④ 予期せぬ介入2
「クロエ……! 痛いところはないか? どこか打たなかったか!?」
顔を腫らし、口の端から血を流した父が這いずって近づき、私を母ごと抱きしめた。
「よかった……本当に、無事でよかった……!」
母もボロボロと大粒の涙をこぼし、私の煤と泥にまみれた頬に何度もキスをした。
そこに、奪われた金への執着は微塵もなかった。
仕事を抜け出したことによる減給の恐怖も、自分たちが負った痛ましい傷への恨み言もなかった。
彼らはただ純粋に、私の命が助かったという、ただその一つの事実だけを、神に感謝するように泣いて喜んでいたのだ。
「あ……」
私の口から、間の抜けた声が漏れた。
私の中で何十年もかけて構築されてきた「人間は自己の利益のためにしか動かない」という絶対的な真理。その強固な氷の壁に、決定的な亀裂が入り、修復不可能な『ノイズ』が走った瞬間だった。
打算でも、将来の搾取のための先行投資でもない。彼らは本当に、自分たちの命や生活よりも、私という存在そのものを優先したのだ。
胸の奥底で、かつて感じたことのない熱く、そしてひどく痛みを伴う感情が膨れ上がるのを感じた。それは、前世で私が切り捨て、軽蔑してきたはずの「愛情」という名の、圧倒的な非合理だった。
「お父……さん。お母、さん……」
私は無意識のうちに、血と泥にまみれた二人の服を小さな手でぎゅっと握りしめていた。
(こんなに愚かで、不器用で、損ばかりしている人たち。……でも、この人たちの温かさは、本物だ)
私は二人の体温に挟まれながら、心の中で完全に敗北を認めていた。
私は、この二人から逃げ出すために一人で金を稼ごうとしていた。だが、結果はどうだ。三歳の子供が単独で行動したところで、このスラムの暴力的な搾取システム(スウェーティング)の前では、ただ奪われ、踏み潰されるだけの存在でしかなかったのだ。
私は悟った。
子供一人の力では、この過酷な19世紀の資本主義の底辺でビジネスを成立させることなど物理的に不可能だ。私には、私の頭脳が弾き出した戦略を、現実の世界で実行するための「大人の隠れ蓑」が必要だった。
そして何より――私の心の最も深い場所で、この温かい両親を貧困から救い出し、一緒に幸せになりたいという、前世ではあり得なかった強烈な願いが産声を上げていた。
「帰ろう、クロエ。怪我がないならそれでいいんだ。お金なんて、また父さんと母さんが働いて稼げばいい」
父が無理をして笑い、私を抱き上げようとした。
私はその手をそっと押し留め、二人の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「ううん。お父さん、お母さん。もう、無理して働かなくていいの」
私は、幼児特有の舌足らずな発音を捨て去り、前世の冷徹な経営者としての、はっきりとした大人の声音で告げた。
突然の私の態度の変化と、年齢にそぐわない理知的な声色に、両親は驚いて目を丸くした。
「クロエ……? お前、どうしたんだい?」
「私のお話を聞いて。さっき悪い人たちに奪われちゃったお粉と、二枚の銅貨。あれはね、私が作ったものを、お金持ちの館のメイドさんに売って稼いだお金なの」
私は、先ほどの富裕層の館での出来事を二人に詳細に説明した。
都市に絶え間なく降り注ぐ石炭の煤が、いかに富裕層の家の中まで汚染し、彼らを悩ませているか。水洗いできない高級な布地を、水を使わずに綺麗にできるパウダーが、どれほどの「需要」を持っているか。そして、そのパウダーの材料である灰やフラー土(粘土)が、このスラムでタダ同然で手に入るという事実を。
「私が作った『清浄粉』を使えば、真っ黒に汚れた服もカーテンも、新品みたいに綺麗になるの。需要は確実に存在するわ。でも、私みたいな子供が売りに行けば、さっきみたいに力で奪われるだけ。だから……」
私は、血の滲む母の手と、腫れ上がった父の大きな手を、自分の小さな両手でしっかりと握りしめた。
「お父さんとお母さんに、私のお店を手伝ってほしいの」
私は彼らを「労働力」および「大人の隠れ蓑」として利用するのだと、自分自身の理性に言い訳をするように心の中で繰り返した。
「私が材料の配合と、どうやって高く売るかの計画を全部考える。だから、お父さんとお母さんは、それを作る力仕事と、悪い大人たちから私と商品を守る『壁』になってほしいの。一緒に、このお粉を売るビジネスを始めましょう」
薄暗く、冷たい雨の降るスラムの路地裏。
しかし、両親を見上げる私の目には、前世の孤独なジャーナリストが持っていた冷たい猜疑心はもう存在しなかった。
そこにあったのは、この不器用で優しすぎる両親と共に、這いつくばってでもこの理不尽な世界から成り上がってやるという、強烈な共闘の意志だった。
父と母は、三歳の娘の口から飛び出した「需要」や「ビジネス」といった信じられない単語の数々に、しばらくの間ポカンと口を開けて呆然としていた。
やがて、父は傷だらけの顔をほころばせ、腹の底から湧き上がるような笑い声を上げた。
「あはははは! クロエは賢いなぁ! お前の中に、どこかの偉い商人の神様でも入り込んでいるんじゃないか!?」
「もう、あなたったら笑い事じゃないわよ。でも……」
母もクスクスと笑いながら、私の頭を優しく撫でた。
「クロエがそんなに一生懸命考えてくれたんだもの。それに、その魔法の粉が本当に役に立つなら、私たちも一緒に手伝うわ」
彼らは、私が前世の記憶を持つ異端の存在であることなど微塵も信じていない。賢い子供の、少し大げさな「おままごと」の延長だと捉えているのだろう。
だが、それで構わなかった。
私が彼らの労働力と大人の立場を「利用」し、彼らが私という子供の突拍子もない提案を愛情ゆえに「受け入れる」。そのすれ違った思惑のまま、私たち家族の小さな商会は、この泥だらけの路地裏でひっそりと産声を上げた。
「絶対だよ。明日から、お父さんとお母さんにはたくさん働いてもらうからね!」
「ああ、任せておけ! 俺の腕力と、母さんの働き者っぷりを見せてやるさ」
父の太い腕に抱き上げられ、私は母と手を繋ぎながら、カビ臭いアパートへの帰路についた。
私の冷徹な計算式に生じた「ノイズ」。それはもはやノイズなどではなく、私のビジネス戦略を単独のゲリラ戦から、家族という強固な組織戦へと進化させるための、最も強力な「原動力」へと変わっていた。
親の愛を信じられず、一人で生き抜くことだけを考えていた前世の私は、今日ここで完全に死んだ。




