⑩帳簿奪取
冷たい雨が、王都ルンデニウムの石畳を激しく打ち据えていた。
急激な工業化によって都市の空を常に覆い尽くしている石炭の煤煙が、この豪雨によって洗い流されている。
だがその代償として、処理されずに通りを流れる下水と泥の強烈な腐敗臭が、逃げ場のない路地裏に重く立ち込めていた。
深夜二時。
アーサーは、水を吸って重くなった黒い外套のフードを深く被り、息を潜めて暗闇の中に立っていた。
彼の周囲には、ネッドをはじめとする数人のストリートの孤児たちが、まるで夜の闇に溶け込む影のようにピタリと寄り添っている。
彼らの視線の先にあるのは、王都の歓楽街に位置する、一見すると華やかな三階建ての高級娼館だった。
だが、その裏側に増築された窓の少ない別棟こそが、商人ギルドの幹部たちが汚い裏帳簿や、偽造品のラベルを隠し持つ「秘密の金庫」であった。
表通りに面した正面入り口には、ギルドに雇われた屈強な用心棒たちが目を光らせており、力ずくで押し入ることなど到底不可能だ。
(……本当に、俺にこんなことができるのか?)
アーサーは、外套の下で震える自分の拳を強く握りしめた。
つい数ヶ月前まで、彼は巨大な紡績工場で一日十四時間も機械の下働きをし、現場監督の鞭と理不尽な減給に怯えるだけの無力な平民だった。
ギルドのならず者に路地裏で囲まれた時も、ただ殴られ、大事な商品を川に捨てられるのを黙って見ていることしかできなかった男だ。
だが、彼の脳裏に、すべてを失って絶望する自分に向かって「お父さんをこの王都で一番立派な社長にしてみせる」と力強く微笑んだ、愛する娘クロエの顔が蘇る。
『大人の足と腕力なら、万が一見張りがいても突破できるわ。お父さん、お願い』
娘は自分を信じて、この危険な任務を託してくれたのだ。
家族の未来と、自分たちを慕ってくれるこの孤児たちの命運が、今、自分の両腕に懸かっている。
もしここで捕まれば、窃盗と不法侵入の罪で縛り首になるかもしれない。だが、逃げ出すという選択肢はすでにアーサーの中から消え去っていた。
彼の目から恐怖が消え、父親としての、そして商会のトップとしての強靭な覚悟が宿る。
「ネッド、打ち合わせ通りにいけるか?」
アーサーが雨音に紛れて小声で囁くと、泥だらけの少年は自信ありげにニヤリと笑った。
「任せておけよ、おじさん。俺たちストリートのネズミに、入れない隙間はねえからさ」
彼らが狙うのは、厳重に警備された一階の裏口ではない。
当時のタウンハウス特有の建築構造である「エリア」と呼ばれる、道路から一段下がった半地下の空間だった。
そこは使用人専用の出入り口や、暖炉の燃料となる石炭を運び込むための石炭庫が設けられている場所だ。
通常、道路の歩道からは鉄柵で仕切られており、石炭は荷車から直接「コール・ホール(石炭用の穴)」を通じて地下の貯蔵庫へ流し込まれる仕組みになっていた。
ネッドの合図で、孤児たちは音もなく動き出した。
雨音と雷鳴に紛れ、彼らは歩道に設置された鉄柵を身軽に乗り越え、半地下の「エリア」へと滑り降りる。
アーサーも巨体を屈め、足音を殺して子供たちに続き、暗い階段を下りた。
半地下の勝手口の横には、泥酔したギルドのならず者が一人、雨を避けながらパイプを吹かして見張りに立っていた。
アーサーが息を呑み、力ずくで気絶させるべきか迷ったその瞬間。
ネッドと別の少年が、あえて見張りの視界の端を横切るようにして、積まれていた空の木箱を蹴り倒した。
「ああん!? どこのクソガキだ!」
ならず者が舌打ちをしてパイプを捨て、少年たちを捕まえようとエリアの奥へと数歩踏み出す。
その見事な連携による一瞬の死角を突き、アーサーは巨体を滑り込ませて男の背後を取った。
工場労働で鍛え上げられた太い腕が男の首を締め上げ、悲鳴を上げる隙も与えずに一瞬で気絶させる。
アーサーは崩れ落ちる男の体を支え、音を立てずに地面に寝かせた。
「……ふぅ。助かったよ、ネッド」
アーサーが安堵の息を吐くと、ネッドは得意げに親指を立て、石炭庫へと通じる古びた鉄扉の前に立った。
「さあ、ここからが本番だ。クロエの言った通りなら、この奥の石炭庫から、幹部たちが使ってる一階の隠し部屋に直接繋がってるはずだぜ」
ネッドはズボンの裏から細い針金を取り出し、雨で錆びついた真鍮の錠前に差し込んだ。
カチャリ、カチャリと、雨音に混じって微かな金属音が響く。
アーサーは周囲を警戒しながら、自分の心臓が早鐘のように打つのを感じていた。
ここを突破すれば、もう後戻りはできない。ギルドの心臓部へ向けた、血を流さない戦争の最大の山場が、今まさに幕を開けたのだ。




