第4話 出勤拒否
土曜の朝九時。店長として迎える、最初の営業日だった。
隼人は事務所の机で、予約表とにらめっこしていた。十一時からゆき、十二時からみかん、午後にくるみと、とわ。土曜はどの子も予約で埋まっている。
「で、みんな、どうやって人間になるんですか」
「薬を飲みます」
控え室の入口で、鈴が答えた。今日の鈴は人間の姿で、いつもの白いカーディガンを着ている。
「出勤前に一口。それで夕方まで、人の姿でいられます」
「なるほど。じゃあ、配ればいいんですね」
隼人は、湯島の机の引き出しから薬瓶を取り出し、意気揚々と控え室へ向かった。
十分後。
隼人は、控え室の真ん中で途方に暮れていた。
白猫のゆきは、差し出した小皿の薬をひと嗅ぎすると、ぷいと顔をそむけて棚の上に飛び乗った。茶トラのみかんは、小皿ごと前足でつつき回し、床に薬をこぼして遊んでいる。黒猫のくるみは、隼人が近づいただけで段ボール箱の奥に潜り込み、出てこない。
そして、キジトラのとわは、どこにもいなかった。窓が、少しだけ開いていた。
事務所の机の上で、予約表が開いたままになっている。ゆき、みかん、くるみ、とわ。並んだ名前の一つひとつに、待っている客がいる。その売上で、この子たちのごはんと寝床がまかなわれている。
昨日まで、ただのお客さんだった。でも今日からは、店長として、この子たちの暮らしを自分が背負っているのだ。急に、胃の中に石を詰め込まれたように重くなった。
「……鈴さん。これ、どういうことですか」
「出勤拒否です」
「出勤拒否」
「新しい店長を、まだ認めてないんです」
棚の上で、ゆきが短く鳴いた。鈴は、ゆきを見上げて、小さく頷いた。
「『犬くさい新入りの言うことなんか聞かない』と言ってます」
「犬くさい!?」
隼人は慌てて自分のシャツの袖を嗅いだ。いつもの洗剤の残り香しかしない。
「俺、犬なんか飼ってないですよ」
「私に言われても」
鈴は、ふいと目をそらした。猫同士だから、言葉が分かるのだろうか。隼人はそう納得することにした。今は、それどころではない。
◇
十一時。
予約の客が、時間ぴったりに店のドアを開けた。ちりん、とドアベルが鳴る。ゆきの常連で、三十代くらいの、眼鏡をかけた穏やかそうな男性だった。
ゆきは、まだ棚の上にいた。
「た、大変申し訳ありません!」
隼人は、受付で深々と頭を下げた。
「本日、ゆきが、その、体調不良といいますか、気分が乗らないといいますか……もちろん料金はお返ししますし、次回のご予約は無料で――」
頭を下げたまま早口でまくし立てる隼人の上で、男性は、くすりと笑った。
「ああ、またですか」
「……また?」
「ゆきちゃん、月に一回くらいこうなるんですよ。気が乗らない日は、絶対に出てこない」
男性は、慣れた様子で予約表に次の日付を書き込んだ。
「それがいいんですけどね。来週、また来ます」
ドアベルを鳴らして、男性は帰っていった。
隼人は、しばらくその場に立ち尽くしていた。客は、怒っていなかった。それどころか、ゆきの気まぐれを楽しんでいるようにさえ見えた。営業の自分が、頭の中でメモを取る。この店の売りは、言うことを聞かないことそのものなのかもしれない。
とはいえ、全員に出勤拒否されたら、店は潰れる。
◇
昼過ぎ。
隼人は、自腹で買ってきた高級ウェットフードの缶を、控え室の床に並べていた。
「マグロ。カツオ。ささみ。どれがいいですか、みかんさん」
みかんは缶の匂いを順番に嗅ぎ、マグロの缶に頭を突っ込んだ。食べ終わると、満足げに口のまわりをなめ、小皿の薬をぺろりとひと舐めした。ぽん、と音がして、茶色い髪の女の子が床の上にあぐらをかいていた。
「店長、マグロおいしかった。明日もこれね」
「明日も!?」
「じゃないと、出勤しなーい」
みかんはにんまり笑うと、身支度をしに鏡の前へ行ってしまった。うう、と隼人は小さくうめいた。よりによって、一番高かった缶を選ぶなんて。さすがというべきか。確かに、缶を開けた時の香りはマグロが一番おいしそうだった。
一匹、出勤。代償は、毎日の高級マグロ缶。
ゆきは棚の上から、缶の山を冷ややかに見下ろしていた。高級フードくらいで動くと思うな、という顔だった。くるみは、段ボール箱から一度も出てこない。とわは、まだ帰ってこない。
「……とわ、探してきます」
「お昼には帰ってきます。いつもそうなので」
「いつも!?」
鈴の言葉どおり、とわは一時ちょうどに窓から帰ってきた。口に、どこかで拾った鳥の羽根をくわえていた。
気まますぎる。いや、猫だから当たり前か。いや、でも、困る。
◇
夜八時。閉店後の控え室で、隼人はソファに沈み込んでいた。
結局、今日出勤したのは、高級マグロ缶で釣ったみかんと、午後から気まぐれに薬を舐めたとわの二人だけだった。ゆきとくるみの予約は、すべて振り替えになった。
「……俺一人じゃ、無理です」
天井を見上げたまま、隼人は泣きそうな声で言った。
「猫の気持ちも分からないし、言葉も分からないし、マグロ缶の予算も分からない。営業なら得意なんですけど、営業する相手が猫って、想定してなかった」
鈴は、事務所の椅子に腰かけて、今日の予約表を整理していた。
「鈴さん。手伝ってもらえませんか。この店のこと、教えてください。どうやったらもっと上手く皆さんに動いてもらえるのか」
鈴の手が止まった。
「……店長が頭を下げることじゃないです」
「でも、俺、本気でこの店をやりたいんです。……一回、失敗してるんで。今度は、ちゃんとやりたい。ここの子たちが、ちゃんと好きなときに働いて、好きなときに休めるような店にしたい」
しばらく鈴は黙っていた。それから、予約表を机の上でとんとんと揃えた。
「……仕方ないですね」
「手伝ってもらえますか!」
「明日から、ゆきの好きなおやつと、くるみが安心する箱の置き場所と、とわが窓から出られないための網戸の張り方を教えます。メモしてください」
「はい!」
隼人は、スマートフォンのメモ帳を開いた。
「あ、それと。鈴さんのこと、レンタルから外すって話なんですけど」
鈴が、ぴくりと肩を揺らした。
「店長になったので、俺が決められるみたいで。いつでも――」
「外さないでください」
鈴は、きっぱりと言った。
「私は、働きます。外すのは、店がちゃんと回るようになってからにしてください」
「……分かりました」
隼人は少しだけがっかりして、それから、鈴らしいと思って、ちょっと笑った。
◇
夜も更けて、店の明かりがすべて消えたころ。
控え室の奥の小部屋で、三毛猫が一匹、座布団の上で丸くなっていた。
眠れなかった。
隣の座布団では、ハチワレの湯島が、小さないびきをかいている。ゆきは棚の上、みかんはソファ、くるみは段ボール箱の中。みんな、とうに眠っていた。
昨日の夜、ソファで頭を抱えていた隼人の声が、耳の奥に残っている。
――俺、猫に恋してたのか。
あの人は、本気で言っていた。三か月分の土曜日、ずっとこちらを見ていた、あのまっすぐな目のままで。
今日の隼人のことも、思い出す。ゆきの常連客に、頭が膝につくほど深く下げていた背中。自腹で買ってきた、山のような高級マグロ缶。
――ここの子たちが、ちゃんと好きなときに働いて、好きなときに休めるような店にしたい。
あの言葉を聞いたとき、ほんの一瞬、口元が緩みかけた。慌てて予約表に目を落として、ごまかした。
危うく、笑うところだった。
三毛猫は、座布団に顔をうずめた。
笑わないと、決めているのに。
ぴりぴりと、手足の先がしびれ始めた。毛並みの奥が、内側から引っぱられるように熱くなる。いつものことだ。それでも、この感覚にだけは、いつまでたっても慣れない。
手足が、ゆっくりと伸びていく。毛並みが引いていき、丸い前足が、細い指に変わる。座布団の上で、人間の女性が身を起こした。
夜の空気が、急に冷たく感じられた。毛皮をなくした肩を、自分の腕で抱く。
三輪鈴は、薄暗い部屋の中で自分の手のひらを見つめた。それから、棚の上の小瓶に手を伸ばす。
ほかの子たちが飲む薬とは、逆に働く薬。
人間の鈴を、猫にするための薬だった。鈴は、小瓶を両手で握りしめた。
「柴田さんにだけは、ばれちゃいけない」
誰にも聞こえない声で、鈴は小さくつぶやいた。
眠る湯島の背中が、静かに上下していた。




