第三章③ コリン
ティエンが酒場に戻ってくると店の奥の階段がギシと鳴った。コリンがのそのそと降りてくる。寝癖はそのまま、目は半分閉じている。完全に寝起きの顔。ティエンは店内に現れたコリンをじっと見つめた。どこにでもいる、ただの少年に見えるのに、ぼんやりした視線の奥だけが妙に鋭い。寝ぼけているくせに油断ならない目つき、ちぐはぐな印象だった。
「……起きたか」
ティエンが声をかけるとコリンは目を擦りながら唸った。
「飯食べてないの?」
「……つくれない。うち、いつも料理人がいたから」
コリンの脳裏に浮かぶのは一つの光景。火の匂い、包丁の音。あの雑なようで妙に整っていた日常とマテオの横顔だ。ティエンはコリンの沈黙を深くは追わず荷物を机の上に置きながら言う。
「おけ、じゃあ作ってくるわ。店主には今日も賄賂渡しとく」
ティエンが店の奥へ引っ込んでいった。やがて、火を起こす音が奥から微かに聞こえてくる。コリンはカウンター席に腰を下ろした。木の感触が少しだけ冷たい。飯を待つ間、コリンは肘をついて店内を眺めていた。視界はハッキリしているのに頭の中だけがどこか遠い。店の奥からはティエンが何かを探す音と、時折店主らしき男の気の抜けた返事が聞こえてくる。コリンの鼻先をくすぐるのは薄いスープの匂いと潮気を含んだ木の匂い。カウンターに頬杖をつきながら、コリンはふと遠い昔を思い出していった。
——アイルランドの山岳地帯。母と二人で暮らしていた。
物心ついた頃から指先に炎が灯った。最初はただ綺麗だと思っていた。暗い部屋の中で、自分の指先だけが赤く灯るのを見て面白がって笑った記憶があるが、母は笑わなかった。驚きも怯えもしなかった。少しだけ悲しそうな顔をして、優しく「コリン」と呼んだ。
賢い人で静かで穏やかで、神秘めいたものを好む人だった。母は山の草花や石の並びに意味を見出し、祈りと学びを同じように大切にしるような人だった。彼女の周囲には、いつもどこか不思議な空気が漂っていたが、村の人間たちは違う。悪魔の子と呼ばれたのは一度や二度ではない。山での暮らしが立ち行かなくなった時、母は自分の手を引いて村を出た。山が駄目なら海へ行こうと言ってくれたけれど、その旅も長くは続かなかった。
母は途中で息倒れた。道の脇、草の匂い、空の色。
あの日の光景だけは今も妙に鮮明だ。
それからはずっと一人。街から街へ、海辺の街を転々としながら腹が減れば指先の炎を使った。魔術だの奇跡だの、それらしい顔をして見せれば時々小銭が落ちる。子どもたちは喜んで目を輝かせて近寄ってくるが、大人は違う。最後には必ず気味の悪いものを見る目をした。
そうして流れ着いたのが、コークだった。コークでもやはり同じだ。気味悪がられ、避けられ、追い払われたけれど、そこには一人だけ自分を面白がる老人がいた。
彼は発明家で変わり者で、孤独で、部屋の中にはいつも奇妙な仕掛けや用途の分からない部品や、小さな芸術品のような機械が転がっていた。
あの老人は自分の炎を見ても悪魔とは言わなかった代わりに「便利だな」と言ってくれた。自分は老人の元で物作りを覚えた。火の扱い方、金属の癖、薬品の匂い、仕掛けの組み方。誰かと一緒に何かを作る時間は思っていたよりも温かかったが、その幸せも長くは続かない。
ある日、老人は死んだ。ひとり、墓石の中に閉じ込められて。自分はその中に入れなかった。教会も墓地も、炎を出す悪魔の子には相応しくないと言われたから。結局また街角で炎を出して小銭を稼ぐ日々に戻った。子どもたちは寄ってくるが、大人たちは怒鳴る。
「悪魔の子め」
「この街を穢すな、恐ろしい」
あの日もそうだった。広場の真ん中、芸を見ていた子どもたちが大人たちに引き剥がされるように連れて行かれて、自分だけが取り残された。誰も味方なんてしないと思っていた時、あの人たちは来た。
金貨をくれた、あの大きな男、フランソワ。
彼は何の躊躇いもなく「船に乗るか」と言った。ジャスパー、マテオ、ルキフェル。不思議だった、彼らの言葉がわかったことも驚きだったけれど、それ以上に不思議だったのは怖くなかったことだ。粗野で変で、警戒心もあって、まともな大人たちには見えなかったのにどこか安心した。
フランソワは自分を悪魔の子だと言わない、マテオは自分の義手を受け取ってくれた。ジャスパーは警戒しながらも目を逸らさず、ルキフェルは自分に謝った。決めるのはお前だと、酷いことを言ったなと。
あの時の衝撃は今思い返しても胸の奥に残っている。誰も自分に謝らなかった。誰も、自分に選ばせなかった。ルキフェルは自分と同じだと言った。この顔のせいで怖がられる、酷いことを言う奴がいたら俺が守る、と。
あの日、ランプの光の中で差し出されたものは手じゃない、居場所だった。
だから、自分は抱きついた。言葉より先に。
コリンは小さく息を吐いた。
「……ぼく、何もできないなあ」
ぽつりと漏れた声は思っていたより弱かった。物作りならできた。雑用だってしてきた。誰かの義手を作って仕掛けを組んで、船の中で必要なものを手伝って、そういう意味では役に立ってきたはずだったが、日常のことになると、からっきしだった。飯も作れない。泊まる場所一つ、自分一人では整えられない。戦闘になれば、いつも誰かが前に出て守られてばかりだった。剣を取って真正面から戦った回数なんて片手で足りるほどだ。今だってそう、仲間と離れて動いているつもりで、結局は空回りして結果的に遠回りしている。ティエンがいなければ酒場一つ確保できなかった。手紙だって届けられなかった。調査報告書すら忘れた。
——これで、もしソフィーが来なかったら。
コリンは目を落とした。手のひらは空っぽで、胸の奥だけがじわじわと冷えていく時、店の奥からティエンの声がする。
「おーい、たぶん食えそうなもんできるぞー」
気の抜けた声にコリンは少しだけ顔を上げた。今はまだ何もわからない。自分が正しいのかも間違っているのかも。それでも、待つしかない。しばらくして、奥から足音が戻ってきた。
「ほい、できたぞ」
軽い声とともにティエンが皿をカウンターに置く。湯気の立つ簡素な料理だった。パンと薄いスープと焼いた肉。豪華ではないが、ちゃんと飯の形をしている。コリンが顔を上げた瞬間、ティエンが眉を顰める。
「……なんだその顔」
コリンは一瞬だけ言葉に詰まり、ティエンから目を逸らした。
「ちょっと……昔を思い出してた」
コリンの口先が曖昧に濁すと、ティエンは彼の顔をじっと見て数秒黙っていたが、ふっと息を吐いた。
「そうか」ほら、冷めるぞ」
ティエンが椅子を引いてコリンの隣に腰を下ろすとパンを手に取った。コリンも頷いてスープを口に運ぶ。温かい、味は単純だが空っぽだった腹に染みていく感覚があった。しばらく、二人の間に食べる音だけが続き、やがて静けさの中でコリンは少しだけ息を整えて切り出す。
「……ちょっと、お願いがあってさ」
ティエンはパンをかじりながらコリンに目を向けた。
「ん?」
「ぼく、ここから離れられないから。代わりに周辺を探ってほしい」
コリンがスープの表面を見つめたまま言うとティエンは一瞬だけ間を置いてから頷いた。
「いいぞ。なんなら昨日の港まで行って、ここまで往復するよ。ほら、第八のやつら、さっさと帰っちゃったし」
ティエンが肩をすくめるとコリンは横目でティエンを捉えながらスープを飲み込んだ。
「……そんな簡単に言うけど、危なくない?」
ティエンは特に気にした様子もなくスープを口に運ぶ。
「まあ、多少はな。でも、ああいうのは“慣れ”だよ。動いてる方が見えにくいし」
理屈としては正しいのかもしれない。少なくともコリンには反論できなかった。
「……そっか」
コリンが頷くと少しだけ目を泳がせてから消え入りそうな声で続ける。
「……ぼくが消えて、みんな殴られてないといいけど」
ティエンの手が一瞬だけ止まったが、すぐにまた動き出す。
「エドガーの元に集まる奴らなんて、ガキ一人見失う程度でどうこうなる連中じゃねえよ」
コリンは少しだけ目を丸くしてティエンを見据えた。
「……でも」
「でもじゃない」
ティエンが食い気味に遮ると横目でコリンを見た。
「お前がいなくなったくらいで崩れるなら最初から終わってる」
コリンは思わず口を噤んだ。ティエンはパンをスープに浸しながら適当に言う。
「それに殴られてたら、あとで笑い話にするだろ。 『お前のせいで殴られたわ』ってな」
「……それ、絶対怒られるやつじゃん」
「じゃあ、殴られないように祈っとけ」
「雑だなあ」
「そんなもんだろ」
コリンはもう一度スープを口に運んだ。さっきより少しだけ味が分かる気がする。若干臭みがある、今日は玉ねぎと根菜がメインらしい。朝食を終えるとティエンはさっさと立ち上がった。
「じゃ、行ってくるわ。周辺見てくる。港も寄るから戻るのは夕方くらいになるかも」
コリンは椅子に座ったまま、こくりと頷いた。
「うん、気をつけて」
「お前もな。変なことすんなよ」
「しないよ」
コリンが頬を膨らませるとティエンは一瞬だけ笑って店を出ていった。扉が閉まって小刻みに続く足音が遠ざかる。静寂の中、コリンはカウンター席を降りると置きっぱなしの調査報告書の束をめくった。パラパラと乾いた音が店内に響いていく。コリンは視線を落としながら紙面の内容をなぞった。彼の頭の中に浮かぶのはソフィーの顔。あの人なら動く。あの性格だ、呼び出せば必ず来る。コリンは紙をめくる手を止めた。
「……信じるしかない」
コリンが報告書をそっと閉じた時、彼の視界の端に見慣れない袋が映った。
「……ん?」
包みがカウンターの端に無造作に置かれている。さっきまでは気づかなかった。ティエンの荷物だろうか、コリンは少しだけ首を傾げて包みを手に取った。重さがある。コリンは包みの紐を解いて中を覗くと、目を丸くして思わず声が弾まんだ。
「……え、やった!」
包まれていたのは見慣れた器具たちだった。ガラスの小瓶、細い管、金属製の簡易器具、薬品の入った袋。錬金術の道具たちを前に、コリンの顔が一気に破顔する。
「本当に持ってきたんだ……」
コリンは笑いながら袋の中身を一つ一つ取り出してカウンターに並べていった。
「ソフィーが来るまでの暇つぶしだ。今度こそ、マスターするぞ」
コリンの目が輝きを増し、指先をパチンと鳴らした瞬間、赤く揺れる光が指先に宿った。指先の火を見下ろして、コリンはほんの少しだけ口元を上げた。
「……幸い、火はいつも手元にある」
静かな店内に淡い光が揺れた。
ティエンは白馬の手綱を引き、海沿いの道を駆けていた。風が頬を打ち、潮の匂いが濃くなる。やがて前方の視界が開け、昨日降り立った港が見えてくる。静かだ。いや、静かすぎた。昨日の朝、霧の中で起きた戦闘の余韻がまだこの場所に残っている。人の気配はない。荷も声も動きもない。がらんとした波止場の空間だけがあった。
「……誰もいねえな」
戦闘があった翌日だ。誰も近づきたがらないのは当然だろう。ティエンは馬を緩めて港の端へと進んだ時、遠く沿岸の向こうに影が現れた。小型のガレオンが風を受けてこちらへ向かってくる。ティエンは思わず目を細めた。旗こそ掲げられていないが、船体の色と帆の形に見覚えがある。
「……あれ、第八か」
やがて第八船団の船は速度を落として港へと滑り込んだ。軋む音とロープが投げられ、船体が岸に触れる。海賊がブレストに来ている事実など誰も見ていない。フランス海軍は、敵が外海から来るものだと思っている。ブレスト海峡の向こうから来ると信じているが違う。敵はすでに内側にいる。その盲点が、この港を空白にしていた。警戒が外へ向いているからこそ内側はがら空きだ。ティエンは息を吐いた。
「……なるほどな」
桟橋にタラップが下ろされ、二人の影が降りてきた。アーシャとフェリスを目にするとティエンは馬から降りて手を上げた。
「よう」
アーシャが桟橋を駆けてティエンに近寄るなり、声を枯らして言う。
「やばいよ。次の戦闘、十一月二十九日だって。しかも夜」
「……明日じゃねーか」
ティエンの表情が強張り、フェリスがスタスタと二人に近づきながら続ける。
「それに、エドガー海賊団の間ではコリンが消えたって話題になってる。今すぐ本人を連れ戻さないと……」
「いいや。あいつは帰らない。意地でもな。海軍の奴らに情報流さないとって顔してる」
ティエンが首を横に振ると、アーシャは言葉に詰まってから息を吐いた。
「……でしょうね」
フェリスが周囲を見回して静まり返った港を前にぽつりと呟く。
「それにしても……人、全然いないな」
ティエンは肩をすくめて海を見やる。
「昨日の夜は客たくさんいたけどな。命の危険より噂話かよ」
ティエンは皮肉とも呆れともつかない声で言うと二人に視線を戻した。
「なあ、お前らさ。ここに居てもいいんじゃない?」
アーシャが眉を上げて首を傾げる。
「どういう意味?」
「どうせランデヴェネック戻っても、足手纏いって思われるだろ」
ティエンがさらっと言い、フェリスが苦笑する。
「否定はできないな……」
ティエンは周囲を指しながら続ける。
「それに市民も港に寄りつかない。この状況なら、しばらくは空く。羽休めとけよ」
雑な言い方だったが、悪くない提案でもあった。アーシャは少しだけ考えて息を吐き、フェリスも頷く。
「……そうしますか」
「偵察も兼ねて、ここに残るのはありだ」
決まった。ティエンは二人の同意を確認するともう踵を返して白馬の手綱を取った。
「じゃ、オレは一旦戻るよ。襲撃日、伝えなくちゃ」
アーシャが手を上げる。
「気をつけてね」
「おう」
ティエンは軽やかに馬に飛び乗って手綱を引くと、白馬が風を切って駆け出した。目的地はひとつ、あの少年の元へ。ティエンの姿はあっという間に港の向こうへ消えていき、アーシャとフェリスは顔を見合わせて苦笑した。
「ちょっとカッコいいかも」
「それ、兄さんが聞いたら泡吹いて倒れそうだよ」
ティエンが酒場に戻った頃、店の中には薬品の匂いが漂っていた。コリンはカウンターに肘をついてフラスコを傾けていると、透明な液体がゆっくりと揺れて光を反射した。コリンはティエンの気配を背中で感じながら口を開く。
「おかえり」
「ただいま」
ティエンは肩で息をひとつ吐くと少しだけ間を置いてから言葉を続ける。
「第八、来てた」
「うん」
「次の襲撃、十一月二十九日。夜だ」
フラスコの中で液体が一度だけ大きく揺れ、コリンは手を止めて呟く。
「……明日か」
ティエンが壁に寄りかかる。
「アーシャとフェリスも来てた。お前が消えたって結構騒ぎになってるぞ」
「……そっか」
コリンの視線がカウンターの木目をなぞるが、すぐにフラスコに目を向けて軽く振った。
「……それも伝えなきゃね」
「“それも”ってことは他にもあるのか」
コリンは答えない代わりにカウンターの上に置かれた調査報告書へと視線を滑らせると、紙の端を指で押さえてパラと一枚めくった。
「……旧ブルボン派が関わってるなら、この戦争を近くで見てる可能性、高いよね」
コリンが顔を上げてティエンを振り返った。漆黒の瞳の奥に鋭さを宿して微笑している。
「ブレスト城の周辺。怪しい動き、絶対あると思う。探ってみてくれない?」
コリンの言い方は頼みというより、役割の割り振りに近かった。ティエンはほんの少しだけ口角を上げると壁から身を離した。
「なるほどな。城の外側で“見てるやつ”を探せ、ってわけか」
「うん。中に入るより、外の方がボロ出ると思う。観察してる側って大体油断するから」
「……お前、やっぱりそういうとこだな。いいぞ。行ってくる」
ティエンがくるりと踵を返し、扉に手をかける直前に振り返らずに聞く。
「他には?」
コリンは天井に目線を走らせてからフラスコに目を定点させて呟く、
「無事でいてくれればいいよ」
「それは保証できねえな」
ティエンはいつもの調子で返して扉を開けた。外の陽光が差し込み、彼は振り返らないまま続ける。
「ま、面白そうだから見てくるわ」
扉が閉まって次第に足音が遠ざかり、また静けさが戻った。
「……さて。時間ないし」
コリンはフラスコを持ち直すと指先から炎を灯して火力を強くする。
経年変化により黒ずんでいたような瞳が赤褐色の輝きを取り戻したと思いきや、赤と橙の光がグラデーションを描き、一気に塗り変えていった。




