第八章② Montage
湿った石の匂いが鼻腔に絡みつく、ブレスト城地下。松明の火は弱く、壁に映る影はやけに長い。
——この程度の警備で、よくもまあこれだけ人を閉じ込めていられるものだ。
ピエールは半ば呆れていた。彼は疲労と油断が混ざった足音が近づく音を拾い、士官が角から現れると一歩踏み出して鞘ごと頬骨の少し下、急所に打ち込んだ。士官が崩れ落ち、ピエールは一瞥すらくれず次の影へと移って角を曲がった。別の士官がピエールの気配を察して振り向きかけたが、ピエールは彼の首筋に手刀を喰らわすと別士官の身体が自分の重さに負けて沈んだ。
——こんなものか。
ピエールは士官の懐を漁って鍵束を探し当てると再び牢内を歩き出した。ようやく目的の牢が見える。鉄格子の向こう、手すりに寄りかかるフェルナンドが振り返った。
「……君は、誰だ?」
ピエールは鉄格子の前で止まって口元に指を当てる。
「私はあなたの味方です。——助けに来ました」
「もし、ボクが出ないと言ったら?」
「あなたを待つ人がいるのですよ。あなたが帰るべき場所まで送り届ける。それが私の役目です」
「……君はもしや、以前ベルリオーズとやりとりしていたのでは?」
——面倒だ。
「だったら、何だと言うんです?」
ピエールは一歩踏み込んで距離を詰めることで、フェルナンドの思考を止める。
「ボクとベルリオーズに毒を盛ったのは、君の仲間か?」
「守秘義務がありましてね」
ピエールがナイフを抜くと刃先をフェルナンドの胸元へ突きつけた。
「エドガー・ロジャースに会いたければ、従っていただく。……いや正確には、エドガー本人が会いたがっているのです」
フェルナンドは息を吐くと緩やかに笑った。
「——わかった。船長のもとへ案内してくれ」
ピエールは鍵を外して鉄格子を開けた。湿った空気に外からの海の匂いが混ざる。ピエールはすぐに背を向けて松明を吹き消した。フェルナンドがついてくる。ピエールは通路の先にいる巡回兵に気づかれる前に喉元へ短剣を滑らせる。音は二つ、倒れる音が闇の中で少し遅れて重なる。ピエールはすでに次の角へ曲がって階段を上がる。
「……これは、警備が手薄すぎるな」
背後からフェルナンドの声がし、ピエールは肩越しに答える。
「手薄、ではなく……手を抜いているのですよ。目を逸らせば、捕らわれ人がいなくなるのも当然でしょう」
ピエールの苛立ちが胸に残っていた。一族のことを知られ、嗅ぎつけられた。エドガーは知った上で利用し、彼の配下たちから両足首を縄で縛られて海面スレスレまで吊るされた。おまけにジャスパーら四人は知らんぷりで固まってお喋り。屈辱にも程がある、気に食わない。ピエールは歩く速度を早めていると、彼の背後でフェルナンドが屈んでいた。彼は倒れた兵の剣帯を指先で探り、冷たい金属に触れると懐へ滑り込ませて歩き出した。
——エドガー、あの暴君とは付き合ってられない。絶交を切り出すなら今。最悪、戦闘になるかもしれない。……ほら、ボクって寝てる時もナイフ持ってた噂あったし。ま、事実なんだけど。
ピエールは怒りと計算で視界の端が削られている中、前方に現れた兵に向かって即座に鞘で打って廊下を抜ける。裏門が近くなると空気が湿り気が抜け、小窓から光が細く差し込んだ。ピエールは足を止めない。この迷路はすでに終わり、あとは海へ。その先にいる怪物の元へ。陽光に細く照らされたピエールの顔に笑みが浮かんだ。
マクシムのまぶたの裏で淡い光が揺れていた。船体が波に持ち上げられ、落ちるたび血流がこめかみに鈍く響く。頭の位置が固定されているせいで揺れは逃げ場を持たない。
——縛られている。
腕は背後、肘がきつく寄せられ、麻縄が食い込んでいる。胸郭の動きが制限され、呼吸は浅くなる。マストにぐるぐる巻にされたらしいが、動けないほどではない。マクシムが周囲の音に集中するとニールの声がした。
「……で、ここまで来たわけだけど」
「思ったよりスムーズだったな」
「それ、ジャスパーのおかげでしょ。あの操舵、普通じゃないよ」
マテオとコリンの声も聞こえる。マクシムは横波を受ける船の揺れに合わせて体の力を抜いた。マテオの声がわずかに硬くなる。
「まあいい、問題はここからだ。エドガーとフェルナンドが落ち合う。そこまでは予定通り」
「で、そのあとどうするの?」
コリンが軽く問うと風が一瞬強く吹き抜けて帆が鳴った。ニールが声を落として答える。
「決まってるでしょ。——二人とも殺すよ。最初から、そのつもりだったんだから」
マクシムの耳に心臓の音が一瞬だけ強く響いた。コリンが声を強める。
「でも、この人は? 使えるよね」
——この人、自分のことだ。
「囮としては完璧だったし。エドガーも確実に食いつく」
「だから生かしてるだろうが。ここで無駄に消す理由はない」
「そう。じゃあ役目が終わったら?」
マテオが即答し、コリンの声が少しだけ軽くなる。やや間があってニールが答える。
「……その時考える」
曖昧だが、切り捨てる選択肢も含まれている。マクシムは指先を動かして縄の締め具合を確かめているとコリンが少し声を落とした。
「ルキフェル、大丈夫かな」
マクシムの意識がわずかに反応し、マテオが鼻で笑う。
「ルカ? 大丈夫だろ」
「いやいや、そういう問題じゃなくて、ちゃんと脱出できてるかなって話」
コリンの焦りを隠さない声音に、またもニールが応える。
「……まあ、普通に考えれば厳しいよね。海軍と海賊、両方いるから」
「でしょ? しかも単独でしょ?」
「そうだな。どっちに見つかっても面倒だ」
マテオの言葉の裏にあるのは冷静な現実だ。ニールが掠れた声で呟く。
「……捕まっててもおかしくない」
「けどよ、ルカのことだ。無茶する可能性がある」
マテオがすぐに言葉を重ね、ニールがため息を吐いた。
「……無事に抜けてればいいけどね」
遠くで何かが爆ぜる音がして遅れて届き、マテオが肩を鳴らす。
「……まあ生きてりゃ、そのうち合流するだろ」
「だね。最悪、勝手にどっかで暴れてるかもしれないし」
「それはそれであり得る」
コリンの言葉に、ニールがわずかに笑った。マクシムはゆっくりと呼吸を整えた。
——ルキフェル。
まぶたの裏で光が揺れ、マクシムは“気を失ったまま”次の一手を組み立てていた。そのうち波の揺れの質が外海の荒さから港湾特有の鈍い反射へと移っていく。ブレスト港が近い。帆が風を孕み、船体が緩やかに減速しながら進路を絞っていく。小型ガレオン船の甲板上には戦場の余熱がまだ残っていた。火薬の匂いと血の匂いに混じる潮の湿り気が空気を重くしている。舳先付近でニールは望遠鏡を目に当て、レンズ越しに人影を見つけて息を止めた。
——いた、フェルナンド。
フェルナンドはシャツの裾を揺らしながら立っている。ニールはゆっくりと望遠鏡を下ろしてマテオとコリンを振り返った。
「……いるよ、彼。接岸準備しようか」
マテオが頷きかけてブレスト港を見渡した。
「……ソフィーは?」
ニールは首を横に振り、マテオは口の端を吊り上げた。
「……いいだろう。ここは——オレたちの舞台だ」
「今度こそ、決着つけようね」
彼の言葉にコリンが笑い、ニールは一歩だけ前に出て再び港の方へ視線を戻した。
「まずは様子見。ギリギリまで、仲間を装う」
——この先は騙し合いだ。
一方、船尾では操舵輪を握っていたジャスパーが手を離した。
「さて……」
彼は肩を回して振り返る。さっきから気になっていた音、甲板に落ちた、何かを確認するか。船尾楼の床、血と水で濡れた木材の上に、細長い刃と繋がった鎖が転がっていた。
「……なにこれ」
ジャスパーが眉を顰めながら拾い上げた。手にした瞬間、金属の重みが掌に食い込んで見た目以上にズシリとくるが、同時にバランスは妙に整っている。ジャスパーは柄の部分を親指でなぞると海軍の紋章を目にした。
「……へえ」
ジャスパーが試しに振ると刃が空気を裂くが、軌道と鎖の遅れて追いつくズレが妙な違和感を生んだ。
「これで斬るってこと? むず……」
ジャスパーは率直に呟くながらもう一度だけ軽く振ると、重さと遅れが逆に引っかかりとして手に馴染む感覚があった。
「……まあ、全く使えないわけじゃないか」
ジャスパーは鎖を指でつまみ、くるりと回して輪の形にまとめると剣帯に差した。
「ちょっと借りるよ」
金属が触れ合う乾いた音が小さく鳴る。船はブレスト港へと滑り込んでいき、これから別の戦いが幕を開けるのだった。
第八船団、船長室。扉が閉まると同時に外の喧騒がわずかに遠のいた。船体を伝ってくる波の振動と、遠くでまだ鳴り続けている砲声の残響が低く床を震わせている。ルキフェルは机の前に立ち、濡れた布で顔を拭った。布が肌を滑るたび乾きかけた血がざらつく。拭っても拭っても、完全には落ちない。
——まあいい。
ルキフェルは投げるように布を机へ置いて視線を落とすと、そこには無造作に積まれた衣服があった。色も質もバラバラだが、共通しているのはどれも誰かのものだったということ。略奪品、海賊である以上は当然のことだ。着替えは奪った時にしか手に入らない。ルキフェルは麻の白シャツ一枚を手に取って指先で布地をなぞる。粗いが、悪くない。無言で袖を通すと布が素肌に触れ、乾いた感触が先程までの血と熱をわずかに引き剥がした。ルキフェルは無意識に腕をまくり、次に今着ている黒のズボンと似たものを選んで履き替えた。今まで履いていたブーツはほとんど原形を留めていない。革は裂け、縫い目はほつれ、底は擦り切れている。
——よくもった方だ。
新しい編み上げブーツも手に取り、足を入れて紐を締める。革が足首を固定する感触が戻ると、彼はワイン色のサッシュベルトに手を伸ばすと広げて腰に巻きつけた。布が身体に沿い、赤が視界の端に残る。——赤は覚悟の色。誰かがそう言っていたのを思い出す。信じているわけではないが、この系統の色を纏うと余計なものが削ぎ落ちる。サッシュの上からベルトで固定して締めるたび身体の芯が締まる感覚があった。最後に剣帯を肩にかけ、斜めに落とすと革が胸を横切って腰で止まる。
「……久しぶりだな」
ルキフェルの口元が歪んだ時、視線が壁に掛けられた鏡に向けられた。そこに映った自分の背中、布越しでも見える。縦に横に斜めに刻まれた跡、九尾の猫による三十九回の鞭打ちの一つ一つが肉を裂いた記憶として残っている。ルキフェルは自分の背を見下ろしてシャツを少しだけ引き上げた。露わになる背中、白い肌の上に走る無数の線。癒えたはずの傷がまだ新しいかのようにある。呼吸が詰まり、静かだったはずの内側で何かが軋む。
——あの時、動けなかった。何もできなかった。受けるしかなかった。
ルキフェルが拳を握ると爪が掌に食い込むが、その痛みよりも奥で蠢くものの方がはるかに強かった。抑え込んだはずの獣がまだ起きている。これは理性ではない、ただの衝動だ。
——落ちたな。
ルキフェルは自嘲のように口元を歪ませたが、次の瞬間には歪みを消して冷たい光を瞳に宿す。
「……エドガー」
ルキフェルは吐き捨ててシャツを戻し、鏡から視線を外すと剣帯の位置をわずかに直して腰のバランスを整えて船長室の扉を開けた。潮風が室内に流れ込み、ルキフェルが外に出るとアーシャとフェリスが待ち構えていた。アーシャはルキフェルの姿を一瞥すると軽く口笛を吹く。
「お、いい感じですよー。生き延びた人って感じ」
そう言ってアーシャは腰から一本のカットラスを抜くと放り投げ、ルキフェルは片手で受け取り、重みを確かめるように一度だけ振ると剣帯に差した。一方でフェリスは船首の方へ目を向けたまま口を開く。
「今、ブレスト港に向かってます。順調ですよ。これで、ようやく兄さんたちと合流できますね」
ルキフェルは舳先が差す方向を見た。あそこにエドガーがいる。第八がこのまま進めばノイズになって危険が及ぶ。
「……お前たちは離れろ。港に近づくな」
「え?」
ルキフェルは踵を返して船淵へ向かった。アーシャが一瞬だけ目を瞬かせ、フェリスが眉を顰める。
「ちょっと待って、それって——」
ルキフェルはもう船縁に立っていた。
「ここから先は自分で行く。……巻き込まれるぞ」
風が彼の言葉をさらった瞬間、ルキフェルの身体が躊躇なく前へ落ち、白い飛沫が立ち上がってすぐに崩れる。アーシャは船縁に駆け寄って眼科を見下ろすと、揺れる白い水面を見つめていた。風が髪を揺らし、何も言わない時間が数秒続くとアーシャが肩を落とす。
「……せめて小舟を使おうよ」
「……ほんとにね」
呆れ半分、苦笑半分の声にフェリスも同じ方向を見たまま苦く笑う。 船はそのまま進み続けるが、ひとつの影はすでにそこにはいなかった。
海は冷たかった。飛び込んだ瞬間の衝撃はすでに過ぎているが、水温はじわじわと体温を奪い続けている。塩が傷口に入り込み、皮膚の奥をなぞるように鈍く滲む。ルキフェルは呼吸を整え、腕を伸ばして水を掻いた。抵抗があって重いが、押し切るのではなく流していく。身体が覚えていた。波の頂点でわずかに浮く瞬間に落ち、その落差に合わせて腕を入れる。——効率だけで泳ぐ。余計な力は使わない、使えば沈む。カットラスの重みが腰に触れ、水を含んだ衣服がまとわりつくが、気にせず意識から外す。重さは条件であって、障害ではない、ただ前へ。その時、ルキフェルの視界の奥に別の海が重なった。もっと静かで、もっと浅い、陽の光が揺れている水面。
——波止場。足元の石畳、風に煽られる布の音。そして、滑る足。
「っ……!」
少女が落ちる。音よりも先に身体が動いていた。あのときと同じだ。ルキフェルの呼吸が一瞬だけ乱れ、水を掻く腕に力が入り、冷たい水が顔を打つ。視界が歪む。——沈む。あの時の少女も同じだった。水の中で手足をばたつかせるが泳ぎではない、ただ沈む動きだ。ルキフェルは歯を食いしばった。あの時は間に合った。手を伸ばして、掴んで、引き上げて。抱えた体は軽くなかった。水を含んだ衣服が容赦なく腕を引いた。呼吸は乱れ、肺が焼けるようだった。それでも、離さなかった。
「今助ける!」
自分の声が海の中で歪んで響く。水面に顔を出した瞬間、空気が喉を焼いたが、止まらなかった。波止場の石畳に引き上げた後の濡れた髪と白い肌、そして閉じられた瞼。ルキフェルの手が震え、あの時の記憶が今の海と重なる。今の水は荒い、砲煙と血の匂いが混じっている。遠くで爆発が起き、遅れて衝撃が水面を伝ってくるが、あの時の重さだけは変わらない。命の重さだ。ルキフェルが息を吐くと水泡が溢れた。
——スザンヌ。
名が浮かぶ。あの時、初めて聞いた声。鈴のように澄んだ、あの声。
「スザンヌ・ブルボンと申します」
波が顔を打ち、ルキフェルは思わず水面から顔を出した。視界の先にブレスト港が見え始め、彼の胸の奥で何かが軋む。——今は海軍だ。あの少女は、あのとき守った存在は、今は背後の戦場の中にいる。血と煙と叫びの中に。ルキフェルの腕が水を掻く力をわずかに強めた。呼吸が少しだけ速くなって心臓が強く打つと、ドクンともう一度胸の奥で何かが開いた。あの時、押さえ込んだもの、さっきまで制御していたもの。
——獣。
心の暗闇から狼が翡翠の瞳を輝かせて咆哮した。全部が遅い、戦場も人も、自分も止められなかった。この戦争を、この混乱を。あの少女が巻き込まれる未来を。ルキフェルの歯が軋むと水を掻く腕に押す力がこもる。さっきまでの流す動きではない、強引に進むと水が割れて音が遅れてついてきて、呼吸が荒くなる。胸の奥で静かだったはずの内側が熱を持つ。
——エドガー、必ず殺す。
名を思い浮かべた瞬間、はっきりと形になった。怒りではない、もっと単純でもっと純粋で、原始的なもの。ルキフェルの目が細くなった。水面の向こう、港の光景が近づいている。その先にあるのは戦場、そして終わらせるべきもの。ルキフェルは深く息を吸って吐くと次の一掻きで港の距離を縮め、繰り返していった。獣はもう止まらないが、進む方向は決まっている。
一直線にブレスト港へ、その先にいる獲物へ、最短で向かうために。




