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第8話 戻れない猫カノ

 木曜の夜九時。閉店の時間を過ぎても、控え室のソファの上には茶色い髪の女の子が寝そべっていた。


「みかんさん、そろそろ猫に戻る時間じゃないですか」

「んー、戻んない」

「戻んない、って」

「戻れないの。さっきから、ずーっと」


 みかんはソファの上でごろりと寝返りを打った。いつもなら、とっくに茶トラの猫になって、マグロ缶の空き缶を前足で転がしている時間だ。


 ゆきも、くるみも、とわも、すでに猫の姿に戻っている。三匹は少し離れたところから、みかんの様子をじっとうかがっていた。


「え?それって、いつもと違うということですよね?どこか、痛いとか、苦しいとかは」

「ぜんぜん。むしろ、お腹すいた」


 みかんの視線が、隼人の手元に注がれた。会社帰りに買ってきた、コンビニの唐揚げ弁当だ。弁当の入った袋から立ち昇る美味しそうな匂いに、隼人のお腹が鳴る。


「……それ、ちょうだい」

「いやいや、これ、俺の晩ごはんで」

「ちょうだい」


 有無を言わさず弁当を奪い取ると、みかんは割り箸を器用に割って唐揚げを頬張った。


「おいしい!人間のごはん、めちゃおいしい!」


 幸せそうに唐揚げを平らげると、みかんはそのまま事務所のソファに移動して、人間の姿のまま、すうすうと寝息を立て始めた。


 隼人は、空になった弁当の容器を手に途方に暮れた。お腹が早く飯よこせと言うかのように、もう一度鳴った。


 ◇


「副作用です」


 事務所の入口の方から声がした。鈴だ。


 このところ、鈴は隼人と目を合わせない。事務所で二人きりになるのも避けている。けれど、今日ばかりは、そうも言っていられないようだった。


「副作用?あの薬の、ですか」

「はい。……少し、長い話になりますけど」


 鈴は事務所の机の上にあった裏紙を一枚取ると、ボールペンで丸を二つ描いた。大きな丸と小さな丸。


「生き物の体には遺伝子っていう設計図が入っています。みかんの体の設計図は、ほとんどが猫のものです。でも、ほんの少しだけ人間の設計図も混ざっているんです」


 鈴は小さな丸をペンの先で軽く叩いた。


「ふだん、この小さい方は眠っています。スイッチが切れている状態です。あの薬は、眠っているスイッチを一時的に入れる薬なんです」

「だから、人間の姿になれる」

「はい。薬が切れれば、体が自分でスイッチを切って猫に戻ります」


 隼人は裏紙をのぞき込んだ。


「じゃあ、どの猫でも薬を飲めば人間になれるんですか」

「いいえ。人間の設計図が、ある程度残っている子だけです。小さい丸がなければスイッチもありませんから。この店にいるのは、そういう子たちです」


 鈴は二つの丸のあいだに、細い線を一本引いた。それから、同じ線を何度も何度もなぞった。線は、だんだん太く、濃くなっていく。


「草むらを毎日同じところだけ歩くと、道ができますよね」

「……獣道、みたいな」

「そうです。道ができると、そっちを歩くのが当たり前になって、草むらに戻すのが難しくなる。体も同じなんです。何度もスイッチを入れているうちに、入っている状態に体が慣れてしまう。切るのに時間がかかるようになるんです」


 鈴はペンを置いた。


「みかんは、この店で一番長く、一番たくさん、薬を使ってきた子です。だから、体の方が人間の姿を当たり前だと思い始めている。今日、戻れないのは、そのせいです」


 隼人は太くなった線を、しばらく黙って見つめていた。設計図が書き換わったわけではない。ただ、何度も通った道が、元に戻らなくなっている。そう考えると理屈は、すとんと腹に落ちた。


 鈴の説明は淀みがなかった。まるで、何度も人に教えたことがあるみたいに。まじまじと鈴の顔を見た。


「鈴さん詳しいんですね」


 鈴の口が一瞬止まった。


「……湯島先生に教わったので」

「なるほど」


 猫なのに遺伝子の話がこんなに分かるなんて。鈴さんはやっぱり賢いんだな、と感心した。


「じゃあ、早く戻してあげないと」


 隼人は事務所のソファで眠るみかんを振り返った。


「戻す方法ありますよね。湯島さんの研究室に、何か――」

「やだ」


 ソファの上から声がした。みかんが薄目を開けて隼人を見ている。


「戻りたくない」

「え?」

「あたし、この姿、好き」


 みかんは毛布にくるまったまま、ゆっくりと体を起こした。


「人間の手って、便利なんだよ。お箸も使えるし、ドアも開けられるし。唐揚げも食べられるし。須藤さんとも、久保田さんとも、いっぱいおしゃべりできる」


 みかんは自分の手のひらを、ぐーぱーと開いたり閉じたりしてみせた。


「猫のときも楽しいよ。でも、人間のときの方が、もっと楽しいの。だから、戻りたくない」


 隼人は返す言葉に困った。


「でも、副作用なんですよ。体に何かあったら――」

「決めるのは、みかんです」


 静かな声。鈴が隼人をまっすぐに見ていた。この数日で初めて、目をそらさずに。


「店長が決めることじゃありません」


 隼人は、はっとした。戻してあげなきゃ。そう思ったのは、みかんのためだったのか。それとも、猫は猫の姿でいるのが正しい、と自分が勝手に決めつけていただけなのか。

 

 みかんの前にしゃがみ込んだ。


「……ごめん、みかんさん。勝手に決めようとしてた」

「いいよ。唐揚げくれたし」

「くれたんじゃなくて、取られたんですけど」


 みかんは、けらけらと笑った。


 ふと顔を上げると、事務所の入口で、鈴がほんの少しだけ目元をゆるめている。笑った、わけではない。それでも、この数日の、あの冷たい空気が少しだけ溶けたようだ。


 ◇


「でも、それなら」


 事務所を出ようとした鈴の背中に、隼人は声をかけた。


「鈴さんも、そうなんですよね。薬を使ってるんだから、人間でいられる時間が、だんだん長くなるってことですよね」


 その言葉に鈴の足が止まる。


「……そうかも、しれませんね」


 背中を向けたまま鈴は答えた。


「よかった」


 隼人は思わず笑みをこぼした。


「それなら今よりもっと長く、一緒にいられますね。土曜のデートも途中で帰らなくてよくなるかもしれないし」


 鈴は目線を廊下の方に向けたまま、何も答えない。しばらくして、「おやすみなさい」とだけ言うと、鈴は控え室の奥へ消えていった。


 ◇


 控え室の奥の小部屋。


 鈴は壁に貼った小さなカレンダーの前に立っていた。日付の横に細い字で数字が書き込まれている。人間の姿でいられた時間だ。


 十二時間。十一時間半。十一時間。十時間四十分。


 数字は少しずつ、確実に小さくなっている。みかんとは逆だった。


 ――今よりもっと長く、一緒にいられますね。


 鈴はカレンダーにそっと指を当てた。それから、今日の日付の横に新しい数字を書き込んだ。


 十時間二十分。


 ◇


 その夜、隼人は終電を見送った。


 みかんは戻りたくないと言う。それなら、その気持ちを尊重する。けれど、副作用がこの先どうなるのか、何も知らないまま放っておくわけにはいかない。


 隼人は、事務所の奥にある、湯島の研究室のドアを開けた。壁一面の棚に、薬瓶やガラス器具が、ぎっしりと並んでいる。机の上には、手書きのノートが何冊も積み上げられていた。難しい化学式と走り書きのメモ。半分も意味が分からない。

 

 それでも、隼人はノートを一冊ずつ開いてみた。営業の資料なら、何百枚でも読んできたが、勝手が全く違う。分からない言葉はスマートフォンで調べ、分かったことはメモに書き留める。


 研究室の窓が、少しずつ白んでいく。

 

 気づけば夜が明けようとしていた。

 

 隼人は、ぼやける目をこすった。棚の上の薬瓶が、朝の光を受けて琥珀色にきらめいている。

 

 喉が、からからに渇いていた。

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