第八章① ルキフェル、花弁奮迅船渡り相勤め申し候
リヴェンジ・クイーンの最下層、空気は腐りかけた水みたいに重い。湿気が肌に貼りつき、砲撃の振動が梁から梁へ鈍く伝わって船そのものが低い呻き声を漏らしているようだ。閉じ込められていた時間の長さだけ、この場所には淀みが溜まっている。息を吸うたび肺の奥にまで湿った木の匂いと黴と鉄の味が入り込んでくる。
ルキフェルは積荷の影に身を溶かしていた。呼吸は浅いというより、呼吸をしているという事実すら曖昧になるほど薄いが、静けさの内側では別のものがずっと暴れていた。胸の奥、肋骨の裏、腹の底にずっといる。飢えた獣みたいなものが檻の中で何度も身体を打ちつけていた時、階段の上から足音が近づいてくる。慌ただしい状況に焦る人間の歩き方だ。木の床を踏むたび焦燥がそのまま響いてくる。
「海軍の潜入が想定より早いな……!」
男の声が暗がりの中を滑ってくる。ルキフェルは動かない、いや動く必要がなかった。男が勝手に自分の間合いへ入ってくるから。男が積荷の脇を通り過ぎると船が波に持ち上がり、床がわずかに傾く揺れに紛れてルキフェルの身体が一歩、また一歩と音を殺して男の背後へ流れた。
「誰——」
ルキフェルの手が男の背に触れて中心をずらすと、男の体がふっと軽くなった。重さを失ったわけではないのに、自分の身体がどこにあるのか分からなくなった顔をしている。男の視界が傾き、膝が消え、床が近づく。抵抗する暇もなく世界の軸だけがずらされ、男は吸い込まれるように崩れ落ちて音が遅れて響いた。乾いた短い衝撃音のあとに静寂が戻り、ルキフェルは倒れた男を一瞥した。
——遅くなった。
彼の胸の奥で獣がもう一度身を捩る。外はすでに戦場だ。ならば、ここに留まる理由はない。低く漏れる声は、自分のものとは思えないほど乾いていた。
「やっと動けるのはいいが……ここからどう抜け出すか」
言葉にした途端、逆に可笑しくなる。抜け出すなんていう生ぬるい話ではない。檻が開いたなら、あとは飛び出すだけ。ルキフェルは廊下に目を走らせた。武器も装備もないが、今の自分にとって障害ではなかった。むしろ何でもいい。手に馴染み、音を立てず壊しやすければいい。壁際に立てかけられた一本の箒が目に入った。
ルキフェルは箒を取って柄を軽く振ると階段を上がっていく。足音は消すのではない、そもそも生ませない。床に全体重を預ける前に重心を次へ流し、揺れる船の周期に身体を合わせる。船が右へ傾けば、その傾きに乗って左へ進む。前方に海賊二人、気づかれていない。ルキフェルは壁際へ身を寄せ、滑るように接近すると一人に襲いかかって柄の先端で喉元を、呼吸の通り道を一瞬だけ奪うと一人目の体から力が抜け、ドサリと崩れ落ちる。二人目が振り返るもルキフェルは箒の柄で相手の顎を打ち上げ、二人目の視界が跳ねた一瞬に足首を払う。体の向きと足場の角度が食い違い、二人目は自分の重さに潰されるように沈んだ。血も出ない、剣はまだ使わない。血は痕跡だ。痕跡は時間を生む。今の自分にはどちらも鬱陶しいが、胸の奥の獣はもっと直接的なものを欲しがっていた。もっと早く、もっと深く。
高鳴りを抑え込むように、ルキフェルは廊下を進むと武器庫に辿り着いた。鍵は壊れている、混乱の中で誰かが乱暴にこじ開けたのだろう。ルキフェルは扉を押すと室内に溜まった鉄と油の匂いが流れ出てきた。彼は棚をざっと見渡して一本のカットラスとナイフ、それから剣帯と鉤縄を頂戴する。カットラスを握って重さを確かめた瞬間、胸の奥で暴れていた獣がようやく牙の形を得たような気がした。
ルキフェルが船尾側へ向かうと砲門のひとつが半開きになっていた。外から潮の匂いと風が流れ込んでいる。湿った船内の空気とは違う、生きた塩の匂いだ。ルキフェルは躊躇なく砲門へ身を滑り込ませて外に出ると頭上では白兵戦の怒号が渦巻いていた。ルキフェルは木の継ぎ目に指をかけ、足裏でわずかな出っ張りを探って船壁に吸い付くように横へ移動していった。砲煙が風に流れ、視界が時折白く閉ざされる。上では誰かが叫んで何かが倒れる音がするが、もう別の世界の出来事だ。戦場は遠いと思っていのに、胸の奥の獣は逆に目を細めた気がした。
——遠い? 違う。届いていないだけだ。
ルキフェルは一瞬だけ顔を上げた。前方、煙の隙間に別の帆影が見えた。ハートを串刺しにした海賊旗が靡いている。
「……あれか」
ルキフェルは目視で距離を測って風と揺れを読み、鉤縄を構えて投げた。縄が空を裂き、向こう側のバウスプリットに絡みつく。ルキフェルが縄を引いて固定の確認を済ませると身体を宙に投げ出した。風が頬を打ち、胃が一瞬だけ浮く。縄がピンと張ると捩って速やかに登っていった。やがてバウスプリットにしがみつくと傾斜で落ちる前に甲板へ向かって滑り込むように駆け出した。ルキフェルが甲板に足をつけると、「来たー!」という歓声が上がって、男女のペア——こいつらがニールの妹弟か——が寄ってきた。
「ルキフェルさん、よくぞ無事で!」
アーシャとフェリスの頬が紅潮している横で、ルキフェルはリヴェンジ・クイーンを振り返る。黒い船は煙と火と叫びに包まれ、一つの巨大な獣が海の上で蠢いているみたいだった。
——地獄だな。
ルキフェルは口を噤んで思うだけに留めた。口に出せば名前になる、名前を与えるにはまだ生易しすぎた。ルキフェルは周辺を見渡した。黒煙、炎、砲火と叫び、戦場がまだ続いている。ルキフェルの胸の奥に今まで抑え込んでいたものがまた頭をもたげた。無力という言葉が遅れて喉元に引っかかる。動けなかった時間、閉じ込められていた時間、何もできずに見ているしかなかった時間が今さらになって熱を持つ。その熱は後悔ではない。もっと鈍く、もっと荒い。獣が檻の中で噛み砕けなかった苛立ちに似ている。ルキフェルの視線が横へ流れる。リヴェンジ・クイーン付近の帆船では海賊たちが怒号を上げながら刃を振るっていた。統率も矜持もない、誇りもない。争いそのものに呑まれ、勝手に溺れているだけの顔たちを遠くに見て、ルキフェルの中で何かが音を立てた。
——くだらない。
吐き捨てるというより、断罪に近かった。なら、自分がやるしかない。裁いて壊す。沈めて端へ追いやる。そうしてようやく、少しはまともになる。ルキフェルは踵を返してアーシャとフェリスの方へ向いた。
「ここを離れろ」
「え——」
「戦線から外れろ。群れの端へ」
ルキフェルはアーシャたちの抗議の声も無視して甲板を駆け、船員たちの合間をすり抜けて船尾側から隣の船へ飛んだ。最初の海賊がこちらに気づいたときには、もう間合いは消えていた。ルキフェルは男の肩口に手を添えた瞬間、男の身体が自分の重さで崩れる。ルキフェルは目の前の操舵輪に触れた瞬間、掌にざらついた木の感触が広がった。使い込まれた溝と塩で荒れた繊維をなぞるように舵輪を回した瞬間、船体の軋みが足裏から伝わって甲板で怒号が上がる。
「おい、舵が——!」
周囲の声が最後まで届く前に、ルキフェルは舵輪から手を離して背を向けて次の船へ飛び移った。目の前の海賊が刃を振り上げるが、ルキフェルは振り下ろされる軌道の内側へ身体を滑り込ませ、刃が通り過ぎたすぐ後に剣帯からナイフを抜いて走らせた。赤い花弁が噴射して男が崩れるとルキフェルは同じように舵輪を回転させて船同士の衝突を誘発させた。
船が回る混乱の中、床に落ちたマスケット銃を拝借して次の船へ移り、振り返ってマスケット銃を構えると砲弾が入った木箱めがけて発砲し、銃を捨てて次の獲物を狩っていると背後でようやく音が追いついて爆ぜた。空気が震え、衝撃が遅れて背中を押し、熱が首筋を撫でるがそれももう過去だ。船体が横波と衝突を受け、ルキフェルは周期的に大きく揺れるリズムに合わせて揺れに乗ると海賊の一人が背後から掴みかかって崩すと、海賊の猛撃を避けながら甲板を突っ切って手すりの外へ飛んだ。
数秒後、またも衝突音が海を割って木が裂ける音と悲鳴が時間差で重なっていく。傾く船、燃え上がる帆、海に投げ出される人影。原因はどこにも見えない。ルキフェルが横断することで結果だけが戦場を侵食していく。ある時は甲板に拾い物の火を置くと遅れて爆ぜ、時としてカットラスを振るって甲板に赤い花弁を舞い散らした。今の自分が戻っているのか、それともまた堕ちているのか判別できないまま処理していく。刃を抜いて振るい、終わったら次へ向かっての繰り返し。
やがて、シャツに花弁が咲いていった。最初は点、次に線、そして模様になる。白だった布が赤い押花を受け止めていく。胸元に咲いた赤い斑がまるで内側で暴れている獣の爪痕みたいに見えたが、ルキフェルはカットラスを振るう手を止めなかった。
ようやく海賊同盟の群れの端へ、ルキフェルが最後の一隻の甲板に降り立つと海賊たちが彼を見た。ルキフェルが吸うと踏み込むと直線でカットラスを断ち、中で崩し、遅れて刃が見える。西洋の直截、東方の軌道、太極の崩し。どれでもあり、どれでもない。最短だけが残って斬る、崩す、落とすという短い時間で甲板の密度が変わり、人が減って音が減る。最後の一人が倒れると静かになった。ルキフェルは火薬庫へ向かい、最後の仕上げを終えると速やかに甲板へ戻る。すると、彼の視界の端で隣接するように別の船影が入る。
——第八船団がようやく追いついてきた。
ルキフェルは船縁へ向かって一呼吸すると短い距離を飛び、第八の甲板に足裏が着いた瞬間、背後で音が追いついて爆発した。炎、黒煙、崩れる船体が沈澱していく光景を背にルキフェルは立っていた。第八の船員たちが唖然としている中で、アーシャとフェリスはわなわなと震えながらルキフェルに近寄る。
「これが、兄さんのお仲間かあ……」
フェリスが呟くとアーシャはルキフェルの全身を隈なく見た。顔も手も服も赤く染まっている状態のまま、ルキフェルは二人の前に立った。
「お前たちがニールの身内だな。ニールにはいつも世話になってる。それと、助力してくれて恩に切る」
ルキフェルが言い終えたあと、ようやく自分の手元に視線が落ちた。指先が血でぬるぬるとしている。
——やり過ぎた。また“獣”に飲まれていた。
アーシャとフェリスが引きつった笑みを浮かべる。
「……あの……お礼は一先ずいいので」
「とりあえず……服、着替えましょか」
「……そうだな」
ルキフェルが目を細める背後で、海上はまだ炎が上がっていた。
「帆を張れ! ここを離れるぞ!」
戦場は混乱のままだが、第八は動き出す。フェリスの号令が飛び、ロープが巻かれ、帆が膨らむ。船体が戦場から距離を取っていき、怒号も爆発も次第に遠ざかって潮風だけが残った。ルキフェルは甲板で呼吸を整えていく。ドクンドクンと心拍が戦場の外へ戻っていくが、胸の奥ではまだ檻の中に戻されたばかりの獣が低く唸っていた。




