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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】7・8巻「真相編」  作者: セキユズル
第九章「別れというよりも……また会うまでの、約束だな」
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第九章① 五人組とマクシム

 エドガーの亡骸を見下ろしたまま、ルキフェルはしばらく動かなかった。胸の奥に渦巻いていたものがすぐに収まらない。刃を抜いた後の静けさは、いつだって遅れてやってくる。血の匂いも潮風も倒れた男の影も、全部が少しずつ現実の輪郭を取り戻していく。


「……これで、一旦は終わりだ」


 戦いの終わりを告げるというより、自分自身に言い聞かせるための確認に近かった。ジャスパーがようやく肩の力を抜いて連結剣を脇へ置き、手首を軽く振ってぼやく。


「……あー、これ難しいよ……」


 珍しく本気の疲労が混じっていた。初めて触れた武器を、よくもまああそこまで使ったものだと自分でも思っているらしい。ニールが頷き、まだ抜き身のままの剣を軽く掲げた。


「いや、逆によく使おうと思ったね」

「その場にあったから」

「そういう問題かなあ」


 呆れ半分、感心半分。ニールの声は柔らかいが、視線の奥にはまだ戦闘の残熱が残っている。マテオは長く息を吐き、ようやく剣先を下げるとルキフェルの横顔を見つめた。


「ルカ、これで満足か?」


 これでお前の中の獣は少し静まったのか。もう暴れ足りないだの言って勝手に海へ消えたりしないな。そういう意味が短い言葉の裏にいくつも重なっていた。ルキフェルはマテオの視線を受け止めて口元を緩めた。


「ああ。計画は成功だな」


 マテオもそれ以上は聞かず頷いた。コリンが亡骸と海と仲間の顔とを順番に見渡して息を吐くと自嘲気味に笑う。


「ここまでやるなんて……ぼくたち、本当に鬼って言われるわけだ」


 彼らから少し離れた場所で、マクシムが海を見ていた。風が血の匂いをさらい、波が何事もなかったように砕ける。長い戦いだった。エドガーが死んだ、たしかに戦争の終止符のひとつだ。だが、胸の奥に広がる感覚は勝利の甘さではなかった。疲労と安堵と喪失と、どうしようもない空虚が絡み合って、ひどく静かな気分にさせる。


 マクシムの横顔を五人組はちらりと見た。何気ない。瞥だったが、その瞬間に彼らの間で空気が変わる。ルキフェルの目が細くなり、ジャスパーの手が止まる。マテオの口元から笑みが消え、ニールの思考はすでに次の局面へ移っていた。コリンもまた何かを察したように視線を強める。


 ここまで来られたのは偶然だったが、今なら届く。

 エドガーという巨大な障害が落ちた今、戦争の熱がわずかに引いた今なら、長く胸の底に引っかかっていた“あの件”の真実に、ようやく手が届くかもしれない。

 ベルナルド殺しの惨劇は彼らの中で終わっていない。

 フランソワの死と仲間たちの処刑と、王の掲げる正義への怒りが一本の線で繋がりかけている今、この機を逃す理由はなかった。


 ルキフェルは無意識に舌の裏でベルナルドの名を転がした。忘れたことなど一度もない。戦争は一旦終わったが、自分たちの中で終わっていないものがある。奪われたまま放置された名、置き去りにした問い、見ないふりをしてきた違和感。それを今度こそ掴みに行く。


 ——次だ。エドガーの死を見届けた場で、彼らはもう次の獲物ではなく次の“真実”を見据えていた。


 ルキフェルは刃に付着した血を一瞥して袖で拭う。布が赤く染み込み、海風が頬を撫で、濡れた髪がわずかに揺れる。


「……さて」


 ルキフェルの視線がマクシムに狙いをつけた瞬間、胸の奥で何かが微かに鳴って剣先が音もなく持ち上がり、切先が真っ直ぐマクシムを捉える。


「お前に話がある。——他ならぬ、ベルナルド・シルバのことだ」


 マクシムの瞳が揺れて鼓動が大きくなり、剣を構えて踏み込むと刃と刃がぶつかる。鈍い音に力と力が噛み合う。マクシムが一瞬で弾かれて一歩退くと、視界の端にジャスパーとマテオ、ニールとコリンが入り込んで囲ってきた。五人の視線が無言で突き刺さり、マクシムは即座に理解する。


 ——これは尋問だ。しかも、逃げ場のないもの。


「やはり、覚えていたのですか。三年前の、あの日のことを——」


 三年前、脳裏に焼き付いている光景。潮の匂いと混乱と叫び声。そして血に濡れた自分の手。一方、ルキフェルはマクシムの反応を測っていた。


 ……やっぱり、そうか。この男は知っている。そして、何かを抱えている。


 ルキフェルはマクシムを見据えながら口を開く。


「ソフィーが真実を追って海軍に戻ったように、俺たちも真実を探るためにここまで来た」


 ジャスパーがわずかに目を細める。そうだ。あの日の無力、あの日の選択。全部、まだ終わっていない。ルキフェルが一歩踏み出してマクシムとの距離が詰まる。


「語ってもらおうか、当時のことを」


 波が砕ける音がやけに遠い。マクシムは緩やかに双剣を下ろすと地面に置いた。刃が石畳に触れて鳴った乾いた音だけでこの男が逃げないと理解する。戦う意思は残したまま真実を差し出す覚悟を決めている動きだった。


「もはや、隠し事もここまでか。いいでしょう、今ここで真実を語ります。ソフィー、申し訳ありません。僕は……本当は褒められるような人間じゃないのです。——ベルナルド・シルバは、僕がこの手で殺しました」


 余計な前置きだ、とルキフェルは思う。だが遮らない。この男が何を口にするかだけが重要だ。ソフィーがマクシムに目を見開いて声を震わせる。


「嘘ですよね……? ベルナルド軍医のことはアニータから聞きました。アニータは、『ベルナルドは海賊に殺されたと隊長が言ってた』って……」


 その瞬間、風と波の音が遠のき、ルキフェルの胸の奥で何かが一度だけ鈍く鳴る。ソフィーの一言で全てが繋がった。殺しただけじゃない、罪をなすりつけた。ルキフェルの思考が止まり、横目で仲間の気配を拾う。マテオの呼吸が荒くなり、ジャスパーの握る柄が軋み、ニールの視線が冷え、コリンの肩が震える。全員、同じ地点に到達していた。


「てめー、やりやがったな……!」

「あの男を自分の手で殺した挙句、おれたちに罪をなすりつけた……!」


 マテオの歯が鳴り、ジャスパーの声が低く落ちる。


「……最悪だよ、ほんとに」

「ふざけんな……!」


 ニールは冷めた声で吐き捨て、コリンの声は震えていた。怒声が重なるが、ルキフェルの中にあるのは怒りではない。処理すべき対象としての確定だけ。


「やはり、お前も生かしてはおけんな」


 次の瞬間、ルキフェルは地面を蹴って音を殺したまま一歩で間合いを潰し、右足を滑らせるように前へ出し、腰を落として最短距離で斬り上げた。マクシムは即座に二刀を拾い上げ、交差させてルキフェルの奇襲を受ける。刃と刃が噛み合い、衝撃が腕に伝わる。


「……っ!」


 マクシムは押し込まれるも即座に左足を半歩引き、衝撃を流しながら右手の剣でルキフェルの刃を外へ弾くと体を捻って逆手の刃で横薙ぎに反撃するが、視界の端で光が走ってジャスパーの連結剣の鎖が軌道を変えながらマクシムの腕に絡みつくように迫る。


「逃がすかよ」


 マクシムは左の刃で受け止め、角度を変えて滑らせるも足元が滑る。濡れた石畳にくすれる体勢をコリンが突く。


「動くな!」


 コリンが低い姿勢から一気に踏み込み、足首を狙って斬撃を入れる。マクシムは右の刃を下げて受けるが、ニールが横から踏み込んで連続で斬撃を叩き込む。


「止まれ」


 マクシムは軸を回転させてニールの攻撃をいなす。右足を軸にして体を開き、斬撃を流すと同時に間合いをずらす。マテオは逃げ道を塞ぐ存在として間合いの縁に立ち、隙が生まれた瞬間に刺す位置を狙っていた。


「隙、見せてみろよ」


 五方向から圧がかかり、マクシムは二刀を高速で交差させ、攻撃と防御を同時に行う。ルキフェルは彼の動きを見切った。二刀の癖、踏み込みの間、呼吸の切り替わり。全てが見えた瞬間、ルキフェルは角度を変えてマクシムの反応を一瞬遅らせる位置から踏み込む。


「終わりだ」


 ルキフェルの刃が走ってマクシムが受けるが、衝撃が僅かに深く腕に重さが乗る。そこへジャスパーの刃が重なる。


「まだだろ」


 コリンの足元への斬撃が続き、ニールの牽制が間を潰す。マテオがわずかに体を沈め、いつでも刺せる距離に入る。マクシムは歯を食いしばった。


「……っ、く……! いい連携だ」


 マクシムが息を整えながら呟くが、その言葉にマテオが吐き捨てる。


「褒めてんじゃねえよ」


 夕焼けが波止場を赤く染めていた。血の色と見分けがつかないほど濃く、鈍い光が石畳の上で揺れている。潮風が吹くたび鉄と塩の匂いが混ざり合った。ルキフェルは一度呼吸を整えながら剣の水気を袖で拭った。指先の感触は冷たいはずなのに内側だけが異様に熱い。胸の奥で、何かがまだ暴れている。


 ——まだ足りない。


 心の奥底で咆哮する声を彼は知っている。理屈ではなく、衝動で斬れと囁く声。目の前でマクシムが二刀を構え、息を荒げている。


「戦いの中で強くなるのか。大したものだ」


 ルキフェルの言葉は静かだったが、その裏で別の声が笑っている。もっと壊せ、まだ動ける、まだ折れていない。マクシムが問い返してくる。


「あなたは、なぜすぐにでも殺さないのですか?」


 ルキフェルは剣を軽く振り、刃先で石畳を撫でた。耳障りな音がやけに心地いい。


「俺にとって人を殺すということは、飲んでいた杯を机に置くことと同じなんだよ」

「……オレが言ったフレーズ、気に入ってんな」


 マテオの視線が横から刺さった。


 ——違うだろ、それは。


 マテオは知っている。この言葉は共有のためのものだったはず。お前だけじゃないと釘を刺すための言葉だったはずなのに、目の前の男はまた一人で背負っている。ルキフェルは微かに笑った。


「ああ、便利だからな」


 便利、そう言い切ってしまえばそれで済むが、本当は分かっていた。この技術は、こんな使い方をするために叩き込まれたものじゃない。フランソワの背中、リュウの静かな指導。あの頃の剣は、生きるためのものだった。守るための、選び取るための、自由のための刃だった。なのに、今の自分は削るために使っている。痛みを積み上げるために、壊すために。——それでも、喉の奥で別の何かが笑う。それでいい、それが正しいと。咆哮に抗うほど今の自分は綺麗じゃない。


「俺は一瞬で意識を断つ斬り方を熟知してるが、敵を痛ぶるために斬りつけていく。特に、憎むべき相手にはな」


 言葉は淀みなく出る。迷いはないように聞こえるがその実、迷いはすべて内側に押し込められている。押し込めたまま刃に変えている。マクシムの表情がわずかに歪む変化を、ルキフェルは見逃さない。数ヶ月前の光景が相手の瞳の奥で蘇っているのが分かる。稲光と雨と滑る足場、そして自分。幽鬼のように立っていた、自分の姿。あの時の自分は今よりもずっと単純だった。ただ斬るだけでよかったが、今は違う。斬る理由が増えすぎた。


「以前、お前にやったから覚えてるだろう?」


 ルキフェルがわずかに笑いを含ませる。挑発でもあり、確認でもある。マクシムは苦笑した。


「あの時は、よくもやってくれましたね。おかげで重症者として医務局に通いましたから」


 ルキフェルは剣を肩に預けて目を細めた。夕焼けの光が刃に鈍く映り、胸の奥でまたあの声が蠢く。


 ——やれ。全部、壊せ。


 ルキフェルの指先に力が入るが、同時に別の感触が蘇る。殴られた衝撃に止められた日、あの四人の視線。


 ——戻れ。


 ルキフェルは呼吸を一つ落とした。獣が消えることはないが、握り潰すことはできる。


「……だが、今日は少し趣を変えてやろう」


 これは宣言だ。壊すためではない、裁くための戦いへと自分を引き戻すためのもの。ルキフェルが踏み込むと地面を蹴る音すら消えた。次の瞬間、マクシムの視界からルキフェルの姿が消え、左側から鋭い斬撃が走ってマクシムが二刀で受けるが、衝撃が重くて腕が痺れた。


 ——速い。間に合わない。


 ルキフェルは刃を滑らせるように受け流し、肘でマクシムの剣を押し上げるとマクシムの手から片方の剣が宙を舞った。ルキフェルが体を捻って回転斬りをするとマクシムの軍服が裂けて肩口に浅い傷が走る。


「くっ……!」


 マクシムは踏み直すが、その瞬間にはもう次が来ている。突き、受ける、蹴り。体勢が崩れ、さらに一歩踏み込まれ、掌底が胸に入る。肺の空気が一瞬で押し出されて視界が揺れる。マクシムは残った一本で無理やり軌道を捻じ曲げるとルキフェルの斬撃が腕をかすめて血が散る。


「まだ……いける……っ!」


 マクシムの声も届かず、ルキフェルの中では別の戦いが始まっていた。斬るたびに確信が強まる。壊せる。今なら、完全に。腕。脇腹。腿。すべて殺さない位置で斬っている。意図して壊して痛みを積み上げている。


 ——楽しい。


 その感覚に気づいた瞬間、ルキフェルの理性が揺れた。その時、背後からマテオとジャスパーの声が入ってくる。


「やばい……」

「こ、これ……やりすぎだろ」

「……人じゃない。かと言って、どっちが悪魔かも分からない」


 ニールが低く囁き、コリンは息を呑んだ。彼らの反応にルキフェルは刃を鈍らせ、間合いを変えて呼吸を整え、暴れていた何かを無理やり押し込む。


 ——止まれ。


 ルキフェルはマクシムの剣を弾いて手首を打ち、足払いして体勢を崩す。マクシムの足がもつれて片膝が落ちる瞬間、ルキフェルの剣先がマクシムの胸元へ伸びてあと数センチのところで止まった。


「これで終わりだ」


 夕焼けの中、ルキフェルの声は静かだった。もう、獣の声はしない。マクシムは息を荒げながら顔を上げると、ルキフェルは濁りのない冷たい目で言う。


「覚えておけ。人を守るというのは、ただ剣を振るうことじゃない。恐怖も、痛みも、全て受け止めたうえで戦うものだ」


 ルキフェルの言葉は刃より重く落ち、マクシムは息を吐いて血に濡れた手を握った。


「……ああ……わかっている……」


 マテオは小さく息を吐いた。


 ——ギリギリ止まったか。


 ジャスパーは視線を逸らし、ニールは口元を押さえ、コリンは震える手で拳を握る。ルキフェルの剣先がマクシムの胸元に静かに突きつけられたまま、二人の視線がぶつかる。斬り結ぶよりもなお重い、沈黙の圧力。……その均衡が不意に崩れた。マクシムの口元が歪んで笑った。血に濡れた頬、荒い呼吸、その奥に滲むのは正気ではない光。


「まさか人ならざる者に、人を守ることを説教されるとはな——」


 ルキフェルの眉がわずかに寄る瞬間、マクシムの手が動いて剣先を掴んだ。ぐしゃりと肉が裂ける音がし、マクシムの指の隙間から血が溢れた。骨ごと止めるような力で握り込んで離さない。ルキフェルの表情が一瞬だけ引き締まった。


「人を守る、か」


 マクシムの瞳が異様な光を帯び、もっと別の決壊した何かを宿した。


「僕が剣を振る理由はただ一つ——他ならぬ、自分自身のためだ。こんな僕に、最初から人を守るなんて到底できなかったんだ」


 その瞬間マクシムの視界が揺らぎ、ルキフェルの指先に違和感が走る。


 ——重い。剣が動かない。


 引こうとするが動かない。マクシムの手がまだ剣先を握っている。血に濡れた手で、皮膚が裂けても骨が軋んでも決して離さない。


 ——なんだ、こいつ……!


 ルキフェルの中の獣が沈黙した代わりに浮かんだのは別の感情。引いた、理解できないものに対する本能的な距離。ルキフェルはグッと剣を引くもマクシムの指がさらに食い込んで夕焼けの色と混ざって血が滴る。刃を挟んだ力と力のせめぎ合いにルキフェルは額から汗を流した。


 ——こいつはどこまで行く気だ。


 ルキフェルは初めて目の前の男を敵ではなく、別の何かとして見た。一方、マクシムの胸の奥に沈んだベルナルドの言葉が今、掘り起こされる。


「正義とは、常にどちらかを切り捨てることだ」


 ——選べ。


 あの時、自分は否定した。両方を取ると叫んだ。どちらも捨てないと。だが、さっきソフィーを失いかけた。守ると誓ったはずのものを目の前で、自分の選択の結果で。向いていない、その認識が遅れて胸に落ちる。守れない、選べない。ならば、奪われたものを奪い返す。そのために自分はここまで来た。名前も過去も、すべて捨てて。


「いざとなれば、僕は仲間を置き去りにするだろう。僕は生きなければならない、絶対に!」


 マクシムが言い放った瞬間、ニールが顎に手を当てて低く呟いた。


「そういえば、君はどうしてそこまで抗うのかな……」

「まったくだ。それに、腑に落ちないこともある。もしや、その想いはベルナルドの死にも関わってるな」


 ジャスパーが眉を顰め、ルキフェルが鋭く振り返る。


「なぜそう言える?」

「勘だ」

「なら、そうなんだろうな」


 マクシムは切先から手を離すとゆっくり立ち上がった。血で滑る足場を踏み締めながら片手で剣を握り直す姿はもはや軍人でも貴族でもない。何かを背負った戦士だ。


「ソフィーもいることですし……この際、皆さんに話しましょうか」


 マクシムの一言で五人組は無意識に息を詰めた。風も波も遠のき、マクシムの視線がまっすぐに五人へ向く。


「僕が海軍に来た理由。それは……迫害されている多民族集団の代わりに、ゼフィランサスを——彼を殺された恨みを晴らすためです」


 マクシムの口からその名が落ちた瞬間、五人の思考が同時に止まった。


「——ゼフィランサス」


 その名前はただの過去ではない。今まさに自分たちが追っている謎の中心だった。ジャスパーの視界がわずかに歪む。


 ——あの男の名前が、ここで出る?


 ニールの思考が急速に回転するも、冷静に組み立てようとするほど逆に崩れていく。


 ——繋がりすぎている。偶然じゃない。


 コリンは息を止めたまま胸の奥で何かが騒つく。


 ——ルキフェルの過去と、フランソワと、エドガーと……全部、同じところに?


 マテオは腕を組んだまま動かないが、視線だけが鋭くなる。


 ——ふざけんな、そんな都合よく繋がるかよ。


 ルキフェルはその名を真正面から受け止めていた。何かが引っかかる。六歳の頃、名前を与えられた記憶の残滓、海の匂いと誰かの背中がマクシムの言葉と重なって呼吸が乱れた。


「多民族集団? だが、お前はフランス人だろう?」


 ルキフェルの口から飛び出した言葉は、あまりにも的外れだった。自分でも分かっているが、それしか出てこない。マクシムが即座に返す。


「そうですよ。だから僕にしかできないことです」


 ルキフェルの中で何かがさらに軋む。理解できる。理解できてしまうが、苛立ちに近い違和感を生んだ。マテオが口を挟む。


「おかしな話だな。その海軍のトップとやらは、ゼフィランサスと本当に関係あるんだろうな」


 それはルキフェルのための問いだった。動揺を外に出させないための。


「ありますよ」


 マクシムが澄み切った瞳で返答するとマテオの奥歯がきしむ。


 ——こいつ、嘘ついてねえ。


 マクシムは五人を一人一人見つめながら淀みなく言葉を紡いでいく。


「皆さんはご存知ないでしょう。エリオットとゼフィランサス、二人は親友同士だったということを」


 今まで追ってきたものの核心が目の前にいる、マクシムという形で。


「この秘密だけは……知られたくなかった」


 マクシムの声が落ち、ルキフェルだけはマクシムを見据えていた。血と塩の匂いがまだ残る波止場でただ一人、彼だけが戦いの余熱から切り離している。内側でまだ“獣”が呼吸している。あのままもう一太刀入れていれば終わっていたが、それをしなかった。しなかった理由をルキフェル自身もまだ言語化できていない。ルキフェルは思考を一度“物語”という枠に押し込めてから言葉に変換した。


「さっき、こう言ったな。親友を討った真意を知りたいと」

「ええ、言いましたね」


 マクシムが頷くとルキフェルは赤いサッシュで拭う。血を落とす動作が妙に丁寧だった。目の前の男の話を感情ではなく構造として整理している。


「マクシミリアン。お前はその島の仲間たちに突き動かされてここへ来たのかもしれない。だが、海軍に入ったのはお前自身の意志でもあるわけだ」

「そういうことです。だから、僕は死ぬわけにはいかない。ましてや、自分から身を投げるなんて愚かなことはしない!」


 マクシムの言葉にルキフェルの中で何かが引っかかるも、眉をわずかに上げて冷ややかに笑った。


「俺はその話、半分も信じていない。よくできた物語だ、と感心する」


 物語。そう処理することで一旦距離を取る。理解しきれないものを理解可能な形に落とすための仮置き、そして逃がす。ルキフェルは仲間達を振り返って告げる。


「撤収だ。俺はこいつとまだ話すから、先に出航準備してろ」

「はあ!? ここにきて帰る!?」


 マテオの苛立ちは当然だった。血がまだ騒いでいる、決着はついていない。ジャスパーは頭を掻いた。


「まあ、ルキフェルにも考えがあるんだろ?後で聞くよ」

「うーん、僕としては不満なんだけど」

「ぼくも! でもルキフェルが言うならしょうがない」


 ニールは舌打ちまじりに剣を収め、コリンも唇を引き結ぶ。四人がぶつぶつと文句を言いながら去り、静寂の中でルキフェルは息を吐いてマクシムと向き直った。


「……だが、その物語を最後まで見届けるのは悪くないな」


 ルキフェルの言葉には興味と明確な拒絶が混ざっていた。理解はするが、許さない。マクシムが微笑む。


「僕の気持ちを、汲んでくれたのですか?」

「勘違いするな。お前がそこまで生きたいなら復讐は一旦やめにしてやる。ただし、お前が失敗して野垂れ死ぬのを見てやるからな。死ななかったら、また殺しに行く。真実を知っても、お前のことは赦せない。ベルナルドを殺したお前なんかに……奇跡が起きてたまるか」


 ルキフェルは即座に否定して感情が露出した。怒りだ。ベルナルドの最期、あの静けさを踏みにじった行為だけは理屈で処理できない。ルキフェルの言葉が落ちたあと波の音が二人の間を満たす。マクシムは一度ゆっくりと息を吐いた。胸の奥に溜まっていた何かが静かに抜けていく。


「僕の命なんて、ちっぽけなものです」


 卑下でも、諦めでもなかった。この命は、最初から何かのためのもの、駒だ。自分をそう扱っている人間の声音、奪われたもののために、託されたもののために、復讐という名の道のために。自分のために使ったことなど一度もない。だが、ルキフェルの言葉がその流れをわずかに歪めた。


「いいや。野望を叶えたやつの命は価値がある」


 評価ではない、定義だ。最後まで燃えきったものだけが意味を持つ。途中で潰えるなら、ただの屑だ。ルキフェルの言葉に、マクシムは一瞬だけ目を瞬かせる。価値。理解はできなかったが、不思議と否定する気にもならなかった。だから、マクシムはつい柔らかな微笑みを浮かべた。そこに救われた者の気配はない。


 ——終わり方が決まった。


「そうですか? どういう理屈か知りませんが。でも、あなたに殺されるのもいいなと思ってます」


 マクシムの声は戦場の空気に似つかわしくないほど穏やかだった。彼の言葉に熱も揺らぎもない。絶望でも自暴自棄でもない、納得だ。この瞬間、マクシムは初めて自分の終わりを自分で選んだ。国家に裁かれるでもない、誰かに奪われるでもない。自分の意志で、自分の結末をひとつに定めた。だから、笑えた。


「……念願が叶ったその日まで待っていてくれますか?」


 マクシムの問いは懇願ではない、確認だ。自分の描いた終着点に相手が立っているかどうか、言葉の奥にわずかな寂しさがあった。裁かれ方を選び直している。国家ではない、もっと確かなものに。ルキフェルは重々しく頷く。


「ああ、そうしよう」


 互いに生き延びて、いずれ殺し合う。マクシムの胸の奥で一つの線が閉じる。これでいい。過去はもう必要ない。ゼフィランサスも島も、奪われた日々も、全てここへ至るための道だった。そして、目の前に立つ男はかつて名を知っていたかもしれない存在、今はそれを確かめる必要もない。思い出されなくていい、理解されなくていい。ただ、この結末に立ち会ってくれればいい。


「あなたと、こうして別れるとは思いませんでした」


 マクシムは静かな断絶を微笑みの裏に沈めたまま言った。マクシムの声に未練はないが、表情にはどこか幼い色が残っていた。ルキフェルは肩をすくめる。


「別れというよりも……また会うまでの、約束だな」


 ——約束。


 マクシムの胸にわずかな温度が灯った。奇妙な感覚だ、殺し合う未来を指しているはずなのに、どこか懐かしい響きを持っている。だが、それ以上を求めることはない。求めてしまえば、この終わり方が揺らぐ。だから、ただ受け入れる。夕焼けがゆっくりと沈んでいく中、二人は見つめ合っていた。同じ場所に立ちながら、まったく違う過去を背負ったまま。だが、未来だけは同じ一点に収束していた。その時、歩み寄る足音がして張り詰めていた空気にわずかな綻びが入る。マクシムとルキフェルの間へ、横から滑り込むように現れたのはジャスパーだった。


「……忘れ物だよ」


 彼の手にあるものを見て、マクシムの視線が一瞬だけ揺れる。二本の銀の片手剣、左右対称に研ぎ上げられた刃が夕焼けを受けて淡く光っていた。ジャスパーは軽く肩をすくめる。


「これ、あんたに渡さないといけないなーと思って。大事なものっぽいし」


 ただの軽口だったが、その奥にある観察眼は鋭い。マクシムはゆっくりと手を伸ばして血に濡れた指で柄を握った瞬間、冷たさが皮膚を貫いた。


「ありがとうございます」


 マクシムは礼を述べながら二刀を握り直し、ルキフェルの視線が自然と双剣へ向く。


「……それ、なんだ?」


 純粋な興味、戦いとは別のところで彼の感覚が反応している。マクシムはわずかに口元を緩めた。


「リー・ウェンから頂いたものです。対人用・間合い短モデル。僕専用の武器ですが……名前はまだありません」


 ルキフェルの瞳が細くなった。名がない、それは未完成であることと同義だ。


「なら……俺が命名してやる」


 ルキフェルは一歩踏み込んで剣先を指し示す。


「二つで一つ、戦場でお前を守る剣……よし、『双影《シュアン・イン》』だ」


 ルキフェルの明瞭な音が波止場に落ちた。ただの名付けではなく、意味を与える行為にマクシムの胸の奥で何かが軋む。


「シュアン・イン……ですか」


 マクシムが名をなぞるように呟くとルキフェルは淡々と続ける。


「覚えておけ。この名を背負うのは、お前自身だ。戦いの中で、剣も、お前も、影として互いを支える。——そういう意味だ」

「……わかりました。シュアン・イン……」



 マクシムは小さく頷いた。影、光の裏側にあるもの。決して主役にはならないが、常に隣にある存在。自分に相応しい。その時、彼の胸の奥で一度閉じかけたはずの何かが再び揺らいだ。終わりはもう決めたが、その終わりに至るまでの道に、まだ燃え残っているものがある。ゼフィランサスが死んだあの日。二月十八日と目の前の男。記憶はなくとも事実は消えない。エリオットの血、英雄の連なり。マクシムの瞳に別の熱が灯る。


「……んじゃ、それまでせいぜい生き残れ。また会おう」


 ルキフェルはマクシムに背を向けた。彼の背が夕焼けに溶けかけた瞬間、マクシムの声が港を切り裂く。


「二月十八日です!」


 ルキフェルの足が止まって振り返った。その目にわずかな引っかかりが生まれる。


「……なんだって?」


 マクシムは息を整え、真っ直ぐに言った。


「二月十八日に来てください。その日は──ゼフィランサスとエリオットの戦い、《双星の海戦》から二十年です」


 ——二月十八日。


 マクシムの言葉にルキフェルの中で何かが結びつくが、それ以上は追わない。今はまだ、そこに踏み込む必要はない。マクシムは続ける。


「僕は……なんとしても、この日にエリオットへの復讐を果たします」


 先ほどまでの静かな納得とは違っていた。燃えている、消えたはずの炎が再び立ち上がっている。理由は単純だった。終わるためには、まだ終わらせるべきものが残っている。そして、目の前の男もまたその連なりの中にいる。


「だから……できれば、あなたも来てください。必ず復讐を遂げて、僕はあなたを待ちます」


 これは招待ではない、宣告だ。ルキフェルは小さく息を吐く。


「二月十八日、か。……あまり遠くへは行けないな。いいだろう。その日、俺はお前の元に行く」


 ルキフェルは真正面からマクシムを見ると足早に小型ガレオン船へと向かった。約束は時刻を持った、逃れようのないものへと変わる。ルキフェルが甲板に現れると仲間達が出迎えた。


「待たせたな。行こう」


 帆が風を受け、船が波を切る。ブレスト港との距離がゆっくりと開いていき、マクシムは桟橋から船を見送りながら剣を握り直した。シュアン・イン、名を得た刃が彼の手の中でわずかに重みを変えた気がした。


「……また会う日まで、覚えておいてください。今日も負けて悔しいので」


 マクシムの言葉にルキフェルは振り返らなかった。


「忘れるわけがない」


 船は遠ざかり、水平線へ溶けていく。静寂が戻るが、二月十八日の一点だけが残り続けていた。

 約束ではない、運命の日として。

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