第七章③ Montage Part2
一方、ブレスト司令部。空は鉛色の雲に覆われ、冷たい雨が細かく降り始めている。第二艦艇部隊からの急報が届いたことで司令部は一気に緊張に包まれた。ランデヴェネック周辺で海賊の動きが活発化し、再び招集された作戦司令室には軍上層部が次々と集まって地図を囲みながら議論を重ねていた。防衛か迎撃か、声が飛び交う。
「……防衛戦しかあるまい」
エリオットの一言で空気が変わり、当然のように反発が起きた。攻勢を前提に考えていた将官たちにとって、受け入れがたい判断だったが、ルソーとイザベル、アルフォンスだけは沈黙を守っていた。彼らは理解している、この戦場の裏にあるもう一つの戦いを。エリオットは語れなかった。軍の剣が内側に向けば、この国は裂ける。だからこそ、守るしかない。やがてルソーが口火を切り、守りながら攻める戦術へと議論が移る。イザベルが具体案を示し、室内の空気は混乱から戦意へと変わっていった時、扉が激しく開かれた。
「その必要はありません!」
マクシムとシャルル、そしてグウェナエルの姿が現れた瞬間、場の重心がわずかにずれた。マクシムは室内の視線を受けながら前へ出る。上官たちの鋭い目、疑念と警戒がマクシムに向いているが、彼は退かない。
「奴らは補給すらしないでしょうね」
ざわめきが走り、そこからは流れが変わって彼らの手で報告書が配られる。リー・ウェンの名が出て、海賊同盟側の五十隻という数字が場を凍らせた。議論は一気に現実へ引き戻される。防衛すら困難という認識が全員に共有されたところでシャルルが手を挙げて声を発する。
「私めに一つ、提案がございます」
ルソーが眉をひそめて小声で呟く。
「あのオレンジ髪のやつは誰だ?」
マクシムが淡々と説明した。
「彼はシャルル・ド・ヴィトン。我々、マクシミリアン・ブーケ隊の頭脳担当です。この間の夜戦においても、火薬奇襲作戦と海賊撹乱作戦は彼が考案しました」
シャルルはにこりと笑みを浮かべ、落ち着いた声で話し始めた。
「皆さま。ご理解いただけていると思いますが、今回の敵は単なる海賊団ではなく、もはや戦争状態です。我々、海軍だけで解決できる問題ではありません」
突如、シャルルの顔が豹変した。彼の隼のような目つきと笑みを消し去った口元に司令官たちは思わず身構える。
「そこで、今すぐフランス陸軍に強力な支援を要請しましょう」
エリオットは驚きを隠せず、動揺気味に声を上げた。
「陸軍にだと!? それは……うーん、まあ、特に反対はしないが、奴らが応じてくれるかどうかが問題だな」
シャルルは一切動じず、キッパリと言い切る。
「一刻も早く行動を起こすべきです。手段を選んでいる場合ではありません」
「しかし、今要請したところで間に合うのでしょうか?」
アルフォンスが疑問を口にした。
……来る。
マクシムが息を詰めた隣で、シャルルが口元を緩ませて言う。
「ああ、要請はすでに出していますよ」
——やはりな。今、言うと思ったよ。
マクシムがため息を吐いているとアルフォンスが顔を顰める。
「え? 誰が誰宛にですって?」
「我らが国王陛下に向けて、です」
シャルルの言葉に会議室が揺れた。ざわめきと動揺を前にマクシムは声を押し殺して見守っている。
……通ったか。
マクシムの胸の奥に小さな熱が灯る時、シャルルは得意げに続ける。
「先日、無理を承知でスザンヌ・ブルボン嬢に——」
……お前はとんでもないことを平然とやるな。
マクシムは横目でシャルルを見るが、不思議と不安はなかった。むしろ頼もしい、腹立つくらいに。二人から少し離れた位置でグウェナエルが鼻を鳴らした。
「……ふん」
——あいつも同じことを考えているな。
マクシムが苦笑していると、エリオットが問いかける。
「まさか陸軍に防衛を任せると申すのか?」
シャルルはこくりと頷いた。話が進み、ルソーが食ってかかるもイザベルが制し、シャルルが目を光らせて意見する。
「相手は総力戦。補給船すら用意していないとなれば、砲弾は必ず底を尽きる」
……そこまで読んでいるか。
マクシムが息を吐くとグウェナエルが上官たちの前に姿を晒して言う。
「叩き潰すのは、その時だ」
その後イザベルが戦術を整理し、エリオットがシャルルに目をやって頷く。
「……ならば、貴殿の提案を遂行せざるを得ない」
——通った。
マクシムの中で確信が現実に変わった時、エリオットが続ける。
「陸軍の指揮は誰に委ねる?」
「俺に任せてほしい」
エリオットの問いにグウェナエルが応じる。
……やる気か。
マクシムが目を細めると、ルソーが笑う。
「面白い」
流れが決まっていく。全部、繋がったなとマクシムが心の中でガッツポーズをした時、ふと視線を感じた。マクシムは視線を巡らせるとエリオットと一瞬目が合った。
——大元帥の目がこちらを見ている。……やはり、警戒されているか。無理もない。規格外の動きはこれまで報告で聞いていたはずだ。
エリオットはマクシムからシャルル、グウェナエルへと目を這わせた。
——自由すぎる部隊。頼れるが、えげつない。……いや、そもそもこの部隊を認めたのは俺か。
エリオットは一瞬苦悶するも、立ち上がって一人一人を鋭く捉えながら宣言する。
「この戦いは単なる海賊との戦闘ではない。民の安全を守り、我々の誇りを賭けた大いなる決戦だ。ゆえに、この作戦を名付けよう。——ブレスト鉄壁の盾作戦だ。……以上だ。準備は急げ。我らの戦いは、もう始まっている」
マクシムはエリオットの横顔を見つめながら視線を床に向けた。
——海賊同盟、その中にラウルがいる。ラウルの父上、エリオット殿は何も知らない。
マクシムは胸の奥で引っかかれるようなものを覚えるも即座に首を横に振った。
——いいや、ラウルはすでに死んだ。今はルキフェルだ。それに……エリオット・レオパードは仇相手。いつか……その命を必ずや貰い受ける。
こうして、「ブレスト鉄壁の盾作戦」は正式に始動した。
十二月八日、沖合に停泊するアランの船にて。船内の一室では低い声が交わされていた。ニールとマテオ、そしてコリンは机を囲み、簡素な図を前に黙り込んでいる。最初に口を開いたのはニールだった。彼は指先で図をなぞりながら眉を寄せる。
「……うーん、僕らがエドガーの側を離れるわけにはいかないし……アメリアたちの船がリヴェンジ・クイーンの真後ろについてもらって、ルキフェルが無事に辿り着けたら離脱、ブレスト港に来てもらうしかないよね」
「そんな簡単に船から船へ飛び移れるかな」
コリンが現実を突きつけ、マテオがぽつりと呟く。
「信じるしかねえよ。……無謀だけどな」
三人は同時にため息をついた。
その頃、ブレストの街中ではジャスパーの噂が民衆の波間を縫っていた。
「また出たらしいぞ、あの赤髪」
「昼間だってのに、屋根の上にいたって話だ」
「いや、さっきは市場の方で……」
確かめようのない話が次々と形を変えて広がっていく。見た者も見ていない者も同じように語り、ジャスパーの名だけが独り歩きしていた。ブレスト城近くの一角、通りに面した小さなカフェの一席にピエールが座っている。彼はカップを傾けながら、窓の外を見ていたが、視線は常にブレスト城へ向けられていた。
……動きはないな。
その時、彼の背後の席から声がする。
「なあ、聞いたか? 例の赤髪、また出たらしいぞ」
その瞬間、ピエールの手が止まった。
「どこでだ?」
「さあ……でも、やけに目立つらしいぜ。あの色だ、隠しようがないって」
ピエールはカップを置く。
「……赤髪、まさか」
ジャスパーがこの街にいる可能性を、即座に否定しきれない自分がいる。心の奥に沈んでいた感情がゆっくりと浮かび上がってきた。
——残滓がまだどこかにあるなら……見逃す理由はない。
ピエールが立ち上がると灰色の目に熱が宿った。
「見つけてやる、絶対に」
ピエールが扉を押し開けると冷たい空気が流れ込み、彼の姿は街の中へ颯爽と消えていった。
屋根の上、濡れた瓦の縁に腰を下ろしてジャスパーは街を見下ろしていた。行き交う人々とざわめく噂、自分の影が街に落ちている。
「……はは」
ジャスパーが喉で笑った時、空気がわずかに軋んで第六感が先に告げた。
「……来る」
自分の背後にかすかな擦過音。ジャスパーが振り返ると黒衣の男たちが屋根の縁、煙突の影から姿を現した。ピエールを中心に五つの気配、黒辰封儀教団の暗殺者が逃げ場を削るようにジャスパーとの距離を詰めていく。
「逃さねえぞ、ジャスパー」
「……よお、三男のお出ましか」
ジャスパーは一瞬だけ目を細めて帽子を深く被り直し、赤を隠した瞬間、踏み出しと同時に瓦を蹴って屋根上へ滑った。
「——追え」
ピエールの背後で気配が跳ね、黒衣の集団が一斉に動いた。雨で滑る屋根の上、ジャスパーの足は助走と踏切をつけて空中で身体を折ると手をつき、体重を前へ流して転がるように隣家の屋根へ着地すると音を殺して次の一歩から加速した。
「懐かしっ、盗人やってた頃と変わらねえ」
路地の上を飛ぶ感覚、屋根と屋根を繋ぐ最短の線。ジャスパーの口元が緩み、彼の背後で瓦が鳴った。追ってきている。数は多いが、線は一つ。ジャスパーは振り返ってみた。ピエールだけが食らいついてくる。ジャスパーは進路を変えると屋根と屋根の間を飛んで落ち、洗濯物の綱を掴んでスルスルと路地へ降りていった。幾つもの窓から人々の悲鳴が遅れて上がり、ざわめきが波のように広がる。
「な、なんだ今の!」
「屋根だ! 上だ!」
ジャスパーは思わず笑って見上げた。
「いいぞ、このまま騒げ」
ジャスパーが目線を切って路地を駆け出すと、暗殺者の一人が角を切り詰めて迫る。ジャスパーは手すりを飛び越え、風向きの変化と潮の匂いを感知して港へ駆け出した。別の路地からピエールが飛び出してきて路地の出口を塞ぐように立っていた。
「やべっ」
一瞬遅れてジャスパーは体をひねって突っ込む。ピエールの手が伸びて掴まれる寸前、ジャスパーは地面に手をついて体を滑らせ、ピエールの脇をすり抜けて背後を振り返ると、ピエールと目が合った。
「……ちっ」
ジャスパーとピエールは路地から大通りへ駆け出した。人混みを割り、屋台を蹴り、布を掴んで方向を変える。ジャスパーの前方に開けた空間が広がり、海の匂いが強くなって港の輪郭が見えた。ジャスパーは速度を上げて背後の気配を引き連れたまま海へ向かって駆け抜けた。湿った風が吹き抜けて波音に混じる中、アランの船の見張り台でニコラが赤髪を見つけると声が弾けた。
「来ました! 戻ってきた!!」
マテオが飛び出すと続いてニール、コリンが甲板に姿を現した。三人の後ろからアランも姿を現す。
「……来たか」
皆の視線が一斉にジャスパーへ向き、ジャスパーは片手を上げた。
「おーい!!」
ジャスパーの背後でピエールが距離を詰めて体当たりをし、ジャスパーが前方に崩れて叩きつけられ、砂が舞ってピエールがジャスパーに乗りかかって彼の肩と腕を封じる。
「捕まえた。逃さねえって言っただろ」
甲板の上、マテオが歯を食いしばる。
「……くそっ」
ニールの視線が鋭くなってコリンが無言で唇を噛む。その時、石畳に顔を沈めていたジャスパーがピエールをチラリと見上げて笑った。
「……はは。三男、遅いって」
次の瞬間、ピエールの背後の空気で変わった。
「——動くな」
「……っ」
マルクがピエールの首筋に刃を触れさせてジャスパーから引き剥がした。ジャスパーは身体をひねって立ち上がるとニヤリと笑う。
「だから言ったろ、甘いって」
ピエールの背後でマルクがさらに刃を押し当て、甲板の上でマテオが吹き出す。
「……はっ」
ニールが息を吐いてコリンは肩の力を抜いた。アランは怪訝に目を細める。ピエールは歯を食いしばって睨み上げるも、ジャスパーはピエールに背を向けた。
「んじゃ、またな」
ジャスパーは軽く手を振ると船へ向かって歩き出した。——潮風を纏いながら。
数刻後の甲板。潮風が強く吹き抜ける中で乾いた音が響いた。
「いってぇ!!」
ジャスパーが頭を押さえて大声を上げ、彼ののすぐ隣でアランが拳を引いた。
「馬鹿野郎、あんな場面でカッコつけてんじゃねえ」
「……酷い」
アランが吐き捨てる声音は、叱責というより部下に落とし前をつける上官のそれだった。ジャスパーは頭をさすりながら顔を顰める。船はすでに動いている。進路はランデヴェネック。帆が風を受け、アランの船の船体が波を切る少し後方、第八船団の影が一定の距離を保保ちながらついてくる。ピエールがメインマストの根元に縛り上げられていた。縄は何重にも巻かれ、身動きはほとんど取れない。彼の背後には斧を背負ったマルクが無言で立っている。ジャスパーがまだ頭を摩る様子を横目に、コリンが視線をずらすとピエールがじっとこちらを見ている。コリンは彼の目を見て思わず首を傾げた。
「……うーん、なんかこの前と雰囲気違う気がする。顔は同じはずなのに」
コリンの隣でティエンも頷いた。一方でピエールはコリンとジャスパー、ニールとマテオを順に見ていた。
「……フランソワ海賊団の残党。 “五鬼衆”として指名手配された連中か。……面白い」
船長室の扉がきしりと開いてイヴォンが出てくる。彼は杖をつき、外の空気を求めるように甲板へと出た。彼の視界の端に何かが引っかかり、ピエールと目があって思わず足が止まった。
「……あれは」
イヴォンの胸の奥で何かが軋み、一気に視界が揺れて音が遠のき、潮の匂いが甘ったるい匂いに変わる。
「……これは」
次の瞬間、イヴォンの脳裏に殴打と衝撃、骨が軋む音と蹴り、それから刃が皮膚を裂いて血が流れる光景が駆け巡るが、それよりも甘い香りが肺に満ちる。
「……夢蛇」
現実が溶け、イヴォンの耳元で何度も何度も囁かれる。
「大海賊フランソワはサン・マロにいる」
誰かの反響してこびりつく、逃げ場がない。イヴォンの視界の中、海賊たちが見下ろしている。そのうちの一人はフランソワだと認識していたが、彼の体が揺れて歪んで顔が崩れ、皮が剥がれるように黒い影へと変わる。
「……違う、あいつらだ」
二人の形が変わって浮かび上がるのはドミニクとピエールだった。上書きされていたものが剥がれ落ち、真実が露出する。イヴォンの視界が突如として戻り、甲板で縛られたピエールと目が合う。
「いる、あいつだ」
イヴォンの息が詰まり、膝が震えて杖がわずかに揺れる。かつて自分を壊した側の人間、その一人が今、目の前にいる。
「……っ、なんで」
イヴォンは目眩を起こして思わず膝をついた。杖が手から溢れて乾いた音を立てて床に落ちる。
「——イヴォン!?」
アランの声が飛び、マテオがイヴォンに駆け寄ってコリンも彼の顔を覗き込み、ニールが脈を確認する。
「おい、しっかりしろ!」
ざわめきが広がって甲板が一気に騒がしくなる中、ピエールは舌打ちして額にじわりと汗を滲ませた。
「……あいつ、前に拷問したやつか」
ランデヴェネックには夜更けになってから着いた。イヴォンは今も船室で眠っている。意識は戻らず、浅い呼吸だけが続いていた。その間に四人はピエールを連れてリヴェンジ・クイーンへと向かうと舷側を越え、甲板を進んだ。マテオが船長室の扉を開けるとエドガーが一人、立っていた。
「……遅かったな。オレの右腕フェルナンドを毒殺しようとしたらしいじゃねえか」
エドガーの視線がピエールを射抜き、ピエールの瞳が揺れた。
……なぜだ。毒殺の計画は漏れていないはずだ。フェルナンドか……ベルリオーズか。あるいは、両方生き残っているのか。
「……なんのことだ」
ピエールは淡々と返してとぼけるが、コリンが彼の横から口元を隠して笑う。
「情報を握ってるのは、君だけだと思わないことだね」
ピエールが思わず口を噤むと、エドガーがピエールを見下ろしながら告げる。
「次の襲撃は十二月十二日だ。オレたちが戦っている裏で、頼みたいことがある。——フェルナンドを救え」
ピエールが肩を強張らせ、エドガーは口角を吊り上げながら続ける。
「もちろん、また殺そうなどと考えるな。もし協力を拒むならお前たちがダラス家だってこと、全部バラしてやる。海軍にも、世間にもな」
ピエールの背後でマテオが腕を組み、コリンは薄く笑っている。ニールとジャスパーは無言で状況を見守り、全員が同じ圧をかけていた。ピエールは顔面蒼白になって唇を噛んだ。
……終わりだ。兄たちはいない。ダラス家の立場は崩れかけている。……断れない、詰んでいる。
「……わかった。協力する。一族の秘密だけは……バラさないでくれ」
ピエールの一言ですべてが決まり、エドガーは満足げに笑った。
「いい判断だ」
——海賊の取引は成立した。
パリ、ダラス家の屋敷。馬車が止まって扉が開き、シルヴェストルとドミニクが降り立つ。長旅の気配を微塵も見せず、二人はそのまま屋敷へと入っていった。シルヴェストルが歩きながら口を開く。
「……で、こちらの状況は?」
出迎えた近臣の顔色がわずかに硬い。
「それが……」
一瞬言い淀む彼の空気に、シルヴェストルの足が視線だけで促す。
「……何だ」
「不在の間、宮殿に探りを入れておりましたところ、宮殿から突如王命が下ったとのことです。王が……ブレストへ陸軍を送ったと」
シルヴェストルの歩みが止まって口を開く。
「……待て。いつ決まった」
「十二月四日にございます」
「……俺が不在の間に?」
「……はい」
シルヴェストルの目が細くなる。
「……盤面が動いた」
自分のいないところで、しかも最も触れさせたくなかった部分に。誰が動かした。シルヴェストルの思考が一気に巡ると同時に胸の奥で怒りと屈辱がふつふつと湧き上がる。シルヴェストルの隣でドミニクが立ち、いつものように微笑みがふっと消えて瞳が揺れる。
「……へえ。ちょっと溺れてくるよ」
ドミニクはぽっかりと抜け落ちたような虚無を抱えてくるりと背を向け、廊下の奥へ歩き出した。屋敷のさらに奥、鍵のかかった扉の向こうは夢蛇の在庫管理室、濃密な甘い匂いが満ちる場所。ドミニクの姿はその闇の中へと消えていった。残された空間でシルヴェストルは息を吐いた。
「……面白い」
声にはわずかな笑みが混じっていたが、目の奥はまったく笑っていなかった。
十二月十二日へ向かう数日間は歯車が噛み合っていった。ランデヴェネックではイヴォンの容態が悪化。熱は下がらず、意識も曖昧なまま呼吸は浅く、時折苦しげに揺れる。
「……このままじゃまずいな」
アランが呟くとマルクは無言で頷いた。ティエンが布を取り替え、ニコラが水を差し出すが足りない。
「ちゃんとした医者に診せる必要がある。俺たちはここを出よう」
アランは顔を上げて言い切り、アーシャとフェリスに視線を向けた。
「後は頼んだ」
すぐに支度が整えられ、アランとマルク、イヴォン、ティエンとニコラ、それからワンとポーラン。この七人を乗せた船はランデヴェネックを離れ、ブレストへ進路を向けた。一方、リヴェンジ・クイーンの船長室ではニールがエドガーに呼ばれていた。簡素な図と数枚の紙を前にエドガーが立つ。
「まずは総力戦。砲撃戦の間、僕らは動かない。頃合いを見て外に出て、海軍が乗り込んできた後でマクシミリアンが来るのを待つ」
ニールが淡々と言葉を並べるとエドガーがマクシムの似顔絵を一枚取り上げる。
「この顔のやつだろ?」
ニールが似顔絵を覗き込んで顔を顰める。
「まあ、顔はそっくりだけど髪の色が違う。今の彼は灰色だ。すぐ分かるはずだよ」
ニールは爽やかに笑って指を一本ずつ立てていった。
「で、捕まえたらコリンの白煙爆弾に紛れて離脱。小型ガレオンで抜ける。リヴェンジ・クイーン上ではルキフェルをぶつけて海軍を引きつける。その隙に僕らはブレスト港へ。フェルナンドはピエールがどうにかするでしょ。港で合流だ、一つでも狂えば終わる」
船の最下層、ジャスパーが湿った空気の籠る暗い通路を歩いていた。彼がある扉の前に着くと見張りの海賊が露骨に身構える。
「……何だよ」
「中にいるやつと話がしたい」
男は首を傾げて戸惑うが、やや合ってからジャスパーの視線に押されて扉を開けた。
……カスティーリャ語しか分からねえな。
確認済み、問題ない。部屋の中、ルキフェルがジャスパーに目を向け、ジャスパーがフランス語で話す。
「襲撃日、決まった。お前、戦闘に放り出されるぞ」
ルキフェルは目を瞬かせるとブーツの編み上げを締め直した。
「わかった、逃げてやるよ」
「なんとか自力で脱出してくれ。リヴェンジ・クイーンのすぐ後ろに第八船団を控えさせる。ニールの妹と弟が指揮してる船団だ。海賊旗はハートを串刺しにした剣。……ブレスト港で会おう」
ジャスパーは踵を返して扉へ向かうと振り返らずに言う。
「今度こそ、あいつと決着つけようぜ」
ダミアンはブレストの街を彷徨っている。
「……いない」
ピエールの姿がどこにもない。兄が街中をほっつき歩くことは多いが、ここまで不在なのは異常だった。
「夢蛇探しか……」
思い当たる理由はそれしかないが、確証はない。ピエールの私兵たちに聞いても彼らは何も言わない。彼らはダミアンの命令を聞かない、最初からそう訓練されている。彼らの判断基準はただ一つ、金の腕輪だけで双子を識別する。
「ボクは道具」
ダミアンは唇を噛んだ。自分で探すしかないが、限界はある。
「……兄上」
シルヴェストルとドミニクなら状況を動かせる。ダミアンは顔を上げ、瞳に決意が宿ると踵を返し、馬を引いてパリへ向けて駆け出した。
十二月十一日、夜。キール通りの宿舎では夕餉からしばらく時間が経っていた。執務室の扉が開いてグウェナエルが入ると、マクシムは窓越しに海を見つめていた。夜の海は何も語らないが、その沈黙がかえって彼に思考を引きずり出す。マクシムは深く息を吐いた。
……捕らえられたはずだった。
彼の脳裏に、あの瞬間が浮かぶ。剣が届く距離、包囲は完成していた。逃げ場はなかったのに捕らえなかった。あの選択をしたのは、自分だ。静寂の中でマクシムは言葉を探しながら口を開いた。
「この戦争の火種……今思えば、あの大海賊フランソワを生捕にできなかったことが始まりでした。海賊は海で生き、そして死ぬ。それが理想の死です」
……本当に?
マクシムの胸の奥で違和感が軋む。フランソワは追い詰められていた。逃げ場はなかった。国家が囲い、軍が刃を突きつけた末の選択。……理想なんかじゃない。
「……あの時、僕は彼を海に沈め、自ら死を選ばせてしまった。……あれは、僕の責任だ」
本当に選ばせたのだろうか。……追い込んだのは誰だ。マクシムの中で自問が重なって喉が詰まる。彼の内側では責任の意味が膨れ上がっていた。判断の責任ではない。奪った責任だ。リラがマクシムに問いかける。
「隊長は今回の戦闘をどうお考えですか」
マクシムは拳を握ると冷たい夜気が指先にまとわりついてきた。
……終わらせる。今度は逃がさない。いや……逃がすという言葉自体が違う。選ばせない。そう言い換える方が正しい。
「作戦が無事に進んだ暁には、僕がエドガーを捕らえる。いや、その場で殺しても構わない」
フランソワの笑い声が耳元に蘇る。海へと飛び込んだ、あの背中。ああ……羨ましいのか。マクシムの胸の奥がわずかに軋む。自分でも気づきたくない感情。だが、消えない。だからこそ言い切った。これは任務ではない、私情だ。ダヴィットが口を開く。
「そういえば。あの日、隊長はフランソワと何を話してたんですか?」
マクシムは目を細めた。海に消えた男の最期……自分たちがああした。マクシムが奥歯を噛み締めると別の像が浮かぶ。エドガー、あの男はフランソワの死を利用している。……エドガーは違う。自由ではない、支配だ。踏み躙りだ。
「彼は、自分の自由に責任を持った」
マクシムの呟きは否定と羨望の両方を含んでいた。
「あの悔しさ、あの海賊の生き様……全てを胸に、僕は戦う。フランソワが望んだ自由も、守るべき秩序も、全て僕の手で刈り取らねばならない」
……終わらせる。どちらも曖昧なままにしておけるほど甘くない。
グウェナエルが口を開き、ダヴィットも頷く。
「隊長。あなたがそう決意するなら、俺たちは全力でついていきます」
「自分が撒いた種を、自分で刈り取る。隊長の覚悟、受け止めます」
「当たり前です。私たちはあなたの部下ですから。どんな困難でも一緒に戦います」
リラが微笑むとマクシムは息をつき、剣の柄を両手で握った。冷たい隙間風が吹き込む。……あの笑い声が消えない、胸の奥に残り続けている。それでも言葉にする。
「——海賊は海で死ぬ。そして、自分は……海賊を制し、秩序を守る。——自らの器を超えるために」
……それでいい。いや、それしか選べない。マクシムの言葉の奥にまだ消えないものが残っていた。
十二月十二日、未明。夜はまだ終わっていないが、 終わりかけている。空は黒を捨てきれず群青に溶けていた。地平の向こう、海の上だけがわずかに青白く滲んでいる。世界がまだ形を持たない時間、その曖昧な海を船団が割って進んでいた。
ランデヴェネック沖で帆が風を孕み、一斉に膨らんでロープを軋ませる。甲板を叩く靴音抑えきれない熱が船団全体に広がっている。海賊同盟——およそ五十隻の中心にリヴェンジ・クイーンが海そのものを引き連れているかのように進んでいる。その背後、波を切り裂くように第八船団が食らいつく影が食らいついていた。アーシャとフェリスが率いる艦隊の距離は近いが、決して追いつかない。
「……離れないで」
アーシャの囁きに呼応し、操舵手の舵を握る手に力がこもる。黒船の帆影を絶対に見失わないように。一方、帆船の集団の一角では一隻の帆船が進路を外して隊列からジリジリと離れていった。
「そっちだ」
甲板でピエールが立ち、周囲を囲む船員たちの視線は敵意と警戒に満ちている。
「……ここで降ろす気か」
ピエールは目を細めた。目的地は理解している。ブレスト港の外れ、戦場の縁。都合のいい駒だなとピエールは内心で吐き捨てるが逆らえない。海はまだ色を持たないが、その向こうにブレスト城の輪郭がうっすらと見え始めていた。リヴェンジ・クイーンの甲板でマテオが低く言う。
「……見えてきたな」
ジャスパーは帽子のつばを下げ、視線を鋭くさせた。ニールは息を吐き、コリンは唇を引き結ぶ。
「いよいよだね」
彼らの胸の奥で何かが鳴る。恐怖と期待、覚悟が混ざり合って形にならない。波の音だけがやけに大きい。リヴェンジ・クイーンの最下層、光は閉ざされた空間にほとんど届かない。ルキフェルは船の揺れを感じていた。
「……来るな。始まる」
船の動きと風の入り方、人の気配が変わっている。戦闘前の独特の張り詰めに絵浮フェルは顔を上げて目を細めた。指先がわずかに動く。身体が、い出している。戦い方を、血の流し方を。
「いいだろう」
獣が目を覚まし、牙を剥き始める。




