第九章③ ルキフェル
五人組は帆を張ったまま、ラド・ド・ブレストの沖を滑るように離脱していた。風は強くないが、それでも船体は軋んで帆はわずかに震えている。ブレスト城の方角からまだ断続的に勝鬨と怒号が混じった音が流れてきていた。ルキフェルは船首に立って視線を水平線の先に固定していた。背後で何が起きていようと自分には関係がないとでも言うように。
「……処理が追いつかない」
ルキフェルの頭の奥で先ほどの言葉が何度も反芻される。ゼフィランサスとエリオットは親友。討った理由もどれも断片的でどれも噛み合わないが、あの男の声に嘘はなかった。ルキフェルは舌打ちを飲み込み、視線をさらに遠くへ逃がした。船尾側ではマテオが苛立ちを隠さずに彷徨いている。
「クソ……あのまま終わりにしねえのかよ」
マテオの吐き捨てる声には怒りよりも消化しきれない何かが混じっていた。
「終わらせるには情報が足りなすぎるだろ」
ジャスパーが淡々と返すが、指先は無意識に連結剣の柄をなぞっている。考えている時の癖だ。
「ゼフィランサス……やっと辿り着いた名前が、あれか」
追っていた影にようやく輪郭が与えられたが、想定よりもはるかに歪で巨大だった。ニールは舷側に寄りかかり、海面を見下ろしている。
「……気分悪いなあ。復讐って、こんな音するんだ」
小さく呟いた声は風に紛れた。波の音と血の記憶と、あの男の声が混ざり合って胸の奥でざらつく。コリンは握りしめた拳を見つめていた。
「あれが……正しいのかな」
答えは出ない。ただ一つだけ分かるのは、あの場で何かが決定的に変わったということだった。その時、前方から別の船影が現れてマテオが顎で示す。
「おい、あれ……」
黒ずんだ帆、掲げられた旗は見覚えのあるものだ。距離が詰まるにつれ、甲板に立つ人影がはっきりする。
「——遅かったじゃない!」
風に乗ってアーシャの声が届いた。アーシャの隣でフェリスが軽く手を挙げている。ルキフェルはようやく顔を上げて目を細めた。
「合流する。舵を合わせろ」
「言われなくても分かってる」
短い指示にジャスパーが舌打ち混じりに応じて舵輪を握る。二隻は波間で寄り添うように速度を落とした。先に飛び移ったのはジャスパー、続いてコリン、ニール、マテオ。最後にルキフェルが甲板を蹴って着地と同時に船がわずかに揺れる。
「ずいぶんと派手にやったみたいね」
アーシャが腕を組みながら言う。ルキフェルは肩の血を指で拭って甲板に落とした。
「問題ない」
「問題しかなさそうだけど?」
フェリスが苦笑するもルキフェルは無視して船尾へと歩きながら一言だけ落とした。
「ブレストを離れる。すぐだ」
「……追われてるのね」
アーシャの表情がわずかに引き締まり、ジャスパーが代わりに言う。
「そのうち海軍全体が動く」
「へえ、じゃあ早いとこ消えないと」
フェリスが軽く肩を回すとルキフェルが振り返って告げる。
「サン・マロに向かう」
「は? 戻るのかよ」
「身を隠すなら、あそこしかないだろう」
「カルロータとディッキーか」
ルキフェルの言葉にマテオが顔を顰め、ジャスパーは小さく息を吐いた。
「進路変更! 北東へ!」
アーシャが気を取り直して号令を飛ばす。帆が鳴って風を掴み、船体が傾いた。ルキフェルは慌ただしく船員達を眺めた後、ブレスト城を一度だけ振り返った。赤く染まった空の下、石造りの煙がまだ細く立ち上っている。
「……終わっていない」
戦いは形を変えただけだ。彼は視線を切り、再び前を向く。
「——サン・マロまで休むな」
低く落とされたルキフェルの声に誰も異を唱えなかった。それぞれがそれぞれの理由で、もう止まれないことを理解していたから。ルキフェルは船尾側に置かれた木箱に腰を下ろして海面を見つめた。水面が夕陽を受けて輝いている。
——マクシミリアン・ブーケは、エル・イエロ島の出身だった。
ルキフェルは深い溜め息を吐くと瞼を下ろした。暗い場所から黄金の瞳が浮かび上がってくる。




