第八章③ ブレスト港にて
小型ガレオン船が音もなくブレスト港へ滑り込む。舳先が水面を裂くたび昼の光が細かく砕け、木製の舷側に揺れていた。港に人気はない。潮風だけが穏やかに吹き抜け、遠くでなお続く戦場の残響がここまで届いている。最初に舷側へ足をかけたのはエドガーだった。石畳に彼の靴底が触れた瞬間、ジャスパーは目を細める。相変わらずだ、ただ降り立っただけで場の重みが変わる。この男はそういう種類の人間だ。風景に混ざらない、逆に風景の方があの男のために整列して見えるのが気に食わない。そう思いながらもジャスパーは無表情のまま後に続いた。マテオ、ニール、コリンも順に降りる。五人の足音が石畳に低く響いた。エドガーはフェルナンドに向かって数歩進んで唇を歪める。
「久しいな、フェルナンド」
フェルナンドは一瞬だけ苦笑を返した。
「迷惑をかけてすまなかった。まさか、思わぬ人に返り討ちにされるとはね」
フェルナンドの視線が一瞬だけマテオに向いた。
——今まで散々コケにしてきた憂さ晴らしじゃボケ。
マテオは内心で吐き捨てて鼻を鳴らした。
「おいおい、仲間を疑うなよ」
エドガーが淡々と言った。フェルナンドを撃ったのが誰だったのか、どうやら本当に知らないらしい。マテオは面白いとも思わない、ただただどうでもよかった。
「それで、何か収穫はあったか? まさか、あれだけ海軍にいて何もなかったとは言うなよ」
フェルナンドは唇を噛んだあと、まっすぐにエドガーを見返した。
「船長、エドガー海賊団に協力者がいるとは聞いてない。なぜ著名な王族が君に資金援助を?」
ニールは彼の問いに目を細めた。確認だ。彼もジャスパーも、マテオもコリンもある程度の裏はすでに知っているが、フェルナンドはここで改めてエドガー本人に言わせようとしている。おそらく、誰かに聞かせるために。エドガーは首を傾げた。表情は柔らかいが、目つきだけは相手の反応を試すように鋭い。
「落ち着け、疑問には一個ずつ答えてやる」
——ほんと、こういうとこ嫌い。
コリンは胸の中で舌打ちした。答えるふりをしながら、主導権だけは絶対に手放さない。あの男は、会話ですら奪う。
「まず協力者についてだがな、フランソワが死んですぐのことだ。トルチュ島でのバカンス中、手紙が届いた……旧ブルボン派とかいう連中からな」
「ちゃんと、嘘偽りなく答えてくれ。……旧ブルボン派と、最初に接触したのはいつだ?」
フェルナンドが眉を顰め、エドガーは目を逸らして波間に跳ねる光を見た。
「去年のことだ。サン・マロでな。あの金の腕輪が目印の、情報屋と名乗る男と会った時だ」
その瞬間、四人の中に同じ認識が走る。ダラス家とかいう面倒の根、戦争計画の裏側にいた本当の黒幕。ジャスパーは顔色ひとつ変えなかったが、胸の奥では冷たく笑っていた。
——やっぱり、あいつらか。
ニールは無表情のまま聞いている。
——再確認完了。
マテオは苛立ちを押し込める。
——ほんと、ろくでもねえ。
コリンは肩の力を抜いたまま内心でうんざりしていた。
——ダラス家、厄介すぎ。
「その時、ベルリオーズのことも知らされた。伝説の情報屋コルヴァンの末裔だとさ。もしブレストに来たら接触してみるといい、と」
エドガーの補足を聞いて、フェルナンドは低く問いかける。
「次に手紙を寄越されたのは?」
「トルチュ島で……バカンスしてた時だ。手紙にはフランソワが死んだと書かれていた。怒りで体が震えたな。あの時、マクシミリアンと海軍に復讐することを決めた」
「復讐だけが目的だったのか?」
「最初はな。標的もマクシミリアンだけだった。だが手紙には続きがあって、旧ブルボン派が資金援助を勧めてきたんだ。海上を統治する夢を描けるとね」
「それで戦争を始めるつもりだったのか?」
「そうだ。愚かだと知りつつも、計画は路線変更した。ただし、元水夫の中には支配に嫌悪感を抱く者もいる。だから戦争計画は伏せていた」
「海軍の情報は?」
「ベルリオーズとは、なんとか繋がりを留めていた。ここからはお前も周知の通り、奴を脅迫しつつ海軍の部隊や動向に関する情報を入手していた」
港の静けさの中で二人の会話が異様な重みを持って響いていく。この戦争は偶然の連鎖ではない、海賊たちの激情だけでもない。背後にいた者たちが海を盤上の駒のように扱った結果だ。そして、その中心にいたのがダラス家だったと四人は知っている。知っているからこそ、エドガーの次の言葉を聞きながら怒りがより煮詰まっていく。エドガーは息を吸い込んで顎を上げた。
「フランソワ……あいつを思い出すと今も胸が熱くなる。アイツと交わした約束、笑い声、荒波を切り裂いたあの瞬間……一生忘れはしない」
ジャスパーの目がわずかに冷える。
——その名前を使うな。
「あいつが死んだと聞かされて……心の奥底で感じた絶望、海そのものに呑まれたような感覚——あの瞬間を、オレは忘れはしない」
マテオは歯の裏で小さく舌打ちした。
——うるせえ。
「マクシミリアンや海軍……奴らへの恨みつらみ……受けた屈辱の数々。だが、それ以上にオレを奮い立たせたのは、あの夢だ。海を制する夢、海上統治の夢、オレたち海賊が真に自由である瞬間を掴む夢だ」
ニールは無表情を装いながら胸の内でだけ整理していた。
——自由じゃない、支配だ。さっきからフェルナンドが言わせようとしている。
「偉大な海賊の弔い合戦。三本の剣を掲げた誓いを果たす瞬間が、ついに現実になる。あの日、胸に刻んだ誇りと誓いを……遂に」
コリンは心の中で薄く笑った。
——本当に終わってるな、この人。
「オレたちは、束縛されることなく真の自由を手に入れる。海賊たちが一致団結する、その瞬間を……ついに、この手で迎えられる! オレたちの旗、三本の剣の誓いが今まさに……」
エドガーの言葉が止まって静寂が戻り、潮風だけが吹き抜けるが四人の内側では同じ種類の怒りが沈殿していた。
——早くぶち殺してえ。
フェルナンドが背筋を伸ばしてジャスパーとマテオ、ニールとコリンを順に見やる。
「その自由を追い求めた結果、どうなった? まず、彼らを強引に引き入れたな。ほぼ監禁と言ってもいい。いや、奴隷か」
フェルナンドの指が遠くの海賊船団を指す。
「そして、あんたの計画のために多くの海賊団が犠牲になった。今もそうだ。……海軍のお偉いさんに言われたよ。あんたの本音は、自由ではない。支配であると」
ジャスパーはそこで初めてフェルナンドへ注意を向けた。
——海軍もなかなかに核心ついてんね。……それにしても、フェルナンドってこんな男だっただろうか。
マテオも同じことを思っていた。いつもの皮肉ではない、これは妙に芯がある。ニールはフェルナンドを観察していた。おかしい、さっきから温度が違う。怒っているだけではない、何か別の意図がある。コリンは目だけで二人の間合いを測っていた。
——なんだろう、せっかくの再会なのにピリピリしてる。
「あんたの理念に自由意志なんてものは最初から存在しない、と真っ向から斬りつけてきたよ。さすが英雄と言われた男。器の大きさを思い知ったね」
フェルナンドの言い切りにエドガーが鋭く返す。
「……言いたいことはそれだけか?」
潮風が二人の間を吹き抜けた時、フェルナンドが数歩進んだところで足を止める。
「船長。いや、エドガー・ロジャース。——ボクは船を降りる」
ジャスパーの思考が一瞬空白になり、マテオも固まる。コリンは目を見開き、ニールは驚きの中でわずかに目を細めた。意外すぎるが、今この場でそれを言う意味は極めて大きい。
「限界だ。あんたを信頼してここまでやってこれたが、もう耐えられない。ボクは船を降りさせてもらう」
「そうか、残念だな。なら、裏切り者は殺されるのが定めだ」
フェルナンドの言葉にエドガーの口元に冷笑が浮かぶが、彼の手から刃が閃いて流石に四人も一瞬だけぎょっとした。白い光が走り、フェルナンドが躱すと布が裂けて胸元が鋭く切り開かれる。
「貴様に会うためにここまで計画を練ってきたんだ。なのにその仕打ちか、恩知らずめ!」
エドガーの激昂にフェルナンドがふっと笑った。
「どうせその計画も、そこの彼が考案したんだろ?」
フェルナンドの視線がニールに向き、ニールは一歩前に出て浅く礼をした。英国紳士めいた、無駄に綺麗な所作で。
——全部、仲間のおかげだよ。自分一人ではここまで来ていない。
ジャスパー、マテオ、コリン、アランたちに組織リー・ウェン。誰一人欠けてもこの場はなかった。礼は半分だけ冗談で半分だけ本心だった。エドガーが低く言う。
「オレが大人しく帰らせると思ったら大間違いだ」
そこから先はもはや会話ではなかった。石畳を踏みしめる音がしてエドガーが斬り込み、フェルナンドが身体をひねってかわすと手の中に短剣が現れた。
「しばらく会わない間に忘れたかい? ボクは、寝てる時もナイフを隠してるってね」
——今更ながら、その噂ほんとだったのかよ。
四人は顔を顰めていると、火花が散って二つの刃が鍔迫り合う。彼ら四人は白熱した斬り合いを見守るしかなかった。今はまだ誰も動かない。石畳に刃が擦れる音がやけに乾いて、フェルナンドの足がわずかに滑る一瞬の歪みをエドガーは見逃さず低く踏み込み、刃が走る。
——速い。
ジャスパーの視界で軌道だけが遅れて見えた。フェルナンドが受けるが完全ではない。エドガーの刃がフェルナンドの布を裂いて肩に衝撃を入らせる。マテオは鼻を鳴らした。
……詰めが甘え。
コリンは指先を擦り合わせて距離と間合いと逃げ場を頭の中でなぞり、ニールはエドガーの間を見ている。来るという予感通り、エドガーが口を開いた。
「まさか貴様もここで死ぬわけにはいかないもんな? 大切なお仲間がいるもんな」
わざとだ、釣り上げるための言葉にフェルナンドの視線が泳ぐ。
——そっちじゃない。やめろ。
ニールの思考が冷えるが遅い。フェルナンドの視線が引かれて小屋の方へ向いた瞬間、エドガーの拳が彼の鳩尾にめり込んだ。空気が抜ける音がしてフェルナンドが膝をつき、マテオの眉がピクリと動いた。
「……クソが」
エドガーの視線が小屋に向いて声を張りあげる。
「出てこい。話をしようじゃないか」
コリンの喉がひゅっと鳴りそうになるのを抑える。潮風が間を引き延ばす。と影が動いた。石畳に現れたその姿を見た瞬間、四人の時間が止まった。
……は? ソフィー? なんでここに、いや違う。タイミングが最悪すぎる。
四人の背に汗だけがじわりと伝った。ソフィーが一歩前に出ると剣を構え、真っ直ぐエドガーを見据える。彼女の姿勢に、ジャスパーの視線が僅かに細くなる。
……来たのか、本当に。
ニールの思考が一瞬だけ乱れる。
——来てほしくはなかったけど……来ると思ってた。
コリンは唇を噛む。
——ここで来るのズルいでしょ……。
マテオだけがほんの僅かに目を伏せた。
「……馬鹿かよ」
——来やがった。
エドガーが口を開く。
「お前、トルチュ島で会った女か?」
エドガーとソフィーの会話が始まった。四人はソフィーの言葉とエドガーの返答の一つ一つを逃さないように見守る。
「こいつらといたよな。まさか海軍員だったのか?」
エドガーの問いにソフィーが答える。
「私はマクシミリアン・ブーケ隊の一員。でも、あの時の私は海賊だった。契約していたから」
……言うな、それ。
ジャスパーが舌打ちし、コリンも似たような反応をする。
——ここでそれ出す? 間違えれば即死だ。
エドガーが鼻で笑う。
「いいか、お嬢ちゃん? 海賊ってのは紙面上の約束じゃねえ。生き様だ」
「めちゃくちゃよ。それでも大海賊なの?」
ソフィーが低く返すとエドガーの目が光り、コリンの指先がぴくりと動く。
——その角度で行くの怖すぎるって。
「オレが大海賊と言われる所以は略奪の成功率な」
「そりゃ恐怖で支配していたものね? よく反乱が起きなかったものよ、奇跡に近い」
ソフィーは吐き捨てると、ニールの中で別の評価が生まれる。
——踏み込むなあ。
コリンは内心で苦笑する。
——やめてよ、こっちの心臓が持たないって。
ソフィーが続ける。
「そもそも、こんな大掛かりな戦争を仕掛けるくらいだもの。相当なカリスマがないと、あれだけの海賊団は集まらない」
マテオの口角がほんの僅かに歪む。
……いい度胸だ。
「いや、カリスマがあるのはフランソワの方ね。他の海賊団もみんな彼を失って悲しかったはず」
ソフィーの一言で四人の表情が誤魔化しきれないほど緩む。
……ああ、それだ。分かってる。ちゃんと見てる。
フランソワの名は彼らにとって“居場所”だった。奪われたもの、守りたかったもの。それを目の前の女は正しく言った。エドガーの殺気が空気を裂き、ソフィーがフェルナンドを庇うように前に出る姿を見た瞬間。誰もが同じことを思った。……やめろ。そこに立つな。前に出るな。でも、誰も止めない。なぜなら、彼女の顔はもう決まっていたから。エドガーの狡猾な視線が彼女を捉えている。
「あくまでオレに楯突くんだな? ……そうだ。お嬢ちゃん、マクシミリアン・ブーケ隊と言ったな? ……見せたいものがある」
エドガーは剣先をわずかに下げ、口元だけで笑った。
「——ジャスパー、持って来い。例の“土産”だ」
ジャスパーは肩をすくめて踵を返した。
「……面倒くさ」
ジャスパーは個方ガレオン船の甲板へ向かうと、メインマストにぐるぐるに巻きされたマクシムに近寄って結び目を解いていった。繊維が湿っていて、指先にざらつく。一本二本と緩めるとズルりとマクシムの体重が落ち、ジャスパーは即座に身体を受け止めた。
「……やっぱり、軽くはないな。小柄だけど、まあまあ重い」
ジャスパーがぼやきながらマクシムを肩に担ぐ。骨格は細いが、筋肉は締まっている。一方、当の本人は意識を沈めたまま怒っていた。
……誰が小柄だ。
マクシムは瞼も動かさず、呼吸も押し殺した。ジャスパーはエドガーたちの元に戻るとマクシムを雑に置いて、ドンとマクシムの背中が石に当たった。ソフィーの瞳が見開かれる。
「な、隊長!?」
エドガーが満足げに口角を上げる。
「マクシミリアンを殺すのも計画のうちだ。戦争も復讐も果たす。それがオレの目的だ。——これは交換条件だ。フェルナンドを寄越せ。寄越してくれたらマクシミリアンを解放する」
——最悪の形だ。
四人の認識が一致する。もうダメだ、戻れない。交渉じゃない、ただの処刑台だ。フェルナンドが動き、戦いが再開するも数度の斬り合いのうちにフェルナンドが崩れ、ソフィーが彼に駆け寄るとエドガーが剣を振り上げる。
「卑怯者……!」
「安心しろ。貴様も今すぐ殺してやる」
エドガーの言葉が落ちた瞬間、四人の中で同時に何かが切り替わってそれぞれの手が武器へ伸びる。——その直前、マクシムの瞼が開いて次の瞬間にはマテオの腰から剣を抜いて地を蹴った。
「——は?」
マテオの反応が遅れる。マクシムはエドガーの剣がソフィーに向かって落ちる軌道の内側へ滑り込むと鋼を噛み合わせ、ギィンと火花が散った。マテオは数瞬遅れて歯を食いしばる。
「……おせえよ」
「最初から起きてたやつだ」
「いや今なの!?」
ニールの目が細くなってコリンが肩を落とし、ジャスパーが呆れ半分に息を吐く。
「……タイミングは完璧かよ」
マクシムはエドガーの剣を弾くとソフィーを振り返った。
「すまない、迷惑をかけた。ソフィーは彼の治療を。ここは僕にお任せください」
——妹を守る。
マクシムがエドガーに目を向けると、エドガーが笑った。
「一騎打ちといこうじゃないか、マクシミリアン」
マクシムが剣を握り直して石畳を踏み出すと鋼がぶつかって火花が散る。その光の中で四人は同時に思った。
……いや、起きてたならもっと早く動け。マジで。
マクシムは一歩踏み込むが、彼の軌道を読むかのようにエドガーは身体をずらし、角度を変えて逆側から斬り込んでくる。正面から打ち合わない。受け流し、ずらし、空間ごと奪う。踏み込ませて潰す。石畳に火花が散る一連をジャスパーは腕を組んだまま眉を上げる。
「……ああ、これか。ゼフィランサス仕込みってやつ」
直線で斬らない。相手の動きそのものを崩す小賢しいやり方に、マテオは舌打ちを飲み込む。
「……やっぱそう来るかよ。性格悪ぃな、ほんと。でも、剣の腕は本物だ」
踏み込めば潰される、距離を取れば詰められる。あの男は戦っているように見せて、相手の選択肢を削っているだけだ。ニールは二人の攻防を観察していた。
「なるほどね……」
マクシムの剣が弾かれ、体勢が崩れた一瞬をエドガーの身体が滑り込むと掌打の鈍い音がして、マクシムの身体が石畳に叩きつけられていた。四人の視線が、わずかに揺れる。マクシムが歯を食いしばって立ち上がるも、エドガーに追い込まれていった。視線の端でそれを捉えながらマテオは舌打ちする。
「クソ、あの野郎」
自分の手元には何もない。あの男に一瞬の油断で奪われた。マテオは小型ガレオン船に足を向けると船内の武器庫へ向かった。武器庫の扉は半開きのまま、マテオが蹴り開けると壁を手探りで漁った。銃と火薬の匂い、次にカットラスを引き抜くとようやく一息吐くが、眉がわずかに寄る。
「足りねえ」
何かが欠けている。思考が勝手に一人の姿を引きずり出す。
「……ルカ。今、何してる?」
遅い。来ない。あの男が、この状況で姿を見せない。それ自体が、異常だ。
「……まさか。いや、ねえな」
一瞬嫌な想像がよぎるが、すぐに振り払う。あいつがそこで終わるわけがない。それは知っているが、それでも指先がわずかに強く柄を握る。
「どこで暴れてやがる」
マテオは吐き捨てるように呟くと踵を返して再び戦場へ駆け出した。
マクシムの呼吸が明らかに乱れて石畳に膝をつき、立ち上がろうとしてはエドガーに叩き落とされる繰り返しを、ジャスパーはじっと眺めていた。血と汗が混ざり、袖から滴り落ちている。
——あー。来たな、これ。禁断症状。
ジャスパーの指先が腰へ触れ、帯びている連結剣の柄に軽く触れると胸の奥でじわりと何かが滲んだ。ジャスパーは緩い表情のまま石畳の継ぎ目を選び、重心を落として影の中を滑るようにエドガーの背後へ忍び寄った。ニールがジャスパーの背に視線を寄越し、コリンも息を殺して見つめている。その時、マテオが新しいカットラスと銃を両手に戻ってきた。
「……なんだ?」
ジャスパーは右手で柄を握り、左手で鎖をほどくも金属が擦れる微かな音がした。彼の視線の先では、エドガーが剣を掲げていた。
「これで終わりだな」
エドガーの一言で空気が固まり、マクシムの胸を狙った刃が振り下ろされる直前、ジャスパーは一歩踏み込んで大きく振りかぶると連結剣が空気を裂いて横薙ぎし、刃が走って遅れて鎖が追ってしなり、一直線に伸びると鎖がエドガーの手首と剣に絡みついて捕らえた。
「──ッ!」
鋭い金属音にマクシムが顔を上げ、ジャスパーは連結剣でエドガーの動きを牽制していく。
「──ここで邪魔するとはな、ジャスパー!」
エドガーが低く唸るが、ジャスパーは肩をすくめて鎖で締め上げる。
「あーあ、おれもう限界だよ。——そろそろ裏切っていいよね?」
ジャスパーの口元は笑っているが、アンバーの瞳がギラリと鋭さを帯びた。ニールが一歩前へ出て剣を構え、柔らかく笑う。
「よく耐えた方だよ」
「てか、その武器なに?」
コリンも剣を抜いて視線を鋭くするとジャスパーは鎖を引きながら肩越しに答えた。
「さっき甲板にあったやつ。海軍の持ち物っぽくてさ。変なの持ってるなーって思って。だから頂戴した」
「当然のようにパクるな」
マテオが呆れたように息を吐くが、口元はわずかに歪んでいた。やっとだ。ここまで長かった。ようやく、この瞬間が来た。
「……まさか、この変態的な武器を使いこなすとは……」
マクシムの胸の奥がわずかに熱を帯びる。悔しさと僅かな感嘆の両方が混じる。ジャスパーは指先で鎖を弾いて絡め取っていた連結剣を解いていき、エドガーの腕から力が解放される。ジャスパーはマクシムに近寄って肩に軽く手を置いた。
「隊長さんよお。あんたの本気はそんなもんじゃないだろ?」
マクシムの呼吸が乱れているのを指先越しに感じながら、ジャスパーは続ける。
「胸に手を当てて落ち着いてみな。大切なもの守ろうとしすぎて、周りが見えてねえ」
言われた通り、マクシムは胸に手を当てた。呼吸と石畳の冷たさ、潮の匂いと風の流れ。視界の端に映る者達の位置。ばらばらだった情報が一本に繋がる。そこへ、マテオが割り込むように二人に近づいた。
「それにエドガーは、はっきり言って弱いぞ」
「うーん、ハッキリしすぎでは?」
マクシムが肩をすくめるが、マテオは構わず続ける。
「お前だって散々な目にあっただろ? あいつと比べりゃぬるいって」
——あいつ。
マクシムの脳裏に浮かんだのは傷だらけの顔。静かな目、理不尽なまでの強さ。
「……そうだ。彼と比べれば……まだ、勝機はある」
マクシムはゆっくりと顔を上げると剣を握り直し、立ち上がって血に濡れた足で踏み出した。
「ありがとうございます。あなた方に助けられるとは」
マテオが鼻で笑い、剣先をわずかに傾ける。
「ここからはオレたちも援護する。軽くだ。お前が全部やれ」
「ほら、行けよ」
ジャスパーはもう一度、マクシムの肩を叩いて背を押すと、マクシムが地を蹴った。エドガーが踏み込む縦の一閃に、ジャスパーの鎖が絡む。その隙にマクシムは身体を沈め、衝撃を逃がして前へ踏み込んで斬るエドガーの肩を掠める。
「まだ足りねえな」
ジャスパーがぽつりと呟き、ニールも同じものを見ていた。
「キレがない」
「迷ってる」
コリンが眉を寄せる。正確だ。技術もあるが、踏み切れていない。その瞬間、ソフィーの声が飛んで剣が投げられる。
「隊長! これを!!」
空中を滑っていく剣をマクシムは掴んだ。二刀が手に馴染む。
「ありがとう」
次の瞬間、マクシムはもう動いていた。右で受け、左で突く。左で流し、右で斬る。止まらない連動にエドガーが押される。
「なるほど、二刀流ね」
「これは見ものだな」
ニールが呟いてマテオも腕を組むが、ジャスパーだけは目を細めていた。
——集中しすぎ。
マクシムがトドメを刺そうとした瞬間、エドガーの目が光って低く沈むと彼に突進した。
「うっ……!」
衝撃のあまりマクシムの身体が吹き飛んで石畳に叩きつけられ、四人は思わずマクシムに駆け寄った。マクシムが呻きながら身を起こす。
「チッ!」
マテオが舌打ちして動こうとした瞬間、目を見開いた。
「……まずい状況になったな」
エドガーの腕にソフィーがいて、剣先が彼女の喉元へ向いていた。マクシムの視線がソフィーに固定され、胸の奥で何かが焼ける。ソフィーはマクシムを見据えながら口を開く。
「隊長……構いません。私ごと貫いてください。私は死んでも構いません」
四人がその場で凍りつき、マクシムは胸の中で何かが弾けて声を震わせて搾り出す。
「……いやだ」
脳裏に浮かぶのはみすぼらしい服の少女。小さな手と怯えた目。
「優しくするんだぞ」
叔父の声がする。あの時の自分は逃げた。役目から感情から、目の前の存在から。そして今、同じ目をした少女がそこにいる。
——罰だ、これは。
「そんなこと、できるわけない」
マクシムは震えながらもはっきりと言うと、エドガーが笑う。
「はっ……友情ごっこはその辺にしとけ」
その瞬間、四人の中で何かが切れた。
「ぶっ殺すぞ、マジで」
マテオが唸り、ジャスパーは鎖を握る手に力が入る。ニールは冷めた目でエドガーを見ていた。
「どこまでも卑怯なやつだ」
マクシムの視線がソフィーを離さない。彼の胸の奥に殺意と恐怖が同時に渦巻く中、ソフィーが声を鋭くさせた。
「隊長! あなたのような人が、怯んでどうしましょう?! ……あの時、あの嵐の日、私を突き飛ばしたくせに! なぜこんな時に突き放さないのですか?!」
——やめろ。その話は。その記憶は。
マクシムが狼狽えている時、四人の視線がマクシムに冷たく向いた。港の風が強く吹き、マクシムは息を吸って吐くと剣を握り直す。
「……わかった、もう躊躇はしない」
——自分はここで終わってもいい、全部捨ててもいい。あの子さえ生きるなら。




