第九章② エリオット
一方、この一部始終を密かに目撃した人物がいた。潮風に身を隠しながら、エリオットは波止場の影から彼らの戦闘を見つめていた。
「なんだ、この光景は……」
指名手配書でしか見たことのない五鬼衆の面々が目の前で生きて動いている。異様だと認識したのは、戦闘の内容ではない。連携と判断、動きの精度。統率など存在しないはずの海賊が一つの意志のもとに動いている。そして、その中心にいるルキフェル。エリオットの視線は無意識のうちに彼に引き寄せられていた。血に濡れた剣と無駄のない動き。冷徹でどこか奇妙な均衡を保った剣筋。見覚えがある、などという言葉では足りない。
もっと深いところで——否。
エリオットはその思考を意識的に切り捨てた。やがて、ルキフェルがマクシムを打ち倒す瞬間、エリオットは息を呑んだ。あの傷だらけの容貌、苛烈で容赦のない眼差し。たしかに鬼と呼ぶに相応しい存在だが、それだけで説明がつくはずがない。エリオットの胸の奥に説明不能の騒めきが残り、視線の奥に一瞬、ルキフェルの瞳に色が宿る。
——緑。……似ている。
そう思った瞬間、エリオットは即座に思考を切り捨てた。違う、そんなはずはない。あれはもっと幼く、もっと弱く、記憶の中の像と目の前の存在が決定的に噛み合わない。だからこそ、否定できる。——これは別人だ。エリオットは暗がりに身を沈めて視線を逸らした。
「……あの男を放置するわけにはいかないな」
あれは脅威だ、排除すべき対象だ。それ以上でも、それ以下でもない。——そう定義しなければならない。海軍のために、この国のために。そして、自分自身のために。
「……いかん。すぐに助けを呼ばねば」
エリオットが踵を返しかけた時、風が運んできた言葉が彼の足を止めた。
——ゼフィランサス。
その名が刃のように記憶を切り裂いた。忘れたはずのもの、沈めたはずの過去が音もなく浮かび上がる。
「……まだ終わっていないのか」
エリオットの胸の奥に鈍い痛みが広がる。あの男、あの海、あの選択。すべてが終わったはずだった。終わらせたはずだった。それなのに。
「マクシミリアンが……あいつの仇を? 私の命を狙う、というのか……」
理性が状況を整理しようとするだが、追いつかない。感情が上回る。
——振り向くな。
エリオットはそう命じたが、振り向いてしまった。視線は戦場ではなく、その少し外側に立つ一人の女性へと向かう。ソフィーの胸元、夕陽を受けて銀細工のネックレスが光った瞬間、世界がわずかに歪んでエリオットの息が止まる。龍と蛇、青い石。見間違えるはずがない。あれは——いや。
「……違う」
あり得ない。あれは遠い昔に手放したものだ。もう、自分の手元にはないはずのものだ。そもそも、なぜ彼女が持っている。繋がるはずがない、繋げてはならない。その思考に触れた瞬間、エリオットは膝をついた。重力が一気に増したかのように身体が崩れ落ち、視界が揺れて呼吸が浅くなる。胸の奥で何かが軋んだ。——あの時、小さな手に収まるようにと。海を見れば思い出せるようにと。言葉を選び、形にして与えた。それは愛情だったのか。それとも、ただの言い訳だったのか。
「……やめろ」
それ以上は踏み込むな。そこに触れれば崩れる。エリオットは必死に呼吸を整え、地面に手をついて立ち上がった。足元がわずかに不確かだが、それでも立つ。立たねばならない。
「……戻らねば」
任務、責務、国家を盾にして内側の揺らぎを押し潰す。戦場の混乱を抜け、海軍陣営へと向かった。足取りは重いが、止まらない。止まれば考えてしまう、考えれば戻れなくなる。ソフィーの胸元に光った銀細工、あの一瞬の輝きが脳裏に焼き付いて離れない。過去が現在に食い込んでくるように、切り離したはずのものが再び繋がろうとするように。
「なぜ……」
エリオットの問いは最後まで形にならず風に溶けた。答えを求めてはいけない。今はまだその時ではない。エリオットはただ前を向いて歩き続ける。
海軍という現実へ、己が選び続けてきた道へ。——振り返らないために。
夕暮れの光が彼の横顔をかすかに照らす。エリオットの表情に迷いはないが、その奥底で揺れるものまでは消せてはいなかった。




