第七章② Montage
その後、マクシムは直ちに出立した。彼は灯りの落ちた廊下をグウェナエルと共に抜け出して外に出ると、夜気がひやりと頬を撫でた。黒い影、黒馬ヘイロンが待っている。
「では、乗りましょうか」
マクシムが近づいて手綱を引き寄せた途端、ヘイロンがブシュッと荒い息を吐きながら首を上げ、マクシムとの距離を取った。
「……あれ」
マクシムが一歩踏み出そうとすると、ヘイロンはさらに半歩分距離を取る。ヘイロンの明らかな警戒にマクシムが困惑したように眉を顰めたのを見て、グウェナエルが肩をすくめてヘイロンの首筋を撫でる。
「こいつ、なかなか心を開かないだけですから。誰に対してもこんな感じです。気にしないでください」
「……だといいですけど」
マクシムは苦笑を浮かべつつヘイロンを見つめた。馬の方は警戒心が強いというより、どこか測っているような目でマクシムをじっと見下している。
「面白い馬だなぁ」
二人は鞍にまたがった瞬間、夜の静寂を裂くように蹄鉄の音が響き出す。ブレストの街へ、二つの影が溶け込んでいった。やがて石畳の路地の一角にある灯りの残る店の前で二人は馬を止めた。マクシムは鞍から降りてグウェナエルに待機命令を出すと店の扉を押した。
「失礼します」
店内にはまだ灯りが残っていた。帳簿に目を落としていたヤンが顔を上げる。
「おや、珍しいですね。夜更けにこんな場所まで」
マクシムは挨拶もそこそこに懐へ手を入れ、封蝋の施された一通の手紙を取り出すとカウンターの上に置く。
「今は時間が惜しいです。この封筒を、アンジュにあるブルボン家へ。これは切り札です、海軍の命運が懸かっています」
ヤンは一瞬だけ手紙を見つめると柔らかく微笑んだ。
「もちろんですよ。マクシムさんはお得意先ですから」
「どうかお願いします」
マクシムは踵を返すと店を出て行って、扉の向こうから蹄鉄の音が鳴り響いて遠ざかっていった。ヤンは帳簿を閉じると店の奥へと声をかける。
「聞いていましたか?」
少しの間を置いて奥の闇からチャンが現れて目を擦りながら言う。
「はい。ブルボン家ですよね? フィルマンさんのところの。ええ、僕の得意先ですからバリバリ知ってます」
ヤンはくすりと笑ってカウンターに置かれた手紙へ視線を落とす。
「ですよね。それなら、これは君に任せますよ」
「はいはい」
気軽に応じながらチャンは手紙を手に取ると封蝋を一瞥した。
「……お嬢様から、ですか。これは早急に届けなくては、ですね」
チャンは店の奥へと消えていき、身支度を整えると裏口の扉を開けた。夜気が店内に流れ込み、外にはよく鍛えられた馬が顔を上げた。チャンが軽やかに跨って手綱を握ると一瞬だけ夜の街を見渡し、馬の腹を蹴って駆け出した。ブレストの夜を裂くように蹄鉄の音が石畳に高く響き、一直線に任務へと向かっていった。
十二月二日。冬の冷気が街を薄く覆っていたこの日、最初の目撃情報が出た。
「……見たんだよ、赤い髪の男を」
市場の一角、荷を下ろしていた男が声を潜めて言う。
「昼間だぞ? 人混みの中で急に現れて……気づいたら、いなくなってた」
「いや、おれも見た」
「俺もだ。夜だったけどな」
「橋の上にいたと思ったら、次の瞬間には……」
証言は時間も場所もばらばらだったが、ひとつだけ共通している。赤髪の男が不意に現れ、必ず消える。噂は徐々に広がっていき、十二月三日の時点で話の種では済まなくなっていた。
「例の五鬼衆の一人らしいぞ」
「赤髪って……あのジャスパーってやつか?」
「昼も夜も関係なく出るって、どういうことだよ……」
人々は落ち着かない視線を交わし、子供たちは外に出るのを控え、商人たちは店じまいを早める。街の空気が不穏に変わり始めていた裏で、石畳の屋根の上では一つの影が軽やかに跳ねて赤い髪が夜風に揺れる。
「……ふふ」
ジャスパーは屋根の縁に立ち、下の通りを見下ろしていた。人々が騒めいて振り返り、誰かに何かを囁く。様子をまるで遊び道具でも眺めるように見つめている。
「いいねぇ」
次の瞬間、その姿はもうなかった。別の路地、別の屋根、別の影の中。現れては消え、消えては現れる。ただの移動ではない。街全体を攪乱するように意図的に目撃されている。
「もう少し、騒いでくれよ」
ジャスパーが呟く声すら風に紛れて消えた。
同刻、港の沖合にアランの船。船内の一室、薄暗い灯りの下で三つの影が向かい合っている。ニールとマテオ、そしてコリンだ。ニールが机の上に簡素な図を描きながら口を開く。
「マクシミリアンを捕縛したあと小型ガレオンで移動しよう。リヴェンジ・クイーンの真横に予めつけておく。そこからボートとボートフォールを使って移乗、白煙の中で運ぶにはこれしかない」
「……合理的だな」
マテオが腕を組んで頷くとコリンが軽い調子で口を挟む。
「マクシミリアン本人は眠らせてしまえばいいよ。ぼく、リー・ウェンから貰ったものあるから」
二人が怪訝に目を細めるもコリンはどこか楽しげに笑った。彼の脳裏に浮かぶのは小瓶に入った透明な液体。かつて自ら作り、まだ手元に残していたもの、夢蛇を煮出した液体だ。
「すぐに効くよ。抵抗もされない」
マテオは一瞬だけ目を細めて低く呟く。
「……あとはマクシミリアンが現れるまで耐えるのみか」
船内に沈黙が落ち、波の音だけが響く。その間もブレストの街では噂が形を変えて広がっていった。
「また出たらしいぞ、あの赤髪」
「さっき南の通りで見たって話だ」
「いや、今は北にいるって……」
見た者はいないのに、見たことになっている。確かめようのない恐怖が街に染みていく。赤い影は決して捕まらない。そんな渦中、ブレストの一角のダラス家の隠れ部屋では別の動きがあった。重たい空気の中、シルヴェストルとドミニクが帰り支度を整えている。二人ともすでに身なりを整え、ここに長居する気は微塵もない様子だ。シルヴェストルは手袋をはめながら、ピエールと部屋の隅で身を縮めているダミアンに視線を向ける。
「俺たちは帰る。海軍が勝利して、つまらんものを見たが……これ以上この街にいても仕方ない。そろそろ王宮に戻るとするか」
シルヴェストルの横でドミニクが楽しげに口を開いた。
「僕は夢蛇の在庫でも見てこようかな。またいつサロンを開くか、考えなきゃいけないしね」
シルヴェストルはドミニクの発言を気にも留めず続けた。
「とにかく、我々は国家転覆計画の一つであった『海賊と海軍の戦争』を達成できたんだ。……あれはしばらく続くだろう。どちらかが倒れるまでな」
シルヴェストルの視線が再び双子へと向く。
「お前たちはブレストに残れ。街を見張れ。勝敗がついたらパリへ戻ってこい」
ピエールがわずかに頷こうとした時、シルヴェストルの動きが止まって淡々と訂正する。
「いや、戻るとしてもダミアンだけだ」
シルヴェストルの視線がピエールへと向けられる。灰色の冷たい光にピエールは思わず肩を強張らせた。シルヴェストルは目を細めて告げる。
「お前は消えた貨物の行方を掴め。……夢蛇だ。取り戻すまでパリに帰ってくるな。お前の失態だからな、自力で取り戻せ」
シルヴェストルの一言が鋭く突き刺さ理、ピエールは歯を食いしばった。ピエールの様子を一瞥し、シルヴェストルは満足したように口元を緩めるとドミニクもまたくすりと笑った。
「じゃあね」
まるで散歩にでも出るかのような気軽さで二人は部屋を後にした。扉が閉まった瞬間、ピエールの拳が机を強く叩く。
「……っ」
——どこの誰だ……オレの貨物を盗んだ奴ら……。
未だ輪郭すら掴めない、正体不明の存在に対する純粋な敵意。空気がじりっと歪む中、ダミアンは二人の兄が去っていった扉を見つめて息を呑んだ。
……やっぱり、兄上たちのやることは異常なのでは?
馬車がパリへ向かう街道を進んでいた。車輪の軋む音と規則的な蹄の音だけが外の世界を刻んでいる。馬車の内部では柔らかな座席に身を預けながら、ドミニクが一枚の紙を手にしていた。彼は指名手配書に描かれているのはニールの顔を眺め、薄く笑みを浮かべながら指先で絵の中の輪郭をなぞる。
「それにしても、この五人もなかなかしぶといよね。……フランソワと共に死んだかと思っていたのに」
ドミニクの向かいの席、シルヴェストルは座席の上に広げられた残りの四枚を見下ろしていた。その中の一枚、ジャスパーの似顔絵にシルヴェストルの視線が落ちると淡々と口を開いた。
「だが、どうせこいつらに逃げ道はない。我々が手を下すまでもなく、父の願いは達するだろう」
シルヴェストルは指先でジャスパーの似顔絵を軽く押さえた。
「ジャスパー。ゼフィランサスの子。……あいつも、国家の敵になった以上、捕まれば真っ直ぐに処刑台行きだ。海賊は、この国では悪として裁かれる」
シルヴェストルは背もたれに身を預けた。
「今回ばかりは、国王の純粋な正義感に感謝だな」
「本当にね。正義って便利だ」
ドミニクがふふっと声を漏らして笑い、シルヴェストルもまた穏やかに微笑んでいた。何の違和感もない整った笑みだが、そこにあるのは救いではない。冷え切った確信だけ。馬車はパリに向かって緩やかに進んでいく。
一方、アンジュの邸宅では冬の陽光が柔らかく庭を照らしていた。整えられた植え込みの間を、フィルマンとその妻がゆっくりと歩いている。
「最近は少し静かすぎますね」
妻が穏やかに言うとフィルマンは頷いた。
「ああ。嵐の前の静けさ、でなければいいがな」
その時、執事が二人の前に現れて一礼する。
「旦那様。お客様がいらしております」
「客人? 誰だ」
「リー・ウェン様にございます」
「……そうか。通せ」
フィルマンは目を細めた。最近、顔を見せていなかった男。久方ぶりの来訪だった。応接間では暖炉の火が揺れ、フィルマンが入室するなり、チャンが一礼した。
「お久しぶりです、フィルマン様」
「久しいな」
フィルマンが落ち着いた声音で応じるとチャンが小さな包みを差し出す。
「いつもの漢方です。最近冷え込みますから」
「気遣い痛み入る」
フィルマンは包みを受け取りながら視線を上げると、チャンは何気ない調子で本題に入った。
「ああ、そうそう。ブレストに立ち寄る機会がありまして、お嬢様に挨拶を伺いました。すると『くれぐれも内密に』と、こんな手紙を託されまして。この通り、お渡しいたします」
チャンは懐から一通の封書を取り出してフィルマンにすっと差し出すと、フィルマンは封蝋に刻まれた紋章を一瞥して受け取った。
——間違いない。
フィルマンがその場で封を切って中の紙を広げ、読み進めると息を呑んだ。
「……っ」
フィルマンの額に汗が浮かんで、次の行へ視線を滑らせるとちゃんに目を向けた。
「……どうも、ありがとう。もっと話を聞きたいところだが、少し用事ができた」
チャンはすぐに察したように頭を下げる。
「承知しました。では、これで」
チャンは踵を返し、応接間を後にすると速やかに屋敷の外へ出た。彼は冷たい空気を一度深く吸い込むと一気に吐いて肩の力を抜けた。
「……ふうー、任務達成。何が変わるのかは、分かんないけどね」
チャンが軽く笑いながら馬に跨って手綱を握った瞬間、蹄鉄の音が再び響いた。彼はブレストへ向けて寸分の狂いもなく駆けていった。
一方、フィルマンは邸宅の奥に向かって廊下を足早に進んでいた。彼の手には開かれたままの手紙。フィルマンがある扉の前で立ち止まってノックと同時に声をかける。
「入るぞ」
「——どうぞ」
中から若い男の声がするも、待つ間もなくフィルマンは扉を開け放って一歩踏み込んだ。
「スザンヌから手紙だ。緊急で話がある」
室内、窓が大きく開け放たれている。冷たい空気が流れ込み、書類の端が揺れた。執務机に向かい、黙々と作業を続けていた男が不意に手を止める。短く整えられた銀の髪、静かな気配がゆっくりとフィルマンを振り返る。
——ヴィクトル・ブルボン。気まぐれに実家へ戻っていた、スザンヌの兄だった。彼の瞳が父の手にある手紙へと向けられ、一瞬で空気が張り詰めた。
その後、ヴィクトルは手紙を一行一行、丁寧に目で追いながら最後まで読み終え、動きが止まると頭を抱え、その場で崩れ落ちるように椅子へと身を沈めた。
「……ああ、スザンヌ……なんてことだ……こんな、こんな重いものを……一人で……」
ヴィクトルの声が震える。ぐしゃりと顔を覆って肩を震わせ、声を漏らした
「スザンヌぅ……! ボクの可愛い妹が……こんな覚悟を……!」
ヴィクトルの様子をフィルマンはどこか慣れたような顔で見て苦笑する。
「……昔から、これだ」
三姉妹の末っ子、スザンヌのことになるとこの男は途端に理性が吹き飛ぶ。どれだけ冷静でどれだけ優秀でも、昔から変わらず。ヴィクトルは涙を拭いながら顔を上げた。目はまだ赤いが、潤んだ淡い青目にはどこか鋭さがある。。
「父上。直ちに王宮へ向かいます。——やはり、ボクに休暇は似合わない」
ヴィクトルは半ば吐き捨てるように言いながら、机の上の書類を素早くまとめ始める。必要なものを選び、束ね、整えてフィルマンに目を向ける。
「この件は時間との勝負です。スザンヌが動いた以上、こちらも即応しなければならない」
ヴィクトルの声音はすでに王宮の人間のものだったが、机の上に置かれた手紙に一瞬だけ視線が落ちると呟く。
「……待っていてくれ、スザンヌ」
次の瞬間、ヴィクトルは顔を上げて告げる。
「馬の準備を。馬車ではなく、単身で向かう。——ヴェルサイユ宮殿へ」
十二月四日、ヴェルサイユ宮殿。朝の光が長い回廊の床に淡く差し込んでいた。磨き上げられた大理石の上をヴィクトルが足早に進む。彼は書類の束を抱えながら歩幅も一定に歩いていると、ある男とすれ違いざまに声がかかった。
「おはよう。……あれ、休暇は?」
ヴィクトルが足を止めて振り返ると、そこにいたのはブロンドの髪を整えたグレゴワール・ヴィトンが首を傾げていた。落ち着いた佇まいに整った身なり、隙のない気配を冬の冷気と同じように纏っている。グレゴワールは歴史官と書誌管理官の職を父と共に担う王宮の中枢の一人であり、シャルルの実兄だ。
「おはようございます、グレゴワール殿。休暇は……中断です」
ヴィクトルは一礼して淡々とした返答すると、グレゴワールはわずかに眉を上げた。
「中断?」
「緊急案件が入りまして」
ヴィクトルは余計な説明もなく告げるが、声音に含まれる緊張は隠しきれていなかった。グレゴワールは彼の些細な変化も見逃さなかったが、深くは追及せず頷く。
「そうか。君が戻ってくるほどの案件なら相当だな」
二人はかつてより顔見知りだった。互いに王宮に籍を置きながら、それぞれの下に同じ海軍の名があったから。マクシミリアン・ブーケ隊という共通点が自然と距離を縮めている。
「ええ。時間との勝負です」
ヴィクトルは言い残して再び歩き出そうとした時、グレゴワールが視線を外回廊に向けながら口を開いた。
「そういえば最近、また妙な噂を聞いた。君のところではない。……弟の方だ」
ヴィクトルの動きがピタリと止まり、グレゴワールはため息をひとつ吐いて遠い目をした。
「あいつ、士官学校時代に髪をオレンジに染めて規律違反を起こしたことがあってな。その時、教官の説教がそのまま実家に飛んできた」
「……それはなかなか……」
「突飛だろう」
ヴィクトルが苦笑して、グレゴワールは淡々と返すが声に疲労が滲んでいた。
「父が真っ赤になっていた顔は今でも忘れられない。昔から、ああいう男だ。王宮の中で『あの人の弟はやばいらしい』などと後ろ指をさされても……知らぬ存ぜぬで通すしかない」
「ご苦労が絶えませんね」
「本当にな」
ヴィクトルはくすりと小さく笑うも視線を戻すも踵を返した。
「では、失礼します」
「ああ、無理はするな」
グレゴワールも頷いた。彼の言葉を背にヴィクトルは再び歩き出す。彼は長い回廊を抜けて王宮海務院の扉を押し開けた。王宮海務院は航路、貿易、そして軍の補給を司る中枢機関。ヴィクトルがその一室に足を踏み入れると同時に役人たちの視線が一斉に集まる。
「緊急案件です。ブレストより。ブルボン家経由で届いたものです」
ヴィクトルは挨拶も省いて机に手紙を置くと、上席の官が手紙を取って目を通して一行、二行まで読んで顔色を変えた。
「……これは」
「一隊の問題ではありません。王国の海そのものの問題です」
ヴィクトルが即座に言葉を重ね、視線を上席の官に真っ直ぐに向ける。
「海軍の現戦力では、抑えきれない可能性があります。航路が崩れれば、物流が止まる。交易も止まる。王国全体に波及します。これは軍事であると同時に経済の危機です」
室内の空気が変わった。単なる戦況報告ではない、王宮案件だと誰もが理解した時、上席の官が頷く。
「……海務院長へ上げる」
「至急で。時間がありません」
ほどなくして海務院長室、重厚な扉の向こうで同じ手紙が再び開かれる。
「……なるほど。これは、放置できんな。王の側近へ回せ、軍務の方へ」
「は」
即座に応答が返り、書簡はさらに上へ、より重い場所へと運ばれていく。王宮中枢では側近たちの間で短い議論が交わされるが、結論は早かった。
「上げるべきだな」
「異論はない」
「海軍単独では対処不能の可能性あり、と」
「王に」
決定は一瞬、やがて御前会議が始まって静まり返った広間に報告が読み上げられると、玉座の上の男が視線を鋭くさせて口を開いた。
「……陸軍を導入する。ただちにブレストへ向かえ。犯罪者どもが領海内に侵入し、民を恐怖に陥れている以上、国王として遺憾である。——正義は、悪しきものを罰するためにある」
この日、正式な王命のもと陸軍の導入が決定された。
そして十二月六日、ヴェルサイユ宮殿より発せられた通達は驚くべき速さで西へと走った。伝令は馬を乗り継ぎ、昼夜を問わず街道を駆ける。王命の印が押された書簡は関所を止まることなく通過し、各地の拠点を貫いていく。その先、レンヌの陸軍の駐屯地ではまだ朝靄の残る中、門前に一騎の馬が滑り込んだ。伝令が飛び降りる。
「王命だ!」
受け取られた書簡は即座に開かれ、内容を確認した将校の表情がわずかに引き締まる。
「……総員、起こせ」
鐘が鋭く何度も鳴り、静まり返っていた兵舎が一斉にざわめきに変わった。兵士たちが飛び起き、装備を掴む。
「ブレストへ進軍だ!」
誰かの叫びが広がり、馬が引き出され、武器が配られて火薬が運ばれる。無駄な会話はなく、命令だけが整然と機械のように連鎖していく。
「部隊、編成急げ!」
「補給確認!」
「行軍準備、急げ!」
声が飛び交う中、隊列が形を成していく光景はもはや戦いの準備ではなかった。戦いが始まったという現実そのもの。やがて門が開き、先頭の騎馬隊が歩を進める。続くのは歩兵と荷車と砲、長い列がひとつの流れとなって動き出す。行き先はただ一つ、ブレスト。冬の空気を切り裂くように王の命を背負った軍勢が進軍を開始した。
一方、ランデヴェネックの港は騒然としていた。怒号と足音に木箱のぶつかる音、あらゆる音がひとつに混ざり合い、濁った波のように押し寄せてくる。ヤンの読み通りだった。海賊同盟はエドガー・ロジャースの号令のもと総力戦の準備に入っている。武器が運び込まれ、火薬が積まれる。食料はほとんど考慮されていない。ただ、戦うためのものだけが詰め込まれる光景は破滅へ向かう流れそのものだった。そんな中、ルキフェルだけがまだ動けずにいる。船長室の中、彼は椅子に縛りつけられていると鈍い音が響いた。
「……チッ」
エドガーの拳がルキフェルの頬を打つ。何度目かも分からないが、殴る理由はもはや存在しなかった。苛立っている。エドガーは落ち着きなく室内を歩き回り、指先が何かを探すように無意識に動くが何もない。ポケットを探って机を叩き、舌打ちを落として低く吐き捨てる
「……クソが」
あの嗜好品。煙を吸い、吐き出すあの時間。トルチュ島で手に入れた煙草という異質な代物を切らしていた。エドガーの喉の奥がじわじわと焼けるように苛立つ。落ち着かない、何かに当たりたくなる。エドガーの苛立ちの矛先が目の前のルキフェルに向いていた。ルキフェルは無言でそれを受けてエドガーを睨む。
……狂ってやがる。
支配欲に溺れ、壊れていく男の異様さは隠そうともしていない。狂気の中で別の怒りが燃えていた。
——ジャスパーたちは……ブレストか。
彼らはダラス家を探しているらしい。フェルナンド一人に会うために、あいつらを危険地帯に放り込んだ。ふざけるな。ルキフェルの奥歯が軋むも、エドガーはぶつぶつと独り言のように呟いて歩き回っている。
「……今度の作戦はニールが考えているらしい。まあ、おおよそは聞いた。玉砕覚悟の総力戦。そこでマクシミリアンを引き摺り出す」
「……やっと、あんたも出るってわけだ」
ルキフェルが低く言うとエドガーが彼を振り返って吐き捨てる。
「馬鹿野郎、お前も出るんだよ」
エドガーが距離を詰めると乱暴にルキフェルの髪を掴み、彼の顔を無理やり上げさせると歪んだ笑みを浮かべた。
「お前はどこへ行っても怪物扱いだ。だったら怪物らしく、海軍どもを食い散らかせばいい」
ルキフェルの瞳が鋭く光って睨み返すも、エドガーは口角を吊り上げて囁くように続ける。
「お前だって復讐者だろう? お前の仲間はオレに降った。お前もいい加減、降れ」
ルキフェルは口を歪めて否定の意を示すとエドガーはふっと笑って手を離し、彼に背を向けて窓へと歩く。
「……獲物がわざわざやってくるんだ」
エドガーは窓の外を見下ろして、港の狂騒と武器と狂気が渦巻く光景を眺めた。
「そろそろ、お前も暴れ散らしたいだろ? フランソワを奪われた怒りも憎しみも、今こそ晴らしてやれ」
エドガーの声には愉悦が滲んでいた。ルキフェルは黙ってエドガーの背中を見つめて目つきを鋭く研ぎ澄ませる。
……こいつは絶対に殺す。
殺意だけが膨れ上がり、彼の内側で獣が首をもたげた。




