⑫暗闇の攻防と決断
ガチャガチャという鍵の音が、死刑執行の足音のように暗闇の部屋に響いた。
「おじさん……!」
ネッドが引き攣った声でアーサーのコートの裾を掴む。
窓のない密室。
逃げ道は、今まさに開かれようとしているその一枚の扉しかない。
(戦うか? いや、駄目だ。ここで騒ぎを起こせば、表にいる何十人もの用心棒が駆けつけてくる)
アーサーの脳裏に、娘クロエの言葉が閃いた。
『本当に恐ろしいのは物理的な暴力じゃないわ。知恵と情報よ、お父さん』
アーサーは瞬時に決断した。
「ネッド、みんな。あの偽装ラベルが積んである木箱の裏に隠れろ。息を殺すんだ。絶対に声を出すなよ」
子供たちは頷き、素早く、そして音もなく木箱の隙間へと潜り込んだ。
アーサー自身は、分厚い裏帳簿をコートの奥深くにねじ込み、鉄の火かき棒を握りしめて、扉の蝶番側の壁――つまり、扉が内側に開いたときに完璧な死角となる壁際へと背中を張り付けた。
直後、重い音がして、扉が開かれた。
「まったく、面倒くせえ……」
酒と葉巻の匂いをプンプンとさせた大柄な男が、片手にカンテラを持って部屋に入ってきた。扉が内側に大きく開かれ、アーサーの巨体を壁との間に完全に隠し込む。
アーサーは呼吸を限界まで浅くし、暗闇の中で男の影を見つめた。
「……あった、あった。これだ」
男は部屋の中央にあるオーク材の執務机に歩み寄り、その上に置き忘れていた高級な葉巻の箱を手に取った。
(よし。そのまま出て行け……!)
アーサーも、木箱の裏の子供たちも、心の中で必死に祈った。
男が踵を返し、扉に向かって歩き出したその時だった。
カンテラの揺れる光が、執務机の足元を照らした。
そこには、先ほどネッドが針金で開錠し、アーサーが裏帳簿を抜き取った「一番下の引き出し」が、ほんの数センチだけ開いたままになっていたのだ。
男の足が止まった。
「……ん? なんで引き出しが開いて……」
男は怪訝そうに眉をひそめ、再び机に歩み寄ろうとした。
もし彼が引き出しの中身を確認すれば、ギルドの命運を握る裏帳簿が消え失せていることに気づき、即座に大声を上げて娼館中の用心棒を呼び寄せるだろう。
猶予は、一秒もなかった。
アーサーは音もなく壁際から離れ、男の背後へと忍び寄った。
長年の工場労働で培われた太い腕。
その筋肉が静かに躍動する。
「おい、誰か……ッ!?」
気配に気づいた男が振り向いて息を吸い込んだ瞬間、アーサーの太い腕が男の首を背後から万力のように締め上げ、もう一方の手で男の口を完全に塞いだ。
「がっ……! むぐぅッ……!?」
男がカンテラを落としそうになるのを、アーサーは足で器用に受け止め、音を立てずに床に置いた。
男は必死に暴れ、アーサーの腕を引っ掻いたが、家族の命を背負った父親の腕力は、酒に酔ったギルドの幹部ごときに振りほどけるものではなかった。
短い、しかし激しい酸欠の抵抗の末、男は白目を剥いて完全に気を失い、アーサーの腕の中でぐったりと崩れ落ちた。
「……ふぅっ」
アーサーは気絶した男を静かに床に横たえ、額に浮かんだ脂汗を拭った。
木箱の裏から、ネッドたちが青ざめた顔で這い出してくる。
「す、すげえよおじさん。音一つ立てずにやっつけちまうなんて」
「感心している場合じゃないぞ。すぐにここをズラかるんだ。この男が戻らないと分かれば、すぐに下の連中が様子を見に上がってくる」
アーサーは床のカンテラを拾い上げ、コートの奥にある二冊の裏帳簿の重みを確認した。
「急ぐぞ。来た時と同じ、使用人の裏階段を使う」
アーサーと子供たちは、気絶した男を部屋に残したまま、廊下へと飛び出した。
だが、運命は彼らに簡単には微笑まなかった。
裏階段へと続く薄暗い廊下を急ぎ足で進んでいた彼らの耳に、階下から複数の重い足音が上がってくるのが聞こえたのだ。
「おい、上の部屋に泥棒が入ったらしいぞ! 裏口の見張りが気絶させられてた!」
「なんだと!? 帳簿の部屋だ! 早く行け!」
下階の喧騒が、一気に殺気立ったものへと変わった。どうやら、エリアの入り口でアーサーが気絶させた見張りが、別の用心棒に発見されてしまったらしい。
階段を下りれば、確実に剣や棍棒を持った用心棒たちと鉢合わせになる。かといって、この廊下に隠れる場所などない。
「おじさん、どうする!? 下から上がってくる!」
ネッドがパニックになりかけるのを、アーサーは強い手で肩を掴んで制した。
「落ち着け。階段が駄目なら、別の道を探すだけだ」
アーサーは素早く周囲を見渡した。突き当たりの壁に、縦長の小さな木の扉があるのを見つけた。
それは、各階から厨房へと汚れたシーツやゴミを落とすための「ダスト・シュート」だった。
「ここだ! ネッド、お前たちならこの穴を通って下の階まで滑り降りられるはずだ! 行け!」
「で、でも、おじさんは!? おじさんの体じゃ、そんな狭い穴通れないよ!」
ネッドの言う通り、アーサーの分厚い肩幅では、そのシュートの穴を通り抜けることは不可能だった。
下からの足音は、もう階段の踊り場まで迫っている。
アーサーは、ネッドの胸に、コートに隠し持っていた『二冊の裏帳簿』を押し付けた。
「おじさん……!?」
「いいか、ネッド。俺のことは気にするな。この帳簿を、絶対にクロエの元へ届けてくれ。これが、俺たち家族と、お前たちの未来を救う唯一の希望なんだ」
アーサーは、真剣な眼差しで少年を見つめた。
「俺が奴らを食い止める。……お前たちの足の速さと路地裏の知識なら、外に出さえすれば絶対に逃げ切れるはずだ。行け!!」
その言葉に、ネッドの目に熱い涙が滲んだ。しかし、ストリートで生き抜いてきた彼は、
ここで躊躇うことが全員の死に直結することを誰よりも理解していた。
「……絶対に、届けるからな! おじさんも、絶対、絶対に逃げ延びてよ!」
ネッドは裏帳簿をしっかりと抱え込み、他の子供たちと共に、ダスト・シュートの暗い穴の中へと次々に滑り込んでいった。
子供たちの姿が見えなくなった直後、廊下の角から、抜き身の刃物を手にした数人の屈強な用心棒たちが姿を現した。
「いたぞ! 泥棒だ!!」
「殺せ! 逃がすな!」
アーサーは、子供たちが逃げたダスト・シュートの扉を背にして立ちはだかった。
彼の手にあるのは、拾った一本の鉄の火かき棒だけ。
相手は殺しに慣れたプロのならず者たちだ。
だが、アーサーの顔に恐怖はなかった。彼の脳裏には、クロエとメアリーの笑顔だけが鮮明に浮かんでいた。
(俺は、白百合商会の社長だ。家族の未来は、俺がこの手で切り開く!)
「来い、クズども!!」
アーサーの咆哮が、雷鳴とともに娼館の廊下に轟いた。




