですか」


 ドミニクはページをめくる手を止めずに答えた。


「うちに伝わる古い書物だよ。と言っても、元々の所有者は教団だったけどね。今はうちが預かってる」


 ドミニクの指先が最後のページを弾くように送るとパタリと閉じた。


「古代文字の類かな。誰も読めないけど……謂れは判明してる。教団の連中が言ってたんだけどね。この書物は、紅い星の予言について書かれたものらしい。東洋に齎された予言の原典。その核心部分と詳細を古代文字で複写したもの」

「……古代文字? 何故……」


 ダミアンの思考が追いつかないまま言葉が漏れると、ドミニクは肩をすくめてくつりと笑った。


「さあね。たぶん、これを書いた著者が悪い連中の手に渡っても悪用されないように工夫したんでしょ。実際、予言の成就を阻む側の教団がこれを持ってたんだから皮肉な話だよね」

「……その重要な書物が、どうしてダラス家に?」


 ダミアンが問いかけるとドミニクの視線が肖像画へと注がれ、彼の横顔に笑みが綻ぶ。


「決まってるでしょ? 父上が取り上げたんだよ。これがあると人身売買のビジネスがおじゃんになるから」


 ダミアンは再び肖像画を見上げ、ドミニクの視線がダミアンの横顔に流れた。


「ただ、僕としては予言に該当する人物が誰なのか知りたくてね。面白いと思わない? けど、忙しくてさ。代わりに調査をお願いしたいんだ」


 ダミアンの喉がわずかに動き、肖像画から目を離さないまま言葉を紡ぐ。


「あの……ひとつ、聞いてもいいですか……あのトカゲ——」

「やだなあ、冗談も程々にしてよ」


 ダミアンの耳元にドミニクの囁きが落ちた瞬間、ダミアンの視界が反転して強い力で押し倒され、背中がテーブルに叩きつけられて息が詰まった。ダミアンが身を起こそうとするも腕を押さえつけられて身動きが取れない。


「っ……!」


 ドミニクが無造作にダミアンの衣服を引き剥がした。布が裂ける音がやけに大きく響き、ダミアンの右肩が露出すると薄緑色の鱗のような質感が浮かび上がっている。ダミアンは見せたくなかったものを暴かれて呼吸が乱れ、ドミニクはダミアンを見下ろしながら呟く。


「分かってるくせに」


 ドミニクがゆっくりと手を離すと今度は自分の襟元に指をかけ、ボタンを外して胸元を開いた。胸元に現れたのは同じもの、ドミニクは人の肌に混じる滑らか鱗を見せつけるように身を乗り出す。


「目を背けても、これは消えないよ? 兄上もピエールも、僕たちは血筋からは逃れられない。父の教えと遺言、そしてダラス家の願望だけが頼りなんだ。普通の暮らしなんて、最初から無理なんだよ」


 ダミアンは言葉を失ったまま呼吸だけを繰り返し、ドミニクは先ほどの書物を手に取るとダミアンの胸の上へと置いた。


「予言を阻むのは僕の役目。教団の導師として、ね。君にも手伝ってもらう。——旅に出ようか」


 ダミアンの喉がわずかに鳴り、ドミニクは首を傾げて続ける。


「それと……ついでに、ちょっとした賞金稼ぎもしよう。五鬼衆、それもジャスパーの抹殺だ。まだ生きているなら今度こそ息の根を止めてやる。遠回りはやめよう、直接の方が早い」


 ダミアンの背筋に冷たいものが走り、ドミニクは彼を見下ろすまま甘く囁いた。


「言っておくけど。君に拒否権はないよ。……父の教育を思い出せ、命令に従え。——今日から僕の道具として使ってあげる」


 ダミアンの視界が揺れた。拒絶するという選択肢そのものがどこにも存在しない。胸の上の書物だけがやけに重く感じられる。この書物は命令であり、鎖でもあった。

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