第五章③ コリン
すっかり夜になっていた。ランデヴェネックの港は松明の火が揺れ、怒号と笑い声が入り混じる。エドガーは桟橋へと歩きながら軽く手を振った。
「じゃ、オレは偵察に行ってくる。お前らは好きにしろー」
エドガーの後ろに三人の影が続く。ジャスパー、ニール、マテオだ。マテオが前を歩くエドガーの背を眺めながら囁く。
「んで、おおよその作戦は考えてあんの」
ニールは肩をすくめて唸る。
「んー、なんとなく? エドガーとマクシミリアンを引き合わせる状況は考えてある。けど……僕らだってマクシミリアンがお目当てなんだ。ベルナルドの死の真相を掴むには、戦場の只中ではできない」
ニールの言葉にジャスパーが息を吐いた。
「場所を移動させるしかない、か」
三人はそれ以上語らず、上機嫌なエドガーの背を追った。やがて三十隻近い船団が順に港を離れていく。帆が風を受け、軋む音が夜に溶けると水面が割れ、白波が闇の中へ消えていく。港に静寂が戻った時、コリンは物陰からそっと顔を出した。
「……行った」
コリンの視線の先にリヴェンジ・クイーンが鎮座している。灯りはあるが、さっきまでとは明らかに違う。人の密度が薄く、守りは甘い。コリンは口元に布を巻いて鼻までしっかり覆うと、鞄に手を入れて瓶の感触を確かめた。
「……よし」
コリンは音もなく走り出すと板を踏む位置を選び、影から影へと桟橋を抜けた。タラップを渡って甲板に上がると、コリンは周囲を見渡した。数人の船員が酒を飲んで談笑している。
「……ほんと、好きにしてるなあ」
コリンは鞄から瓶を取り出すと栓を緩めた。ふわりと見えない霧が夜の空気に溶けていく。コリンは風向きを読んで甲板の中央、階段の近くで栓を外すと甲板と船室の入り口で少しずつ香りが広がっていった。船員の一人が鼻をひくつかせる。
「なんか、いい匂いしねえか?」
「は? お前酔ってんだろ」
笑い声の直後、言葉が途切れてぐらりと身体が揺れる。
「……あれ」
「おい……?」
隣の男が声をかけるが、その声も徐々に鈍る。視界が滲み、足元が沈んで一人、また一人と力が抜け、甲板と船内で倒れる音と鈍い衝撃が連鎖していく。コリンは階段の陰に隠れながら見ていた。
「……効いてる」
動いている者はいない。残った者も時間の問題。コリンは瓶の栓を閉め、素早く鞄へ戻すと足音を殺しながら船室の方へ向かった。心臓が少し速い。怖くないわけじゃない。でも止まらない。
「……待っててよ」
コリンは闇の中を進んだ。この通路の先にいるのは、守りたい人間。
狭い船室では小さな窓から差し込む月明かりが床に細く伸びている。ルキフェルがその光をぼんやりと眺めていた時、コンと控えめなノック音が響いた。ルキフェルの視線が扉の方へ向く。この船で、わざわざノックをする人間などいない。あるとすれば罠か、遊びか。ルキフェルは身体を起こして息を殺しながら扉の向こうの気配を探ると、軋む音とともに扉が開いてルキフェルの瞳が見開かれた。廊下に立っていたのは鍵束を片手にしたコリンだった。彼の足元にはぐったりと眠り込んだ見張り。状況の異常さと目の前の光景が結びつかない。コリンは軽く手を上げた。
「助けにきたよ」
買い物の帰りにでも立ち寄ったかのような軽さ。ルキフェルが音もなく距離を詰めると力任せにコリンの身体を抱き寄せた。
「痛い痛い痛い痛い!」
コリンの口から悲鳴が漏れるが、ルキフェルは腕の力を緩ませず押し潰すように強くした。
「ちょ、ちょっと、折れる折れる!」
コリンがもがくも、ルキフェルは離さない。顔が近い、息がかかる距離にコリンはようやく気づいた。おかしい。いつもと違う顔、目つきが歪んでいる。
「……ルキフェル?」
コリンが呼びかける。とルキフェルはようやく少しだけ力を緩めた。
「……何やってる。こんな所に来て死ぬ気か」
コリンはもがくのをやめてじっと見上げると、少しだけ困ったように笑った。
「……ごめんって。でも、助けにきたんだよ。外、もう静かだからさ。今ならいけると思って」
ルキフェルは深く息を吐くと力を抜いてコリンを解放した。
「……あとで説教だ」
コリンは肩を回しながらへらっと笑う。
「えー、やだなあ。ほら、早く行こ」
鍵束を軽く振るコリンの仕草に、ルキフェルは口元を緩ませた。
「……助けにきたところで悪いけどな、芝居ごっこしてるんだ。抜け出せない」
「……え?」
コリンの声がぽつりと落ち、数秒遅れて表情が固まった。
「……ここまで来るのに苦労したのに……」
コリンの肩がガクリと落ち、さっきまでの勢いが嘘のように消える。ルキフェルはコリンから視線を逸らした。
「悪いな。これも作戦なんだ」
コリンは眉を顰めて口を尖らせた。
「……じゃあさ、今夜は散歩しようよ」
「は?」
「今ならみんな寝てるし、人少ないし。……身体も鈍るでしょ?」
コリンが指で外を示す。ルキフェルはいくつかの可能性を頭の中でなぞった。リスク、時間、戻れるか。
——問題はない。ほんの短時間なら誰にも気づかれずに戻れる。
「……お前な。自分が何やったか、分かってるのか」
「分かってるよ。だから、ここまで来たんでしょ」
ルキフェルはコリンの顔をじっと見た。諦める気がない、押し切る気でいる。止めても無駄だと理解するとルキフェルはため息を吐いた。
「……仕方ないな。少しの間だけだ」
「やった」
「騒ぐな」
コリンの顔がぱっと明るくなってルキフェルが即座に釘を刺すが、声にはもう先ほどまでの鋭さはなかった。二人は音を殺して動き出し、廊下と階段、眠り込んだ船員たちの間をすり抜けていく。やがて甲板に出ると夜風が髪を揺らして頬を撫でた。冷たいが、どこか心地いい。コリンは一瞬だけ空を見上げた。星が少しだけ瞬いている。
「静かだね」
「ああ」
二人は船を降りて桟橋を歩いた。足音は波音に紛れ、黒船の影を抜ける。港の灯りはまばらで人影も少ない。コリンは少しだけ肩の力を抜いた。
「……ほんとに出れたね」
「あまり遠くへはいけない。少しだけな」
ルキフェルは周囲を見渡しながら答える。警戒は解かないが、彼の横顔はどこか柔らかかった。コリンはルキフェルの様子をちらりと見てから笑って歩き出す。
「じゃあさ。ちょっとだけ、付き合ってよ」
戦いの合間、切り取られた自由の中で二人は並んで歩き出した。波の音だけが緩やかに続き、並んで歩く足音もどこか遠く感じられた。コリンは少しだけ視線を落としたまま口を開く。
「……ぼくたち、指名手配されてるよね」
軽く聞いたつもりだったが、声が思ったより低かった。ルキフェルは前を見たまま答える。
「俺たちの手配書、見たのか?」
「うん。ぼく、ブレストに行ったんだ。海軍のやつらが作ったって」
コリンが頷くとルキフェルは目を細める。
「……面倒なことになったな。ずっと影として生きていたのに、陽の下に晒されちゃ」
ルキフェルの言葉は冗談のようでどこか諦めにも似ていた。夜風が吹き抜け、コリンは足を少しだけ緩めた。
「……ここに持ってくるように頼んだの、ぼくなんだ」
ルキフェルの足が止まるもコリンは続ける。
「ルキフェルたちが、これ以上酷い目に遭うのは耐えられないから。けど、余計に囲われたって聞いた。……ぼくのせいだ」
コリンがぎゅっと拳を握ると夜の石畳がぼんやりと滲んだ。二人の間に沈黙が落ち、波の音だけが続く。ルキフェルは前を向いたまま言う。
「そうか。あれ、お前が流したのか。——安心しろ。マテオたちは今じゃ黒船の中でも恐れられる存在になった。誰もあいつらに手を出せない。迂闊にな」
コリンは思わず顔を上げた。予想していた反応じゃなかった、責められると思っていた。怒られると思っていた。
「……ほんと?」
コリンの口から思わず言葉が漏れ、ルキフェルは肩をすくめた。
「事実だ」
「……ルキフェルは?」
コリンが恐る恐る聞くと、ルキフェルは一瞬だけ空を見上げた。月が薄く雲に隠れている。
「相変わらず捕虜のまま。むしろ、悪魔扱いされてる」
ルキフェルの声はまるで他人事のように淡々としていたが、言葉の奥にあるものをコリンは感じ取った。恐れと距離、理解されないもの。コリンは少しだけ眉を寄せて呟く。
「……悪魔、ね。じゃあ、ぼくは何だろう」
軽い調子で言ったが、コリンの声には自嘲が混じっていた。ルキフェルはコリンに目を向ける。
「さあな」
翡翠の目は少しだけ柔らいでいた。しばらく二人は何も言わずに歩き、コリンは足元を見ながら考えていた。ニールたちに追い出された日のこと、一人で動こうとして結局うまくいかなかったこと、ブレストで誰かに助けられて、ようやくここまで来れたこと。ティエンと第八船団、そしてソフィー。思い返せば、全一人でやろうとして、結局誰かに繋いでもらって、ようやく形になった。コリンの喉の奥が少しだけ詰まる。
「……ねえ」
ルキフェルはコリンに視線を向けると、コリンは少し迷ってから苦笑いを浮かべて続けた。
「ぼくさ、一人じゃ何もできないみたい。ブレストに行ったのも、結局一人じゃどうにもならなくてさ。情報も、渡せたのはソフィーがいたからだし。なんかもう、全部そんな感じで。一人で突っ走って、慌てて、空回って。……誰かがいなきゃ、何もできない」
コリンは次第に声が小さくなりながら言い切った。自分でもちょっとだけ驚いた。思っていたより、ずっと深いところにあったらしい。コリンは視線を落としたまま言葉を継ごうとした瞬間、鋭い声が空気を切り裂いた。
「違う。それは違う」
コリンが顔を上げるとルキフェルの目が真っ直ぐこちらを射抜いていた。ルキフェルはコリンとの距離を詰めて続ける。
「お前は何もできないんじゃない。 一人でやろうとしてるだけだ」
ルキフェルの言葉が胸に刺さり、コリンは思わず息を呑んだ。ルキフェルは切羽詰まった声で言葉を紡いでいく。
「誰かを使え。頼って繋げて、巻き込め。それがお前のやり方だろ」
コリンの脳裏にこれまでの出来事が一気に蘇る。ティエンもソフィーもアーシャたちも、全部自分が繋いだ結果だった。ルキフェルはほんのわずかに目を細める。
「一人で全部やる必要なんてない。そんなことができる奴は、最初からいない。俺だってそうだ。フランソワがいて、ジャスパーたちがいた。あいつらがいるから俺は動ける。お前だけ例外だと思うな」
コリンは頭の中で何かがひっくり返るも声を絞り出す。
「でも……ぼく、助けられてばっかりで」
「助けられてるんじゃない。使ってるんだよ」
ルキフェルは間髪入れずに遮ってコリンは息を止めた。
「お前は人を動かしてる。自分で気づいてないだけだ」
「……そう、なのかな」
「少なくとも、何もできない奴のやり方じゃないな」
夜の風が吹き、コリンの胸の奥で何かが熱を持つと少しだけ俯いてくすくすと笑った。
「そっか……なんか、ちょっと気が楽になったかも」
コリンはちらっとルキフェルを見上げた。
「ありがと」
ルキフェルは口元を緩めて息を吐くと、コリンは少しだけ考えるように視線を泳がせて苦笑した。
「でもさ、単独行動はもう懲り懲りだよ。……追い出されたけどさぁ、やっぱり一緒にいていい?」
ルキフェルの眉間に皺が寄り、コリンは気づかないふりをして続ける。
「また五人で。ぼくとしては、なるべく皆の側に居たいな。海軍の奴らに“五鬼衆”なんてダサい名前までつけられたけどさ」
ルキフェルが低く唸る。
「お前、命狙われてるんだぞ。……契約違反で」
「うん、知ってる。それでも、一緒にいたい。——力になりたいから」
コリンはニコリと笑うとルキフェルの瞳が揺れた。夜風が二人の間を通り抜け、コリンが首を傾げて沈黙を破る。
「ねえ。さっき言ってた“芝居ごっこ”ってなに?」
ルキフェルはしばらく黙っていたが、やがて淡々とした声で口を開いた。
「エドガーを仕留めるための準備だ。ジャスパーたちは奴の計画に乗っているフリをしてる。内部から崩すためにな。俺は逆、計画に楯突く奴として捕虜を演じてる。芝居は得意じゃない。何も言わず、じっとしてる方が楽だから」
「……たしかに」
コリンは思わず笑いそうになるのを堪え、ルキフェルは構わず続ける。
「最終的な目的は一つ、エドガーを殺す。奴の狙いはマクシミリアンただ一人。だから、あの二人を引き合わせる必要がある。そのための段取りは……おそらくニールが考えてるだろ。マテオとジャスパーの頭じゃ緻密な計画は無理だからな。俺は別行動だ、自力で脱出する」
「なるほど」
コリンがくすっと笑って頷くも、彼の目には先ほどとは違う光が宿っていた。理解と納得と高揚が入りましっている。コリンは歩きながら自分の手を見つめた。細くて小さい手だが、さっきまでとは見え方が少し違っていた。
「……じゃあ、少しでも形にするのがぼくの役目だね」
コリンは顔を上げると海に目を向けた。
「まずはエドガーに証明しなきゃ。契約違反、覆すために」
「……無茶はするな」
「うん。ほどほどにね」
——たぶん、ほどほどにはならないけど。
それから、二人はしばらく何も考えずに歩いた。夜の港と波音と遠くの喧騒。ほんのわずかな自由の中で、コリンは思い出したように口を開く。
「あ、そうだ」
「ソフィーを通して、旧ブルボン派が関与してるって情報、海軍に流しておいた」
「……は?」
「あと、今夜の襲撃も向こうは把握してるよ」
「……」
「それから、ブレストでダラス家見かけた」
そこまで聞いて、ルキフェルの顔が露骨に歪んだ。
「お前、情報量が多すぎる」
「え、そう? だって、色んな人が助けてくれたんだよ」
コリンは首を傾げて指を折りながら数える。
「リー・ウェンとか、アランさんとか——」
「……アラン?」
ルキフェルの足が止まり、先を行きそうになったコリンが彼を振り返る。
「うん?」
「……まさか、アラン・クロードか?」
コリンは頷いて何気ない口調で続ける。
「そうだよ。サン・マロにいた時から、ずっと裏で協力してくれてるんだ。ルキフェルの先生だって聞いた。凄い人だよね」
コリンの言葉を聞いた瞬間、ルキフェルの思考が一瞬止まった。
——アランが生きている。
十分すぎる衝撃だ。かつての先導者、尊敬してやまなかった男、背中を追い続けた存在。
「……そっか、アランが」
ルキフェルが噛み締めるように呟いて視線を落とし、すぐに顔を上げた。
「てか、なんで誰も今まで言わなかったんだ。アランも関わってるなら俺に言え」
ルキフェルの声に苛立ちが混じり、コリンは肩をすくめた。
「皆それどころじゃないんだよ」
「……エドガーを殺したら。お前らまとめて説教だ。最近、報連相を怠りすぎてるぞ。フランソワ海賊団での日々、抜けてきてる」
ルキフェルが懐かしむように目を細め、コリンはくすっと笑った。
「……そういうところも含めて、師と弟子って感じだね」
ルキフェルは何も返さなかったが、思わず口元を緩めた。それから二人はしばらく歩き、やがてルキフェルの方から切り出した。
「……そろそろ戻らないと」
「うん」
二人は黒船へと戻っていった。部屋の前で足を止め、コリンが鍵束を取り出してる横でルキフェルは室内に入って振り返った。
「コリン」
名前を呼ばれてコリンが顔を上げると、ルキフェルは少しだけ間を置いてから言った。
「デカくなったな」
コリンはきょとんとして、少し照れたように笑った。
「そりゃどうも」
「ただし、まだまだガキだ。目を離すわけにはいかない」
ルキフェルが唸るように言って指を差すと、コリンは顔を顰めた。
「そろそろ自立したい。ぼくって子どもかもしれないけど、けっこう厚かましいよ? 守護対象から外れたい」
「守らせろよ、仲間なんだから」
ルキフェルが即答するとコリンは少しだけ目を細めて笑った。
「……ずるい言い方するなあ」
ルキフェルはほくそ笑んだあとコリンを手招きした。
「頼みがある」
コリンが近寄るとルキフェルは彼の耳元に何か囁き、コリンは目を丸くするもすぐに口角を上げた。
「……了解。ぼくと第八に任せて」
コリンは踵を返して廊下に出ると扉を閉めた。鍵を回すとカチリと音が響き、コリンは鍵束をまだ眠っている船員の懐にそっと忍ばせた。
「じゃ、またね」
コリンが軽く手を振って背を向けると闇の中へ消えていった。静まり返った部屋の中、ルキフェルは壁に背を預けて息を吐いた。
「ガキって存在自体は面倒なのに、なんで放っておけないんだろう」
彼の脳裏に浮かぶのはフランソワ。あの背中、あの言葉、あの日すべてを託すように自分に声を飛ばした後、彼は一人で死んだ。ルキフェルは目を閉じてゆっくり開いた。
「……そろそろ、俺も子離れか」
突き放す言葉ではない、認めるための言葉だった。一人の人間として、同じ場所に立つ者として。あいつを見るための決意だった。
「さて、リヴェンジ・クイーンの構造は大体把握した。——どさくさに紛れて、どう逃げ出してやろう」
ルキフェルは不敵に笑って腰を下ろした。
——このデカいだけの黒玉座、そろそろ動いてもらおうか。
この夜、ブレストは戦火に包まれていた。
海軍は前回の襲撃を踏まえ、ブレスト海峡側への待ち伏せを強めていた。
ルソー率いる第一艦艇部隊と第七艦艇部隊の一部は海峡付近に展開し、ブレスト城側も火の手を合図に即応できるよう構えていた。誰もが敵は再び海峡を越えて来ると信じて疑わなかったが、海賊同盟はそこには現れなかった。静寂が続き、城内にも海峡の海上部隊にも困惑が広がり始めた時、敵はすでにブレスト城の眼前まで来ていた。
闇の海に突如として無数の松明が灯り、真紅の旗を掲げた海賊船団が姿を現す。海軍が海峡側へ意識を割かれている隙を突いた、まさしく奇襲だった。ブレスト城は即座に砲撃態勢へ入り、城上・砲撃陣地・海上部隊がそれぞれ混乱の中で応戦を開始する。
やがてマクシム隊は砲撃だけでは押し切れないと判断し、独断で陣地を離脱。ペンフェルド川沿いの造船所へ向かい、小型船に火薬瓶や爆薬を積み込んで夜の海へと出ていた。火薬瓶による奇襲は見事に成功し、海賊船団の外縁部は次々と炎に包まれていくが、そこで終わらなかった。マクシム隊はさらに海賊船を一隻乗っ取り、海賊に偽装したまま敵船団の中へ紛れ込む。敵味方の識別が曖昧な夜戦においてこの攪乱は致命的だった。火薬による爆破、偽装、乗っ取り、海賊船団の中枢は一気に混乱へ陥り、仲間同士で疑い合い、撃ち合う地獄絵図と化したが、その代償もまた大きかった。海峡側に配置されていた海上部隊が混乱の只中にいたマクシム隊の乗る偽装船を敵船と誤認し、砲撃を加えたのだ。
船は炎上し、隊員たちは海へ飛び込むことを余儀なくされた。辛くも全員が回収され、生還は果たしたものの戦場の混乱と誤算は彼ら自身にも牙を剥いた。この戦いは海軍にとっても海賊にとっても、これまでにない規模の消耗戦となったが、別の場所では別の思惑が動き続けていたのである。
ラド・ド・ブレストの燃え盛る戦火を、フォール・デュ・コルボーの高台から見下ろす影があった。エドガーは鋭い眼差しで闘いの渦を逃さず捉えている。
「……堕ちぬか」
エドガーは低く呟くと大戦の火の手から視線を外し、暗がりに立つ五鬼衆へと目を向けた。ただ一人、姿を見せていない者がいる。
「お前たちが次の作戦の首謀者だ」
エドガーの冷たく断じる声に、マテオとニールとジャスパーが互いに視線を交わした。マテオが肩をすくめ、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「もう自分は何も考案しない、と?」
「あほ。全部オレの考えにするんだよ」
「強情なことだ」
エドガーの言葉にジャスパーはわずかに笑みを浮かべたが、愉快さではなく嫌悪を押し殺したようなものだった。
「次こそはマクシミリアンを引きずり出す。絶対にな」
エドガーの執念に場の空気がわずかに引き締まり、ニールが口を開く。
「なんとなくは考えてるよ」
「ほう? さすがだな。お前たちの正式な名称、五鬼衆。まさに我が軍の頭脳だ」
エドガーが目を細める。彼の冷ややかな賞賛のあとニールは一歩前へ出た。
「まず現状のまま戦力を削り合っても……お目当てさんは出てこない。ランデヴェネックに集結してる残りの海賊団も考えれば、次で決着をつける必要がある。……総力戦だ。それも撃ち合いだけじゃない。直接だ」
エドガーが眉を動かして低く問う。
「……つまり、白兵戦ってことか」
ジャスパーが鼻で笑う。
「海賊は本来そっちが本分だろ。大砲で撃ち合うより、よっぽど得意分野だ。海軍相手でも、立って負けてねえはずだぜ」
ニールは平坦な声で言葉を紡いでいく。
「最初は砲撃になる。そこは避けられない。布陣を組んで粘って、リヴェンジ・クイーンは中央に据える。周囲は他の船団で囲って砲撃は他に任せる。何があっても動かない」
「……それ、何の意味があるんだ」
エドガーが頭を掻くとニールは目つきを鋭くさせた。
「マクシミリアンを誘き寄せるためだよ。そのためにはエドガー船長、あなたも船にいないといけない」
「おいおい……まさかオレも参戦するのかよ」
エドガーが眉を顰め、マテオがにやりと笑う。
「別にいいじゃねえか。玉座だぞ?」
ニールは腕を組んで続ける。
「海軍が乗り込んでくるまで動かない。白兵戦が始まれば、あの男は必ずこちらに来る。そこで僕らがマクシミリアンを捕まえるんだ」
「……用心深いやつで、出てこなかったら?」
エドガーは顎に手を当てると、間を置かずにジャスパーが戦火の向こうに目を向けて言い切る。
「いや、それはないな。おれの勘が言ってる」
エドガーは一瞬だけ沈黙し、ニールに目を向けた。
「……それで?」
「捕まえたら、僕らは予備の船で戦場から離脱する。人のいない場所まで逃げれば、あなたはめでたく復讐を果たせるってわけ」
風の音だけが通り過ぎ、エドガーは額に汗を受かべてニールを頭からつま先までざっと見た。
「……お前、正気か?」
本気の顔をしている三人を見て、エドガーは一度夜空を仰いだ。火の手が遠く揺れ、黒煙が薄く流れていく。
「……色々と突っ込みたいのは山々だが、まずマクシミリアンの捕縛だ。そこまではいい。問題はその後。無事に脱出できる保証がどこにもねぇ」
エドガーが低く吐き出すように言うと三人を睨む。
「船から船へ移るだけならどうにでもなるが、そこに至るまでの過程が雑すぎる」
ニールは肩をすくめた。
「操舵はジャスパーがやるよ。彼、どんな荒波でも乗りこなせるから」
ジャスパーは否定も肯定もせず薄く笑い、エドガーは舌打ちした。
「……一番の問題は時間だ。船に乗る前に海軍に追いつかれたら水の泡だろう。どうやって時間を稼ぐ」
「まあ、足止めするしか——」
「その心配はいらないよ」
ニールが言葉を都合とした時、少年の声が割り込んだ。空気が止まってエドガーが「ん?」とわずかに顔を上げ、声のした方へ視線を向ける。ニール、マテオ、ジャスパーは一瞬遅れて弾かれたように振り向いた。闇の中、ボウッと光の輪郭が浮かび上がる。火だ、小さな炎がゆらゆらと揺れている。その光に照らされて少年の姿がゆっくりと現れた。コリンは掌の上で燃える炎を松明のように掲げ、夜を裂いていく。マテオとジャスパー、ニールは言葉を失って全身を凍らせた。
——無事だった。いや、なぜここにいる。なぜ戻ってきた。なぜ、それを見せている。
三人の目がコリンの手の中の炎に釘付けになっている時、エドガーは近づくコリンの炎をじっと見つめていた。驚きでも拒絶でもない、どこか懐かしむような理解に近い眼差しが炎のおかげで明るみになる。
「……お前もまた特異なやつだったか」
エドガーの脳裏に過るはエル・イエロ島。祖国から追われ、迫害され、暴力から逃げてきた者たち。異能を理由に居場所を奪われた者たち。見えない場所や物を目で見るように知る者、触れずとも物を動かす者など、人ならざる力を持ちながら人として生きようとした者たち。彼らと同じように、掌に火を灯す者が目の前にいる。エドガーは目を細めて口元を歪ませた。
「……面白ぇ」
コリンは炎を灯していない方の手で懐を探ると小さな球体を取り出し、掌の上でころりと転がす。
「じゃーん。これ、ぼくが作ったんだ」
白煙爆弾だった。表面は滑らかで、簡素ながらもどこか異質な造りをしている。
「これさえあれば、白煙に紛れて姿を消せる」
「それ採用」
コリンが無邪気に言った瞬間、エドガーが間髪入れずに言い切った。ニールたちが揃って固まる。
「え?」
誰かの声が漏れるもエドガーは視線を逸らさず、コリンを見たまま続けた。
「いいじゃねえか。時間稼ぎの問題、解決だ。煙で視界潰して、そのまま離脱。単純でいい」
ニールとマテオ、ジャスパーは言葉を失ったまま互いに顔を見合わせる。
——採用、早すぎるだろ。
エドガーは目を鋭くさせて思い出したように口を開いた。
「おい、クソガキ。今までどこに行ってた? まさか……海軍の元じゃねえよな?」
コリンは肩をすくめて呆れたように笑う。
「指名手配されてるのに? 確かに城の近くまではこっそり行ったけどさ。軍人の目の前に出るほど、わざわざ捕まりに行くほど馬鹿じゃないよ。ぼくはね……ブレストを探ってたんだ」
炎が揺れ、エドガーが「ほう」と感心したように腕を組むとコリンは続ける。
「民間人は海賊を怖がってる。昼間でも港には近づかない。……ブレスト港もそうだった。マクシミリアンに直接復讐したいんだよね? だったら、場所はブレスト港がうってつけだよ。戦闘の只中でやるんだから、平時より人はもっといない」
火の光がコリンの深い茶色の瞳に映る。理屈としては通っている。エドガーが黙っているとコリンは思い出したように言葉を足す。
「あ、そうそう。今日さ、港に侵入したら面白いニュース聞いたんだ。……フェルナンドと十五代目コルヴァンが何者かに毒殺されそうになったらしい」
エドガーの表情がぴたりと止まって唸る。
「……誰がやった」
「さあね。そこまでは聞けなかった。でも、少なくとも内部に手を出せる奴がいるってことだね」
炎がゆらりと揺れ、ニールとマテオとジャスパーは一言も発せず二人のやり取りを見ていた。下手に口を挟めば何かが壊れるような緊張が場を支配している。コリンはなおも平然として軽い調子のまま続ける。
「けどさ、このニュースをキャッチした後でこれまた興味深いものを見つけたんだ。……ダラス家の三男だよ。わかる?」
コリンが指先で白煙爆弾をくるりと回すとジャスパーが低く吐き出す。
「……あいつら、ブレストにいるのかよ」
「なんで……」
ニールの喉がひくりと動いた。彼の脳裏に蘇る、あの時の光景。ドミニクのあの視線。マテオがゆっくりと顔を上げて視線だけを横へ流す。燃え落ちていく海賊船。沈んでいく影。
「……この戦いも、遠目から見てるんじゃねえか? あいつらなら、やりそうだ」
マテオが吐き捨てるように言うとエドガーが、眉を寄せる。
「もしかしたら……そいつらがフェルナンドを?」
「さあ。本当のところはわからない」
コリンは肩をすくめて続ける。
「けど……他にいなくない? だって、フェルナンドだけじゃないんだよ。ダラス家ってさ、君と十五代目コルヴァンを繋いで色々動かしてる連中でしょ? 自分たちのやってることが露呈しないために暗殺する。……裏社会あるあるだと思うけど」
風の音が通り抜け、エドガーは視線を落として拳を握ると音もなく震えた。
「……そうか。随分と好き勝手やってくれてるじゃねえか」
低く押し殺した声の奥にあるのは、明確な殺意だった。エドガーは顔を上げて燃え盛る戦火の方ではなく、そのさらに向こうに居る見えない何かを見据えてせせら笑う。
「……いいぜ。順番が増えただけだ」
コリンは炎を揺らしながら息を吐いた。
「……さて、ぼくから提案なんだけどさ。やられたら、やり返さない? それも利用された分だけ、こっちも利用してやる。ダラス家がまだこの街にいるなら使わない手はないよ」
エドガーはわずかに眉を寄せた。
「……どういうことだ」
いまひとつ噛み合わない。コリンは一瞬だけ黙って、少しだけ表情を和らげた。
「……フェルナンドに会いたくないの?」
エドガーはブレスト城へ視線を向けた。燃え残る光が石壁をかすかに照らしている。しばらく沈黙が落ち、やがてエドガーが押し殺すように呟く。
「……会わない、なんてことはねえだろ。あいつはな、ガキの頃から面倒見てきた。 “船に乗せてくれ”なんて頭下げてきてから、ずっとだ。長いこと……オレの右腕やってる」
エドガーはコリンへ向き直った。
「……会えるのか」
コリンは笑みを浮かべてエドガーとの距離を詰めた。
「うん。たぶん……助け出せる。ダラス家を利用してやろう。表じゃ旧ブルボン派なんて名乗ってるんだよね、あの人たち。正体を知られたくないなら、こっちが材料にすればいい。『協力しろ、さもないとお前たちの正体を公に明かす』なんて台詞でさ……脅しとしては十分だと思わない? やるなら明日。早い方がいい」
エドガーはコリンをじっと値踏みするように見つめ、やがて息を漏らして笑った。
「お前、よく天才って言われるだろ」
コリンは肩をすくめるだけ。エドガーは視線を外し、再び夜の海を見やる。
「……いいぜ、乗ってやる」
コリンは思わず息を呑んだ。
——信頼を掴んだ。
耳元で囁かれたルキフェルの言葉——「あいつに今、足りないものを突け。同情してやるんだ」——が脳裏に蘇る。曖昧で抽象的な助言だが、第八に乗って移動してる間に頭の中を捏ねくり回した甲斐があった。
コリンの手の中で炎が揺れ、エドガーはゆっくりと背後を振り返った。燃え尽きた海、沈んでいった船団の残骸が波間に揺れている。海軍側の微かな勝鬨が夜風に乗って耳に届いた。エドガーは勝鬨を耳に焼き付けるように聞いたあと踵を返し、コリンの脇をするりと抜けていくと石階段を降りていった。コリンはエドガーの背を黙って見送って炎が小さく揺れた瞬間、後頭部に軽い衝撃が走った。
「いってぇ!」
コリンが振り返る間もなく、今度は頭をぐしゃぐしゃに掻き回される。
「このガキ、危ない橋渡りすぎ」
コリンが顔を上げて振り返るとマテオが立っていた。コリンは顔を顰めながら彼の手を払いのける。
「やめてよぉ……!」
マテオは払いのけられてもふっと息を吐いてから言う。
「けど、ありがとな。……戻ってきてくれて」
マテオの言葉にニールとジャスパーも無言で頷いた。コリンは一瞬だけ目を細めてわざとらしく言う。
「——ガキを舐めてはいけません」
四人の笑い声を風が攫っていき、彼らは顔を見合わせて足を動かした。コリンが乗ってきた船、ランデヴェネックを急ぎ出航してここまで送り届けた第八船団の方向へ向かう。海上の戦火が沈みゆく様子を背後に、四人はフォール・デュ・コルボーの闇へと溶けていった。




