第9話 犬になった店長
金曜の朝六時。研究室の窓から、白い光が差し込んでいた。
隼人は、机の上に広げたノートから顔を上げた。目の奥が、じんじんと痛む。一晩中、細かい字を追い続けたせいだ。
喉が渇いたな。
昨日、会社帰りに買っておいたスポーツドリンクがあったはず。隼人は、ノートの山の脇を手探りした。指先に、ひんやりとしたものが触れる。茶色いガラスの小さな瓶があった。栄養ドリンクによく似た形をしている。
ラベルが2枚貼ってあり、片方には製造日らしい日付と、成分が書かれているようだが、細かすぎて霞んだ眼では読み取れない。もう一枚の方の文字は大きく、はっきり読めた。
〈強壮薬〉
「……ちょうどいい」
徹夜明けの頭は、それ以上何も考えなかった。隼人はキャップをひねり、一気に飲み干した。甘くて少しだけ苦い。ときどき飲む、ファイト・一発のコマーシャルで有名なやつより効きそうな味がした。
自分で買ったスポーツドリンクのペットボトルは、ノートの山の向こう側に、未開封のまま転がっていた。
◇
異変は五分後に起きた。
頭のてっぺんが、むずむずする。腰のあたりも、むずむずする。隼人は、研究室の窓ガラスに映る自分の姿を見た。
頭の上に、耳が生えていた。茶色くて、三角で、ぴんと立った、犬の耳。
「……はい?」
振り返ると、腰のあたりで何かがぱたぱたと揺れていた。
ふさふさの尻尾だった。
「はああああああ!?」
◇
隼人の叫び声で店じゅうが目を覚ました。
研究室を飛び出した隼人が控え室に駆け込んだ瞬間、部屋は地獄と化した。
棚の上で寝ていた白猫のゆきが、毛を逆立てて天井近くまで跳ね上がった。窓辺のキジトラのとわは、カーテンを駆け上がってレールにしがみつく。段ボール箱の中では、黒猫のくるみが、箱の隅で小さく丸まって震えている。
「いやああああ!犬ー!」
人間の姿のまま寝ていたみかんが、ソファの背もたれの上に飛び乗って叫んだ。
「ち、違います!俺です!店長です!」
隼人が両手を上げて一歩近づくと、猫たちの悲鳴がさらに大きくなる。
そこへ、控え室の奥から鈴が出てきた。鈴は、隼人の頭の上の耳と、腰の後ろの尻尾を、交互に見た。それから、部屋じゅうの猫たちの鳴き声に耳を傾けた。
「……『でっかい犬!』 『食べられる!』 『新入りが、ついに本性を現した!』 と言ってます」
「本性って何ですか!」
カーテンレールの上から、とわが威嚇の声を上げた。棚の上のゆきは、低くうなり続けている。くるみは、段ボール箱の奥で、もう姿も見えない。
隼人は部屋の真ん中で呆然と立ち尽くした。三週間かけて少しずつ距離を縮めてきたつもりだった。ゆきの好きなおやつも、くるみが安心する箱の置き場所も、とわが窓から出られない網戸の張り方も、全部覚えたのに。
それが、たった五分で振り出しに戻った。
「……やっぱり、猫と犬って、仲悪いんだ」
頭の上の耳が、ぺたんと伏せた。腰の後ろの尻尾が、だらりと床に垂れ下がる。
隼人は、ふと、鈴を見た。猫と犬。ただでさえ、猫に恋をしているのだ。そのうえ自分が犬だったなんて。
「猫と犬じゃ、なおさら無理か……」
思わず漏れたつぶやきとともに、隼人の耳と尻尾が、さらに深く沈み込んだ。
◇
「……あなた、犬の遺伝子を持ってたのね」
大騒ぎの部屋を完全に無視したかのような静かな口調だった。
顔を上げると、鈴が隼人のすぐ前に立っている。ほかの猫たちが部屋の隅に逃げている中で、鈴だけは一歩も引いていない。
「遺伝子……」
「昨日、話しましたよね。薬は体の中にある少ない方の遺伝子を強める。あなたが飲んだのは、それです。猫の子たちが人間になるのと同じで、あなたの中にある犬の遺伝子が表に出てきたんです」
「俺、犬なんですか」
「ほんの少しだけ。だから鼻がいいんですね」
鈴は、隼人の頭の上の耳をまじまじと見上げた。
「とわの匂いが分かったのも、たぶん、そのせいです」
鈴の声は、いつもどおり淡々としていた。そして、逃げなかった。怖がらなかった。この部屋で、鈴だけが、まっすぐ隼人を見て、話しかけてくれている。
ぱたぱたぱたぱたぱた。
腰の後ろで、何かが猛烈な勢いで揺れ始めた。
尻尾だった。
隼人の意思とは関係なく、ちぎれんばかりの勢いで左右に振れている。犬が大好きな人に出会った時のあれ、だ。床に置いてあった猫用のおもちゃが、尻尾に払われて、ころころと転がっていった。
「ちょ、止まれ、止まれって……!」
隼人は両手で尻尾を押さえようとしたが、尻尾はその手をすり抜けて、ますます激しく揺れた。
「なんで止まんないんだよぉ」
隼人が情けない声を出すと、鈴が、ふいと顔をそむけた。
「……うるさいです、それ」
「すみません!勝手に動くんです!」
そっぽを向いた鈴の頬が、ほんの少しだけ赤い。
そのとき、事務所の方から、ハチワレの湯島がのそのそと歩いてきた。騒ぎの元をちらりと一瞥すると、大きなあくびをひとつして、また事務所へ戻っていく。
この店で、隼人が犬になったことに驚かなかったのは、鈴と湯島だけだった。
◇
悪いことは重なる。
午前十時。店の開店時間だった。薬の効き目は、まだ切れていなかった。耳も尻尾も、しっかり生えたままだ。
ちりん、とドアベルが鳴った。
「おはようございまーす。とわさん、予約した佐伯です」
隼人は、受付のカウンターの陰で凍りついた。隠れる場所はない。帽子もない。尻尾は相変わらず勝手にぱたぱた揺れている。
はたして、佐伯の目が隼人の頭の上で止まる。
「……店長さん。それ」
覚悟を決めた。営業で鍛えた最高の笑顔を作って言い切る。
「本日は、コスプレデーです!」
一瞬の沈黙。
「……え、すごい!尻尾、動いてる!どうなってるんですか、これ!」
佐伯は目を輝かせてカウンターに身を乗り出した。
「最新の技術なんです」
「写真撮っていいですか!」
その日、隼人の「コスプレ」を見た客たちが次々と写真をSNSに投稿し、店の予約サイトへのアクセスは、開店以来の最高を記録した。
みかんは、どこからか猫耳のカチューシャを見つけてきて、自分も頭につけ、ちゃっかり隼人の横で写真に収まっていた。
◇
翌日の夕方。
薬の効き目はすっかり切れて、隼人の頭から耳は消え、腰から尻尾も消えていた。
それでも、猫たちの警戒は解けなかった。ゆきは棚の上から降りてこないし、とわはカーテンレールから下りるのに半日かかった。
隼人は控え室の床に座り込んで、ため息をついた。また、一から信用を積み直すしかない。
そのとき、視界の端で何かが動いた。段ボール箱から黒い頭が、そっと出てくる。
くるみだ。
くるみは箱から這い出すと、おそるおそる、隼人の方へ近づいてきた。一歩進んでは止まり、隼人の匂いを確かめるように鼻をひくつかせ、また一歩進む。
隼人は息を止めて、じっとしていた。
くるみは、隼人から猫一匹ぶんくらい離れたところで、ぴたりと止まり、それから、ちょこんと座った。隼人の隣に。
隼人は手を伸ばしかけて、やめた。くるみは、それでいいのだ。この距離が今のくるみの精一杯なのだ。
「……ありがとう、くるみさん」
くるみは隼人の方を見ずに、小さく一度だけ尻尾を揺らした。
部屋の入口で、その様子を見ていた鈴は、何も言わずに控え室を出ていった。その横顔が、ほんの少しだけ、やわらいでいた。




