第三章② ティエン
夜、酒場の中は昼間とは別の顔をしていた。客はいない、灯りも最小限。木の机の上に置かれたランプだけが揺れるように二人を照らしている。簡素な夕食だった。固いパンと薄いスープ。それでも、温かいだけで十分だ。コリンはスプーンを手にしたまま黙っていた。食べているのに味がしない。彼の向かいで、ティエンは特に気にした様子もなく食事を進めている。カウンター席には、ティエンが第八から持ち出してくれた調査報告書が影を落としていた。
「……ねえ。アランさんとは、どういう関係?」
「ん?」
コリンが尋ねるとティエンはスプーンを置いて顎に手を当てた。
「うーん……そうだな。真実の探究者ってやつ?」
「……真実、か」
曖昧で投げるようなティエンの言い方にコリンは少しだけ眉を寄せた。真実という言葉が妙に引っかかった。コリンの脳裏にいくつかの断片が浮かぶ。
ルキフェル隠されている過去、そして三年前、ベルナルドが殺された日。“なぜ”を追うはずだった。それぞれの「なぜ」を知るために、旅に出るはずだった。
コリンのスプーンを持つ手が止まり、視線が机に落ちる。なんで、どうしてこんなことになったんだろう。海軍、海賊、全部が絡まって何がどこにあるのか分からない。
「……はあ」
コリンは思わず息を漏らした。疲れていた。身体じゃない、頭の奥がじわじわと重い。コリンの様子をティエンはちらりと見て何気ない調子で言う。
「君さ、難しく考えすぎ」
「……え?」
コリンが顔を上げるとティエンは指を差した。
「顔に出てる。 『世界の全部背負ってます』みたいな顔してるぞ」
「してない」
「してる」
ティエンは肩をすくめてスープを一口飲む。
「別にさ、全部今わかんなくていいだろ。わかるやつから拾えばいい」
「……でも」
「でも、じゃない」
コリンが言いかけるも、ティエンは少し強い声で被せるように言う。
「お前、一人で抱えすぎ」
コリンが息を呑み、ティエンはコリンから少しだけ視線を逸らした。
「旅に出るつもりだったんだろ? なら、今も別に間違ってないじゃん。寄り道がちょっとデカいだけだ」
「……ちょっと?」
「ちょっとだろ。海軍と海賊と貴族が絡んでるだけだし」
「全然ちょっとじゃないよ」
コリンの口から思わずツッコミが出て、ティエンはくくっと笑って指を軽く鳴らした。
「ほら、ちゃんと喋れる元気あるじゃん」
コリンは一瞬だけ固まって視線を逸らした。
「……別に」
「別に、じゃない」
また被せるように言うとティエンは立ち上がってコリンの背後に回った瞬間、ぐしゃとコリンの頭を掴んだ。
「ちょ、なに——」
「考えすぎた時はな、一回リセットしろ」
「やめてって!」
ティエンにぐりぐりと雑に撫でられ、コリンは彼の手を掴んで抵抗するも全然効かなかった。体格差がそのまま出ている。
「はい終了」
ティエンがぱっと手を離して平然と席に戻り、コリンは髪をぐちゃぐちゃにされたまま笑った。
「……なに、それ」
ティエンはコリンを見ながらスープを口に運ぶ。
「ほら、食えよ。明日、動くんだろ」
「……うん」
コリンはスプーンを持ち直し、スープを掬った。とろみのある老緑色の液がスプーンから溢れ、ボタリボタリと時間をかけて同じ色の水面に落ちていく。コリンはスプーンの先を口に運ぶと今度はちゃんと味がした。レンズ豆のほんのりした甘さと素朴な旨味、細かく刻まれたベーコンとの調和を堪能するように静かな時間が流れた。スプーンの音とランプの揺れ、外から聞こえる波の音がぽつぽつと続き、やがてコリンは顔を上げてティエンを見つめる。
「……ねえ」
「んー?」
ティエンはパンをちぎりながら適当に返す。
「さっきの。真実の探究って何、探してるの?」
コリンの問いにティエンの手が少しだけ止まり、指先でパンを弄り始める。
「ま、今は色んなやつが頼りだしょうがない、特別に教える」
ティエンは顔を上げるとパンを皿に置いてコリンを見据えた。
「“リュミエール家謀反事件”ってのがあってさ。昔の話、リュミエールってとこの貴族が謀反の疑いで一族まとめて処刑された。で、それがどうにも怪しいんだよ。証拠が曖昧、証言も不自然。処理だけはやたら早い。典型的な“潰し方”」
ティエンの指が机をトンと叩き、コリンの眉が寄る。
「……じゃあ」
「うん。オレはあれ、“偽りの謀反事件”って呼んでる。で、真犯人探してんの。ニコラと一緒に」
コリンはニコラの名前を反芻しかけて、やめた。今はそこじゃない。
「……なんで、そこまでして?」
ティエンは少しだけ視線を逸らした。
「さあな。気に食わなかっただけかもな」
彼の言い方がどこか硬い、嘘っぽい。コリンはそれ以上踏み込まない代わりに言う。
「……大変そうだね」
「まあな。でもさ、こういうの誰かがやんないと埋もれるだろ。それが真実でも、なかったことになる」
ティエンはコリンの視線を受けて少し身を乗り出す。
「……でさ、ここからなんだけど。秘密、守れる?」
コリンの背筋がわずかに伸びた。ランプの火が揺れる。夜がほんの少し深くなった。ティエンはコリンから少しだけ視線を外し、ランプの火をぼんやりと見つめる。
「……ガキの時、変なやつに会ったんだ」
ティエンはランプの火の中から記憶を探るように語り始めた。
ブルボン家の屋敷。まだティエンが六歳の頃だ。広い庭、手入れの行き届いた芝の上、風は穏やかで時間はゆっくり流れていた。
その日、客が来た。リュミエール家。貴族同士の関係もどこか緩やかで、特にブルボン家は緩かった。応接の間で両親が笑っていたのを覚えている。
「リュミエール家ですか? ああ、お話には聞いていますよ」
リュミエール家は男子を一人連れてきていた。父親らしき男はティエンをチラリと見ては何かを子供に向けて低く呟いていたが、ティエンにとってはどうでもよかった。ティエンの視線は別のところに向いていた。屋敷の外、馬車のそばに一人の少年。赤い髪、粗末な服と左耳のイヤリング。
——ああ、同じだ。自分と同じ、“枠の中にいるやつ”。
ティエンが気づいた時には、もう動いていた。彼は屋敷を飛び出し、門を抜けていく。ティエンの後ろでは両親がリュミエール家を連れて奥へ消えていったが、そんなことはどうでもよかった。ただ、あの少年に話しかけたかった。
「……でさ。そのあと、まあ普通に遊んだんだけど」
ティエンが苦笑しながらコリンに言い聞かせる。
「ガキなりに、色々やったよ。石を投げたり、走り回ったり。何でもない時間。でも、そいつはオレのこと見抜いてたんだよな」
「……見抜く?」
「うん。退屈してるって。 “もっと好きにしていいと思うぜ”ってさ。それがさ……衝撃だったんだよ。なんか勝手に決めてたんだよな。こういう家だから、とか。こういう立場だから、とか。でも、『別にいいじゃん』って言われて……ああ、自分も好きにしていいんだって思った」
ティエンはほくそ笑みながらランプの火からコリンに目を向けた。
「で、十五過ぎたら街に出るようになった」
コリンが少しだけ目を丸くする。
「……家、抜け出したの?」
「抜け出したっていうか。普通に出た」
「普通に?」
「普通に。庶民と話すの面白くてさ。酒場行ったり、市場うろついたり、毎日違うやつがいて、毎日違う話があって。……刺激的だったよ」
ティエンは曖昧に手を振りながら続ける。
「世間じゃさ。オレのこと自由奔放とか言うらしいけど、別にそんなつもりない。オレはオレらしく過ごしてるだけだ」
——庶民と話すのが楽しい?
コリンは少し言葉を探して手を上げた。
「ちょっと待って」
ティエンがコリンをちらりと見る。
「ん?」
「……貴族なの?」
コリンがティエンを指差して怪訝な顔をすると、ティエンはこくりと頷いた。
「まあ、そうなるな」
「……ふーん」
「んで、徐々に遠出するようになって。そしたら……サン・マロでまたあいつに会ったんだよ」
昼間のサン・マロ。港は賑わっていた。船の出入り、荷の積み下ろし、怒鳴り声と笑い声が混ざる中を、まだ少し小太りだった頃のティエンが歩いていた。初めての街、知らない人間ばかり。それでも、どこか楽しくて。その時、ティエンの視界の端に引っかかるものが乱入してきた。赤い髪、くたびれた服、少しだけ伸びをしている無防備な仕草。そして、左耳のイヤリング。ティエンは思考より先に身体が動いた。
「……! ジャスパー!」
ティエンの朗らかな声が港に響き、赤髪の青年がティエンを振り返る。
「……ん?」
ジャスパーの口から間の抜けた声が出て、ティエンは駆け寄ると息を弾ませながら彼の顔を覗き込む。
「ジャスパーじゃん! ほら、覚えてる? オレのこと、ティエンって呼んでくれたじゃん」
ジャスパーはティエンをじっと見て首を傾げた。
「……誰?」
「……あー」
ティエンはジャスパーから少しだけ視線を逸らして笑いながら頬を掻いた。
「まあ……無理もないよね。子供の時のことだもん。覚えてる方が不思議か」
ジャスパーはよく分からないまま肩をすくめると軽く顎で船を指した。
「まあ、誰か知らんけど。おれ、これから仕事なんだわ。部下を見下すクソ船長の元で働いてくる」
ジャスパーの悪態を吐く様子にティエンは一瞬何か言いかけてやめた。
「……そっか」
「じゃあな」
ジャスパーは歩き出した。振り返らない彼の背中を、ティエンはしばらく見ていた。胸の奥に少しだけ残る違和感、寂しさに近いものが心の隙間を埋めていく。
「……まあ、いいか」
その日、ティエンはこの街に留まることを決めた。それから数日、港に行けば大体あいつはいた。
「ああ、あんたか。暇なら来いよ」
ジャスパーは追い払わず気まぐれに言うとサン・マロの街を案内してくれた。市場、裏路地、安い飯屋、酒場、港の端。どこもティエンにとっては新鮮だった。ジャスパーは特別なことは何も言わず当たり前のようにいた。それが妙に心地よかった。
——そんな生活が何日か続いた頃、ジャスパーがやけに興奮した様子で言った。
「聞いてくれ。おれさ、海賊に転身するわ」
ティエンが目を丸くする。
「……海賊?」
「しかも、合法的なやつ。今までの船乗り、職場が終わっててさ。生きるために働いてんのに、金もらう前に死ぬだろみたいな環境だったけど。もう、そんなの味わなくて済む!」
ジャスパーの声が弾み、言葉がどんどん早くなる。
「海賊の方が人間として見てくれるし、普通の船乗りみたいに王様みたいなやついないし、公平なルールもある」
ティエンは少しだけ眉を上げる。
「……公平?」
「そうそう。なんか“投票”ってやつがあってさ。おれも権利持てるらしい。何事も話し合いなんだとさ」
ティエンは少しだけ黙った。海賊という言葉から想像していたものとあまりにも違う。
「……へえ」
ジャスパーは少しだけ誇らしげに続ける。
「でさ、その船団の船長がまた懐広くて。フランソワ船長って言うんだけど、あの人の船に歳近いガキがいてさ。そいつに誘われた。——陸にいてもつまんねーし。おれ、海賊なるわ」
ジャスパーは決まりきったことみたいに告げると、くるりと背を向けて手をひらひらと振った。
「じゃあなー、達者でよ」
そのまま彼は風みたいに去っていった。振り返らない、止まらない。昔と同じだった。それからティエンはさらに遠くへ出るようになった。街から街へ、港から港へ、理由はひとつだった。
——また会うかもしれない。
だから、少しだけ見た目も変えた。体型も整えた。どうせなら、ちゃんと覚えてもらえるように。そんな、くだらない理由で。
「……って感じ」
ティエンが話を終えると酒場の静けさが戻った。コリンはしばらく何も言わなかったが、頭の中で情報が繋がると顔を上げる。
「……赤髪……あいつじゃん。ジャスパー、何してんの」
半ば呆れたコリン声に、ティエンは一瞬だけ目を細めた。
「……いいんだよ。好きにしてるんだろ、あいつも」
いつの間にかランプの火が小さくなっていた。コリンはティエンの話を頭の中で反芻しながら口を開いた。
「だから、ぼくに対しても協力的なんだね」
「ん?」
「賄賂も使えるし、馬にも乗れるし……人の懐に入るの得意って言ってたし」
ティエンはふっと笑った。
「まあな。使えるもんは使う。その方が楽だし」
コリンはこくりと頷いた。納得したような、してないような顔だが、それ以上は言わない。突然、ティエンが話題を変えた。
「そういや、明日どうする?」
「ぼくはずっとここにいるよ」
「……ずっと?」
「うん。来るまで、待つ」
「了解。じゃあ、オレは外出るわ。なんか買ってくるよ。欲しいものある?」
ティエンが立ち上がって腰に手を当てると、コリンが真顔で見上げてきた。
「錬金術セット」
「……は?」
ティエンの動きが止まるもコリンは淡々と続ける。
「練習したいんだ。そろそろ禁断症状出る。爆弾作りたい」
言ってる内容はやばいのに声色は至って普通だった。ティエンはしばらく黙っていたが、深いため息を吐くと苦笑した。
「……善処はする」
限界の返答にコリンは満足そうに頷いた。
「よろしく」
ティエンは空になった皿たちを重ねて持つなり店の奥へ引っ込んだ
「じゃ、片付けてくるわ」
ティエンはキッチンに着くと皿を置くなり呟く。
「……錬金術セットってなんだよ」
翌日、街中を彷徨くことになる未来がもう決まっていた。
「……まあ、いいか」
どうせ、暇じゃない。面倒ごとも悪くない。ティエンは鼻歌を歌いながら袖を捲った。
翌朝。まだ薄く霧の残る街の中、ティエンを乗せた白馬が駆けていた。酒場にはまだコリンが眠っている。起こす理由もなかった、どうせ起きても「錬金術セット」としか言わない。なら、先に動いた方が早い。ティエンが手綱を軽く引きながら街の奥へと進むと、やがて一軒の店前——ヤンがブレストに滞在する際の住処——で馬を止めた。骨董品と東洋雑貨。奇妙な趣向品が並ぶ雑然とした店構え、表から見れば変わり者の商人の店だが、ティエンは迷いなく扉を押し開けると軽く声をかけた。
「よっ」
店内には若い男が一人いる。彼は黒髪を後ろでまとめ、帳簿を広げていたが顔を上げた。
「……ああ、ティエンさんですか。珍しいですね」
チャン・ジンテンだった。ヤンの代わりに、このブレストで店番と監視を任されている男。ティエンはカウンターに肘をついてチャンを見据えた。
「錬金術セットある?」
チャンは思わず瞬きをした。
「……なんて?」
「だから、錬金術セット」
ティエンは一切の躊躇なく繰り返して数秒、チャンは立ち上がると店の奥へ引っ込んだ。
「少々、お待ちください」
ティエンはチャンの背中を見送りながら息を吐いた。
「あるのかよ」
半分冗談のつもりだったが、戻ってきたチャンの両腕には、明らかにそれらしい器具が抱えられていた。
「お待たせしました」
ガラス器具、フラスコ、細い管、金属製のスタンド。見たことのない形状の容器を机に並べながら、チャンが捲し立てるように一個一個説明していく。
「蒸留用のフラスコ一式と、耐熱器具です。加熱用の簡易炉もございますが、いかがなさいますか」
ティエンは一瞬だけ固まって思わず手を上げた。
「いや、ちょっと待って。そんな本格的なのじゃなくていいんだよ」
「では、どの程度の用途で?」
「用途?」
「はい。調合、蒸留、爆発、毒物生成など用途に応じて——」
「爆発」
チャンがぴたりと動きを止め、器具同士がぶつかり音も静まった。
「……爆発、ですか」
「うん。煙出すやつ、たぶん」
ティエンが頷くとチャンは目の色を変えてすぐに別の棚へ向かった。
「でしたら、こちらですね」
チャンが持ってきたのは先ほどよりも簡素な器具だった。小型の容器、粉末を扱うための道具、簡易的な密閉瓶がカウンターに並ぶ。
「混合と反応に特化したものです。携帯性もあります」
「おお、それっぽい」
ティエンが感心したように器具たちを眺めるとチャンはいくつかの素材を並べ始めた。
「硝石、硫黄、木炭。基本的な組み合わせであれば煙の発生は可能かと」
「……詳しいな」
「一応、扱えますので。あ、アストロラーベ要ります?」
チャンが目を輝かせながら、ついでのように言った。彼の手の中には精巧な金属の円盤、ティエンは即座に首を振る。
「……いや、たぶんそういうのじゃないと思うんだよな」
「そうですか」
チャンアストロラーべを元の場所に戻すと再び器具の選別に戻った。
「では、このあたりを一式で」
器具たちが綺麗にまとめられていく様子を並べながら、ティエンはぽつりと呟く。
「あいつ、こんなの欲しがってたのか」
昨日の、コリンの真顔と一言が頭をよぎる。錬金術セット、禁断症状。
「……ほんと、何なんだよ」
ティエンは思わず苦笑するが、彼の手は自然と懐に伸びて財布に触れていた。
「これ、全部くれ」
「承知しました」
チャンは淡々と頷いて器具を布に包んでカウンターに置いておくと、ティエンはカウンターに二リーブルを滑らせて包みを受け取った。
「助かった」
「いえ。あ、そういえばヤンさん無事ですか?」
「海賊の拠点でも相変わらずだよ」
ティエンが軽く手を振って店を出ると白馬が顔を向けてきた。ティエンは荷をくくりつけ、ひらりと乗って手綱を引いた瞬間、白馬が颯爽と走り出した。風が頬を打ち、ティエンはぽつりと呟く。
「……これでいいんだよな」




