第四章③ マクシム
キール通り、マクシミリアン隊の宿舎。外では雨が激しさを増していた。窓を叩く音が規則的に響く。風に煽られた雨粒が時折強く打ちつけるが、室内は温かかい。夕食の匂いと穏やかな灯りいつも通りの光景の中で、マクシムは向かいに座るシャルルを見て何気ない調子を装っていた。
「……それにしても、一昨日は珍しかったですね。あなたがソフィーと話していたところ」
マクシムの鼓動がわずかに速い。
——何を話していた? どこで? どれくらい? ……何を、言った?
シャルルは気にした様子もなく顔を上げた。片眼鏡を失った彼の素顔はどこか柔らかい印象を帯びている。
「ああ、ちょっとお互いに誤解があってね。その話をしていただけですよ」
——誤解? なんの? 誰に対しての?
マクシムは手を止めず食事を続けるが、味はしていなかった。その時、彼の隣に座るリラがにこやかに口を挟む。
「それにしても、初めてじゃない? 二人で食べてたの」
マクシムの手がほんの一瞬だけ止まるもシャルルは苦笑した。
「いやあ……でも、グウェンは感心しないでしょうね」
シャルルは視線を横にやると、少し離れたテーブルでグウェナエルはサミュエルと戦闘談義を交わしていた。相変わらず無表情で淡々と話している。マクシムは思わず眉を顰めた。
「……どういうことですか?」
シャルルは少しだけ楽しげに言う。
「隊長、気づいてなかったんですか? グウェンはソフィーのこと好きですよ」
——。マクシムの耳から音が消え、外の雨音すら遠くなった。
「……え?」
マクシムの顔が宇宙の真理に触れた猫のようになり、脳内が急速に白紙と化すもシャルルは止まらない。
「あいつ、分かりやすいですよ。ソフィーが他の男といると露骨に不機嫌になりますから。いつ斬られるか、こっちはヒヤヒヤです」
……グウェナエルが? あの、グウェナエルが?
普段の光景がマクシムの頭の中で急速に再生される。グウェナエルがソフィーに対するあの態度、警戒心、棘のある言葉。距離の取り方。あれで——好意? 一瞬の沈黙のあとマクシムの胸の奥でマグマが湧き上がる。
——よりによって、あいつが?
マクシムは無意識にグウェナエルへ目を向けた。何も知らず、話し続けている彼の背中がやけに気に障る。マクシムのフォークを持つ手に筋が浮かんだのをリラが気づいた。
「隊長、どうかしました?」
「なんでもないです」
マクシムは即座に顔を上げた。やけに明瞭とした彼の声にリラが目を瞬かせる。
「そ、そう……?」
マクシムはすぐに視線を落として食事を再開するも、やはり味がしなかった。外では嵐が強まり、彼の内側でも別の嵐で吹き荒れていた時、シャルルの隣に座っていたダヴィットがフォークを持ったまま少しだけ躊躇うように言い淀む。
「まあその、恋愛自体は軍内でも禁止じゃないけどさ……貴族社会的に見たら、どうなんだ? 二人の関係って」
恐る恐ると云った声音だ。平民出身だが、シャネル家で過ごしてきた彼なりに分かっているからこその問い。その瞬間、このテーブルだけ音が消えて雨音がやけに大きく聞こえた。やがてシャルルが神妙な面持ちで息を吐いた。
「……まあ、血筋的にも問題だろうなあ」
リラが一瞬迷ってから声を落としてシャルルに尋ねる。
「本人から、少しだけ聞いたことあるけど、彼ってイタリアの地方貴族出身でしょ?」
「ああ。ここじゃ、身元不明の異邦人だけどね。対して、ソフィーは軍医輩出家系の令嬢さんだ。世間的には厳しいだろうなあ」
シャルルの言葉にマクシムは思わず眉を顰めた。
——いや、ソフィーは……。
恐らく自分のものとは違う父、そして同じ母の下に産まれた。マクシムの脳裏には、十九年前に叔父夫婦と共に対面したソフィーがチラチラと瞬いていたが、振り払うように顔を上げるとシャルルが浮かない顔で口をへの字に曲げていた。珍しい、この男がこんな表情をするなんて。
「……ほんとに、それだけですか?」
マクシムが問うとシャルルは周囲を見渡してから声を格段に落とした。
「これ、本人には絶対に言わないでくださいね。本人曰く——自分は庶子なんだって。腹違いで、家の中じゃ次男に当たるらしい」
空気が凍り、マクシムは息を吸うことも忘れていた。
——庶子……次男……。
さっきまでの話が全部別の意味を帯びる。血筋、立場、距離が急に現実として立ち上がる。リラも言葉を失い、ダヴィットは視線を落として息を吐いた。
夕食後、マクシムは執務室に戻っていた。外ではまだ雨が降り続き、窓を打つ音が一定のリズムで響く。机の上には書類の山、一枚一枚に集中することすらできない。
……グウェナエル。あいつが……ソフィーを?
マクシムの思考がそこから離れない。あり得ないと思ったが、あり得ないと断じきれない何かが胸に引っかかっている。
——血筋、庶子、次男……呪いだろ、こんなの。
マクシムが心の中で吐き捨てると紙に視線を落とした。文字すら頭に入ってこない。マクシムは縋るように視線を泳がせると、机の隅に追いやられていた例の手紙が目に入った。
……この手紙。差出人不明の怪文書のような手紙。自分とソフィーのことを知っている、誰か。
「……誰だよ、これ」
マクシムは苛立ちを含ませながら呟いた。ジョルジュに何度聞いても返ってくる答えは同じ、「なんか隊長を応援しているって人が……」だ。嘘をついている様子はなかった。だから余計に分からない。マクシムはペンを走らせながら思考を巡らせる。自分とソフィーを知っている外部の人間は限られている。
……五鬼衆。
マクシムの脳裏にあの五人組の輪郭がぼんやりと浮かぶ。彼らならやる。暗躍する側の人間だ。情報を握り、動く者たち。だが——本当に、行っていいのか? マクシムの中に迷いが生まれ、ソフィーの顔が浮かぶ。
……相談するか? いや、あの子なら絶対に行く。自分の目で確かめるために自分の足で危険の中へ。……危うい。だからこそ、守りたい。だが、今は動けない。またいつ海賊が来るか分からない。指揮権のある自分が離れるわけにはいかない。脱走の名人の手腕も、こればかりは役に立たない。……どうすればいい。
マクシムの思考が巡り巡って絡まった瞬間、ポタリとインクが紙に落ちて黒い染みがじわりと広がった。
「……っ」
マクシムは思わず紙を掴んでグシャリと丸めて放り投げると、紙のボールが誰かの掌に吸い込まれた。
「落ち着きなさい」
リラは紙を片手で受け止めてマクシムを振り返った。マクシムは肩を落としてしょげる。
「……すみません」
マクシムは羽ペンに手を伸ばすとリラは呆れたように口を開く。
「マクシミリアン」
珍しく名前で呼ばれたマクシムが顔を上げると、リラは息を吐いた。
「ソフィーのこと、好きなんでしょ」
マクシムの指から羽ペンが暴れ散らしてポロッと落ちた。
「……はあ!?」
マクシムの声が裏返って執務室に木霊する。
——いやいやいやいやいやいや違う、違う、違う。おれ、兄だけど?? 禁忌だからな?? ……いや言えない! こんな時に、この誤解をどう解けばいい?? 今ここで真実を言えたらどれだけ楽か……!
マクシムは心の中で叫ぶも口を一文字に結んで目を逸らす。リラは彼をどう受け取ったのか、肩をすくめる。
「まあ、大人気ないですよ。素直にならないと」
——ちがあああああう!!
マクシムは心の中で膝から崩れ落ちた。彼が声が溢れないよう歯軋りしていると、リラはマクシムの側によって続ける。
「以前も言いましたけど、この部隊にはみんなそれぞれ事情があって集まってるんです。グウェナエルも居場所を作らざるを得なかった人間なんでしょう。だから戦場に行く。あなたを守ることが使命だと、信じてやまない。けど……それでも、この宿舎にいる間は自由に、そのままでいいって思ってくれたらいいなって、私は思うの」
リラがくすりと笑い、マクシムは目をぱちくりさせたあと掠れた声を発する、
「……それは僕も同じです。だからこそ、この部隊を守るのが僕の役目でもあります。居場所がないなら——居場所を作る。そういえば、……フランソワも同じでしたね」
懐かしい。あの男は自分とルキフェルに笑いかけてくれた。あの笑顔が居場所みたいなものだった。フランソワはゼフィランサスの船を降りた後も、ルキフェルに居場所を作ってきたんだろう。やがて守る対象が増えて、規模が大きくなって、そうして海賊団へと積み上がった。それに、“自由”という言葉にマクシムの胸の奥に苦いものが広がる。リラは少しだけ肩をすくめた。
「まあ、あなたは気に入らないかもしれませんけど……グウェナエルがソフィーを好きでいても、いいじゃないですか? 軍規則とか身分とか血筋とか、そういうのは置いといて。ま、ソフィーがどう思っているかは知りませんけど。みんなが自然と息をしてくれれば、それでいいなって」
マクシムは羽ペンに視線を落とした。
……グウェナエル、剣のような男。忠義に燃える男。任務のためなら躊躇わない、自分を守るためなら仲間でも容赦しない。……ソフィーさえも、あの嵐の日に。
マクシムの胸の奥に棘が刺さる。赦せないが同時に責められない。それもまた事実だった。やがて、ふと別の感情が浮かんで瞳が揺れた。
……ソフィーの相手としては、悪くない。……悔しいな。いや、待て。ソフィーはどう思っている? ……たぶん、何も思ってない。あの子は誰に対してもフラットだ。良くも悪くも距離を持っている。
マクシムは思考を断ち切るように机の隅へ視線を移した。追いやっていた手紙が手を振っているように少し揺れている。
「……居場所を作る」
——部下たちの結束を高めるのも部隊長としての役目だ。ソフィーはいく、自分はいけない。なら——グウェナエルを向かわせよう。迷いはない、理由は揃っている。彼は腕も立つし任務に忠実だ。自分の命令に背いたことはない。それに……あの男は不器用で孤高で、ソフィーに手を出さない。一線を越えない……はず。決まりだ。
マクシムは深いため息を吐くと顔を上げてリラに目を向ける。
「ライラック。ソフィーとグウェナエルを呼んでくれませんか? 話があります」
リラはじっと彼を見つめると少しだけ呆れたように言う。
「……私情を持ち込むなって説教?」
「違います! 任務があるんです!!」
マクシムは顔を真っ赤にして立ち上がり、リラは眉を上げるも苦笑しながら前髪を払う。
「はいはい。分かりましたよ、隊長」
そう言ってリラは踵を返した。執務室の扉がバタンと閉じると雨音だけが残り、マクシムは一人机に向かって手紙へ手を伸ばした。
「……これでいい」
そう思ったが、胸の奥に残るものは消えなかった。嵐が低く唸るように軋んでいる。窓を叩きつける雨粒は容赦なく、時折風が宿舎の隙間を抉るように吹き抜けた。まるで外の世界そのものが荒れ狂っているかのよう。マクシムは手紙を見つめていた。差出人不明、軍の消印なし、正規の経路を通っていない。それだけでも十分に異常だが……何かが引っかかる。マクシムの眉間にわずかな皺が寄る。紙質、筆跡、文面。どれも決定打にはならないが、どこか見られている側の匂いがする。
「……誰なんだろう」
扉の向こうから控えめなノックがし、マクシムは手紙を閉じる。
「入れ」
扉が開き、ソフィーとグウェナエルが現れた。二人の姿を確認した瞬間、マクシムは無意識に背筋を伸ばす。
……落ち着け。
マクシムは落ち着き払った声で言葉を整える。
「お二人にはライラックに頼んで来てもらいました。話があります」
嵐の音が室内の沈黙を際立たせ、グウェナエルがすっとソフィーの横に立った。
……近いな。
マクシムの思考が一瞬逸れるもすぐに切り捨てた時、グウェナエルが重々しく口を開いた。
「隊長。俺とこんな奴を一緒にして、どういうつもりですか?」
グウェナエルの鋭い声に空気が張り、ソフィーの肩が強張る。マクシムはソフィーの様子を視界の端で捉えながら淡々と返す。
「他でもない貴方にしか頼めないことがあるんですよ」
グウェナエルが腕を組んで唸る。
「要件はさっさと伝えてください。俺にも選択権はあるでしょう?」
……あると思ってるのか。
マクシムは悪態を吐きそうになったが堪えながら手紙を広げる。
「一昨日、ソフィーが倒れた日。僕と彼女宛に、一通の手紙が届いていました」
「私と隊長に……?」
ソフィーの声が揺れ、マクシムは頷く。
「差出人は不明。軍の消印もない。正規のルートではありません」
「で、その内容は?」
グウェナエルの視線が鋭くなる。刃のような問いにマクシムは一瞬で思考を整理して手紙を差し出した。
「近日中に指定された酒場に赴け——というものです」
グウェナエルが手紙を受け取り、目を走らせる。
「……ル・ルレック=ケリュオン方面か」
「酒場は海沿いです。距離はそれほどでもない」
マクシムは説明しながら二人の反応を観察した。ソフィーは不安と興味が入り混じった目、グウェナエルは——警戒。……予想通りだな。グウェナエルが手紙から視線を上げる。
「だから、二人でそこへ行くために俺の馬を貸せと?」
皮肉だが、半分は当たりだ。マクシムはわずかに口元を緩める。
「正確には、貴方の馬ではないんですけどね」
——リー・ウェンの愛馬な。
マクシムのほんの小さな揺さぶりにグウェナエルの眉が動く。それ以上は反応しない。
……よし、流れは掴んだ。
マクシムは顔を上げてはっきりと言い切る。
「僕は行けません。あなた方に行ってもらいます」
「は?」
「は?」
二人の声が重なって一瞬だけ場の緊張が奇妙に歪むが、マクシムは平静を装って言葉を紡いでいく。
「僕は脱走の名人ですけど、海賊がまた襲撃に来た際の緊急時のために部隊を指揮しなくてはいけない。だから、動けないんです」
理屈は通っている。事実だが……それだけじゃない。マクシムの胸の奥で別の理由が蠢いて言葉に棘が出る。
「なので軍籍がないグウェナエルと、少しの不在でも怪しまれないソフィーには、明日の朝に向かってもらいます」
グウェナエルが即座に反応する。
「“軍籍がない”は、俺にとっては悪口だからな」
「事実です」
マクシムが間髪入れず返す。
「それに貴方にはソフィーの用心棒になってもらいたい。手紙にはソフィーと二人きりと指定があるが、グウェナエルには近くで見張っていてもらいます」
「しかしだな……」
グウェナエルが不満げに眉を顰めてソフィーをチラ見する。ほんのわずかに躊躇。……やはりな。マクシムはそこで一歩踏み込んだ。
「グウェナエル。僕は彼女を信じています。これ僕からの命令です。選択権などないのですよ」
嵐の音が室内に響き、やがてグウェナエルの拳が握られる。
「……拝命しました」
絞り出すような彼の声に、マクシムは息を吐いた。
……通った。
ソフィーが不安そうに二人を見比べ、何かを言いかけてやめた。
「以上です。よろしくお願いします」
マクシムが終わりの合図を告げると、二人は小さく頷いて踵を返して執務室を出ていった。扉が閉じられると、マクシムは肩の力が抜けたように椅子へ沈んで顔を覆った。言葉にならない。喉の奥で何かが引っかかるも掠れた声となって口から漏れる。
「……やっぱ不安だよぉ」
情けない声、誰にも聞かれない場所でしか出せない泣きの音を嵐の音が掻き消した。
一方、指定された例の酒場。海沿いに建つ店は嵐の影響か、人の気配がほとんどなかった。外では風が唸り、雨が窓を叩きつけている。軒先のランタンが不規則に揺れ、明かりが室内に影を落としていた。
薄暗い店内の隅、床に直接敷かれた粗い布の上でコリンとティエンは背中合わせに転がるようにして眠っていた。一枚の毛布を雑に二人で分け合っている。コリンは膝を軽く抱え込むように丸まり、顔半分を布に埋めている。ティエンは片腕を枕代わりにして横になり、同じ毛布を肩まで引き寄せている。
二人の背中は、互いを支え合うように触れ合っていた。あるいは無意識に距離を保つようにか、どちらとも取れる不思議な体勢のまま、規則正しい寝息だけが店内に溶けていく。嵐の音がすぐ外で荒れ狂っているというのに、目を覚ます気配はまるでない。
すぐそばの机にはフラスコや道具が無造作に置かれ、机の隅にはあの調査報告書が鎮座していた。
来るかどうかも分からない相手を待ちながら、二人は泥のように眠っていた。




