第24章 – 鼠
惨劇の二日前……。
「わあ! ついに着いたね! ここ、めちゃくちゃ綺麗だよ、ルル!」
タルは弾んだ声で笑った。
「ああ、本当に綺麗だね」
ルシアンは微笑みながら答えた。
「でも、それより荷物降ろすの手伝ってよ」
テツヤは重い金属製の水樽を両腕で抱え、馬車から降りてきた。彼は安堵のため息をつきながらそれを地面に置くと、口を開いた。
「出発する直前、ユカタに言われたんだ。ステラ王国では水が手に入らないわけじゃないが、とんでもなく値が張るってな。心配すんな、知り合いのツテで大きな水樽を三つほど融通してもらった。しばらくは持つはずだ」
突如、ゴウがピタッと足を止めた。不安げな様子で周囲を見回す。
「あの……みんなを焦らせたくはないんだけど、僕の精霊たちが急にひどく騒ぎ立て始めたんだ」
三人は不可解そうに彼を振り返った。
「どうした? 何か具体的なことを言ってるのか?」
ルシアンが眉をひそめて尋ねる。
「うーん……うん……分かった……」
ゴウは見えない声に耳を傾けながら頷いていたが、急に顔を青ざめさせた。
「えっ?! ほんの数十メートル先で、大掛かりな戦闘が起きてるって! 大勢の人間が巻き込まれてるらしい!」
テツヤは持っていた水樽を即座に地面に置いた。
「よし、様子を見に行こう」
「俺たちも行く」
ルシアンが同意した。
小さな一行は、ゴウの精霊の一体に導かれるままその方向へと駆け出した。尾根にたどり着いた彼らの目に飛び込んできたのは、まったく予想だにしない光景だった。谷の中で、二つの軍勢が激しくぶつかり合っていたのだ。
「ドヴ王国がなぜこんなところに?」
テツヤは目を見開いて驚いた。
「あそこは普段、国境の外には決して出てこないはずなのに!」
「へえ? いつもは引きこもってるのか? それにしても、すげえな……」
押し寄せる混沌とした戦況に圧倒されながら、ルシアンが呟いた。
テツヤは素早く状況を仕切った。
「よし、タル、ルシアン、お前たちはステラ王国の軍を止めに向かってくれ。俺とゴウはドヴ王国側をなだめてみる。いいか?」
「ああ、俺は構わないよ」
ルシアンが答える。
「アタシも同じ」
タルが付け加えた。
「上出来だ。行くぞ、散開!」
一行はそれぞれ二手に分かれ、紛争の渦中へと飛び込んでいった。だが、それは重大な過ちだった。二つの国家間で衝突が起きたとき、内情を理解せぬまま介入してはならない……彼らは間もなく、身をもってそれを知ることになる。
テツヤとゴウの側
爆発と刃の交わる轟音の中、ゴウが付いてくるのに苦労しているのを見て、テツヤはその腕を強く掴んだ。
「あ! 何するんだよ?」
ゴウが驚いて声を上げる。
「お前じゃ足が遅すぎる、しっかり捕まってろ! ドヴの軍を指揮している奴のところに直接突っ込むぞ!」
「いい考えだ!」
自らの加護の力を発動させ、テツヤは誰の目にも留まらぬほどの圧倒的な速度で疾走した。一瞬にして最前線をすり抜け、彼らはドヴ軍の指揮官の目の前に忽然と姿を現した。
「おい、あんた!」
テツヤが叫んだ。
指揮官は跳び上がり、武器を引き抜いたが、驚愕のあまりすぐに構えを解いた。
「なっ?! 誰だお前たちは……待て、見覚えがあるぞ。テツヤか?! なぜこんなところにいる? なぜこの件に首を突っ込む?」
「この戦いを止めさせに来たんだ!」
テツヤが言い返した。
「なぜステラを攻撃している? 普段は王国から出ないはずだろ!」
指揮官の顔が怒りと悲しみで歪んだ。彼は敵の陣営を指差した。
「余計なお世話だ! ステラの騎士どもが、我が国の守護者……『鼠の加護』を授かった者を盗み出したのだ! それなのに、あいつらは知らぬ存ぜぬを突き通そうとしている!」
「何だって?!」
テツヤは衝撃を受けた。
「じゃあ、俺と弟以外にも加護持ちがいるってことか?」
「そうだ」
指揮官は暗い眼差しで打ち明けた。
「三ヶ月前、我が国でその加護を持つ青年が見つかったのだ。それをステラの奴らが捕らえ、監禁しおった! あの残酷なやり方を見てみろ!」
テツヤは拳を握りしめ、黙り込んだ。新たな加護持ちの存在が、彼の心に何かを訴えかけていた。
「オーケー、事情は分かった」
テツヤはついに言った。
「あんたたちを手助けするよ」
指揮官は安堵のため息を漏らし、感謝の笑みを浮かべた。
「おお、ありがたい! 『牡牛の加護』が味方になってくれるなら、この戦いに勝利して彼を救い出せると確信できる」
「テツヤ、本当にいいの……?」
ゴウが不安げに彼の袖を引っ張りながら囁いた。
「ああ、俺を信じろ、ゴウ。同じ加護を持つ兄弟だからな。ステラの連中に渡したままにはしておけない」
「……分かった、分かったよ。それなら僕も応援する」
ゴウは折れた。
「ただ、他の連中にも知らせておかないとな」
テツヤはそう言うと、再び軍の指揮官に向き直った。
「隊長、一度合流地点に戻って仲間と話し合ってから、すぐに加勢に戻ります」
「構わん、行ってくれ。急いでくれよ!」
ルシアンとタルの側
一方その頃、反対側の陣営では、一人の兵士が慌ただしく指揮官の天幕へと近づいていた。
「隊長! 民間人が至急お目通りを求めてきております」
「ふむ、誰だ?」
力強い声が尋ねる。
「ルシアンという男と、タルという女です。アリシア王国から来たと申しております」
「おお! 誰のことかよく分かるぞ」
隊長は喜んだ。
「通せ。ここにいるということは、きっと我々に加勢しに来てくれたのだろう」
兵士は脇に退いた。
「承知いたしました。お入りください」
ルシアンが先頭に立って入り、王に対するかのような丁寧な礼を尽くした。タルもすぐにそれに倣った。
「事情を伺いたくて参りました」
ルシアンは時間を無駄にすることなく切り出した。
「なぜドヴ王国と戦っているのですか?」
「ふむ、なるほど」
隊長は腕を組みながら答えた。
「実を言うと、我々は『鼠の加護』を持つ者を保護していたのだ。しかし、ドヴ王国が我が国に侵入し、その者を誘拐しおった! 我々は正当に自分たちのものを取り戻しに来ただけなのだが、あやつらは我々を泥棒扱いした挙げ句、戦争を吹っ掛けてきたのだ」
ルシアンは目を見開き、驚愕の面持ちでタルに視線を送った。
「テツヤとツバサ以外にも、ここに加護持ちがいると言うのですか?」
「そうだ」
隊長は魅力的な笑みを浮かべて肯定した。
「ぶっちゃけて言えば、その『鼠』はフェニックスや牡牛にとっても強力な味方になるはずだ。我々はただ、ドヴの野蛮さから彼を守りたいだけなのだよ」
「よし、そういうことなら、奪還を手伝いましょう!」
ルシアンが決断を下した。
「元々、俺たちはあんたたちの王国と協力するためにここへ来たわけですしね」
隊長は天幕全体に響き渡るような、豪快で率率直な笑い声を上げた。
「ハハハハハ! アリシア王国のそういうところが大好きだよ! よく自由の国なんて言われるが……まさにその通りだな! 国王にお伺いを立てることもなく、戦場でこれほど重大な決断を下すとはな、ハハハ! ああ、それと俺のことはテンコと呼んでくれ」
タルは少し居心地悪そうに、ルシアンの腕をそっと引っ張った。
「本当にいいの、ルル……?」
「ああ、俺を信じて」
彼は囁いた。
「うん、ルルが選んだことなら、アタシはどんなことでも信じるよ」
彼女は優しく微笑んだ。
ルシアンはテンコ隊長に向き直った。
「それにちょうどいいことに、テツヤも一緒に連れてきています。彼の力があれば、ドヴを退ける大きな助けになるはずです」
テンコの笑みがさらに深まった。それはどこか肉食獣を思わせるものだった。
「ハハハハハ! そいつは素晴らしい! 最高だ! 行っていいぞ、我が友よ。突撃の時を大いに楽しみに待っている」
「はい、ありがとうございます、テンコ隊長」
合流地点
ルシアンとタルは、あらかじめ決めておいた合流地点へと急いだ。テツヤとゴウも、急いだ様子でちょうど到着したところだった。
「おお、タル、ルシアン!」
テツヤが声をかけた。
「お前たちに大事なお願いがあるんだ」
「あ! ちょうどいいね、俺たちもだよ!」
ルシアンは自信ありげに微笑んで答えた。
テツヤもまた、お互い同じ結論に至ったのだろうと思い込んで笑みを浮かべた。
「ハハハ、どうやら完全に意見が一致しているようだな!」
「その通りだよ、テツヤ!」
「よし、せーので言うか?」
牡牛の加護を持つ者が提案した。
「もちろん」
「1、2、3……」
「ドヴ王国を助けたい!」
テツヤが叫んだ。
「ステラ王国を助けたい!」
同時にルシアンが叫んだ。
小さなグループに、死のような静寂が舞い降りた。お互いの視線が交錯し、困惑が満ちていく。
……
……
……
「え? なんて言ったんだ、テツヤ?」
ルシアンは聞き間違いかと思って聞き返した。
「いや……ドヴ王国を助けようって言ったんだ」
テツヤは冷静に繰り返した。
「お前、何も分かってないな! 泥棒はあいつらの方だぞ!」
ルシアンが苛立ちを露わにした。
「何だと?! 聞き間違いかと思ったのは俺の方だ。お前、本気でステラ王国を助けるつもりか?!」
テツヤの声のトーンが一段上がった。
「当たり前だろ! 最初に『鼠』を保護してたのはステラの方なんだぞ!」
「そんなの何で分かるんだよ? あいつらがそう言ったからか?」
テツヤが激昂して言い放つ。
「じゃあお前こそ、そっちの連中が本当のことを言ってるって何で言い切れるんだよ?!」
ルシアンの目が怒りで据わる。
「……」
テツヤは悔しそうに歯を食いしばった。
「なるほどね。思った通りだ」
ルシアンが冷ややかに吐き捨てた。
テツヤは少女の方を向いた。
「タル、お前もルシアンの選択に賛成なのか?」
「おい、タルを巻き込むな!」
ルシアンが即座に彼女の前に立ちはだかり、割って入った。
「彼女がお前を助けたいならそれでもいいし、俺を助けたいならそれもいい。だが、俺たちの言い争いに彼女を巻き込むのはやめろ、いいな?」
事態の悪化にパニックを起こしたゴウが、二人を引き離そうと両手を挙げて間に飛び込んできた。
「落ち着いて、二人ともお願いだから落ち着いて! 元々、僕たちは戦争をしにここへ来たわけじゃないでしょ。この争いは忘れて、引き返してステラ王国でゆっくり休まない?」
テツヤはゴウを鋭く睨みつけた。
「断る。俺はドヴ王国へ行く。泥棒の家で呑気に眠る気はない」
「自分の言ってること分かってんのか?!」
ルシアンが爆発した。
「お前は『伝説』のはずだろ! 尊敬されるべき、信頼できる人間のはずだ! それが、最初に聞いた話を鵜呑みにして仲間を捨てるのか? 本当に偽善者だな!」
「お前だってあいつらの話を馬鹿みたいに信じ込んで、そっちを助けようとしてるだろうが! 偽善だ何だと言われる筋合いはねえよ!」
テツヤはそう言い返し、背を向けた。
彼は重い足取りで谷の方へと歩き始めた。
「行くぞ、ゴウ。ドヴの指揮官のところへ戻る」
ゴウは胸を引き裂かれる思いで躊躇した。
「……」
「ゴウ?!」
テツヤが立ち止まることなく促した。
「うん……今行くよ……」
精霊使いの少年は呟いた。
ゴウはルシアンとタルに、悲しげで無力な最後の視線を送ると、テツヤを追いかけて走り出した。
タルと二人きりになったルシアンは、肩を落として、がっくりとした長い溜息をもらした。
「はぁ……ツバサがここにいてくれたら、こんなことには絶対ならなかったのに。この一年、俺はあいつの優しさを真似することすらできず、グループを一つに保つことさえできなかった……」
タルが静かに近づき、慰めるように彼の肩に手を置いた。
「ルル……誰かの真似なんてしなくていいんだよ。人にはそれぞれの個性があるんだから。優しくしたいなら、ルルなりのやり方でいいの。ツバサを完璧にコピーしようなんて無理だし、誰もそんなこと求めてないよ」
ルシアンは彼女を見つめた。その瞳は彼女の言葉によって和らいでいた。
「……君の言う通りだね。タル、愛してるよ」
「アタシも愛してる」
彼女は微笑んだ。
「ほら、行こう。テンコのところに戻るよ。きっと次の指示をくれるはずだから」
「ああ。でも行く前に、ツバサに手紙を一本だけ書かせてくれ。何があるか分からないからな」
ルシアンは鞄から羊皮紙の一片と羽ペンを取り出し、素早く数行の文字を走らせた。
> ツバサ、もしこの手紙が届いたら……こんなことを伝えるのは心苦しいが、俺とテツヤは決定的な対立に陥ってしまった。状況は俺たちの手に負えなくなっている。どうか俺たちを見つけ出して、正しい道へと連れ戻してくれ。
> ――ルシアンより
>
彼は丁寧に紙を折り畳み、伝書鳥に託すと、荷物を片付けた。
「よし、行こう」
「うん、出発!」




