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第7話 いい匂い

 鈴が冷たい。


 いや、もともと愛想のいい人ではない。笑わないし、口数も少ないし、気に入らないことがあれば容赦なくツッコミを入れてくる。


 それでも、ここ数日の鈴は明らかに何かが違った。隼人が事務所に入ると、鈴は予約表を持って出ていく。控え室で隣に座ろうとすると、すっと立ち上がって、とわの毛づくろいを始める。話しかけても、返事は「はい」か「いいえ」か「知りません」のどれかだった。


 とわを探しに公園へ行った日までは普通だったはずだ。あの日、帰り道では隣を歩いてくれていた。


「……俺、何かしたかな」


 受付のカウンターで隼人は頭を抱えた。


「店長、嫌われたー」


 みかんがカウンターの向こうから身を乗り出して、にんまり笑った。


「嫌われてないです。……たぶん」

「えー、でも鈴ちゃん、店長が来ると、ほら」


 みかんが指さした先で、ちょうど控え室から出てきた鈴が、隼人と目が合った瞬間、くるりと方向転換して戻っていった。隼人は、カウンターに突っ伏した。


 ◇


 その日の夕方、新規の客がやってきた。


 ドアベルが鳴るより先に隼人には分かった。匂いだ。階段の下から濃い香水の匂いが、波のように押し寄せてくる。甘くて、重くて、鼻の奥に直接ねじ込まれるような匂い。


 ドアが開いた。


「どうも、予約した須藤です。みかんちゃん、お願いしまーす」


 三十代くらいの、日焼けした陽気な男性だった。首元からも、手首からも、ジャケットの裾からも、同じ香水の匂いが立ちのぼっている。


「い、いらっしゃいませ……」


 隼人の視界の端が、じわりと白く滲んだ。こめかみの奥で、鈍い痛みが脈を打ち始める。


 控え室の方から、くしゅん、と小さなくしゃみが聞こえた。続けて、もうひとつ。さらにもうひとつ。ゆきと、くるみと、とわだ。人間の姿のまま三人そろって鼻を押さえている。


 そして、受付に呼ばれたみかんは、須藤の前に立った瞬間、顔をしかめて後ずさった。


「……やだ。この人、くさい」

「みかんさん!」


 隼人は慌ててみかんの前に立った。須藤はきょとんとしている。


「え、俺?くさい?香水ちゃんとつけてきたんだけどな」

「た、大変失礼しました!」


 隼人は頭を下げた。頭を下げると、こめかみの痛みがさらに増した。


 断るのは簡単だ。けれど、須藤は悪い人ではない。レンタル彼女に会うのが楽しみで、精一杯おしゃれをしてきただけなのだ。


 隼人は受付の下に置いてある自分の鞄を開けた。中には昼間の営業で配り歩いている、取引先の新商品のサンプルが入っている。


「須藤さん。実は、うちの子たち、香りにものすごく敏感でして」


 隼人はサンプルの袋を差し出した。


「よろしければ、こちらを。スポーツ用の無香料の汗拭きシートです。首元と手首を拭いていただくだけで、だいぶ変わると思います」

「え、なんでそんなもん持ってるの」

「本業が、スポーツ用品の営業なもので」


 須藤は、ぶはっと吹き出した。


「店長さん、本業あるんだ?確かにスポーツ絡みそうないい身体しているよね。面白いな、この店」


 須藤は気を悪くするどころか、楽しそうに首元をごしごし拭き始めた。何枚か使ったあとには、香水の匂いはずいぶん薄くなっていた。


 みかんが、おそるおそる鼻を近づける。


「……うん。これなら、平気」

「よっしゃ!」


 須藤は、みかんと腕を組んで、意気揚々と出かけていった。帰ってきたときには次の予約を二回分入れていった。


 その夜、隼人は店の入口に手書きの貼り紙をした。


〈当店の女の子は、香りに敏感です。ご来店の際は香水をお控えください〉


 あとになって、この貼り紙が「cat's pawの女の子たちは無香料派」と常連の間で話題になり、香りの苦手な客まで呼び込むことになるのだが、それはもう少し先の話だ。


 ◇


 須藤を見送ったあとも頭痛は引かなかった。ふらつく足で事務所に逃げ込んだ。

 

 鈴がいた。机に向かって帳簿をつけている。隼人が入ってきたのに気づくと、一瞬だけ顔を上げて、すぐに目を伏せた。また出ていくのだろう、と思った。でも、鈴は動かなかった。


 隼人は、壁に手をついて、ずるずるとしゃがみ込んだ。目の奥が、まだちかちかする。鼻の奥に甘い香水の残り香がこびりついている。


 ふわりと別の匂いがした。日なたの匂い。干したての布団と縁側を混ぜたような。


 気がついたら、隼人は鈴の肩口に顔を寄せていた。深く、息を吸い込む。鼻の奥の重たい匂いが、すうっと洗い流されていく。こめかみの痛みが、波が引くように遠ざかっていく。


「……何、してるんですか」


 すぐ耳元で低い声がして、我に返った。自分の顔が鈴の首筋から五センチのところにある。


「うわっ!す、すみません!」


 ほとんど後ろに転がるようにして飛びのく。


「ち、違うんです、変な意味じゃなくて!頭が痛くて、鼻がおかしくなってて、それで、鈴さんの匂い、すごく落ち着くんです!」


 言ってから、隼人は自分が何を言ったのかに気づいた。しーんと静まり返る事務所。


「……今の、もっと変な意味に聞こえますね」

「聞こえます」


 鈴は帳簿で顔の下半分を隠していた。帳簿の上からのぞく耳が真っ赤だ。


「出ていってください。今すぐ」

「は、はい!」


 隼人は事務所から転がり出た。

 

 廊下に、ゆきがいた。冷たい目で隼人を見た。


「……変態」

「聞いてたんですか!?」


 ◇


 翌日。


 出勤してきた鈴とすれ違ったとき、隼人は、おや、と思った。匂いが違う。いつもの日なたの匂いの上に、もっと濃い、獣っぽい匂いが重なっている。控え室の猫用ベッドの匂いだ。まるで、ベッドの上を転げ回ってきたみたいな。よく見ると、鈴の白いカーディガンの背中に、茶色い猫の毛が何本もくっついている。

 

「今日の鈴さん、いつもより猫っぽい匂いですね」


 鈴の肩が、ぴくりと跳ねた。


「……猫なので」

「ですよね」


 隼人は少しだけほっとした。鈴の態度は相変わらず素っ気なかったが、少なくとも、避けられることはなさそうだった。ただ、と隼人は思った。いつもの日なたの匂いの方が好きだな。そんなこと言ったら睨まれそうだけど。


 ◇


 その夜は遅くまで帳簿と格闘していた。


 昼の営業の報告書と、夜の店の売上表。二つの数字を行ったり来たりしているうちに、終電の時間はとっくに過ぎていた。


 隼人は控え室のソファに毛布を持ち込んで、そのまま横になった。店長になってから合鍵を預かっている。こうして店に泊まり込むのも、もう三回目だった。


 どれくらい眠っただろう。


 かたん、と小さな物音がして、隼人は目を覚ました。部屋は真っ暗だった。猫たちの寝息が、あちこちから聞こえる。


 そのとき、廊下の奥から、声がした。


「――もう少しだけ待っていておくれ」


 低く、穏やかな男の人の声。隼人は跳ね起きた。あの声を知っている。


 足音を忍ばせて廊下を進み、事務所のドアを、そっと押し開ける。窓から差し込む街灯の光が、机の上の写真立てを照らしていた。窓辺で日なたぼっこをする灰色の猫の写真。


 その前に、ハチワレが一匹、ちょこんと座っていた。ほかには誰もいない。床の上に白衣がくしゃりと落ちていた。椅子の背に掛けてあったはずの、湯島の白衣だった。


「……湯島さん?」


 ハチワレは、ゆっくりと振り返った。街灯の光を受けて黄色い目が二つ、静かに光る。

 

 それだけだった。隼人は、しばらくその目を見つめていた。それから、白衣を拾い上げて、椅子の背に掛け直した。


「……疲れてるな、俺」


 夢を見たのだ。きっと、そうだ。隼人はソファに戻って毛布をかぶった。


 事務所の暗がりで、ハチワレは隼人が眠りにつくまで、じっとその背中を見つめていた。


 ◇


 控え室の奥の小部屋。


 座布団の上で、三毛猫が一匹、薄く目を開けていた。すぐそばに空になった小瓶がひとつ、転がっている。


 あの人が店に泊まる夜は、朝まで猫でいなければならない。


 三毛猫は自分の前足に、そっと鼻を近づけた。今朝、出勤する前に、みかんの猫用ベッドの上を何度も転げ回った。人間の姿のままカーディガンごと。毛だらけになった背中を鏡で確かめて、それでも足りない気がして、もう一度転がった。


 ――鈴さんの匂い、すごく落ち着くんです。


 あの人の鼻は、ごまかせない。とわの匂いをたどって公園の木の下まで、まっすぐ歩いていった鼻だ。


 自分の匂いは、ほかの子たちとは違う。猫の匂いではなく人間の匂いだ。いつか、あの人がそれに気づいてしまったら。だから、猫の匂いで上から隠すしかなかった。


 ――今日の鈴さん、いつもより猫っぽい匂いですね。


 気づかれなかった。そう思って、ほっとしたはずだった。それなのに、あのとき、あの人の顔が、ほんの少しだけ残念そうに見えたのは、なぜだろう。


 三毛猫は、ソファから聞こえてくる隼人の寝息に耳を澄ませながら、小さく丸くなった。

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