④ 予期せぬ介入
振り上げられた太い棍棒が、泥水に沈む私の顔面を砕こうと風を切って落ちてくる。
全身の筋肉が硬直し、私は死の衝撃に備えて目を固く閉じた。前世で刃物に刺されて死んだ時よりも、はるかに惨めで、ひどくあっけない二度目の最期。
だが、予測していた激痛はいつまで経っても訪れなかった。
「やめろおおおおッ!!」
鼓膜を劈くような絶叫と共に、強烈な肉体と肉体がぶつかり合う鈍い音が路地裏に響き渡った。
私が恐る恐る目を開けると、先ほどまで私を見下ろしていた「スウェーター(中間搾取者)」の巨漢が、数メートル先の汚水溜まりへと吹き飛ばされ、尻餅をついていた。
彼の横腹に、文字通り命を投げ出すような勢いで体当たりを食らわせたのは、煤と機械油で顔を真っ黒に汚した一人の男――父、アーサーだった。
「この野郎ッ! 俺の娘に何をしやがる!!」
「お父……さん……?」
私の掠れた声と同時に、今度は別の温かい体が私の上に覆い被さってきた。
「クロエ! ああ、クロエ! 無事なのね!?」
母のメアリーだった。彼女は冬の冷たい水と強い灰汁でひび割れ、血が滲んだ両手で私の小さな身体をきつく抱きしめ、自分の背中を盾にするようにして私を完全に庇い隠した。
二人は本来、今この時間はまだ労働の最中であるはずだった。この時代の工場労働者は、一日12時間から16時間にも及ぶ異常な長時間労働を強いられている。
少しでも持ち場を離れれば、容赦のない減給と鞭打ちが待っているのだ。
それなのに、彼らは息を切らし、服を破き、髪を振り乱していた。私が家からいなくなったことに気づき、仕事を放り出して、文字通り血眼になってこの広大なスラム中を探し回っていたのだ。
「クソッ、どこの馬の骨かと思えば、このガキの親か!」
泥水の中から立ち上がったスウェーターの男が、忌々しそうに顔を歪めて唾を吐き捨てた。
大企業から仕事を請け負い、立場の弱い労働者や子供たちを安値で酷使して利益をピンハネする彼らのような中間搾取者にとって、逆らう者は徹底的に暴力で屈服させるのが絶対のルールだった。男の背後にいた数人の不良少年たちが、一斉に父へと襲いかかった。
「やめろっ! 娘には手を出すな!」
父は必死に拳を振り回したが、慢性的な栄養不足と過酷な労働で肺をすり減らしている彼の身体は、暴力に慣れたチンピラたちの敵ではなかった。
鈍い打撃音が響き、父が腹を蹴られて崩れ落ちる。男のブーツが、容赦なく父の背中や顔面を何度も蹴り上げた。
「やめて! お願い、やめて!!」
母が悲鳴を上げながら父を庇おうと身を乗り出すが、不良の一人が母の肩を乱暴に蹴り飛ばした。母は苦悶の声を漏らしながらも、決して私を抱きしめる腕の力だけは緩めなかった。
私は、母の胸の中で完全に硬直していた。
眼の前で展開される一方的な暴力。血を流し、泥にまみれながらも、私を守るために盾となり続ける両親の姿。
私の前世からの冷徹な脳内コンピューターが、激しいエラー音を鳴らし始めていた。
(なぜだ。なぜ、こんな非合理的な真似をする?)
彼らの行動は、経済学的な視点から見れば完全に破綻している。三歳の、まだ一円の利益も生み出さない幼児一人のために、一家の労働力である自分たちの身体を破壊されるリスクを負うなど、投資対効果が最悪すぎる。
彼らがここで大怪我をして明日から働けなくなれば、間違いなく一家は餓死するのだ。
「もういい、ずらかるぞ。貧乏人の親父を殺してサツに目をつけられちゃ割に合わねえ」
スウェーターの男は父の顔面に最後の一撃を見舞うと、私から奪い取った二枚の銅貨と清浄粉の入った麻袋を懐にしまい込み、不良たちを引き連れて雨の降る路地の奥へと消えていった。
静寂が戻った路地裏には、冷たい雨の音と、父の苦しげな咳き込みだけが響いていた。
私は母の腕の中で、激しい動悸を感じながら次の展開を予測した。
(……叱られる。勝手に家を抜け出したこと。そして何より、彼らにとって大金である『二枚の銅貨』を奪われたこと。私という資産のせいで怪我を負わされた怒りを、私にぶつけてくるはずだ)
前世の親なら、間違いなくそうした。理不尽な暴力で私を殴りつけ、「お前のせいで」と罵倒したはずだ。私は身をすくめ、次に来るであろう暴力に備えて目を閉じた。
だが。




