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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】7・8巻「真相編」  作者: セキユズル
第十章「獣になんか負けない。——今度こそ、俺でいられるように」
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第十章① Montage

 ピエールは目を細めて遠くからブレスト港を見張っていた。波止場には人の騒めきが渦巻いている。軍服の群れが一点に集まり、何かを取り囲んで騒然としていた。


 ——エドガーの亡骸だ。


 海軍の者たちは勝利の余韻と混乱の狭間で浮き足立っている。歓声はあるが統制は崩れ、どこか締まりのない空気が漂っていた。ピエールは彼らの様子を眺めながら口元がわずかに歪める。


「……死んだか、エドガー」


 一族の秘密に最も近づいた男、そして黒辰封儀教団のエラー品。どちらにせよ、長く生かしておく理由はなかった。戦争としては海賊同盟の敗北だが、そんなものはどうでもいい。重要なのはただ一つ。


「これで、また隠せる」


 ピエールは踵を返し、近くに繋いでいた馬に軽やかに跨った。彼が手綱を引くと馬は即座に応じ、石畳を蹴り上げて街の中へと駆け出していた。ブレストの喧騒をすり抜け、裏路地をいくつも抜けた先、人目につかない建物の一室へと滑り込む。ピエールが室内に入ると控えていた部下たちが一斉に頭を下げた。


「ご無事で」

「ああ、問題ない」


 ピエールは手袋を外しながら室内を見渡すと眉が動いた。


「……ダミアンはどうした」


 部下の一人が控えめに答える。


「はっ。昨日、単独で外へ。行き先は不明です」

「……は?」


 ピエールの指が止まり、低くなった声に室内の空気が張り詰めた。


「よりによって、このタイミングで消えるか」


 本来ならパリへの報告はダミアンに任せるつもりだった。自分が動けない以上、あの道具が最も適任だったはずだが、その最適解が今はいない。ピエールは舌打ちを一つ落として吐き捨てるように言う。


「使えねえ……」


 ピエールはすぐに思考を切り替えて別の部下を指す。感情に引きずられるほど甘くはない。


「お前、パリへ行け。報告は簡潔でいい。エドガー死亡、戦況収束、一族への影響なし、これだけ伝えろ」

「承知しました」


 即座に動き出す部下の背を見送り、ピエールはゆっくりと息を吐いた。静寂が戻るが、その静けさの中で別の違和感が浮かび上がる。


「……ダミアン」


 あの道具が理由もなく動くはずがない。命令もなく勝手に姿を消すなど、あり得るとすれば一つだけだ。独断か興味か、あるいは執着か。ピエールは目を細める。今はそれを追うべきではない。優先順位はすでに決まっている。彼は机の上に置かれた地図へと歩み寄り、指先でブレスト周辺をなぞった。


「……夢蛇」


 あれはただの道具ではない。一族の根幹に関わる歪んだ力だ。ピエールは指先を止めて笑う。


「探すぞ。拠点はこのままブレストに置く。まだ動くな。海軍も海賊も、しばらくはこの街から目を離せない」


 つまり、ここが最も安全だ。矛盾した結論を当然のように受け入れ、ピエールは椅子に腰を下ろした。外ではまだ戦争の残響が鳴っているが、この部屋だけは別の時間が流れていた。


「さて……次はどちらが先に辿り着く?」


 五鬼衆か、それとも自分たちか。ピエールは目を閉じて笑みを深めた。



 夕日はすでに沈み、海と街は夜の帳に包まれていたが、その闇はどこか穏やかで戦いの気配を押し流している。ペンフェルド川沿いの造船所には帰還した三隻の大型戦列船が並び、甲板には裂けた帆や焦げ跡が生々しく残っていた。それでも船を降りた者たちの顔には、安堵と勝利の実感が遅れて全身に染み込んでいくようだった。


 同じ頃、マクシムも港へ戻っていた。城内は騒然とし、担架が行き交い、怒号と笑い声が混ざり合い、どこもかしこも人で溢れていた。勝利に酔う空気の中で血と薬草の匂いが強く漂っている。フェルナンドが別室へ運ばれていくのを横目にマクシムは歩を緩めた。ソフィーが医官に手際よく症状を伝え、指示を飛ばしていく。彼女の声は落ち着いていて、戦場にいた時と何も変わらない。


 マクシムが医務室の扉を開けて中に足を踏み入れた瞬間、匂いが一段と濃くなった。マクシムは上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。布が裂けた箇所から露わになった皮膚に空気が触れ、じんじんと遅れて痛みが広がった。戦っている最中は感じなかったものが、一気に押し寄せてくる。彼の視界の端でソフィーが息を呑むのが分かった。


「数ヶ月前の、ルキフェルとの対戦も……こんな感じだったんですか?」


 彼女の問いにマクシムは肩をすくめる。


「あの日の方が重症でしたよ。あの時は本気で殺しに来てましたから」


 言葉に嘘はない。あの時は立つことすらできなかったが、今は違う。


「今回はまだ歩けてる。まだマシでしょう」


 マクシムがそう言いながらもソフィーに腕に触れられた瞬間、神経が鋭く反応した。ソフィーの手が容赦なく動き、薬液が染み込んだ布が傷口に当たる。


「っ……!」


 マクシムの口から思わず息が漏れ、反射的に背もたれを掴む。


「もう少し優しくできませんか?」

「優しくしたら、きれいに消毒できません」


 ソフィーに淡々と返される上に手は止まらない。むしろ正確に次の傷へと移っていく。焼けるような痛みが走るたびマクシムの指先に力が入る。


「……ルキフェルの一撃より、こっちの方が効くかもしれませんね……」

「大げさな」


 ソフィーは目の前の仕事に集中している。包帯が巻かれていく感触に、ようやくマクシムの身体が落ち着いていった。呼吸が整い、痛みが輪郭を持ち始める。処置が終わる頃には外の喧騒がやけに遠く感じられた。


「次は……もう、こんな怪我しないでください」


 結ばれる包帯の感触とともに落とされたソフィーの言葉に、マクシムは小さく笑う。


「それは約束できませんね。ルキフェル次第です」


 軽く返したつもりだったが、ソフィーの気配がわずかに止まる。背を向けた彼女が道具を片付けようとした瞬間、マクシムはソフィーの首に目を止めて思わず彼女の腕を掴んだ。


「……待て。首、血が出てる」


 ソフィーは首に手を当てて指先を見下ろした。指先が赤く染まるのを見て、彼女が軽く眉を寄せる。


「これくらい、すぐ止まります」

「すぐ止まるかどうかは僕が決める。座れ」

「いえ、結構です」

「……」

「……」


 互いに引かずに視線がぶつかる。先に折れたのはソフィーだった。


「……じゃあ好きにしてください」


 椅子に腰を下ろした彼女に、マクシムは布を取って薬液を染み込ませる。彼の手がソフィーの首筋に触れた瞬間、ソフィーの肩から力が抜けた。さっきまで自分が受けていたものを返しているだけのはずだったが、どういうわけか動きが慎重になる。マクシムは傷口を確かめ、余計な力をかけないように布を当てる。血を拭い、包帯を巻く手順は自然と頭に浮かんだ。


「動かないでください、まだ終わってないので」

「……ちょっと遅くないですか?」

「うるさい、黙って」


 マクシムが首筋に触れるたび皮膚の温度が伝わってくる。戦場の熱とは違う、生きている人間の温度だった。


「……よし、これで大丈夫」


 マクシムが包帯を結び終えて手を離すと、ソフィーが鏡を取って首元を確認する。やや不格好な巻き方だったが、傷はきちんと覆われていた。


「上出来ですよ」


 鏡越しに向けられた彼女の笑みに、マクシムは肩をすくめる。


「一人でも医療の心得があれば……例え最悪な状況でも、結果は大きく変わります」


 口をついて出た言葉に自分でも驚く。荒れた島、限られた資源、血の匂いの中で繰り返し聞かされた、レオンの言葉をなぞるように言っている自分にほんの一瞬だけ違和感が走る。ソフィーが鏡を置いた時、マクシムの視線がソフィーの首元で光る銀細工に止まった。


「——その首飾り、立派ですね。それに……あなたがアクセサリーを身につけているとは意外です」


 ソフィーが首飾りに触れる。


「これは贈り物です。大切な友人から預かっているんですよ」

「……そうですか」


 何かが引っかかって胸の奥がざらつき、マクシムは目を逸らした。余計なことを言いそうになって口を噤み、余った包帯を整える手が先ほどよりも慎重になる。少しだけ面白くないと思っただけだ。それ以上でも、それ以下でもない。ソフィーは何も気づいていない様子で道具を片付け、マクシムは彼女の背を見ながら息を吐いた。


 二人が医務室の扉を開けると中庭の空気が流れ込んできた。戦いの熱はすでに引き、代わりに残っているのは勝利の余韻だ。笑い声、肩を叩き合う音、互いの無事を確かめ合う声。夜気の中に柔らかな安堵が溶けている中で、真っ先にこちらへ気づいたのはダヴィットだった。


「隊長! ソフィー! ご無事でしたか!!」


 ダヴィットが勢いよく駆け寄ってくる。彼の目は本気で安堵していた。


「隊長が海賊に攫われたとき、皆どれほど心配していたか……!」


 ダヴィットの言葉を受けながら、マクシムは息を吐いた。張り詰めていた何かがわずかに緩む。仲間の顔を見た瞬間にしか訪れない感覚だ。周囲では隊員たちが互いに労いの言葉を交わしている。誰もが疲れているはずなのに表情は明るい。彼らの光景をマクシムは少し離れた場所から眺めていると鋭い声が割り込んだ。


「ソフィー!」


 グウェナエルが息を切らして一直線にソフィーへ向かうと、彼女の両肩を掴掴んで声を荒げた。


「その首の包帯……どうした!?」

「ああ、ちょっと作業中にやっちゃいました」


 ソフィーがいつもの調子で軽く返すが、グウェナエルは強く言い切る。


「嘘を吐くな!」


 マクシムは二人のやり取りをじとりと見ながら、グウェナエルの手とソフィーの肩と距離を測っていた。


「……エドガーに刃を突きつけられました」


 ソフィーの言葉が落ちた瞬間、中庭の温度が変わって周囲の笑い声が遠のき、数人の隊員が息を止めるのが分かった。


「……くっ、大丈夫か、ソフィー!」


 グウェナエルがソフィーを抱き寄せる腕に力が入る。——その動きがやけに鮮明に見えて、マクシムの目つきが細くなって冷たさを帯びた。


「……あの、離してくれませんか?」


 ソフィーが困ったように声を落とし、ようやくグウェナエルが手を離す。


「……悪かった」


 リラがマクシムに目を向けると落ち着いた声で口を開いた。


「隊長。ブレスト港で……エドガーの死体があったと噂を聞きました。本当ですか?」


 全員の視線がマクシムに集まり、マクシムは一瞬だけ目を伏せると顔を上げた。


「本当です。僕と、五鬼衆で仕留めました」


 騒めきが走り、一度に受け止めながらマクシムは軽く手を上げた。


「詳しい話は宿舎に戻ってからにしましょう。ここでは話すのが難しい」


 隊員達は互いに顔を見合わせた。戦いは終わったが、本当に終わったものはまだ何一つない。マクシムは彼らの視線をを背に受けながらゆっくりと歩き出した。



 キール通りの宿舎、食堂にはマクシミリアン・ブーケ隊の全員が揃っていた。戦いを終えた者たちの顔には疲労が色濃く残っているが、同時に勝利の余韻と未だ抜けきらぬ緊張が空気に沈殿していた。マクシムは彼らの中心に立ち、淡々と経緯を語った。


 攫われた後のこと、フェルナンドとの合流、エドガーとの決裂。そして、五鬼衆の介入。言葉は簡潔だった。余計な感情は削ぎ落とされ、事実だけが並べられていく。隊員たちはただの「戦況報告」ではないことを理解していた。マクシムの語る連携は偶然ではない、最初から最後まで計算され尽くしたものだった。ニールの策、ジャスパーの操船、コリンの煙、マテオの不明な動き。そして、ルキフェルに関しては全貌を知らずとも異様さだけは伝わってくる。


 その時、ジョルジュが驚きでつい声を上げた。


「あー! あの、後方の海賊船が次々と沈んでいった、あの謎現象!? まさか、全てルキフェルの仕業だったのですか?!」


 彼の言葉を発端に部隊全員がざわつき始める。


「……おかしいと思ってたんだ。突然、船同士が衝突したり、別の船団は爆発したり、誰があの混乱を招いているのか海軍側でも不可解な現象として映っていた」


 サミュエルが頭を抱えて苦悶しているのを受け、スザンヌも信じられないという顔で首を横に振る。


「だとしても、ルキフェル単独で行ってたというんですか? そんなの信じられません」


 ペネロペがスザンヌに続いて立ち上がって口を開くも、すぐにまた椅子に座り直した。


「……ごめん、やっぱ何も言えないや」


 ペネロペの声が途切れると場には重たい沈黙が落ちた、ダヴィットの拳がテーブルを叩いた。


「だったら俺が言わせてもらう! あいつ……頭もやることもおかしすぎる!」

「……私たちが行った海賊撹乱作戦を、一人でやってのけたってことよね」


 ロザリーの隣で聞いていたアニータがテーブルに肘をつけてため息を吐く。


「じゃなかったら、その怪奇現象も説明がつかないわ」


 アニータの言葉に静まり返る中で、マクシムは結論づけた。


「つまり、五鬼衆全員がそれぞれの役割を最大限に活かし、僕とエドガーの接触機会を作るために完璧に連携していたということです。偶然など一切ありません。すべて計算され尽くした戦いだったのです」


 マクシムの説明が一段落すると、グウェナエルは顔を紅潮させて拳を握りしめた。


「それなら、この勝利は……五鬼衆の手の内にあったってことか? だったら、早くエドガーを仕留めてくれれば、こんな血は流れなかったのに!」


 彼が怒りの混じった声で叫び、リラは視線を伏せて苦笑いを浮かべながらダヴィットに小声で囁く。


「白煙の爆弾って……まさかコリンお手製だったなんて。私たち、あんなので簡単に惑わされるなんて…恥ずかしい」


 ダヴィットも顔を赤らめ、思わず頭をかいた。


「そうだな……まんまと引っかかって、あれは反省だ」


 シャルルは口元に手をやって震えながら小声で呟いた。


「ニール……まさかあんな奇抜な策士だったとは……運まで視野に入れた計画性……。私には真似できない」


 それを聞いたダヴィットが少し興奮気味に補足した。


「ニールは言っていました。『自分たちがエドガーを殺すから』と」


 ダヴィットの言葉が投げ込まれた瞬間、誰もが言葉を失って互いの顔色を窺った。五鬼衆の本心に触れた気がして背筋を冷たいものが這った。しばらくして、マクシムが隊員達を見回すと厳かに告げる。


「皆、今日は自室で休むように」


 誰も逆らわず頷いくと椅子が引かれ、足音が重なって食堂から人が消えていく。最後に残った灯りが揺れ、やがて静寂が満ちる中でスザンヌだけは足を止めていた。扉の手前、誰にも気づかれない位置で彼女が振り返ると頭の奥にルキフェルの姿が浮かんだ。無愛想で冷たくて、どこか掴めそうで掴めない何かを持っていた男。彼女の胸の奥にひどく曖昧な感情が残っていた。恋だったのか、憧れだったのか。それとも、ただの錯覚だったのか。分からない、分からないまますべてが遠ざかっていく。あの瞳も、あの声も。あの、得体の知れない存在も。スザンヌは小さく息を吐いた。


「……本当の彼はどれ」


 亡霊か、悪魔か。一瞬だけ言葉が脳裏をよぎるが、すぐに打ち消した。違う。どちらでもない。もっと単純で、もっと救いのないものだ。彼女は視線を落とすと唇を結ぶ。


「……いいえ。——最初から、獣だったのかもしれない」


 スザンヌは感情ごと押し込めるように扉を開け、振り返らずに去っていった。残された食堂には、もう誰の姿もいない。



 ブレスト城、執務室。厚い扉に隔てられた室内は戦の喧騒が嘘のように静まり返っていた。エリオットは窓辺に立ち、夜に沈みゆく港を見下ろしていた。勝った。海賊同盟は壊滅、エドガーは討たれた。それは紛れもない事実だったが、その実感はどこか遠い。彼の胸の内に残っているのは勝利の余韻ではない、別のものだった。エリオットの脳裏に夕暮れの光景が蘇る。ブレスト港、血と潮の匂いが混じる中で見た五鬼衆とマクシム。あの男の目、ただの士官のものではなかった。あれはもっと深い場所に根を張った意志だ。復讐心と呼ぶしかないもの。エリオットは目を細めた。


 ——そして、もう一つ。ソフィーの首元にあった、あの銀細工。龍と蛇が絡み合い、中央に青い石が嵌め込まれている。


 思考がそこに差しかかった瞬間、エリオットはゆっくりと息を吐いた。——考えるな。今、掘り下げるべきではない。これは職務とは無関係だ。無関係である以上、優先すべきではない。そう結論づけた時、控えめなノックの音が静寂を裂いた。


「入れ」


 扉が開き、アルフォンスが入室した。規律正しい足取り、いつも通りの姿勢。


「現在、司令官が報告書を作成しております。詳細については、今しばらくお時間を頂ければと」

「ああ」


 アルフォンスはエリオットの横顔を見て首を傾げかけて淡々と続ける。


「お茶でもお持ちしましょうか。お疲れでしょう」

「ああ、頼む」

「承知しました」


 アルフォンスが一礼して退室すると再び室内に静寂が戻った。遠くで港の灯りが揺れている。勝利の光と呼ぶべきものだが、エリオットの目にはどこか別のもののように映っていた。海賊の脅威は一旦遠のいた。戦としては終わりだが、終わっていないものがある。過去、因縁、そして自らが切り捨ててきたはずのものが内側から食い込んでくる。エリオットは目を閉じることなく立ち尽くしていた。——夜の海を見下ろしたまま。



 ベルリオーズは扉を二度、軽く叩いた。


「入れ」


 短く返ってきたのはイザベルの声だった。ベルリオーズが室内に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わる。中央の机の上に横たわる、人の形。すでに調査は一段落しているのだろう、遺体には白布がかけられていた。その両脇にイザベルとルソーが立っている。ベルリオーズは一歩進み、軽く頭を下げた。


「お呼びでしょうか」


 イザベルは視線だけで応じ、すぐに本題へ入る。


「実は、ひとつ頼みがある。これがエドガーだ。ブレスト港で発見された、経緯は現在調査中」


 イザベルが布の下を示すとベルリオーズの視線が細くなった。かつて自分を脅した男が、今じゃ骸としてここに在ることに思わず背筋が凍る。


「だが、第七艦隊部隊長のマクシミリアン・ブーケが関与しているのは確実だ。本人は負傷、療養優先のため暫くは動けん。だからこそ、君の父上に協力を要請したい。第二部隊と連携し、金の腕輪の男の正体を突き止める。君とフェルナンドの証言を基に似顔絵も作っておいた」


 そこで、イザベルはベルリオーズに目を向けた。イザベルの茶色い右眼と、前髪の向こうに隠された灰色がかった左眼がベルリオーズを鋭く捕らえてくる。ベルリオーズは一瞬だけ目を細めた。


「父上……ええ、構いませんよ。それより、“気になること”とは?」


 ベルリオーズの問いにルソーが無言で布に手をかけて払うと、露わになったのはエドガーの遺体だった。戦場の痕をそのまま残した、冷えた肉体。ルソーは遺体の左腕を指差した。


「これを見ろ」


 ベルリオーズは机の横に回ってルソーの隣に立つと視線を落とした。——刻まれていた左腕の内側、黒い星の紋様。あまりに意図的な配置、ただの装飾ではなさそうだ。


「……タトゥー、ですか」


 ベルリオーズが呟くとイザベルが小さく息を吐いた。


「ユルリッシュがこれを見て『胸騒ぎがする』って言うのよ」

「タトゥーってのはな、ただの飾りじゃねえ。意味がある。特に海賊はこういうもんに妙にこだわる」


 ルソーが鼻で笑い、ベルリオーズは自分の左手に視線を落とした。彼の左中指に嵌められた黒い指輪、光を吸い込むような鈍い輝きをにベルリオーズは含を持たせて言う。


「たしかに。アクセサリーひとつでも背景はありますからね」


 ルソーは再び遺体へ視線を戻すと吐き捨てるように言う。


「この模様がな、どうもきな臭え。十四代目に調べてもらいたい」

「俺のノクターを実家に飛ばします。 金の腕輪の男についても、同時に洗わせましょう」


 ベルリオーズの言葉にイザベルは力強く頷いた。机の上の遺体は何も語らないが、その腕に刻まれた黒い星だけが次に暴かれるべき何かを示していた。



 翌日、ブレストでは戦死者たちの弔いが執り行われた。海軍も陸軍もブレスト港へ集い、昨日までの喧騒が嘘のような朝の霧の中で亡き者たちに祈りを捧げた。エリオットもまた前に立ち、勝利と犠牲の重み、そして明日へ進むべきことを兵たちに告げた。だがその後で、別の火種が燃え始めた。


 ソフィーはフェルナンドの処遇を聞かされる。トゥーロン送り、すなわち見せしめのための処刑だ。納得できるはずもなく、彼女はその足でエリオットの執務室へ乗り込んで真正面から抗議したが、エリオットもまた一歩も引かなかった。海賊は法の下で裁かれるべきだと、国王と民衆の名の下に断罪は必要だと冷たく言い切った。二人が激しくぶつかり合った末、ソフィーはフェルナンドの付き添いとしてトゥーロンへ向かうことを決める。マクシムもまた、そんな彼女を一人で行かせることはできず同行を決めた。こうして二人はブレストを離れ、南の港町トゥーロンへ向けて発つことになった。


 一方、エリオットは張り詰めていたものが切れたように体調を崩した。勝利の代償、過去の罪、押し寄せる因縁が彼を蝕み始めていく。そして、各部隊の健闘を称えて休暇の通達が駆け巡り、キール通りの宿舎にも知らせが届いた。


「あ、じゃあイタリア行こうよ。メリッサのお墓参りしたい」


 ペネロペの一言ですべてが決まり、静かだったはずのキール通りの宿舎が、一瞬でひっくり返る。


「隊長とソフィーを迎えに行くぞ!」


 ダヴィットが真っ先に声を張り上げ、机に広げられていた書類を押しのけた。次の瞬間にはもう帳簿と積荷表を引っ張り出し、必要物資の計算を始めている。


「食料、水、予備帆、火薬……三日で出るぞ、無駄は省け!」


 ダヴィットの横でジョルジュが工具箱を抱えて駆け抜ける。


「船底の確認、帆柱の補強やる! ペネロペ、来て!」

「はーい、任された!」


 ペネロペは笑いながら袖をまくり、二人でブレスト港へと飛び出していった。アニータは腕を組んだまま立ち尽くしていたが、やがて深いため息をつく。


「……あんたたち、どれだけ食べるか自覚ある? 普通の遠征の倍はいるわね……いや、三倍かしら……」


 ぶつぶつと呟きながら、彼女もまた食料の算段を始める。一方でテーブルの上には地図が広げられ、ロザリーが指で海図をなぞる。


「ブレストからトゥーロン経由でイタリア……最短ならこの航路ね」

「ただし、この時期の風向きだとここは荒れる可能性が高い」


 シャルルが補足して別のルートに印をつける。


「安全を取るならこっちね。時間はかかるけど」

「時間はないが、沈んだら意味がない」


 二人の視線が交差して結論をすり合わせていく後ろで、サミュエルが腕を回しながら笑った。


「昼の舵は任せろ。久々の長距離だ、腕が鳴る」


 壁にもたれていたグウェナエルが目を細める。


「夜は俺が見る。……どうせ寝かせてくれないんだろ」


 吐き捨てるような声だったが、彼の足はすでに港の方へ向いていた。その光景を部屋の隅で見ていた二人、リゼーヌが小声で呟き、スザンヌも引きつった笑みで頷く。


「……ねえ、これ、休暇だよね?」

「うん、たぶん……」

「……なんで全員、出撃前みたいな顔してるの……」


 ただ一人、リラだけがため息をついた。


「……ダヴィット」


 呼ばれた本人は顔も上げずに答える。


「なんだ、副官殿」

「副官じゃない。あと、そのテンションやめなさい」


 リラはダヴィットに歩み寄り、積荷表をひょいと覗き込んだ。


「戦闘じゃないのよ。指揮は分担しましょうよ、あなた一人で回そうとしないで」

「効率が悪い」

「効率の問題じゃない。全員で動く部隊でしょう?」


 リラの一言でダヴィットの手が一瞬だけ止まって息を吐いた。


「……わかった。任せる」

「最初からそうしなさい」


 リラは肩をすくめて別の帳簿を手に取った。もう誰も止まらず荷は積まれ、船は整えられ、航路は決まり、食料の算段もつき始めている。


 三日後、マクシミリアン・ブーケ隊の船はブレストを離れた。トゥーロンへ。そして、その先のイタリアへ。……弾丸のように。いや、どちらかと言えば、狙いも定まらぬまま突き進む無鉄砲な群れのように。



 その頃、ブレストにあるヤンが営む雑貨店。奥の一室で一人の男がようやく目を開けた。イヴォンは長く続いていたフラッシュバックによる発作から解放されたばかり。彼はベッドに背を預けたまま浅く息を吐き、向かいの椅子に腰掛けていたアランが口を開いた。


「それで、何を思い出したんだ?」


 室内には他にもマルクとティエン、ニコラの姿がある。イヴォンは目を伏せて掠れた声で語り出す。


「……海軍にいた頃だ。誘拐されて拷問を受けた時のこと。問題は、連中の顔だ。……ずっとフランソワのせいだと思い込まされた」

「……フランソワ船長が、そんなことするわけないですよ」


 ニコラがぽつりと呟くとティエンが彼の肩に手を置いた。イヴォンは小さく首を振る。


「……ああ、違った。今ならはっきり言える。——ダラス家の連中だ。あの三男……あいつの顔を見て、全部繋がった。それと、もう一人。ジャスパーたちが言っていた特徴と一致する。……おそらく次男坊の方だ」


 マルクが舌打ち混じりに吐き捨てる。


「はっ、マジかよ。貴族様が随分えげつねえことやってんじゃねえか」

「名があるからといって、手が綺麗とは限らん」


 イヴォンは淡々と返すとティエンが腕を組む。


「でも、なんであなたが狙われたんだ」


 イヴォンは少しだけ目を細めた。


「まだ確証はないが……夢蛇だろうな。内部粛清の任務の一環で『M』、つまり夢蛇の正体を追っていた。その矢先に連中が現れた」


 マルクが低く笑う。


「じゃあ、ほぼ黒じゃねえか。夢蛇の密輸、ダラス家が噛んでるってことだろ」

「断定はできん、物的証拠がない」


 イヴォンが冷静に切り捨てるとティエンがぽつりと呟いた。


「従兄弟が王府海務院の航路監査官なんだ。今なら協力を仰げるかもしれない」


 アランが思わず額に手を当てる。


「話が広がりすぎているな。リー・ウェンの連中とも情報を共有するべきだ。夢蛇絡みなら、あいつらの方が詳しい」


 イヴォンがわずかに身を起こした。


「……それなら、少し寄りたい場所がある」

「どこだ?」


 アランが眉を上げるとイヴォンは答えた。


「キール通りだ。確かめたいことがある」


 ティエンとニコラが顔を見合わせて首を傾げる。彼らの視線の先で、イヴォンの目だけが鋭さを取り戻していた。



 キール通り、開け放たれた門の前で一人の海軍員が呆然と立ち尽くしていた。第二部隊の隊員だった。マクシムからエドガー討伐時の詳細な経緯を聴取するために訪れただが、宿舎はもぬけの殻だった。人の気配がない。廊下にも庭にも、誰一人として姿が見えない。つい先日まであれほど騒がしかった場所とは思えないほど異様な静けさが漂っていた。

 ……いや、いるにはいる。黒い馬が一頭、宿舎の入り口付近で好き勝手に歩き回っていた。馬は鼻を鳴らし、石畳を踏み鳴らしながら自分の縄張りを主張している。


「……いや、なんで馬がいるんだよ」


 第二の隊員はため息と共に呟いた。誰もいない宿舎と場違いな生き物、許可は取れているのかと余計なことが頭をよぎるあたり、自分がまだ軍人であることを思い知らされる。第二部隊員は深く息を吐いた。


「……仕方ない。金の腕輪の男の件に当たるか」


 彼が踵を返しかけ時、横合いから声が飛んでくる。


「よお、久しぶりだな」


 第二隊員が反射的に顔を向けると、杖をついイヴォンが立っていた男。一瞬、誰かわからなかったが、イヴォンの鋭い目つきが隊員の脳裏に記憶を引きずり出す。


「……っ」


 第二隊員は思わず姿勢を正した。かつて第八部隊に所属していた頃の上官、イヴォン・ローラン。怪我で退役したと聞いていたが、目の奥の光は変わっていない。杖をついているにも関わらず背筋は真っ直ぐに伸び、立ち姿には一切の隙がない。かつて職場で見た男のままだった。

 彼の隣には若い男——ティエン——が一人、付き人だろうか。イヴォンの肩を支えるように寄り添っている。二人の背後には馬車が停まっていた。現実味の薄い光景に数瞬、第二隊員は言葉を失うが我に返ったように慌てて頭を下げた。


「せ、先輩じゃないですか! ご無沙汰してます!」


 隊員の声がわずかに上ずり、イヴォンはふっと口元を緩める。——珍しく柔らかい笑みを浮かべていた。


「おう。元気そうで何より」


 イヴォンの声音もかつての厳しさとは違い、どこか軽やかだった。イヴォンからすれば目当ての人物ではなかったが、思いがけず再会した後輩士官を前に顎を引いた。


「海賊同盟との戦争、よくやったな」

「はっ……ありがとうございます」


 第二部隊員は思わず背筋を伸ばすが、すぐに肩を落として苦笑した。


「いやですね、まだまだ仕事が残ってて」


 第二隊員は少しだけ周囲を気にするように視線を巡らせ、イヴォンがティエンに「下がってろ」と告げた。ティエンが数歩下がったところで第二隊員が声を潜める。


「これ、先輩だから言える話なんですけどね……潜伏員の調査をしてるんですよ。ほら、こいつのことです」


 そう言いながら第二隊員はイヴォンに一枚の書類を差し出した。紙面には粗い線で描かれた似顔絵、特徴ははっきりしていた。手首に巻かれた、金の腕輪を見てイヴォンは一瞬で理解する。


 ——ピエール・ダラスだ。


「……こいつ、貴族社会じゃ有名なやつだぞ」

「え?」


 第二部隊員が顔を上げ、イヴォンは紙面を指で弾いた。


「ピエール・ダラス、ダラス家の三男だ。上流じゃ狩猟仲間と遊び歩いてるって噂だ。……ま、兄たちはまともに働いてるから余計に目立つんだろう」


 第二部隊員の顔から血の気が引くが、次の瞬間には第二部隊特有の冷えた静けさが瞳に宿った。感情を削ぎ落とし、任務だけを残したような気配にイヴォンは目を細める。


「……協力に感謝します。ただちに本部へ報告します」


 第二隊員の声は低く平坦だった。彼はすぐさま懐から手帳を取り出して素早く書き留めると、深く一礼して踵を返してブレスト城へと駆けていった。石畳を打つ足音がすぐに遠ざかっていき、残されたイヴォンは肩を竦め、ティエンが苦笑しながら近寄ってくる。


「相変わらずだな、第二は」

「助かりましたけどね。思わぬ形で情報が流れました」


 その時、二人の背後から間の抜けたような声が飛んだ。


「——あらら」


 二人が振り向くと、そこにはヤンが立っていた。いつの間に現れたのか、ヤンは馬車を見上げた後、宿舎の方を覗き込みながら目を細める。


「置いて行っちゃったんですか」


 彼の視線の先には黒馬ヘイロンが相変わらず悠々と歩き回っていた。ヤンはゆっくりとティエンを振り返って穏やかに笑う。


「まあ、これなら好都合ですね。ティエンさん、あの馬はいい馬ですよ。馬の方が人を選びますが、よく走ります。あれでアンジュに向かわれるといいでしょう」


 ティエンは一瞬だけ目を細めて肩の力を抜いた。


「……なるほど。確かに都合がいい」


 イヴォンは二人のやり取りを横目に宿舎へと視線を向けた。誰もいない、静まり返った建物。つい先日までの気配がまだそこに残っているようだった。


「……マクシミリアン、どこへ行ったんだ」


 ティエンはすでにヘイロンへと歩み寄って手綱に手をかけていた。ヘイロンは一度だけ鼻を鳴らしてティエンを試すように首を揺らすも、やがて静かに乗せることを許した。

 残る者たちは馬車へ、軋む車輪がゆっくりと動き出す。行き先はそれぞれに違った。

 ティエンはアンジュへ、他の者たちはサン・マロへ。静かな通りに再び人の気配が流れ始めていた。

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