第6話 とわ、失踪
土曜の午後一時。事務所の電話が鳴った。
「た、大変です!とわさんが、いなくなりました!」
受話器の向こうで、若い男性の声が裏返っていた。とわの常連客の、佐伯という大学生だ。公園でのデートの最中だったらしい。
「ベンチでお弁当を食べてたら、急に『あっ』て言って、走っていっちゃって。鳩を追いかけてたと思うんですけど、気づいたらもう、どこにも……」
「すぐ行きます!」
隼人は受話器を置くと同時に、上着をつかんだ。
「私も行きます」
鈴が、もう靴を履いていた。
◇
駅前の大きな公園は、土曜の午後らしく、家族連れでにぎわっていた。
噴水の前で、佐伯が青い顔をして立っているのが見えた。手には、食べかけのお弁当の包みを持ったままだ。
「すみません、俺が目を離したせいで……」
「佐伯さんのせいじゃないです。うちの子が、ご迷惑をおかけしてすみません」
隼人は頭を下げてから、あたりを見回した。芝生、遊歩道、木立、池。とわが行きそうな場所は、いくらでもある。人の匂い、芝生の匂い、池の水の匂い、屋台の焼きそばの匂い。いろんな匂いが、風に乗って混ざり合っている。
その中に、一筋だけ、知っている匂いがあった。干し草と、陽に焼けた木の皮のような匂い。とわが店の窓辺でうたた寝しているとき、いつもしている匂いだ。
「……こっちな気がする」
隼人は、迷わず木立の方へ歩き出した。
「え、店長さん、どこへ……」
佐伯が、おろおろと隼人と木立を見比べた。追いかけるべきか、ここで待つべきか、決めかねている。
少し先で振り返った隼人の目に、鈴が佐伯の前に立つのが見えた。鈴は、近くの自動販売機で買ったらしい温かいお茶の缶を、佐伯の手に握らせて言った。
「とわは、佐伯さんを置いていったんじゃありません。鳥を見ると、体が勝手に動いてしまう子なんです。必ず連れて戻りますから、ここで待っていてください」
佐伯は、缶を両手で包んで、こくりと頷いた。真っ青だった顔に、少しだけ色が戻ってくる。それから鈴は、何も言わずに、隼人の後ろについてきた。
木立の奥へ進むほど、匂いは濃くなっていく。やがて、ひときわ大きなケヤキの木の下で、隼人は足を止めた。見上げると、太い枝の上に、キジトラ柄のパーカーを着た女の子が、しゃがみ込んでいる。
とわ、だった。身を低くして、さらに上の枝にとまった鳩を、じっと見つめている。人間の姿のまま、どうやってあそこまで登ったのか、隼人には見当もつかなかった。
「とわさん!」
「しっ。今、いいところ」
どこかで聞いたような台詞が返ってくる。そのとき、鳩が、ばさりと飛び立った。とわは、名残惜しそうにそれを見送ると、ようやく下を見た。
「あ、店長。鈴ちゃんも」
「降りてきてください。佐伯さん、すごく心配してましたよ」
とわは、少しだけ首をかしげ、枝の上から、ひょいと飛び降りた。
「ちょ、ちょっと待った!」
かなりの高さだ。隼人は思わず両腕を広げたが、とわは隼人の腕に触れることもなく、すとん、と猫のように身軽に着地した。広げた腕の行き場がなくなって、隼人はそのまま、ぎこちなく腕組みをした。
鈴が隼人の顔を見つめた。
「……なんで匂いで分かるんですか」
「え?」
「さっき。迷わず、まっすぐここに来ました」
「え、分かりません?とわさんの匂い、けっこう分かりやすいと思うんですけど」
鈴は何か言いかけて止まった。じっと隼人を見つめる目が、少しだけ細くなった。
◇
噴水の前に戻ると、佐伯が、お茶の缶を握りしめたまま駆け寄ってきた。
「とわさん!よかった……!」
とわはパーカーのポケットから何かを取り出して、佐伯に差し出す。
鳩の羽根だった。
「あげる。さっき、取れなかったから、その代わり」
「……え、あ、ありがとう」
佐伯は、きょとんとしたまま羽根を受け取った。照れ臭そうに笑ってから、いそいそと、その羽根を胸ポケットに差した。
佐伯と別れ、店に戻る帰り道、隼人はとわに声をかけた。
大事にはならなかったからよいものの、店長として注意しなければ。
「とわさん。叱るつもりはないです。でも、お客さんを置いていくのは、やめてほしい」
「鳥がいたら、無理」
悪びれもせず即答する、とわ。
「鳥を見たら体が勝手に動くの。我慢しようと思っても気づいたら走ってる」
隼人は、少し考えた。とわは、わざと迷惑をかけているわけではない。鳥を追いかけるのは、とわにとって、くしゃみみたいなものなのだ。我慢させるより鳥がいない場所を選べばいい。
「じゃあ、とわさんのデートは屋内にしましょう」
「屋内?」
「とわさん、高いところに登るの好きですよね」
隼人の頭に浮かんでいたのは、営業で担当している取引先のひとつ、屋内のボルダリングジム。壁一面にカラフルなホールドがついていて、天井近くまで登れる。もちろん、鳥はいない。
翌週、とわと佐伯のデートは、ボルダリングジムで行われた。とわは壁を猫のように駆け上がり、天井近くのいちばん難しい課題をあっさり登りきった。ジムの常連たちがどよめき、佐伯は下から、ちぎれんばかりに拍手をしていた。
「とわさん、すごい!すごすぎです!」
とわは、壁のてっぺんから、得意げに尻尾を――いや、パーカーの裾を揺らした。
佐伯の次の予約は、その場で三回分入った。
◇
その夜。
閉店後の事務所で、隼人は一人、帳簿をつけていた。机の端では、ハチワレの湯島が、香箱座りで目を閉じている。湯島が猫になってから、事務所の椅子の上が、すっかり湯島の定位置になっていた。
隼人は、ペンを置いた。
「……湯島さん。ちょっと、相談してもいいですか」
ハチワレが、片目だけ開けた。
「猫に本気で恋をするのって、さすがに、まずいですよね」
ハチワレは何も言わない。
「いや、分かってるんです。鈴さんは猫で、俺は人間で。普通に考えたら、おかしいです。でも、好きなんです。どうしても」
隼人は机に頬杖をついた。
「鈴さん、今日も、すごかったんですよ。俺、とわさんを探すことで頭がいっぱいで、佐伯さんのこと、ほったらかしにしちゃってたんです。営業なのに、お客さんのことを忘れてた」
自分の頭をかきながら続ける。
「そしたら鈴さんが、佐伯さんにお茶を渡して、とわさんは置いていったんじゃないって、ちゃんと説明してくれてて。佐伯さん真っ青だったのに、戻ったときにはもう落ち着いてたんですよ。あれがなかったら、佐伯さん怒って帰ってたかもしれない。次の予約なんて入らなかったと思います」
ハチワレは両目を開けて、じっと隼人を見つめていた。
「それに、店長になる前の最後の土曜のデートのとき。柔軟剤の香りがきつい人たちとすれ違いそうになったとき、鈴さん、俺の袖を引いて空いてる道に連れてってくれたんです。強い匂いに弱いのを話したこともなかったのに」
きつい香りを思い出し、思わず顔をしかめる。
「あのときは、偶然だと思ってました。でも、今日、鈴さんに『なんで匂いで分かるんですか』って聞かれて、ちょっと思ったんです。もしかして、鈴さん、俺が匂いに敏感なの気づいてたのかなって」
ハチワレは、ゆっくりと一度だけまばたきをした。
「……それ、どういう意味ですか」
ハチワレは大きなあくびをひとつしてから、前足に顎を乗せて、また目を閉じてしまった。
「湯島さーん……」
隼人は机に突っ伏した。
「せめて、まずいかまずくないかだけでも教えてくださいよ……」
返事の代わりに、ハチワレの尻尾が一度だけ、ぱたりと机を打った。
◇
事務所のドアの外。
廊下の壁に背中をつけて、鈴は両手で口元を押さえていた。キャットフードの補充を頼もうと思って、事務所に来ただけだった。ドアが少し開いていて、隼人の声が聞こえて、気づいたら足が動かなくなっていた。
――好きなんです。どうしても。
頬が熱い。耳まで熱い。
あの日、袖を引いたのは偶然なんかじゃなかった。改札で待っていた隼人が、鼻の下をハンカチで押さえているのを見た。それだけのことだった。気づかれていた。そう思ったら、胸がドキドキするのが止まらなくなってきた。
――猫に本気で恋をするのって、さすがに、まずいですよね。
あの人は私を猫だと思っている。猫だと思ったまま、それでも好きだと言っている。鈴は、ゆっくりと口元から手を下ろした。
だめだ、と思った。このままでは、だめだ。あの人の「好き」に、これ以上近づいたら、いつか本当のことを言いたくなってしまう。距離を取らなきゃ。
鈴は音を立てないように廊下を引き返した。
事務所の中では、隼人がまだ、ハチワレ相手に何かをぼやいていた。




