第六章③ 四人
コリンの導きのもとジャスパーたちは小舟をル・ルレック=ケリュオン方面へと滑らせた。昨夜の戦闘の影響は明らか、沖合には昨日よりも多くの帆船が展開して海軍の警戒は一段と強まっているが、あくまでブレスト港周辺の話だ。小舟は監視の目を避けるように緩やかに湾をなぞってブレスト城から距離を取っていくと、やがて海軍の主たる監視圏を外れたあたりで空気が変わった。人の生活の匂いと漁船、商船や小型の船が行き交う雑多な港に四人は頭部と顔を隠し、漁師を装って流れに紛れ込む。
「……こっち」
コリンが低く告げると港の一角、それも人目を引かない位置に一隻の小型ガレオンが停泊していた。戦闘の気配を一切漂わせない只の船だが、四人にはそれが目的の船だと分かった。彼らは小舟を桟橋に寄せると間を置かず隣のガレオン船に乗り移って甲板に足をかけた瞬間、見張り台にいたニコラが索具をするすると降りて声をかけくる。
「お久しぶりです」
ジャスパーがニコラの肩を労うように叩きながら言う。
「おう、アランさんは?」
「船長室にいます」
四人は頷き合い、甲板を突っ切って船長室の扉を押し開けると、室内ではアランとマルク、イヴォンの三人が机を囲んで地図を広げて話し込んでいた。少し離れた壁際にはティエンが椅子に凭れ手浅い眠りに落ちている。
「来たな、ガキども」
アランが視線だけを寄越してぶっきらぼうに言い、コリンはティエンのもとへ歩み寄って小突く。
「ちょっと」
「……ん……」
眠たげに眉を動かすティエンにコリンはわざと素っ気なく告げた。
「ジャスパー、いるよ」
その瞬間、ティエンの目がバキッと開いて椅子を鳴らして立ち上がって視線を這わすと、ジャスパーを見つけるなり真っ直ぐ見据えた。
「……久しぶり」
ティエンは少しだけ息を整えるような間を置いて言ったが、ジャスパーはティエンの顔をまじまじと見返すと息を吐いた。
「……誰だっけ」
ティエンは一度だけ目を伏せて苦笑とも諦めともつかない声で言う。
「……まあ、そうだろうなとは思ってた。何年か前の話だしな」
コリンは二人のやり取りを見て顔を歪め、どう言葉を挟めばいいのか分からず困ったように視線を逸らした。彼らの横ではニールがアランとの距離を詰めて言う。
「コリンが世話になったみたいだね。ありがとう」
アランは視線を地図に戻したまま「ああ」とだけ返し、マテオは心の中で思わず呟いた。
……ルカ、この人の影響受けすぎじゃねぇ?
彼の脳裏に浮かぶのは無愛想で顔面に無数の傷を刻んだ男の姿。似ている、いや似すぎている。マテオは息を吐いて視線を逸らした。
「何をしてたの?」
ニールが机の上の紙束に目を向けて問うと、アランはペン先を止めて肩を鳴らした。
「セドリックに報告だ。……ダラス家のこと、全部な。特に、自分の息子が毒殺未遂の被害に遭ってると知れば、あいつは間違いなくキレる。なんだかんだ言って、ああいう連中は“血”にだけは正直だ」
マテオが舌打ちして吐き捨てる。
「にしても、笑えねえ話だ。黒幕が王様のすぐそばにいるとかよ。コリンから聞いたとき、頭から湯気出たぞ」
「だろうな」
アランは淡々と返して四人を振り返った。
「それでも、何も見えないよりはマシだ。敵がどんな姿をしているか分かるだけ、やれることは増える。さて——」
アランは視線を横へ滑らせるとマルクを捉えた。
「これで、お前の目的は一応達成したな。エドガーの戦争目的。裏で蠢いている連中の存在。……正体の確認も含めて」
マルクは一瞬だけ目を伏せて頷いた。
「……ああ。長かった。けど、不思議とあっという間にも感じる。真実ってのは糸口さえ掴めば、案外すぐ足元に転がってるもんなんだな」
イヴォンがニールに目を向けて切り出す。
「それで? 君たち、これからどうする」
コリンが机に手をついて身を乗り出す。
「決まってるでしょ。ダラス家の連中を探す。見つけたら脅して、あいつらを使ってフェルナンドを脱走させる。で、そのままエドガーの信頼を一気に引き上げるんだよ」
「探す、か」
アランが低く呟き、コリンに視線を向ける。
「……お前ら、指名手配されてるのに?」
アランが分かっていてわざと刺すように言うとコリンの眉がぴくりと動いた。
「だからって——」
「隠密なら任せろ。オレは闇と友達だ」
コリンが言い返そうとしたところでマテオが口を挟むと、イヴォンが肩を揺らしながら笑う。
「それ、ちょっと面白いな」
イヴォンが表情を引き締めると四人の顔を順に見やる。
「街中ならまだしも沿岸部を彷徨くのはやめておけ。特に海軍の第二部隊を舐めない方がいい」
ニールが首を傾げる。
「何する人たち?」
「第二は隠密専門。海でも陸でも動けるように訓練されてる。追跡、潜入、情報収集……お前らがやろうとしてることを、もっと精度高くやる連中だ」
「へえ」
ニールが感心したように息を漏らす横で、ジャスパーがコリンに身を寄せた。
「……あの人、誰だっけ」
「元海軍員。今は退役してるけど……中でも、ちょっと特殊な立ち位置だったみたいだね」
コリンが声を落とすとイヴォンが杖をつき直した。
「俺は元第八、内部で裏切り者を炙り出すのが仕事だった。……今は、この足を潰した連中がどんな奴か探ってる。だから海軍は辞めた」
沈黙が落ちると思いきやアランがマテオを指差した。
「おい、顔だけ貴公子。その顔も義手もどう見ても目立つ。街を探るなんて無茶だ」
マテオは一瞬だけ黙ってアランを睨んだ。
「……それでも、オレなら見つからない」
アランはマテオの目を一瞥し、「そこまで言うなら好きにしろ」とだけ返すと興味を失ったように視線を戻し、再び手紙を書き進める。コリンが、ふと視線を逸らすと壁際の鳥籠の中でワタリガラスが羽を休めていた。コリンが鳥籠をじっと見つめて「かわいい」と呟いた。アランは手紙を書き終えると封をして蝋を押し固め、指で確かめると机の前にいたコリンを見下ろした。
「どいてろ」
コリンは一瞬固まった瞬間、さっと後ずさるどころかティエンの背後へ逃げ込むように身を隠した。アランが籠へ歩み寄ると扉を開けて腕を差し入れると、ワタリガラスは抵抗もせず彼の腕に乗った。アランが机に戻ってカラスを卓上に降ろすと隅に置かれた擦り切れた革のハーネスを手に取り、慣れた手つきで装着していく。やがて、アランは小さな筒を開いて先ほどの手紙を丸めて滑り込ませた。彼が落ちないか角度を変えて確かめながら紐を締め直す最中、ティエンが口を開く。
「街中を探すだけならオレに任せな。この船にはワンとポーランもいる。こういう時は庶民に紛れられるやつを使えばいい。夜を待って隠密なんてしなくても——」
ティエンが言いかけたところで「チッ」と乾いた音が落ちた。マテオは視線床に落として別のものを見ている。無愛想な傷だらけ男の顔、港で泣き崩れた女。マテオは舌打ちの余韻を残したまま低く吐き捨てる。
「そんな悠長でいられるほど、こっちは時間ないんだよ」
ティエンの表情が固まって反論しかけると、ジャスパーが二人の間に入って手を上げながら立つ。
「まあまあ、どっちも間違ってねえよ。急ぐのも必要だし、見つからねえのも必要。だから、うまくやろうぜ」
いつもの飄々とした声だが、アンバーの瞳だけは鋭い。アランは彼らのやり取りを一瞥して最後の留め具を締めるとカラスの頭を軽く押した。黒い羽がふわりと揺れ、ワタリガラスは船長室の開いた窓から外へと飛び出して羽ばたいていった。
「……行ったね」
ニールが窓の外を見つめてぽつりと呟いた。黒い影はすでに遠く、冬の空に溶けて見えない。アランは机に片手をついたまま低く言う。
「セドリックが手紙を読んで、どんな返事をよこすか……少し想像できるな」
「それ、ちょっと楽しんでない?」
ニールが振り返るとアランは首を横に振った。
「別に。……ただ、親になるってどんな感じかと思ってな」
アランの脳裏にセドリックの顔が過り、幼い頃からルキフェルを見ていたフランソワとリュウの光景が重なっていく。アランの口元が緩んだのを見て、ニールは息を呑んだ。
……この人、笑うんだ。
ニールが珍しいものを見たように言葉を失う背後でコリンの声が飛んだ。
「もっとカラス見たかったのにー!」
「……あれは情報伝達手段だ。セドリックの手先だぞ」
マルクが呆れたように言うとコリンは不満げに身を乗り出す。
「えー、でもさ! 伝説の通信手段なんだよ? もっと“伝説”を見たかったのに」
「まあ、そのうち帰ってくるよ。同じ個体かは知らないけどな」
ティエンが肩をすくめる。彼らの間に軽い会話が続くが、ジャスパーはやり取りを一歩引いた位置から眺めて視線を滑らせてマテオを見た。マテオが肩を強張らせて義手の機構をカチカチ鳴らして立っている姿を見て、ジャスパーは目を細めた。
……あいつ、動く気だな。おれにできること、あるんだろうか。
ジャスパーの思考が珍しく内側に沈み、いつもなら流してしまう問いがなぜか引っかかったまま離れなかった。その時、イヴォンは杖の先を指先で弄びながら口を開いた。
「……さて。ダラス家を探すんだったな。君たちが見たという連中、どんな姿形をしてるか思い出してもらおうか」
「はいはい! ぼくが見たやつ、三男って名乗ってた!」
真っ先に手を挙げたコリンは勢いよく身を乗り出しながら指を折って特徴を並べていく。
「黒髪で短め、灰色の瞳。背はそんな高くないし、細め。あと色白だったよ」
「じゃあ、そいつを探せばいいわけだな」
マテオが唸るように言う横で、ニールは黙っていた。彼の脳裏にちらつくのは、ドミニクの笑みだ。妙に人懐こく、一言一言の裏にぬめるような悪意を忍ばせた声。思い出すだけで胃のあたりが冷え、口を開こうにも喉がうまく動かなかった。アランがジャスパーを見て淡々と告げる。
「おい、リー・ウェンの連中から聞いたぞ。お前もエドガーと一緒にダラス家へ接触したってな」
「……ああ、あの時な」
ジャスパーは視線を宙に彷徨わせて呟くと、記憶を手繰るように話し始めた。
「コリンが言ってた、その三男もいたし……次男を名乗るやつもいた。背の高さはマテオとニールの間くらい。髪は金髪に近い明るい色で、ちょっと波打ってたな。瞳は……青いのか灰色なのか、混ざってるみたいな色だった。なんせ、あいつ不気味なんだよ。表向きは交流上手そうな兄ちゃんで軽そうなのに……言ってることがいちいち怖い。とにかく、おれの勘が『あいつやべえ』って言ってる」
そこで、ジャスパーの脳裏にもう一人の男が浮かんで吐き捨てるように言う。
「……あと、もう一人いた。多分、あれが当主。肩につかないくらいの黒髪。光の角度で、少し青く見えた。瞳は淡い灰色。背はそこまで高くない、細い男だ。一見すると、穏やかで温厚な貴族に見える。王様が信用するのも分かるくらいにはな。でも近くで見ると、あれはダメだ。笑ってるのに目だけ固定されてて……なんていうか、体温がねえ。とにかく三男も次男も嫌な感じだったけど、当主もまともじゃない。ダラス家は全員、『上品な皮かぶった何か』だと思っとけ。……おれの勘はそう言ってる」
ジャスパーの言葉が落ちたあと船長室は一瞬音を失い、ティエンが沈黙を破った。
「……当主か。最悪だ。ダラス家の三兄弟……一番上じゃないか」
ティエンの声音にはハッキリとした嫌悪が滲み、コリンが目を丸くする。
「やっぱり……その三人って、貴族社会でも有名なの?」
「ああ。特に長男はな……王に一番近い場所にいる。普段は王宮にいる男だ。そんなやつがブレストに来てる時点で真っ黒だろ」
ティエンは吐き捨てるように言い、ブルボン本家の血を引く彼の頭の中ではすでに構図が出来上がっていた。王家の復興を喚く、あの面倒な旧ブルボン派。そこにダラス家が絡んでいる。厄介どころじゃない、面倒の塊だ。イヴォンが杖の先で床を軽く叩いた。
「……十分だ。それだけ分かれば探しようはある」
「つまり、街で探すなら三男。警戒すべきは長男と次男ってことだね」
ニールが重々しく提案すると不意にアランが口を開いた。
「ジャスパー。やつらは……他に何か言っていたか?」
ジャスパーは肩をすくめる。
「さあな。なんか自分たちのために死んでくれ、とか言われたくらいだ。意味わかんねえよな。初対面から恨み言ぶつけられて。あ、でも……」
ジャスパーは口を閉ざして視線を宙に泳がせた。
「おれの母ちゃんのこと、なんか知ってたっぽい」
「……いやいやいやいやいやいや!!」
三方向から同時に声が上がり、マテオが拳を握ってジャスパーに踏み出す。
「おい待て、なんでそれ今まで黙ってた」
「一番重要な情報じゃないかそれ」
「今の流れで一番ヤバいやつだよ!?」
ニールが額を押さえ、コリンは両手をぶんぶん振るもジャスパーは不機嫌そうに舌打ちした。
「しょうがねえだろ。母ちゃんの記憶だって最近思い出したばっかなんだ。今まで生き抜くのに必死だっただけ……てか、マジでダラス家とか知らねえし」
四人の間でわいわいとした騒ぎが広がるが、アランは言葉を失っていた。ダラス家がゼフィランサスの妻、アルマの存在を知っている事実が脳裏を焼いていく。アランの横でイヴォンとマルクは揃ってため息をついた。
「……騒がしいな」
「子供か」
二人の冷ややかな視線が四人へと向けられ、ティエンは目を細めていた。
「……次男と三男」
特徴は聞いた。だが、記憶の奥底で何かが引っかかる。
「最近、見かけた気がするな」
ティエンの言葉が落ちた直後、マテオが手をあげる。
「なら、オレが——」
「待て」
イヴォンが遮り、杖の先が床を一度だけ叩く。
「指名手配中だ。おまけに、ダラス家には私兵がいる。まず街全体が君たちの敵だと思え」
空気がぴんと張ってマテオは舌打ちしてなおも前に出ようとするのを、ニールとコリンが慌てて引き止める。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「今それ絶対突っ込むタイミングじゃないから!」
「うるせえ、わかってる!」
マテオが噛みつくように返す様子を見て、ジャスパーが声を挟む。
「いや。おれたちがわざわざ探す必要はない」
全員の視線がジャスパーに向き、マルクが眉を顰めて嫌な予感を隠さない声音で言う。
「……結論から言え」
ジャスパーはにやりと笑った瞬間、脳裏にひとつの感覚が走る。
——見つけた、おれにもできること。
「簡単な話だ。——おれが囮になる」
空気が凍ってマテオが目を丸くした。
「は?」
「ちょっと待って、それ——」
「いやいやいやいや」
ニールとコリンも目を見開くが、ジャスパーは自分を指差して構わず続ける。
「ダラス家はなんでか知らねえけど、おれを狙ってる。だったら話は早い。指名手配も都合よく使える。『ジャスパーがこの街にいる』って噂を流しゃ、あいつら必ず探しに来る」
「危険だ! 殺されるぞ!」
アランの声が鋭く割って入った。珍しく感情が露わになっているが、ジャスパーはあっけらかんと笑ってヒラヒラと手を振る。
「平気だよ。おれさ、今でこそ海賊やってるけど元々は盗人だぜ?」
「は?」
マルクが眉を顰め、ニールが頭を抱える。
「今ここで新情報出さないでくれるかな?」
ジャスパーは気にせず続けた。
「スリなんてお手のもんだし、憲兵と追いかけっこなんて日常茶飯事だったしな」
「誇ることじゃないよ!?」
コリンが悲鳴のような声を上げ、マテオが呆れたように鼻で笑う。
「お前、ほんとロクでもねえな」
「まあ、そのうち陸に飽きてさ。船乗りになって海に逃げたんだけど、あれはあれで地獄だったよ」
ジャスパーは肩を回すと、ニールとマテオが怪訝な顔をした。
「軽く言うな」
「逃げ場なくなってるじゃねえか」
ジャスパーはくくっと笑うと指でこめかみを叩いて軽く足を鳴らす。
「というわけで……この勘と逃げ足の速さが、おれの武器ってわけ」
ジャスパーがにやりと笑った顔はいつも通り軽いが、瞳は覚悟の輝きを宿していた。ニールが低く問いかける。
「……それで、追いかけっこの後はどうするの?」
ジャスパーは肩をすくめた。
「簡単だよ。この港まで引きつけて三男だけ攫う」
「簡単に言わないでくれる?」
間髪入れずコリンが顔を顰めるも、ジャスパーは意に介さず指を一本立てる。
「攫った後はもっと簡単だ。三男をエドガーに差し出して、あとはあいつの口から脅迫してもらえばいい。コリンの案も成立。おれたちの信用も鰻登り。ほら、完璧」
「どこがだよ」
コリンが即座に突っ込み、ニールは苦笑しながらも青目は輝きを失っていた。マテオは腕を組んだまま低く呟く。
「……時間がねえ。無闇に探し回って決戦迎えるよりは、まだマシだ」
ニールが長めのため息を吐くとジャスパーに目を向けた。
「ジャスパー、死なないでね」
ジャスパーはくっと笑って手をひらひらと振る。
「お前らはお前らの仕事しろよ。決戦当日の計画でも立てて、戦争のどさくさの中でルキフェルが少しでも楽に脱出できるようにな」
「え?」
「おい待て」
「それ今言う話!?」
三人の声が一斉に重なるが、ジャスパーは口元に笑みを浮かべたまま、どこか遠くを見ている。マテオが舌打ちしてニールが頭を押さえ、コリンが「いやいやいやいや」と首を振るも四人の中ではもう決まっていた。止める、止めないの話じゃない。引き返すという選択肢そのものが最初から存在していなかったから、誰も本気では止めなかった。このまま進めば命を削ることになることも重々承知、それでも四人は笑っていた。いつも通りの、どうしようもなく軽い顔で。アランは一人、過去の因縁と繋がりを嗅ぎ取って額に汗を浮かべていた。
ランデヴェネックの港奥、リヴェンジ・クイーンの甲板上でルキフェルは首を回すとポキリと音が鳴った。視界を妨げる長くなった前髪が潮風になびいて鬱陶しいが、それ以上に鬱陶しいのは周りだ。数人の船員がナイフ片手に囲ってせせら嗤っているのを目にして、ルキフェルは眉間の皺をより一層深くした。部屋から引き摺り出されたと思ったら、サン・マロへの航海ぶりに喧嘩を吹っ掛けられた。おまけに、こっちは丸腰にされている。
「おい、兄ちゃん。あんた、海軍に恐れられてるって本当か?」
「顔はちゃんと怖いけど、見たところ細いし」
「仲間から見捨てられて可哀想にな。おれたちが代わりに遊んでやるよ」
ルキフェルの耳に不愉快な音たちがほぼ同時に届く。下品な笑い、木床に落ちた硬貨、杯がコトンと鳴ったり瓶同士が奏でる劈く音たちが幾重にも重なって眠気すらすっかり飛んでしまった。ルキフェルが辺りを見回すと数人の船員はナイフを構えて腰を落とすと、船員の一人が口角を上げて声を張り上げる。
「その顔の傷だけじゃ済まない体にしてやるよ!」
——数分後、エドガーがリヴェンジ・クイーンに帰還すると甲板上は静まり返っており、風が索具を揺らす音だけがキイキイと鳴いていた。
「……ん?」
エドガーがタラップを上り切って甲板を見下ろすと、数人の男たちが木床に沈んで無様に伸びていた。地に伏したまま何やら呻いている、数本のナイフが離れた場所で寝ていたり、突き刺さっているナイフも見受けられた。エドガーが首を傾げた時、目の前で一人の船員が苦悶する声を漏らして甲板に叩きつけられた。逆光を受けて立つルキフェルは転げ落ちたナイフを拾うと船員の胸ぐらを掴んだ。
「ヒィッ、やめろ、勘弁して……」
船員が顔面蒼白で首を振るもルキフェルはナイフを逆手持ちに握り直して、頭上に掲げた。刃が陽光を受けてギラリと光った瞬間、残像も残さず振り下げられ、船員は思わず目を瞑ると甲板上から幾つも悲鳴が上がった。……が、一陣の風が吹く音に違和感を覚えて船員が恐る恐る目を開けると、ナイフの刃先は船員の眉間寸前で止められていた。
「……あれ?」
ゴンッ!
船員が声を漏らすと空を見上げるように甲板に沈んだ。ルキフェルはナイフの柄に赤い染みをチラリと見た後、興味を失ったように放り投げるとナイフが宙を舞ってグサリと刺さった。一連の流れを瞬き一つせず見ていたエドガーは、身を寄せ合うように震えている船員たちを見回して溜め息を吐いた。
「……狂犬を放す時はオレに許可もらえ」
ルキフェルは立ち上がると軽く伸びをしてから頭を持って首を横に倒してポキリと鳴らした。
——ダメだな、まだ体が鈍っている。
彼は暗褐色の長い前髪を軽く払うと水平線に目を向けた。灰色の空、雲の向こうにぼんやりと浮かぶ白い光を前にルキフェルの口から白い息が漏れ、殺風景な港の背景に溶けていく。
——この場にない色彩たちを想い浮かべると、前髪の隙間から翡翠の絵具が載った。




