第五章① コリン
十一月二十九日、朝。
昨夜の嵐が嘘のように空は薄く晴れ渡っていたが、空気の底にはまだ湿り気が残り、どこか重たい。酒場の中もまた静かだった。コリンとティエンはいつも通り向かい合って朝食を取っていた。木のテーブルに置かれた皿は質素なものだが、手は止まらない。二人とも食べながら思考を巡らせている。今夜になれば海賊たちは再びブレストを襲うことになる。
「……まあ、彼女を待つしかないね」
コリンはパンをちぎりながら言った。彼はこの酒場に留まることを選んでいる。強情とも言える判断だった。たとえ海軍が再び襲撃に遭ったとしても、この調査報告書を渡すという行為に時期そのものは関係ない。重要なのは、旧ブルボン派が関与しているという事実を一刻も早く伝えることだ。コリンの向かいでティエンがため息を吐く。
「ほんと、お前は動かねえな」
「動けない、の方が正しいかな。ここで待つって決めた以上、動いたら意味ないし」
コリンが言い切るとティエンは呆れたように笑った。
「……まあ、いいけどよ」
ティエンは皿の残りをかき込むと椅子の背にもたれかかって吐き捨てるように言う。
「オレも、ああいう“裏で動いてる奴ら”は好きじゃねえ」
コリンは視線を上げ、ほんの少しだけ笑う。
「頼もしいね」
「今さらだろ」
ティエンは鼻で笑った。朝食後、二人は酒場で時間を潰していた。のんびりと言えば聞こえはいいが、実際にはカウンターに広げた調査報告書をパラパラとめくり、断片的な情報を拾い上げては互いに投げ合っているだけ。ティエンが一枚の紙を指で弾く。
「これさ。拠点の名前、書かれてねえな」
「どれ?」
「港の一時使用許可証。あと、この辺も。形式はそれっぽいのに肝心なとこが抜けてる」
コリンはページをめくる手を止め、一瞬だけ目を細めると首を振った。
「これ、リー・ウェンがその場で書いたものだよ」
「は?」
「たぶんね、本物の書類を見ながら模写してる。だから形式は合ってるけど、中身がスカスカなんだ。重要書類としては出来が悪い。さすが海賊って感じだよね。略奪以外は大雑把」
「ひでえ言いようだな」
「事実でしょ」
コリンが指先で余白をなぞっているとティエンは紙から目を離さなかった。
「……いや、わざとかもしれねえな。意図的に隠してる。エドガーも旧ブルボン派も、どっちも場所を特定されるのが困る側だ」
「……ありえるね。むしろ、その方が自然か。中途半端に正確で、中途半端に抜けてる。隠すための再現だとしたら納得いく」
「だろ?」
「うん。だとしたら、旧ブルボン派は思ってるより頭いいよ」
「最初からそうだろ」
ティエンは語尾に苛立ちを込めて言うと肩をすくめた。コリンは彼の様子を横目に見ながらくすりと笑う。
「いいね。燃えてる?」
「別に」
コリンは再び紙へと視線を落とした。外では波が穏やかに岸を打ち、午前の時間はゆっくりと過ぎていくと酒場の外、それも遠くの方からパカラパカラと規則正しく石を打つ音が聞こえてきた。ゆったりとした闊歩がこちらへ近づいてきて、ティエンが顔を上げる。
「蹄の音だ」
蹄の音は次第に大きくなり、酒場のすぐ外で止まった。馬の嘶きに重なるように外から低い声が聴こえてくる。
「着いた。ここだな」
コリンは息を潜めて耳を澄ませた。足音は二人分、馬は一頭。そして、女の声の響きを聞いた瞬間、コリンは思わず目を見開いた。間違いない、あの声はソフィーだ。待ち望んでいた相手。コリンの胸の奥が妙にざわつき、ティエンが舌打ちする。
「まずいな、二人いるのか」
「大丈夫。店の奥に隠れてて、ここはぼく一人でいい」
ティエンは一瞬だけ言い返そうとしたが、コリンの真剣な顔を見て言葉を飲み込んだ。
「……無茶すんなよ」
「してないよ」
ティエンは店の奥へと消えていった。足音が遠ざかって静寂が戻り、コリンはカウンターの向こうへ回り込むと手近にあったグラスを取り、水差しを傾ける。透明な水が満ちていくと口を付けて一気に飲み干すも心臓がドクドクと耳の奥で鳴り響く。
「……っ」
違う、これは不安じゃない。コリンは目を細めた。胸の奥からせり上がってくるもの、これは高揚だ。コリンが唇の端を上げた時、扉の向こうで足音が止まった。
——来た。
扉が軋む音を立てて開いて光が差し込んだ。逆光の中に立つ影を見た瞬間、コリンの胸の奥で何かが解けた。
……ああ、来てくれた。
トルチュ島で別れてから、どれだけ時間が経っただろう。長かったような、短かったような。でも、あの時と何も変わらない。凛とした立ち姿、まっすぐな視線。そして、自分の腕を“ちゃんとしたもの”に戻してくれた人。この人がいなければ、自分は今ここにはいない。物を作ることも考えることも、全て失っていたはずだ。コリンの胸の奥がじわりと熱くなる。
——やっと会えた。
熱いものが迫り上がって言葉になりかけるが、コリンは視線を逸らしてグラスを持つ手に力を込めた。ダメだ、これを表に出すなんてらしくない。コリンはグラスを置いてカウンターの端席に腰を下ろすと、ソフィーに体を向けて口元に薄く笑みを浮かべる。
「無事に来れたね」
「ずっと待ってたよ」
ソフィーがカウンターに歩み寄りながら言った。
「手紙で呼び出しだなんて、本当に大胆ね。あなたたち、まったく恐れを知らないって感じ」
ソフィーが左隣のカウンター席に腰を下ろした瞬間、コリンはカウンターの木目を見下ろした。真正面から見ると、たぶん顔に出る。自分でも分かっていた。来てくれた事実だけで胸の奥がじんわりと熱を帯びるが、コリンは肩を竦めて笑う。
「だって、伝達手段が限られてるんだ。表向きはエドガーの捕虜扱いでさ。だから裏でコソコソやらなきゃならないんだよ」
コリンは言いながら、自分の言葉の軽さに内心で苦笑した。本当はコソコソどころの話じゃない。一歩間違えれば終わる。それでも、ソフィーには全てを言う必要はない。コリンが頬を書こうとした時、ソフィーが口を開く。
「みんな元気? 酷い目に遭ってたりしてない?」
「ぼくたちはまあまあ元気だよ。でも、ルキフェルだけはちょっと分からないんだ。なんかエドガーの船で監禁されててさ……」
嘘ではないが、全部でもない。元気なんて、どの口が言うのか。状況は最悪に近いが、この場で吐き出す意味はない。話題は変わり、ソフィーがこの前の霧の中の戦闘を切り出した。
「あの戦い、海賊の仕業だったのね」
「そうさ。ただ、エドガーの船は出てなかった。出たのは知らない海賊団ばかりで、みんなボロボロで帰ってきたんだ」
少しだけ肩を落とすソフィーを見て、コリンは明るさを保ちながらもどこか影のある目で彼女を見据えた。
「まあ、そんなにがっかりしないでよ。それより、話があるんだ」
ソフィーが眉を寄せるのを見て、コリンはすぐに話題を流した。コリンは書類を手繰り寄せてソフィーに差し出した。ソフィーが目を丸くして驚く。
「なに、この紙の量……?」
「エドガー船長の協力者に関する報告だよ。これを海軍の上層部に届けてほしいんだ」
コリンが肩をすくめて言うとソフィーの表情が曇る。
「私が、海賊と接触したって明かすこと?」
「そうさ、でもそれを言わなきゃ何も始まらないだろう?」
コリンは苦笑混じりに頷いた。これが通れば、流れは変わる。少なくとも、裏は暴ける——はずだった。ソフィーは溜め息を吐きながら申し訳なさそうに首を振る。
「悪いけど、それは難しいと思う」
コリンの表情から音もなく色が抜ける。……そうか、理解はできる。納得もできる。心がひび割れる音をコリンは自分の中で聞いた。
「あなたたちは指名手配されている。私が海軍に戻った時、あなたたちのことを話してしまったから。全部私のせい。ごめんなさい」
コリンは困ったように笑いながら首を振る。
「いいんだよ。ソフィーも必死だったんだから。君の事情に文句なんて言わない」
本心だ、責める理由なんて一つもない。ただ状況は思っていたよりずっと詰んでいる。
「これ、隊長に渡してもいいかな?」
ソフィーの一言でコリンの思考が突如止まった。
——マクシミリアン。
コリンの視界の奥で光景が閃いた。夕暮れ、揺れる帆。そして、ベルナルドの身体が崩れ落ちる瞬間。血の匂いと叫び。そして、自分の視界を塞ぐように引き寄せられた腕。外套の内側の暗闇に震える自分、降りかかる低い声。
「見るな。俺の側から離れるな。——俺が守る」
ルキフェルの言葉が鮮明に残っている。あの時、守られた。だからこそ、自然と声が落ちた。
「マクシミリアンか……それは正直、いただけないな」
あの目を知っている。あれは、迷いなく殺す人間の目だ。
「じゃあ、どうしたらいいのかしら……」
ソフィーが書類を見下ろして焦る横で、コリンは一瞬だけ目を閉じた。計画は崩れた、外部に託すルートは消えた。なら、内側でやるしかない。
「いや、いいんだよ! 無茶なことをさせようとした、ぼくたちの方が頭おかしいから」
コリンは軽く手を振って笑う。半分は本当で、半分は誤魔化しだが、その裏で決まったものがあった。コリンは少し真剣な顔になり、カウンターに肘をついて身を乗り出した。さっきまでの軽さを一段だけ引っ込めよう、ここから先は冗談では済まない。
「そうだなあ……じゃあ、この情報を渡そう。口伝だから、よく聞いてね」
これは紙に残せない、残したくもない。ソフィーが持ち帰れる、最後の確実なものだ。
「次の襲撃は今夜だ。急いで戻った方がいい。奴ら、今度はちゃんと姿を見せて殺しにくる」
「そんな……」
ソフィーの声がわずかに揺れる。彼女の脳裏に浮かんでいるのは、きっと仲間たちの顔だろう。彼女の瞳に一瞬の翳りを見た時、コリンは息を呑んだ。ちゃんと伝わった、この人はやっぱり受け止める。
「ありがとう、コリン。必死の思いで伝えてくれて」
ソフィーの真っ直ぐな礼に、コリンは首を横に振って笑った。
「ううん、お互い様だ。それに、ぼくたちはやりたいことのために動いてる。でも……」
言葉を継ぎながら、コリンは天井を仰いで髪をぐしゃぐしゃとかき回した。実際、頭の中も同じようなものだった。ソフィーが来てくれた、会えた。伝えたいこともかなり伝えられたが、肝心の書類は渡せない。海軍の中に持ち込めば、そこで誰の手に渡るか分からない。マクシミリアンは論外だ。他の誰なら安全か、そんな保証もない。
だったら、もう他人の手に委ねる段階じゃない。旧ブルボン派は自分たちの獲物だ。
エドガーも、彼の周囲でうろついている奴らも、まとめて自分たちで潰す。
「ソフィーに情報を渡せないとなると、もう自分たちでやるしかないかあ」
独り言みたいな声だったが、コリンの中ではすでに決まっている。仕方ないではない、やるしかない。ソフィーはコリンの言葉の重さだけを受け止めているように見えた。その沈黙が少しだけ心地よい。分かり合えている気がした。やがてコリンはわざと軽く片手を上げてみせ、重い空気を少しだけ崩した。
「じゃあ、また会えたら会おうね。それまで、生きててよ」
今はそれしか言えない。必ずとも、約束とも言えない。だから、せめて生きててよ。ソフィーも口元に笑みを浮かべた。
「ええ、コリンも……みんなもね」
彼女の返しにコリンの胸の奥がじんわり熱くなる。自分だけじゃない、みんなも。他四人も含まれていることが分かった。この人はそうやって人を見るから信じられる。二人は並んで酒場の出口へ向かった。別れ際なのに、どこか強固な連帯感があった。ソフィーが周囲を見回して首を傾げる。
「そういえば、なんでこの酒場、こんなにガラガラなの?」
「ぼくが賄賂で外に出てもらってるから。それを毎日やって、すごく待ったんだよ」
コリンの脳裏にはティエンの顔が浮かぶ。馬を走らせ、酒場を押さえ、港へ行き、また戻ってきて余計なことまで全部引き受けてくれた男。あの胡散臭い兄ちゃんがいなければ、ここまで辿り着けなかった。ソフィーが少しだけ眉を下げた。
「ごめんね。本当はすぐ行きたかったんだけど……体調崩してた」
「え、大丈夫? それ聞くと余計心配になるなあ」
コリンは素で目を見開いた。予想外だった。来なかった理由が迷ったでも裏切ったでもなく、単純に倒れていたからだなんて。しかも、それをあっさり言う。ソフィーが少しだけ困ったように笑ったのを見てコリンもようやく胸を撫で下ろした瞬間、ソフィーが足を緩めた。
「そうだ、私からも情報」
「ん? なになに?」
「フェルナンドと、コルヴァンを名乗ってた内通者が毒を盛られて危うく殺されるところだったの。これも……エドガーの仕業?」
コリンは一瞬にして頭が真っ白になり、言葉が耳に入ってきてから理解に変わるまでに間があった。
——毒? フェルナンドと十五代目?
「え、それは知らない」
コリンの驚きが声に乗り、ソフィーの表情が引き締まる。
「やっぱり……別の勢力がいるのね」
彼女の言葉を聞いた瞬間、コリンの思考が一気に回り始めた。フェルナンドと十五代目コルヴァン。この二人を同時に消そうとしたなら明確な意図がある。フェルナンドだけならまだ分かるが、十五代目まで狙われたとなると話は変わる。あの男は繋ぐ側だ、エドガーと外の勢力を結びつける中継点。そこを潰そうとしたということは、自分たちの存在を知られたくない存在、つまり裏で糸を引いている連中の仕業か。
コリンの頭の中でいくつかの点が一気に結びついていく。ランデヴェネックの拠点、不自然に整った補給、エドガーの戦力の増え方とあの書類。
——旧ブルボン派か。名前こそ表に出ていないが、あの連中ならやる。いや、やっている。自分たちがトルチュ島に着いた時から、ずっとだ。エドガーの背後で金と情報を流し続けていた。今回の毒殺未遂もおそらく黒。コリンが確信に近い形で思考を収束させた時、記憶が引っかかった。書類、リー・ウェンの筆跡。雑に写された紙の束の中にあったはずだ。旧ブルボン派というぼんやりとした単語ではなく、はっきりと書かれていた記述。
コリンは腕を組んで俯いた。考えはすでにまとまっている。なら、ここで全部を言う必要はない。この人なら辿り着く、自力で辿り着いた方がいい。
「もしかしたら、その書類の中にヒントがあるかも。頑張って読んでみて」
ただの助言の形をしていたが、実際にはかなり大きな導線だった。コリンは敢えてそこまでしか言わない。ソフィーはしっかりと頷いた。
「うん、そうする」
彼女の返事を聞いた瞬間、コリンの肩から力が抜けた。大丈夫だ、この人はちゃんと届くところまで行く。全部は託せないが、全部を一人で抱える必要も既にないのかもしれない。コリンが扉を押すとキィと音を立てて動く。外には陽光が待っていた。コリンは一瞬だけ足を止め、酒場の静けさを意識的に切り離すように扉を押し開ける。ひやりとした外気が頬を撫でた瞬間、コリンの視界の端に影が差し込んだ。通りの角に立っていた男と黒い馬が現れ、コリンは目を見開いた。
——あ、瑠璃色の目。
嵐の中、血と雨と火薬の匂いが混ざった甲板。両腕の感覚が曖昧で蹲っていたコリンの視界の端で、オレンジの髪と片眼鏡男の隣に立っていた、あの長身で剣みたいな男——グウェナエルが立派な体躯の黒馬と共にいる。
——あの時の、あいつか。
グウェナエルは二人の姿を見て足を止め、目を細めた。
「……こんな所で何をしてる」
グウェナエルの低く鋭い声にコリンは一瞬だけ呼吸を整え、すぐにいつもの笑みを貼り付ける。
「おや、偶然だね。あんたこそ、海軍の制服でこんな裏通りとは」
「お前に言われる筋合いはない」
「そりゃそうだよ。でも、妙な因縁ってやつはあるもんでしょ」
グウェナエルと視線がぶつかる。この距離、この温度、この視線、近い。コリンは息を詰めた。
……やっぱり、この人だ。
切り捨てる側の目。あの時と同じものが今、目の前にある。
——この人、来るんだ。彼女の監視かなぁ。
ソフィーが二人を交互に見ながら一歩前に出た。
「二人とも、今はやめて」
グウェナエルは眉を寄せ、コリンは片手を上げて肩をすくめるが、互いの視線はまだ解けていない。
——危ないな。この人、理屈じゃなく感情で斬るタイプだ。しかも……なんかこれ、敵意というよりもっと個人的で、粘つくような……え、なに。ちょっと待って。これ、ぼく今、普通に斬られそうじゃない?
嫌な予感がコリンの背筋を走っていると、ソフィーがコリンへと向き直る。
「コリン。この情報、本当に私がもらっていいのね」
コリンは一瞬だけ意識を戻し、軽く肩をすくめた。
「うん。このまま持ち帰ったってしょうがないしね。この際、ソフィーに全部あげるよ」
さっきまでの緊張が嘘みたいに声は軽く出た。
——大丈夫。この人相手なら変に構える必要はない。
「コリンはこれからどうするの?」
「ぼくは早馬で帰るとするよ」
「ほう、貴様も馬に乗れるのか」
グウェナエルの声が彼らの横から差し込んできた。コリンは笑みを崩さずチラリとグウェナエルに目を向ける。
「まあね。こう見えて器用だからさ」
……うわあ、さっきより近い。さっきより露骨。やっぱこれ、ただの警戒じゃないよ。なにこの妙な圧。
コリンの背中にじわりと汗が滲んできた。踏み込まない、刺激しない、距離を保つ。ここは、さっさと抜けるのが正解。コリンは片手をひらりと振った。
「それじゃ、ぼくは失礼するよ。みんな気をつけてね」
コリンはそう言い残して、すぐに足を動かした。グウェナエルの視線が背中に刺さっている。
——いやこれマジで危ないって。あの人、理由なく斬るタイプじゃないけど、理由があったら躊躇しないタイプだ。
コリンは歩幅を少しだけ速めると角を曲がった。建物の影に入った瞬間、コリンは胸を撫で下ろす。
「……よし。とりあえず逃げたフリして裏から戻ろう」
コリンは視線を巡らせた。酒場の裏口の位置を思い出している時、彼の背後から蹄の音が一度、二度、三度と響いて徐々に遠ざかっていく。
「……行った。それにしても、マクシミリアンの代わりにあいつが来るなんて。なんだろ、監視にしては険悪ムードでもないし……彼女、和解できたのかな。まあいい、こっちも動こう」
コリンは口元を歪めて路地を進み、酒場の裏口から滑り込むように中へ戻ると外の喧騒が嘘みたいに遠のいた。扉一枚隔てただけなのに空気の温度が違う。厨房の奥からティエンの声が飛んでくる。
「お疲れ」
ティエンが厨房に現れ、コリンは肩の力を抜きながら調理台に手をつく。
「うまくいったみたいだな」
「まあね。ちゃんと来てくれたし、ちゃんと渡せた」
コリンは床に目を落とした。胸の奥ではまだ鼓動が少しだけ早い。ちゃんと話してくれた。あの人は、まだ“あのまま”だった。それが何よりも大きい。コリンは息を吐くとティエンを見上げた。
「じゃあ……戻ろうか。ここにもう用はない」
ティエンは無言で頷き、手際よく荷物をまとめ始めた。コリンもカウンターの奥に回り込んで床下の板を外すと中に隠してあった革袋を引き上げ、慣れた手つきで中身を確認した。錬金術用の簡易セット、試薬、小瓶、火打石。そして、白煙爆弾。一つ二つと軽く重さを確かめる。
「全部ある」
「当たり前だろ。お前が隠したんだから」
「そっか」
コリンは笑いながら袋を肩に掛けた。二人が裏口を開けると昼の光が差し込み、先ほどとは違う少しだけ軽い風が裾を揺らした。二人が通りを抜け、角を曲がると繋いである白馬が鼻を鳴らす。
「待たせたね」
コリンが馬の首筋を軽く撫でると、馬は大人しく頭を下げた。ティエンが先に鐙に足をかけ、軽やかに跨るとコリンに手を差し出す。
「乗れ」
「はいはい」
コリンは軽口を返しながらティエンの手を借りて後ろに飛び乗り、体勢を整えて袋の位置を調整し、ティエンの背にしがみついた。
「港まで飛ばすぞ」
「了解」
ティエンの手綱が鳴った瞬間、馬は地面を蹴った。蹄の音が石畳に響き、風が一気に流れ込んで街並みが後ろへと流れていく。コリンは一度だけ振り返った。酒場のある方角、もう姿は見えない。
——大丈夫。あとは任せたよ。
「行こう」
コリンがティエンの背に頬をつけると、白馬はコリンの声に応えるように速度を上げた。
白馬が港に辿り着いた時、辺りには奇妙な静けさがあった。潮の匂いだけが濃く、波はいつも通り打ち寄せて今日も人の気配がない。ティエンが周囲を見渡して眉を顰めるとコリンを振り返った。
「あのさ、本当に戻るつもり? 戻ったら殴られるだろうなぁ」
「うん。だって、逃げないって決めたから」
コリンがニヤリと笑うと風が吹き抜けた。自分でも分かるくらい、少しだけ意地になっている。ソフィーとの会話がまだ胸の奥で熱を持っていた。
——守られるだけじゃない。何もできないままじゃない。ぼくだって。
コリンはティエンの背を叩きながら言う。
「まあ、殴られたら殴られたでいいよ」
「よくねえだろ。顔はやめろって言っとけ」
「交渉する余裕あったらね」
二人のやり取りを影の中からじっと見つめている者がいた。ダミアンは粗末な外套を羽織って庶民に紛れる姿で酒場の建物の陰に身を潜め、呼吸すら抑えて視線だけを動かしている。
——似ている。兄たちから聞かされていたブルボン本家の特徴。けど、少年の方は知らない。
ダミアンが目を細めた時、彼の背後から気の抜けた声が飛んだ。
「おーい、見てみろ。なんか軍人さんからお知らせ来てるぞ」
ダミアンは一瞬だけ港の二人を横目で確認し、まだここにいることを確認すると音もなく身を翻して人の集まる方へ向かった。酒場の外壁の一角、数人が輪を作って何かを見上げている。ダミアンが人々の隙間から覗き込むと貼り付けられた数枚の紙、指名手配書が目に入った。
「海賊か……みんな恐ろしいな」
「これ、なんて読むんだ?」
「五鬼衆だってさ。東洋の化け物に因んだ名前らしい」
ざわつく声の中でダミアンの視界が一枚の紙に目を留めた。描かれた似顔絵、ジャスパーだ。間違いない。ダラス家が名を出す時、必ず空気が変わる男で恨みの対象。兄たちの表情を思い出せば十分すぎるほど理解できた。ダミアンの背筋に冷たいものが走り、もう一枚の少年の似顔絵も発見した。ほんの少し前まで港にいた、あの少年。
「……っ」
ダミアンは無意識に一歩下がると人混みから抜け、視線を切って呼吸を整えながら元の位置へ戻った。——まだいる。二人は変わらず何かを話している、何も知らないような顔で。ダミアンの喉がわずかに鳴った。
「……元フランソワ海賊団」
あの二人がなぜこの地にいるのか。知りたい、海賊内部で何が起きているのか。その先にマクシムを救える道があるのか確かめたい。命令、監視、報告。そんなものはもう頭にない。ダミアンの足が陰の中から一歩踏み出し、光の中へ進んでいく。ダミアンはそろりそろりと白馬に近づくと途端に細くなった気道から声を漏らした。
「あの……」
ティエンとコリンが同時に顔を上げて馬上で身構えた。粗末な服を纏った男、年の頃は若いが立ち方が妙に静かだった。コリンがダミアンを捉えた瞬間、記憶が引きずり出される。
「……あ」
サン・マロの鍛冶屋。市場へ向かう途中、この男が現れてニヤリと笑った。
「海軍が来る」
あの時の空気、逃げ場のなさ。 一瞬で蘇ってコリンの瞳がハッキリと見開かれた。
「——あいつだ!! たしか、ダラス家の三男だ!」
コリンが指を突きつけて声を張るとティエンの思考が一瞬止まる。
「……は?」
彼の中で理解が追いつくより先に、ダミアンはコリンの言葉の意味を即座に読み取った。
——ピエールと誤認された。まずい。
ダミアンが踵を返して駆け出し、コリンの声が今度は鋭く響く。
「逃げた! あいつ、捕まえて! 今すぐ!!」
彼の切羽詰まった声音に追い立てられるように、ティエンは手綱を引くと白馬が地面を蹴って爆発的に加速した。石畳を叩く蹄の音が街中に響き渡る。ダミアンが路地へ滑り込んで人混みを縫い、障害物を避けて最短で逃げていく。彼の背後から迫る、力強い異質な音。馬が距離を詰めてくる。
「左!」
コリンが叫ぶとティエンが即座に応じて狭い通りへ曲がる。馬が荷車を蹴散らすように通り抜け、人々の悲鳴が上がった。
「なんだあいつら!?」
「馬だぞ、避けろ!!」
混乱の中、ダミアンは一瞬だけ足を緩めた瞬間、横へ跳んで低い壁を蹴り、体勢を変えて更に奥の路地へ駆けていく。
「見失わないで!」
「わかってる、あと少し!」
ティエンの声が焦りで荒くなる。ダミアンは高い塀と建物の外壁を前に急停止した。行き止まりだ。普通なら終わりだが、ダミアンは助走をつけて飛ぶと塀を蹴って身体が浮き、今度は建物の外壁を蹴ると指先が縁を掴んで軽々と塀を越えた。
「は?」
コリンの口から間の抜けた声が漏れ、馬が塀を前に止まる。ティエンも目を見開いて塀を見上げた。薄暗い路地に風が抜けていく。
「……逃げられた」
ティエンが低く呟き、コリンは塀を見上げたまま胸を騒つかせた。
「……あいつ。やっぱり、ただの人間じゃない」
コリンの握っていた拳に力が入るが、追う手段はもうなく息を吐いた。
「……戻ろう」
ティエンが手綱を引くと白馬は鼻を荒く鳴らしながら塀に背を向けて裏路地を闊歩していった。
塀を越えた先、ダミアンは一度だけ足を止めた。呼吸は乱れていない、心拍もすでに落ち着いている。ダミアンが表通りへ出ると人の流れに紛れ、足並みを合わせた。先ほどまでの追跡劇などまるで存在しなかったかのように。だが、思考だけはグルグルと動き続けていた。
港にいた男、兄たちが言っていた「ブルボンの血を引く長男」に似ているが、確証はない。それに五鬼衆の一人と共にいた。あり得るのか、王家の血を引く者があのような人間と行動しているなど。ダミアンは歩きながら淡々と結論を組み立てている時、視界の端にまた紙が貼られているのが映った。五鬼衆の指名手配書、先ほど見たものと同じ。
ダミアンは通り過ぎざまに一枚を指先で端を剥がして折り畳み、懐へ滑り込ませるとまた一枚、また一枚と懐に紛れ込ませていく。これがあれば十分だ、兄たちの機嫌を損ねることはない。特にジャスパー、彼の顔が世間に知れ渡ったという事実だけで意味がある。国家が認識する“敵”。つまり、国家が処理する対象。ダミアンの脳裏に兄たちの顔が浮かぶ。穏やかな微笑だが、その裏にあるものは冷たい。
——ああ、そうだ。兄上ならこう仰る。
我々が手を下す必要はない。正義が勝手に処理してくれる、と優雅に愉しげに、高みから見下ろすように言うだろう。ダミアンは指先に力を込めると懐の中の紙が軋んだ。
——それでいいのかな。
一瞬だけ思考がよぎるが、すぐに打ち消す。それが、これまでのやり方だ。それが正しい。それ以上、考える必要はない……はずだった。ダミアンの足取りが次第に重くなって時折靴底が擦れるもダミアンが路地裏へと入ると光が途切れ、影が濃くなって音もなく消えていった。




