第5話 指名争い
店長になって、二週目の水曜日。
昼間はスポーツ用品の営業、夜は「cat's paw」の店長。会社帰りに雑居ビルの階段を駆け上がるのにも、ようやく体が慣れてきた。
みかんへの毎日のマグロ缶も、鈴に教わった網戸の張り方も、ゆきの好きなおやつの銘柄も、スマートフォンのメモ帳にびっしり書き込んである。とわは窓から脱走しなくなったし、くるみは段ボール箱ごと事務所の隅に置いておけば、そこから出勤できるようになった。
店は、なんとか回り始めていた。
――はずだった。
「店長さん。ちょっと、相談があるんですけどね」
受付に現れたのは、久保田という五十がらみの男性客だった。上品なジャケットに、よく磨かれた革靴。店でいちばんの上客で、ゆきとみかんを週ごとに交互に指名してくれている。
「実は、来月から仕事が忙しくなりましてね。通えるのが月に二回くらいになりそうなんです。だから、どちらか一人に絞ろうと思って」
「どちらか、一人に」
「ええ。今月中に決めます。ゆきちゃんか、みかんちゃんか」
久保田は、にこにこと穏やかに笑った。
隼人の背後で、息を呑むような音がした。振り返ると、控え室のドアの隙間から、白い髪と茶色い髪が、上下に二つ並んでこちらをのぞいていた。
◇
その日から、店の中で戦争が始まった。
まず、ゆきが出勤するようになった。あの、月に一度は必ず出勤拒否をするゆきが、毎日決まった時間に薬を飲み、受付に座るようになったのだ。ただし、条件がついていた。
「みかんに予約が入った日しか、出勤しない」
「なんでですか」
「あの子が久保田さんに会う日に、わたしがいないと不公平でしょう」
ゆきは、髪をとかしながら言った。いつもより念入りに。
一方、みかんは、マグロ缶の要求を一日二缶に引き上げた。
「久保田さんに選ばれるには、体力がいるの。だから二缶」
「理屈が分からない……」
「店長、あたしのこと応援してくれないの?」
みかんは、隼人の腕にしがみついて、上目づかいで見上げてくる。茶色い髪から、ほんのりと日なたの匂いがした。その向こうから、ゆきが、氷のような目で隼人をにらんでいた。
「……店長は、みかんの味方なのね」
「違います!俺は、どっちの味方でもないです!」
どちらの味方でもない。それなら、どちらにも同じようにすればいい。隼人は、そう考えた。
◇
翌週、隼人は新しいルールを発表した。
「今日から、全員同じにします。おやつは一日一本、シフトは週三日。マグロ缶は、全員に一缶ずつ。指名の順番も、平等に回します」
控え室が、静まり返った。次の瞬間、みかんが床に寝転がって、手足をばたつかせた。
「やだー!二缶って言ったのにー!」
ゆきは無言で薬の小皿を押しのけると、棚の上に飛び乗り、猫のまま人の姿になろうとしなかった。白い背中がこちらを拒んでいる。とわは窓の外を見たまま振り向きもしない。くるみは段ボール箱のふたを内側から閉めた。
その日から店は止まった。
ゆきは一度も出勤しなかった。みかんは出勤しても、デートの途中で「お腹すいた」と言って帰ってきてしまう。くるみの箱のふたは、三日間開かなかった。とわは窓辺から動かず、予約の客が迎えに来ても、知らん顔で外を眺めていた。
キャンセルの連絡を入れるたびに、受話器の向こうの声は冷たくなっていった。
水曜には予約サイトに口コミが書き込まれた。
〈店長が変わってから行くたびにキャンセルされる。前の店の方がよかった〉
木曜には長年の常連が二人、会員登録を解除した。
そして金曜の夜。閉店後の事務所で、隼人は帳簿を前に電卓を三回叩き直した。何度計算しても同じ数字が出る。今週の売上は、先週の三分の一だった。
隼人は机の引き出しから湯島が残していった請求書の束を取り出した。家賃。光熱費。薬の材料費。それから、猫たちのごはんと病院代。
このままでは月末の家賃が払えない。あと二週間で、店が潰れる。
「なんでだ……みんな同じにしたのに、なんで全員怒るんだ……」
「同じに扱うことと、公平に扱うことは違います」
顔を上げると事務所の入口に鈴が立っていた。腕を組んで少し呆れた顔をしている。
「違う?」
「ゆきとみかんは欲しいものが違うんです。同じものを同じだけ渡しても、どっちも欲しいものはもらえていない。だから、どっちも怒るんです」
しばらく黙って鈴の顔を見ていた。
営業の現場でも同じことを何度も教わったはずだった。取引先ごとに欲しいものは違う。値段を気にする店もあれば、納期を気にする店もある。同じ提案書を配っても、誰の心にも届かない。
「……じゃあ、一人ずつ何が欲しいか聞けばいいんですね」
「最初から、そう言ってます」
言ってないです、と思ったが隼人は口には出さなかった。
◇
翌日、隼人は一人ずつ面談をした。
最初は、みかんだった。
「あたしは、たくさんの人に会いたい。いろんな人とおしゃべりして、いろんなところに行って、おいしいものを食べたい」
「久保田さんに選ばれたいんじゃないんですか」
「選ばれたいよ。でも、久保田さんだけじゃなくて、みんなに会いたいの」
みかんは、あっけらかんと笑った。
次はゆきだった。ゆきは人間の姿で、背筋を伸ばして椅子に座り、隼人と目を合わせようとしなかった。
「……わたしは、選ばれたいの」
「選ばれたい」
「順番が来たから会う、じゃなくて。会いたいから、わたしを選んでほしい」
ゆきは、膝の上で指を組んだ。
「平等に回されたら、わたしが選ばれたのか、順番だったのか、分からなくなるでしょう」
胸の奥を軽く叩かれたような気がした。
その気持ちなら少しだけ分かる。料金を払って会う関係の中で、自分が本当に選ばれているのかどうか分からない、あの心もとなさ。
「……分かりました」
メモ帳に二人の言葉を書き留めた。
◇
その週のうちに、隼人はシフトを組み直した。
ゆきは予約枠を月に四回までに絞る。そのかわり、事前に指名を受けた日だけ出勤する。「予約の取れないお嬢様」として、店のサイトの紹介文も書き換えた。
みかんは出勤日を増やし、食べ歩きや商店街めぐりなど、いろんな客と気軽に出かけられるプランを作った。
月末、久保田は受付で少し困ったように笑った。
「いやあ、迷っていたんですがね。ゆきちゃんの予約がなかなか取れないと聞いたら、どうしても会いたくなってしまって。月に一回はゆきちゃん、もう一回はみかんちゃんにしようと思います」
控え室のドアの隙間で、白い髪と茶色い髪が同時に引っ込んだ。
その日、ゆきは隼人の前を通り過ぎるとき、ほんの少しだけ顎を上げて言った。
「……悪くない仕事ね、新入り」
それが、ゆきの精一杯の褒め言葉らしかった。
◇
「店長ー、ありがとー!」
閉店後、みかんが隼人の腕に飛びついてきた。
「二缶!今日は二缶ね!」
「今日だけですよ」
「やったー!」
みかんは、猫のように隼人の肩に頭をこすりつけてくる。隼人は苦笑いしながら、されるがままになっていた。ふと視線を感じて振り向くと、事務所の入口に鈴が立っていた。なぜか、ものすごく不機嫌そうな顔だった。
「……鈴さん?」
「なんでもありません」
鈴は手にしていた予約表を、机の上に少し強めに置いた。
隼人は首をかしげた。みかんにも、ゆきにも、それぞれ欲しいものがあった。それなら鈴は。
鈴が好きなものを隼人はほとんど知らない。イワシの群れと日なたのベンチ。三か月通って、それだけだ。笑ったところさえ、まだ一度も見ていない。
「あの、鈴さんもマグロ食べます?」
「食べません」
即答だった。
鈴は、くるりと背を向けて控え室の奥へ消えていった。その背中が、なぜか、いつもより少しだけ尖って見えた。
「……俺、何かしたかな」
隼人の肩で、みかんが、にんまりと笑っていた。




