16公爵館の攻防
私は、この傲慢な大貴族を完全に手玉に取り、法外な条件で契約をもぎ取るための、「ハッタリ」のシナリオを父に徹底的に教え込んだ。
数日後。
私と父は、王都の最高級地区にあるウェストモアランド公爵家の壮麗なタウンハウスを訪れていた。
磨き上げられた大理石の床、金箔が施された高い天井、壁を覆う見事なシルクのタペストリー。
私にとっては前世の高級ホテルで見慣れたような贅沢な空間だったが、父にとっては足を踏み入れるだけで息が詰まるような、圧倒的な権力の象徴だった。
通された重厚な応接室には、銀髪を隙なく撫で付け、冷たく傲慢な目つきをした執事長、キャベンディッシュ氏が革張りの椅子に座っていた。
彼は私たちの仕立てたばかりのスーツを値踏みするように一瞥すると、ふん、と鼻で笑った。
「さて、スミス氏。公爵夫人がお宅の清浄粉をいたくお気に召してな。当家のすべての屋敷で、君のところの品を独占的に使用することになった。平民としては身に余る光栄だろう。ついては、これが契約書だ」
執事長がテーブルの上に滑らせた羊皮紙を見て、父の顔が引きつった。
そこに書かれていた買い取り価格は、なんと現在の私たちの販売価格の「十分の一」という、材料費すらまかなえない大赤字の値段だったのだ。
「あ、あの……キャベンディッシュ様。恐れながら、これでは私どもは利益が出るどころか、工場を維持することすらできません……」
「馬鹿なことを言うな」
執事長は、虫けらを見るような冷酷な目で言い放った。
「公爵家の御用達となる名誉を何だと思っている。この称号があれば、君たちはいくらでも他の愚かな平民から金を巻き上げられるだろう。それに、もしこの申し出を断れば……公爵閣下の顔に泥を塗ったとして、君の小さな商会が明日も無事でいられる保証はないぞ」
露骨な脅迫だった。
大貴族の権力やコネクションを使えば、平民の工場一つを法的な理由(例えば建築基準や税の未納など)をでっち上げて合法的に潰すことなど造作もない時代だ。
父の膝が震え、額から汗が流れ落ちる。
だが、父は私の顔を一度だけチラリと見下ろすと、深く息を吸い込み、私が教え込んだ「反撃のスクリプト」を堂々とした声で口にした。
「……恐れ入りますが、執事長殿。その価格での独占契約は、お受けいたしかねます。なぜなら、我が商会の生産ラインは、すでに『王国海軍』および『東インダス会社』との大型契約に向けた交渉で、限界を迎えているからです」
その言葉に、執事長キャベンディッシュの眉がピクリと動いた。
「……海軍と、東インダス会社だと?」
「はい」
父は背筋を伸ばし、大貴族の執事長を真っ直ぐに見据えて続けた。
「執事長殿もご存知の通り、我が商会の清浄粉は『水を一切使わずに』衣類を清潔に保ち、悪臭を消し去る画期的な発明品です。水が極端に制限される長期間の航海において、制服や寝具を清潔に保つ手段は、長距離航海を命じられた船の指揮官たちにとって喉から手が出るほど求められている技術なのです」
これは、ただの思いつきの嘘ではない。
前世の知識とこの時代のマクロ経済の動向を掛け合わせた、極めて論理的で説得力のあるハッタリだ。
「現在、東インダス会社の購買部から、新大陸や植民地へと向かう大型商船の高級船員たちに向けて、我が商会の清浄粉を定価の『1.5倍』で独占的に買い上げたいという強い打診が来ております。もし公爵家とこの赤字価格で独占契約を結び、生産ラインを割いてしまえば、国益にも関わる彼らの要求に応えることは物理的に不可能になります。それは、王国の海洋貿易に損害を与えることになりかねません」
執事長の顔色が一瞬にして変わった。
この時代、海洋貿易と海軍の力こそが国家の富の源泉である。
いかに大貴族の執事長とはいえ、莫大な富を生み出す特許会社や海軍省の物資調達と真っ向から対立してまで、たかが洗濯の粉の値段を値切ったとなれば、公爵自身の政治的立場を危うくしかねない。
さらに、「水を使わない清浄粉の真の価値は、長距離航海にこそある」というあまりにも合理的で盲点を突いた事実に、執事長は完全に圧倒されていた。
(完璧よ、お父さん)
私は内心で喝采を上げた。
父の元労働者としての堂々とした体躯と、嘘をつき慣れていない誠実な響きを持つ声が、このハッタリにこれ以上ない「リアリティ」を与えていた。
「ま、待て。……わかった、値段は定価通りで買い取ろう」
執事長の声音から傲慢さが消え、焦りが混じり始めた。
だが、父は追撃の手を緩めなかった。
ここで私が事前に教えていた、最後にして最強の「とどめの一手」を打ち出したのだ。
「定価でも、お譲りできません」
「なんだと!?」
「公爵家という高貴なる一族に、市井の平民や荒くれ者の船乗りたちが使うものと『全く同じもの』を納めるわけにはいきません。それは、公爵家に対する侮辱に他なりません」
父は、商会の社長としての絶対的な威厳を持って宣言した。
「公爵夫人専用に、最高級のダマスクローズの精油を使った『特別な香りの清浄粉』を開発いたします。値段は定価の二倍。その代わり、この香りは世界でただ一つ、ウェストモアランド公爵家のためだけに製造するという『完全な独占権』をお約束いたします。たとえ王家であろうとも、同じ香りは決して提供いたしません」
「専用の香り……完全なる独占権……!」
執事長キャベンディッシュの目が、妖しく、そして魅了されたように光った。
これこそが、貴族が最も好む「特権」の響きだった。
平民には絶対に手に入らない、自らの一族だけの香り。
他者との決定的な差別化。
これなら、どんな高い金を払っても夫人は間違いなく満足するだろうと計算したのだ。
海軍へのハッタリで論理的に追い詰め、特権階級のプライドをくすぐって感情的に陥落させる。これが、私の仕掛けた交渉の魔法だった。
「……よかろう。夫人はバラの香りをこよなく愛しておられる。その条件で、正式な専属契約を結ぼう」
執事長は深く頷き、新たな契約書を取り出すよう部下に命じた。
私たちは、当初の販売価格の二倍という破格の値段で、公爵家との長期契約を見事にもぎ取った。
さらに契約書には、「ウェストモアランド公爵家御用達」という紋章を、私たちの新聞広告や商品の木箱に堂々と掲げる権利も盛り込まれたのだ。
タウンハウスの重厚な扉を出て、冷たい冬の風が吹く表通りに出た瞬間。
父アーサーは膝から崩れ落ちそうになりながら、ふうっと長すぎる息を吐き出した。
「ああ……心臓が止まるかと思った。クロエ、お前が考えたあの『海軍と東インダス会社の航海』の話……俺自身が喋りながら、本当にそういう打診が来ているんじゃないかと錯覚するくらい恐ろしかったぞ」
「ごめんなさい、お父さん。でも、お父さんの演技、すっごくかっこよかったよ!」
私が満面の笑みで抱きつくと、父は大きな手で顔を覆い、やがて腹の底から湧き上がるような大笑いをした。
「あははは! まさか、あの冷血な公爵家の執事長が、うちの小さな女の子が考えたハッタリに青ざめて、二倍の値段で契約書にサインするなんてな! クロエ、お前は本当に恐ろしい軍師様だ!」
翌日、王都の主要な新聞の紙面に「ウェストモアランド公爵家御用達」の文字と獅子の紋章が掲載された広告が載ると、その効果は絶大だった。
大貴族のお墨付きを得た商品は、もはやただの日用品ではなく「最高級のブランド品」となった。
私たちの荷馬車には公爵家の保護を示す旗が掲げられ、もはや誰一人として私たちの商売を邪魔できる者はいなくなった。
全国の運送業者が、名誉ある白百合商会の荷物を運ばせてほしいと、工場の前に列をなすようになったのだ。
前世の冷徹なビジネス理論と、家族を守るという熱い覚悟。
それらが完全に融合したとき、私たちを縛り付けていた貧困と身分の鎖は、音を立てて粉々に砕け散った。
私たちの事業は、スラムの暗がりを完全に抜け出し、国家規模の市場へとその巨大な翼を大きく広げようとしていた。
父の太く温かい腕の中で笑いながら、私はこの成功がもたらすであろう莫大な富と、これからの輝かしい家族の未来を確信していた。




