⑪潜入
カチャリ、と雨音に紛れてくぐもった金属音が響いた。
「開いたぜ、おじさん」
ネッドが闇の中で白い歯を見せて囁く。アーサーは大きく安堵の息を吐き、重い鉄扉をゆっくりと手前に引いた。
彼らが滑り込んだのは、道路と建物の間に設けられた半地下の「エリア」から繋がる、石炭庫だった。
本来であれば歩道に開けられた石炭穴から直接燃料を流し込むための薄暗い貯蔵庫であり、空気中には石炭の粉塵と、ひどいカビの臭いが充満していた。
「足元に気をつけて。ここからは使用人の通路だ」
ネッドの案内で、アーサーと数人の孤児たちは暗闇の中を進む。
大柄なアーサーにとって、使用人たちが身を潜めるように歩くための狭く低い天井の通路はひどく窮屈だった。
しかし、ストリートで生き抜いてきた子供たちは、まるで暗視能力を持ったネズミのように音もなくスルスルと進んでいく。
軋む裏階段を上り、一階の床下に近づくにつれて、頭上から響く音がはっきりと聞こえるようになってきた。
下品な笑い声、グラスが打ち鳴らされる音、調子外れなピアノの伴奏、そして娼婦たちの嬌声。
ここは王都でも有数の高級娼館であり、現在、そのVIPルームを貸し切っているのは他でもない商人ギルドの幹部たちだ。
アーサーたちから不当に奪い取った「白百合の清浄粉」の在庫を売り捌き、莫大な利益を手にした彼らは、その悪銭を使って今まさに狂乱の宴を繰り広げているのである。
(あいつら……俺たちから奪った金で……!)
頭上から聞こえる下劣な笑い声に、アーサーの太い腕に怒りで青筋が浮かんだ。
あの金は、妻のメアリーがアカギレの手から血を流して働き、愛する娘のクロエが小さな頭を必死に絞って稼ぎ出した、家族の命の結晶なのだ。
それを奪い取った連中が、安全な場所で美酒を煽っている。
怒りで我を忘れそうになったアーサーの袖を、ネッドがキュッと引っ張った。
「おじさん、落ち着いて。俺たちの目的は、あいつらをぶん殴ることじゃない。クロエの言ってた『証拠』を持ち帰ることだろ?」
「……ああ、すまない。そうだったな」
アーサーは深く深呼吸をし、己の内に渦巻く怒りを、冷たく鋭い刃へと変えた。
今の自分はただの工場労働者ではない。白百合商会を率い、家族とこの子供たちを守る経営者なのだ。
ここで暴れ回って憂さを晴らすような三流の真似はしない。
クロエの言う通り、奴らの社会的信用を根底から破壊することこそが、最大の復讐になる。
裏階段を上りきり、彼らは娼館の裏手に増築された別棟の廊下へと出た。
表の喧騒からは少し離れたその場所は、奇妙なほど静まり返っていた。
廊下の突き当たりにある重厚なマホガニー材の扉。
そこが、ギルドが秘密裏に借り上げている隠し部屋だった。
「ここだ。……でも、さっきの石炭庫の鍵とは作りが違うぜ。少し時間がかかるかもしれない」
ネッドが扉の鍵穴に細い針金を差し込みながら、額に汗を滲ませた。
この時代の富裕層が使うような複雑な構造の錠前は、ストリートの子供の技術では容易には開かない。
一分、二分と、じりじりとした時間が過ぎていく。
アーサーは廊下の両端に視線を配り、子供たちを自分の背後に隠すようにして立っていた。
もし見張りが来れば、自分の巨体で押し留めてでも、子供たちだけは逃がすつもりだった。
「……よし、開いた!」
カチッという微かな音と共に、扉のロックが外れた。
アーサーは素早く扉を開け、子供たちを促して部屋の中へと滑り込み、すぐに内側から鍵をかけた。
窓のない部屋の中は完全な暗闇だった。アーサーは懐から、光が外に漏れないように覆いがついた小さなランタンを取り出し、火を灯した。
円状の光が部屋の内部を照らし出す。
そこは、豪華な娼館の裏側とは思えないほど殺風景な、事務室のような空間だった。
部屋の隅にはいくつもの木箱が積まれている。
アーサーがランタンの光を向けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「なんだ、これは……」
木箱から溢れ出していたのは、大量の「ラベル」の束だった。
『最高級フランス産・ボルドーワイン』『東インド会社直輸入・最高級絹織物』――大貴族たちが喜んで大金を支払うような、超一流ブランドのラベルの数々。
そしてその横には、悪臭を放つ密造酒の樽や、安物の粗悪な織物の束が無造作に転がっていた。
「クロエの推理通りだ。奴ら、密輸したゴミみたいな粗悪品に、この偽装ラベルを貼り付けて、貴族たちに高値で売りつけていやがったんだ……」
ギルドの強大さの源泉である「上位貴族からの絶大な信用」が、完全に虚構であったことを示す決定的な物証だった。
「おじさん、こっちだ! 机の引き出しに鍵がかかってる!」
ネッドの声に呼ばれ、アーサーは部屋の中央にある頑丈なオーク材の執務机へと向かった。
ネッドが再び針金を駆使して引き出しの鍵を開けると、中からずっしりと重い二冊の革張りの帳簿が姿を現した。
アーサーは震える手でその帳簿を開いた。
最近、クロエから必死に文字と数字の読み方を教わっていたアーサーの目に、そこに並ぶ文字の意味がはっきりと飛び込んできた。
右側のページには、偽装した粗悪品をどの大貴族にいくらで売りつけたかという「詐欺の売上」が。
そして左側のページには、それを黙認させるために、港の税関役人や、王都の治安維持局の警察幹部にいくらの賄賂を渡したかという「裏金の記録」が、一ペニーの狂いもなく克明に記されていた。
「……あったぞ。これだ」
アーサーの顔に、暗い歓喜の笑みが浮かんだ。
「これさえあれば、あの連中の首を法的に刎ね飛ばすことができる。クロエの言った通り、奴らの富と権力の塔を、根元から爆破する最高の火薬だ」
アーサーが二冊の裏帳簿を外套の裏ポケットに深くしまい込み、偽装用のラベルの束を掴み取った、まさにその時だった。
ガチャガチャッ!
突然、彼らが今しがた内側から鍵をかけたばかりの部屋の扉のドアノブが、外から乱暴に回された。
アーサーとネッドたちの身体がビクッと跳ね、一瞬にして全身の血が凍りついた。
「おい、開かねえぞ! 誰か中に入ってんのか!」
扉の向こうから聞こえてきたのは、酒やけした太い男の声だった。
「チッ、あの馬鹿野郎、上物の葉巻をこの部屋にしまったまま鍵をかけやがったな。おい、下の連中に合鍵を持ってこさせろ!」
「わかりました、すぐに!」
廊下を遠ざかる足音と、扉の前に留まる重い足音。
逃げ道はない。窓のないこの隠し部屋で、彼らは完全に袋のネズミとなってしまったのだ。
「お、おじさん……っ」
ネッドたち孤児が、恐怖に顔を引き攣らせてアーサーの足元にすがりつく。
アーサーはランタンの火を素早く吹き消し、完全な暗闇の中で、手元にある太い鉄の火かき棒を力強く握りしめた。
(見つかれば、俺もこの子供たちも確実に殺される。……クロエ、メアリー。絶対に生きて帰ると約束したのにな)
暗黒の密室の中で、ギルドのならず者が合鍵を持って戻ってくるまでの、絶望的な秒読が始まっていた。




