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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】7・8巻「真相編」  作者: セキユズル
第八章「ただ——返してほしかっただけだ」
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第八章④ 五人組&マクシムVSエドガー・ロジャース

 潮の匂いと木の軋みが漂う、寂れた桟橋。戦場の喧騒は遠く、ここだけが異様な静けさに包まれていた。桟橋の縁に指がかかり、濡れた手のひらが木板を滑って力を入れ直すと海水が腕を伝い、ぽたりぽたりと落ちた。引き上げた体が重い。水を含んだ衣服がまとわりつき、筋肉の一つ一つに鈍い疲労が残っている。呼吸が浅く、肺の奥にまだ冷たい水の感覚がこびりついていた。それでも、どうにか身体を持ち上げると桟橋の上に片膝をつく。


「……やっと着いた」


 数秒動かず呼吸を整える。肺に空気を入れるたび胸の奥がじんわりと痛み、冷えた身体がようやく陸の空気に慣れていく。


 ……少しだけ、しんどい。


 ルキフェルはゆっくりと立ち上がった。足元がわずかに軋み、濡れた靴が木板に張り付いて重たい音を立てる。ルキフェルが視線を巡らせる。港は静かだった。潮の匂いと乾いた木の匂いが混ざっている。


「……素直にボート使えばよかったのに、俺の馬鹿」


 ルキフェルがぽつりと呟くと肩を軽く回した。桟橋に水が飛び散る。選択は間違っていないが、効率は悪い。濡れた前髪が視界にかかって鬱陶しい。ルキフェルは無造作に前髪をかき上げると指でまとめて後ろへ流した。髪が整い、視界が開けて翡翠色の瞳がまっすぐに前を捉えた。


「あいつら……どこだ」


 ルキフェルが視線を細めて焦点を合わせ、静寂の中から位置を割り出した。港の奥、人影は見えないが気の流れが違う。わずかな気配と風の流れの中に混じる、金属と血の匂いに戦闘の残滓を感じ取った。


「……あっちか」


 ルキフェルは一歩、また一歩と歩き出した。海を右手に誰もいない港を進む。足取りは遅い。疲労が残り、筋肉も呼吸もまだ完全ではない。それでも進む理由がある限り止まることはない。風が吹き、乾ききらない衣服が揺れて塩の匂いが立ち上る。ルキフェルは視線を前に固定したまま歩き続けた。その姿はどこにでもいる一人の青年だった。ただ少し、傷が多いだけの。ルキフェルは自分の袖口を一瞥した。水を含んだ布が重く張り付き、滴がぽたりと落ちる。肩から腰までびしょ濡れだ。


「……着替えた意味、なかった。こんなことするくらいなら……前の服で泳いで、綺麗になるの期待した方がよかった」


 自分で言って苦笑し、川の編み上げブーツに目を落とした。


「……まあいい。靴は変えられたし、どうせ乾けば問題ない。……あと、どうせまた汚れる」


 潮風が吹いて湿った衣服がわずかに冷え、肌に張り付く感覚が残る時、前方に影が差した。最初はただの揺らぎのように見えたが違う。複数の人影が動いている。ルキフェルの歩みが緩んで視線が細くなる。先ほどまでのぼんやりとした独り言の気配が消え、思考が一瞬で研ぎ澄まされる。指先にわずかに力が入って肩の力が抜ける、視界が狭く鋭く収束する。


 ——いた。


 ルキフェルは歩みを進めた。声は聞こえていた、誰かが何かを言っている。怒鳴り声と懇願、歯ぎしり。だが、意味は入ってこない。言葉という形を保ったまま、ただの音として耳をすり抜けていく。潮の音と風の流れと足音と同じ重さでそこにあるだけ。ルキフェルの濡れた靴が石畳に触れるたび水音が落ちるが、それすら彼の意識の外へと押し流されていく。彼の視界の中央に一つの形だけがある。エドガーの背中の輪郭が異様なほど鮮明に浮かび上がっていた。


 ——あれだ。


 ルキフェルの右手が自然に動くと剣帯に触れ、滑らせるようにカットラスを抜き放つ。胸の奥で長く押し込めていたものが鍵を外されたように一気に広がっていく。熱でもない、怒りとも違う。ただの獣だ。理由も言葉も理屈もいらない。ただ目の前の標的に、まっすぐ向かうためだけの衝動。ルキフェルの呼吸がひとつ浅くなって足が止まる。——次の瞬間、地面を蹴った。石畳を叩く音が遅れて後ろに落ち、視界が一気に流れ、距離が消える。誰かが叫んだ気がしたが、耳に届かない。すべて遠い、一点だけが異様に近い。エドガーの背中に向かって一直線に駆け出し、踏み込みと同時にルキフェルの身体が低く沈むとカットラスを持つ腕を振り上げた。無駄も迷いもない、そこにあるから斬る。鋼が空気を裂くと白昼の光を一瞬だけ引き裂き、軌道が閃いた。


 ——斬った。


 手応えが遅れて返ってくる。肉を裂く感触、骨をかすめる鈍い抵抗。そして、熱。飛び散る血がルキフェルの頬と腕にかかる。海水と混ざり、ぬるく重い。ルキフェルの足がそのまま一歩踏み込むと視界の端で、標的の体が前に崩れるのが見えた。そこでようやく音が戻ってきた。風と波、荒い呼吸、誰かの息を呑む気配。全部が一斉に押し寄せるが、ルキフェルは剣先から滴る血を一瞥すると顔を上げた。翡翠の双眸が次を探すように細められる。まだ終わっていない、とでも言うように。斬撃の余韻がまだ腕に残っている。血の温度と骨に触れた鈍い感触を振り払うように、ルキフェルはエドガーの前に躍り出た時、彼の視界の端にソフィーが映った。


 ——なんでいる。


 ルキフェルは無言のまま踏み込み、エドガーの腕を強引に払い落として絡みつくような拘束を力任せに断ち切り、ソフィーの腕を引っ張って剥がすと押し込むように自分の背に隠した。エドガーが片膝をつき、血を吐いてこちらを睨んでいる。今はどうでもいい。今、優先するものは別にある。ルキフェルは背後の気配に意識を戻した。呼吸が乱れて細い肩が震えている。生きているだけ確認すれば十分だった。ルキフェルは振り返って口を開く。


「……久しぶりだな。相変わらず無茶をする」


 ルキフェルの声が落ちた瞬間、ソフィーの身体から力が抜けた。石畳に膝が落ちる音がやけに軽く響き、ルキフェルは思わず眉を寄せた。


 ——そんな驚くことか。


 内心でそう思うが、目の前の様子を見る限り立てる状態ではない。息を乱しながらソフィーが苦笑する。


「久しぶり……と言いたいところだけど。今の、剣が首に当たったあの感触が残ってて、立てない」

「……え?」


 ルキフェルの視線がソフィーの首元に落ちる。細い傷、浅いが確かに切れている。


「首、少し怪我してんな」


 ルキフェルが手を伸ばすと抵抗らしい抵抗もなくソフィーの体は持ち上がった。


「ちょっ……やめて! 歩けるから離して! それより冷たいんだけど! 凍え死ぬ!」

「我慢しろ」


 ソフィーが腕の中で暴れるが、ルキフェルはジャスパー達とすれ違いざまに目を合わせながら歩き出す。ジャスパーはニヤリと笑い、マテオにはなぜか舌打ちされてルキフェルは思わず顔を顰めた。


 ——何を不機嫌そうにしている。命からがら脱出してきたんだぞ、こっちは。素直になれ。


 ルキフェルはとりあえず無視してマテオの視線を背に受けながら進んだ。ニールとコリンが身を寄せ合って顔を綻ばせている。ルキフェルが視線を前方に向けると、マクシムがいた。剣を構え、血に濡れ、こちらを見ている。ルキフェルは一瞬足を止めて目を細める。


 ——あれ、なんか老けたな。


 ルキフェルはマクシムの髪色の変化にも深く考えず、淡々と告げる。


「マクシミリアン、大事なものは取り返したからな」

 ルキフェルがソフィーを地面へ下ろした瞬間、意識はすでに次へ向いていた。まだ終わっていない。マクシムはルキフェルをまっすぐに見据えた。


 ——ラウルだ。


 胸の奥で何かが弾けた。信じていなかったわけではない。あの男が簡単に死ぬような存在でないことも頭では理解していた。それでも目の前にいて生きている。マクシムの喉の奥が熱くなって思わず一歩踏み出しそうになるも、足をかろうじて踏みとどめた。今の関係は違う。立場も名も、すべてが変わっている。だが、そんなものどうでもよかった。覚えてなくてもいい、敵だと思われてても構わない。マクシムの胸の奥で言葉が溢れる。


 ——それでも、お前が生きてるだけで十分だ。


 マクシムの視線が揺れるが、すぐに強く定め直す。あの男は変わっていない。無言で斬り込み、迷いなく守る。それがラウルだ。そして、その腕でソフィーを救った事実にマクシムの胸をさらに熱くした。ルキフェルは血を払うようにカットラスを軽く振ってソフィーとマクシムを交互に見る。


「お前たちは、あそこでくたばってるフェルナンドを見てやれ。エドガーは俺たちの獲物だ」

「なら、僕も参戦します。エドガーの息の根を絶って、この戦争に終止符を打ちたいんです」


 マクシムは即座に応じた。マクシムは剣を握り直して指先に力を込めた。まだ敵は生きている、終わっていない。今はお前と共に戦う。ルキフェルの翡翠の瞳がマクシムを捉える。


「……いいだろう」


 マクシムは二刀を静かに翻し、間合いを測る。ルキフェルは力みのない姿勢で構える。東洋武術特有の重心を落とした静かな構え。対照的でありながら不思議と噛み合う。——その背に場違いなほど軽い声が飛んだ。


「かっこつけるのはいいけど、なんで遅くなったか聞いてもいいかな? あと、すごい濡れてるし」


 コリンがじとりと睨み、ルキフェルは振り返りもせず肩をすくめた。


「悪かったな。あの数の海賊船がいりゃ、俺も暴れたくなった」

「え、本気で言ってるの?」


 ジャスパーが呆れたように片眉を上げた。彼の視線の先、沖合ではまだ炎と煙が揺れている。


「おい、ルカ。まさか一人で海賊船を沈めたとか言わないよな?」

「一隻だけじゃないぞ」


 マテオが低く吐き捨てるとルキフェルは口元を歪めた。


「一隻でも十隻でも……まあルキフェルがやるならおかしくはないね」


 ニールが半ば呆れ、半ば納得している声音で言うと、マテオの視線がルキフェルの足元から頭までをなぞった。


「てかお前さ、なんでそんなめっちゃ濡れてんの? もしかして……」


 ルキフェルは目を伏せて濡れた前髪をかき上げる。


「ああ、泳いできた」

「前言撤回。この人、何回人間やめれば気が済むかな」

「ここで落ち合う約束を後回しにしてまで暴れたかったとか、意味わかんないし……」


 ニールがぼそりと呟き、コリンが深く息を吐く。マクシムは彼らのやり取りを横目で見て、互いの異常さも強さもすべて織り込み済みの空気に触れていた。


 ……仲間、か。


 マクシムの胸の奥に羨望とも寂しさともつかない曖昧な熱が差し込み、幼い頃に無邪気に肩を並べていた記憶が蘇る。その延長線に、今の光景があるようで、決して同じではない。マクシムはかき消すように首を振ると苦笑した。


「……なるほど。それは『鬼』の異名がついてもおかしくないですね」


 今は違う。立場も背負うものも、何もかも違う。それでも……また、こうして並べるなら。マクシムが視線を前へ戻して剣を握る手に力が宿った時、エドガーが血を滴らせながら立ち上がる。背中に刻まれた深い裂傷を抱え、それでも瞳は死なず、むしろ楽しんでいた。ルキフェルは一歩前へ出て仲間達の視線を一身に受けながら明瞭な声で発する。


「さあ、遊びは終わりだ。……行くぞ」


 エドガーが一歩踏み出した瞬間、空気が凍って波の音が遠のき、風すら止まったかのように感じられた。誰もが同時に理解する、ここが終着点だと。


「てめえら、ここまでか?」


 エドガーの嘲りを含んだ声が落ち、ルキフェルの翡翠の瞳が細める。マクシムは二刀を振って呼吸を整える。彼らの胸の奥にあるのは、ただひとつ。


 ——終わらせる。戦争を、復讐を、この連鎖を。


 刹那、空気が裂けてコリンが最初に動く。低く、滑るように踏み込んだ小柄な体躯が石畳をかすめ、刃が火花を散らす。エドガーの剣とコリンの剣が交錯した瞬間、わずかな振動がエドガーの手元に走る。軽い、その違和感にエドガーの思考が一瞬遅れる瞬間、横からニールが斬り込んでいた。正確無比、無駄のない軌道にエドガーは反射的に身体を捻るが動きすら読まれた。


「……っ!」


 さらに銃声がして、マテオの一撃がエドガーの太ももをかすめる。ジャスパーの連結剣が唸って鎖が蛇のように軌道を変え、エドガーの手首と足元と視界を撹乱させて逃げ場を削るとルキフェルが踏み込んでエドガーの腕に刃が走る。東洋武術特有の無駄のない体捌きと重心の移動と呼吸が噛み合い、斬撃が結果として現れる。マクシムが正面から圧をかけている。二刀で防御と攻撃が同時に成立する構え。右で受け、左で斬る。左で牽制し、右で突く。ルキフェルの刃がエドガーの背後から迫り、エドガーは挟撃された。


「……動きが読まれる……!」


 エドガーの脳裏に初めて焦りが走った。違う、これは読まれているのではない。選択肢と動線を潰されて石畳の端へ追い詰められていく。背後は海、後退はもうできない。エドガーの呼吸が乱れて視界が狭まると過去が割り込んだ。


 ——帆が風を受けている。笑い声と酒の匂い。フランソワが隣にいた。


「俺たちは自由だ」


 あの声、熱を持っていた言葉。理想を語っていた頃。あの頃は、確かに信じていた。だが、いつからだ。奪うことが正義になったのは。力こそがすべてだと思うようになったのは。


 声にならない叫びがエドガーの胸の奥で軋む。目の前にいるのは、フランソワの残した影、五鬼衆。そして、その中心に立つルキフェル。こいつに見限られた事実が刃よりも深く突き刺さる。


「これで最後!」


 マクシムが声を張り上げて踏み込み、同時にルキフェルも動く。二つの軌道が交差して斬撃が重なると、二人の刃がエドガーの胸を貫いた。衝撃が遅れてやってきて肺が潰れ、呼吸がうまくできず膝が崩れる。エドガーの視界が揺れる奥で、別の光景が立ち上がった。


「あれぇ、フランソワじゃねえか!」


 港の喧騒に若い声。自分の目先にいたのは笑っている男だった。


「あ、エドガー!」


 互いに手を取り、肩を叩く。他愛のない言葉と意味のない笑いだけでよかった頃。ランプの灯り。酒の匂い。揺れる影。ジョッキが掲げられる。


「新しい船出に」

「新生フランソワ海賊団に」

「そして、新たな伝説の誕生に」


 乾いた音と共に酒が揺れる。その隣に、確かにいた。同じ方向を見ていた。


「この世界に、自由な選択なんてない」


 低い声。自分の声。拳が握られている。


「だから、奪う側になる」


 その言葉を、疑いもしなかった。さらに、断片が重なる。


「海軍に一矢報いるんだよ」


 歯を見せて笑っていた。あの時は、それが正しいと思っていた。


 ——何が。何が正しかった?


 景色が歪み、笑っていた顔が少しずつ遠ざかる。手を伸ばすも届かない。


「……待て」


 呼びかけても声にならない。フランソワ。あいつはただ笑っている。あの頃のまま、何も知らない顔で。


 ——違う。違うだろうが。……お前は、オレの半身だったろう。


 景色が砕けて現実が戻る。血の匂いと石畳の冷たさ、胸を貫く二つの刃。目の前にいるのは、もうあの頃ではない。フランソワはいない、代わりに立っているのはその残滓。そして、自分を斬った男、ルキフェル。彼の背後にはかつて同じ船にいた者たち。全員がこちらを見限る目で睨んでいる。その瞬間、エドガーは理解した。


 ああ、そうか。終わったのは、今じゃない。とっくに終わっていた。

 あいつが離れた時に、あの海を違うものとして見た時に。


 エドガーの胸の奥で何かが崩れ落ち、乾いた笑いが漏れて血が滲む。


「……何が正義だ、何が復讐だ。オレはな……」


 一瞬だけ、あの港がエドガーの脳裏に浮かぶ。笑っていた。隣にいた。同じ未来を見ていた。——それだけでよかったはずなのに。


「ただ——返してほしかっただけだ」


 何を。もう、分からない。ただ、奪われたと思い込んだ何かを取り戻したかった。次の瞬間、ルキフェルの剣が深く貫いてエドガー力が抜けて視界が暗くなる。最後に見えたのは、あの時と同じ海だった。深く、暗く、どこまでも続く海。海は、何も返してはくれなかった。ただ、すべてが終わっていた。エドガーの身体が崩れ落ち、波の音が戻ってくる。マクシムは剣を下ろし、荒い呼吸のまま立ち尽くした。彼の胸の奥で理解が遅れて広がる。


 ——終わった。長かった戦いが、復讐の連鎖が。ひとつ、ここで断ち切られた。だが軽くはない、決して。


 ルキフェルは亡骸を見下ろして目が細めた。何を意味するのかは誰にも、恐らく本人すら分からない。ジャスパーが息を吐いてマテオは舌打ちし、ニールは視線を落とし、コリンは拳を握りしめた。


 ——哀れな男だ。理想を失い、支配に縋り、最後にはすべてを失った。


 港の風が血と潮の匂いをさらいながら吹き抜ける。

 その場に残ったのは勝利でも歓喜でもなく、重く沈む静寂だった。

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