第14話 ― 赤い森の空の下での再会
ルシアンはそっとタルを引き離した。
「お、俺の……初めてのキスだったんだ……。いつか結婚する相手に捧げたかった……」
タルは目をぱちくりさせると、満面の笑みを浮かべた。
「でも、ルル。私ってあなたの未来のお嫁さんでしょ? もちろん最後の一人でもあるわ!」
ルシアンの顔が真っ赤になる。
「い、いや……あれは子どもの頃の約束だ。当時、お前は俺の唯一の友達だったから……その……好きだったんだ。」
タルの笑顔が少しだけ曇る。
「つまり……もう気持ちは変わっちゃったってこと?」
「あ……えっと……たぶん……いや……自分でも分からない。」
数秒の沈黙。
するとタルは近づき、彼の頬に小さなキスをした。
「よし! それで、ここに来たってことは最終試験のため?」
「いや。精霊魔法を失ったんだ……だから新しい修行を受けに来た。」
タルの目が大きく見開かれた。
「えっ!?」
それから静かに尋ねる。
「じゃあ……お父さんのところ?」
「ああ。そういえば……元気か?」
「いつも通りよ。今は神父になったから、会ったら『神父様』って呼んでね。」
「そうなのか? どの宗教なんだ?」
「蛇の教えよ。だって蛇は悪魔族の象徴だから。」
「なるほど……。」
するとルシアンは何かを思い出した。
「そういえば……俺たちは二人の加護持ちを見つけた。」
「本当に?」
「ああ。牡牛の加護を持つ者と……不死鳥の加護を持つ者だ。」
タルは目を見開く。
「ま、待って……本気!? そんな加護、ただの伝説だと思ってた!」
「俺もそう思ってた……会うまではな。」
タルは草の上に座り込む。
「よし。全部聞かせて。」
「いや、そんな時間は――」
「私のためなら、いつだって時間はあるでしょ?」
彼女はルシアンの袖を掴み、強引に引っ張った。
⸻
数分後。
二人は赤い花で覆われた広い花畑へとやって来た。
タルは小さな瓶を取り出す。
「はい。」
「なんだ?」
「グルよ。ゼリーサボテンと薬草の花から作った栄養ドリンク。」
ルシアンは一口飲む。
目が大きく見開かれた。
「……すごい。本当に美味い。」
「でしょ?」
「砂糖は入ってないのか? すごく甘い。」
「百パーセント天然よ。」
彼女は顔を近づけた。
「さあ……全部話して。」
ルシアンは小さくため息をつく。
そして話し始めた。
ツバサのこと。
喋るニワトリのこと。
加護のこと。
七つの大罪のこと。
自分の敗北。
そして――
精霊を失ったことを。
話し終えると、静寂が訪れた。
タルは少しだけ俯く。
「……ごめんね、ルル。」
「気にするな。」
「ううん。精霊があなたにとってどれだけ大切だったか、私は知ってる。」
ルシアンは視線を逸らした。
するとタルは彼の手を握る。
「覚えてる? 子どもの頃、一緒に野原を走ったこと。」
「ああ……。」
「もう一回やろう!」
「……は?」
「走ろう!」
「嫌だ。」
彼女は耳元へ顔を近づける。
「じゃなきゃ、あなたの恥ずかしい話を新しいお友達に全部話しちゃう。」
ルシアンの顔が青ざめた。
「お、お前……そんなこと――」
「試してみる?」
「……くっ、分かった! 走ればいいんだろ!」
「やったー!」
タルは走り出した。
「捕まえてみて、ルル!」
「あはは……待て!」
⸻
最初は、ただ彼女を喜ばせるためだった。
けれど――
何かが変わった。
風が優しく吹く。
背の高い草が波のように揺れる。
遠くでは、太陽がゆっくりと沈み始めていた。
魔族の国の空は赤と橙に染まり、まるで雲そのものが燃えているようだった。
夕暮れの光が、花畑を黄金色に包む。
すべてが美しく見えた。
穏やかで。
生きていて。
目の前ではタルが笑っている。
十年近く聞いていなかった笑い声。
長い紫の髪が風に踊る。
時折振り返り、彼がついて来ているかを確かめる。
そしてまた走り出す。
時間がゆっくり流れていく。
まるで世界そのものが消えてしまったかのように。
戦争もない。
七つの大罪もない。
責任もない。
ただ――
二人だけだった。
ようやく再会した、二人の子ども。
ルシアンは胸が締め付けられるのを感じた。
精霊を失ってからずっと、平気なふりをしていた。
笑っていた。
大丈夫だと言い続けていた。
でも本当は――
怖かった。
自分ではなくなってしまうことが。
自分の一部を失ったことが。
それなのに……
タルの後ろを走っていると、
自分がまた生きている気がした。
自分自身に戻れた気がした。
⸻
「あははっ! 捕まえてみて、ルル!」
「待てって!」
そして――
久しぶりに。
ルシアンは心から笑った。
本当の笑顔だった。
その瞬間だけ、
風も。
草も。
赤い雲も。
沈みゆく太陽も。
すべてが止まったように見えた。
誰にも消えてほしくない、かけがえのない思い出のように。
やがてルシアンは彼女に追いつき、
二人は笑いながら草の上に倒れ込んだ。
赤い空を見上げる。
そして気づかないうちに、
二人はずっと失ったと思っていたものを取り戻していた。
――幸せを。
「……本当に速くなったな。」
タルはもう一度、彼の頬にキスをした。
今度は――
ルシアンは何も言わなかった。
彼は数秒間、彼女を見つめる。
そして優しく微笑んだ。
「……会いたかったよ、タル。」
彼女は固まった。
頬が真っ赤になる。
「わ、私も……会いたかった……私の騎士様。」
ルシアンは少し近づき、
彼女の頬に小さなキスを返した。
「再会の贈り物だ。」
「る、ルル……」
タルの顔はさらに赤くなる。
そして――
この上なく幸せそうな笑顔を浮かべた。
「……今日は、最高の日かもしれない。」
一方その頃、俺は空を見上げていた。
魔族の国の赤い雲は、アリシア王国のものよりもずっと輝いていた。まるで内側から光っているみたいだった。
「ツバサ、作戦は理解しましたか?」
俺が振り返ると、魔王がこちらを見ていた。
正直、どうして彼らが「魔族」と呼ばれているのか、俺にはよく分からなかった。
角の生えた者もいれば、鬼のような姿の者もいる。
ただ少し見た目が違うだけの者もいた。
結局のところ、人間ではない者を全部まとめて「魔族」と呼んでいるようにしか思えなかった。
……少し、不公平な気がした。
「は、はい。ちゃんと分かっています。」
すると、テツヤが手を挙げた。
「もう一度、作戦を確認したほうがいいと思います。念のために。」
「私も賛成です。」
魔王はうなずいた。
「よろしい。この精霊は数日前から森に潜んでいる。能力は水に関係している。我々は奴を縄張りからおびき出し、封じ込めるつもりだ。」
そして、全員を見渡した。
「この作戦には五百名以上の兵士が参加する。異論はあるか?」
誰も答えなかった。
俺は……
ただ、ルシアンのことだけを考えていた。
元気にしているだろうか。
すると、キックがそっと近づいてきた。
「どうした? なんだか上の空だぞ。」
「え? あ、うん……大丈夫。」
「魔族に食べられるのが怖いのか?」
「はぁ!? ち、違うよ!」
俺は少しうつむいた。
「ただ……ルシアンのことが心配なんだ。」
キックは優しく笑った。
「心配するな。あいつはもう子どもじゃない。」
「……うん。」
魔王が手を叩いた。
「よし! それでは各自、森の地形を確認しておけ。ただし、決して怪物には近づくな。」
そして、少し柔らかい口調で続けた。
「それと安心してくれ。客人のために最高の宿を用意してある。」
テツヤが鍵を受け取った。
「ありがとうございます。お心遣いに感謝します。」
そして、俺たちは城を後にした。
扉が閉まるのを見届けながら、魔王は騎士たちに言った。
「諸君、彼らを見守っていてくれ。何をしでかすか分からないからな。」
「はっ! 陛下!」
⸻
「うわぁぁ……このベッド、めちゃくちゃ気持ちいい……!」
俺はベッドへ飛び込んだ。
テツヤが笑う。
「俺のベッドを使っていいぞ。俺は見張りをするから。」
「でも、テツヤだって寝ないと。」
「もちろん寝るさ。でも俺のことは気にするな。」
「……分かった。」
キックが腕を組む。
「兄弟二人は周辺を偵察してこい。この地図を持って、隠れられそうな場所を探してくるんだ。」
俺は翼を上げた。
「えっ? なんで俺たち二人だけなんですか? キックさんは来ないんですか?」
「私はアリシア王に報告を送らなければならない。」
「あぁ……なるほど。」
テツヤが笑った。
「行こう、ツバサ。」
「うん、今行く!」
⸻
俺たちは赤い森の中を歩いていた。
木々はとても大きく、真っ赤な葉が風に乗ってゆっくりと舞い落ちている。
とても綺麗な場所だった。
「足元に気をつけろ。」
テツヤが俺を見る。
「……いや、足じゃなくて、鶏の足か。」
「はい、隊長。」
俺たちはいくつかの場所を見て回った。
岩場。
小さな洞窟。
そして崖。
「なあ、敵ってどんな姿だと思う?」
テツヤが尋ねた。
俺は少し考える。
「ものすごく大きくて……すごく不細工な海の怪物かな。」
テツヤは吹き出した。
「ははっ。俺もそんな感じだと思う。」
その後、沈黙が流れた。
俺たちは仲が良かったけれど……
何を話せばいいのか分からなかった。
気づけば、もう夕暮れになっていた。
「そろそろ戻るか。」
「うん……。」
俺は前を見る。
右を見る。
左を見る。
……
誰もいなかった。
俺の笑顔が消える。
「……え?」
その場でくるりと回る。
「テツヤ?」
返事はない。
「テツヤ?」
風が静かに吹き抜ける。
赤い葉が俺の周りに落ちていく。
「う、嘘……。」
俺は慌て始めた。
「まさか……迷子になった……?」
空を見上げて叫ぶ。
「テツヤー!! テツヤー!!」
返事はない。
そして当然……
地図はテツヤが持っていた。
俺は大きくため息をついた。
「まあ……きっと俺がいないことに気づいて、迎えに来てくれるよね。」
……たぶん。
そうであってほしい。
俺は適当に歩き始めた。
すると――
ヒュッ!
一つの石が目の前を横切った。
「おっ! ニワトリだ!」
声が響く。
「今日の晩ご飯にしよう!」
「断る!!」
俺はすぐに蹴りを放った。
「うわあああっ!? しゃべるニワトリだぁぁぁ!!」
俺は目をぱちぱちさせた。
そこには、黒髪の若い鬼が立っていた。
しかも……
どう見ても、俺より怖がっている。
「お、落ち着いて! 俺、ただ迷子になっただけだから!」
「ま、迷子……?」
「うん……。」
俺は軽く頭を下げた。
「初めまして。俺はツバサ。アリシア王国の見習い騎士だよ。」
鬼の目がキラキラと輝いた。
「すげぇぇぇ! ニワトリの騎士だ! カッコいい!!」
彼は胸に手を当てた。
「俺はゴウ! 鬼……いや、一応魔族かな!」
そして少し離れた場所にある小さな木の家を指さした。
赤い屋根に、入り口には明かりが吊るされている。
まるで童話に出てくる家みたいだった。
「俺、あそこに住んでるんだ。」
彼は空を見上げる。
「もう遅いし、今日はうちに泊まるといいよ。明日の朝、元いた場所まで送ってあげる。」
俺は数秒間、言葉を失った。
そして、笑顔になった。
「本当にありがとう。」
⸻
その頃――
「ツバサはどこだ?」
キックが尋ねた。
テツヤは目を瞬かせる。
「え? もう戻ってきたと思ってたけど。」
キックの顔から血の気が引いた。
「待て……。」
彼は大きく息を吸い込む。
「お前……ツバサを置いて一人で戻ってきたのかぁぁぁぁぁ!?!!」




