第3話 猫だったのか
金曜の夜十時。湯島との約束通り、お店の閉店時間に合わせて雑居ビルまで来た。
「cat’s paw」の看板の明かりは、もう消えている。階段を上ると、ドアの鍵は開いていた。ちりん、とベルが鳴る。受付には誰もいない。
「やあ、来たね」
廊下の奥から、湯島が顔を出した。昨日よりも、さらに顔色が悪く見える。
「見せたいものって、何ですか」
「静かに。こっちだ」
湯島は、控え室のドアの前で足を止め、隼人を手招きした。ドアは細く開いている。そっと中をのぞくと、仕事を終えた女の子たちが、ソファや床で思い思いにくつろいでいた。
白い髪のゆきが、ソファの上で大きく伸びをしている。茶色い髪のみかんは、床に寝そべって雑誌をめくっている。黒髪のくるみは、部屋の隅の段ボール箱に、なぜか体育座りで収まっていた。窓辺では、キジトラ柄のパーカーを着た女の子が、外をじっと見つめている。
「みんな、くつろいでいますね」
「よく見ていなさい」
ゆきが、くるりと体を丸めた。次の瞬間、ソファの上にいたのは、一匹の真っ白な猫だった。
「……え?」
隼人は目をこすった。何度見直しても、ソファの上には白い猫が丸まっている。ゆきが着ていたワンピースが、抜け殻のようにその下に敷かれていた。
ぽん、と軽い音がした。床の雑誌の上で、茶トラの猫があくびをしている。段ボール箱の中では、いつの間にか黒猫が小さくなって震えていた。窓辺のパーカーの中から、キジトラの猫がもぞもぞと這い出し、窓の外の蛾に飛びかかって、ガラスに顔をぶつけた。
「えっ、えっ、えっ」
隼人は廊下を振り返り、天井を見上げ、壁際の観葉植物の陰をのぞき込んだ。
「カメラ、どこですか」
「カメラはないよ」
「ドッキリですよね?あの、テレビとかの」
「ドッキリでもない」
湯島は、白衣のポケットから小さな薬瓶を取り出して見せた。中で、琥珀色の液体が揺れている。
「わたしが作った薬だ。動物を人の姿にする。学会には、ずいぶん叱られたがね」
「人の、姿に?」
「この子たちは、わたしが保護した猫だ。人の姿でいられるのは、薬が効いている間だけ。仕事が終わる頃には、こうして元に戻る」
隼人は、もう一度控え室をのぞいた。白い猫が、ソファの上から冷たい目でこちらを見ていた。あの目は、確かに受付にいたゆきの目だった。
「じゃあ、レンタル彼女って…」
「全員、猫だ」
隼人は、思わず壁に手をついた。三か月分の土曜日が、走馬灯のように頭の中を一気に駆け抜けていく。
気まぐれな態度。日なたへの執着。早すぎる帰宅。そして、イワシの群れを追いかける、あの真剣な横顔。
三か月かけて、ようやく見られた、ほんの少し緩んだ口元。あれも、ただの猫の気まぐれだったのか?胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「……じゃあ、鈴さんも」
湯島は、すぐには答えなかった。
「それは、本人に聞くといい」
はぐらかされた、と思った。けれど、問い詰める前に、湯島が小さく咳き込んだ。
「さて、わたしの番だ」
「番?」
「昨日、言っただろう。わたしはもうすぐ、ここにいられなくなると」
湯島は、穏やかに笑った。
「この薬は、人が飲めば逆に働く。わたしは長いあいだ、自分の体で試しすぎた。その副作用でね、もう人間でいられる時間が、ほとんど残っていないんだ」
湯島の体が、ぐらりと傾いた。隼人は考えるより先に駆け寄って、その肩を支えていた。白衣越しの肩は、驚くほど細かった。
「……ありがとう。やはり、君で間違いなかった」
湯島の輪郭が、ふっとやわらいだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!まだ何も聞いてないです、経営のこととか、帳簿とか、猫の餌の量とか!」
「大丈夫だ。君ひとりではないから」
隼人の腕の中で、白衣が、すとんと床に落ちた。その襟元から、白と黒のハチワレ模様の、年寄りの猫が顔を出した。猫は隼人を見上げた。そして、人間の声で、ひとことだけ言った。
「あの子のことも、頼む」
それきり、猫は人の言葉を話さなかった。大きなあくびをひとつすると、事務所の方へ、ゆっくり歩いていってしまった。
「あの子って……誰ですか、湯島さん。湯島さん!」
返事の代わりに、事務所の奥で、椅子のきしむ音がした。
◇
「柴田さん」
背後から声をかけられて、隼人は飛び上がった。鈴だった。いつもの白いカーディガン姿で、腕にキャットフードの袋を抱えている。
「す、鈴さん。どうして」
「どうしても何も、毎晩ここにいます」
鈴は、廊下に落ちたままの白衣に目を留めた。キャットフードの袋を床に置き、黙ってしゃがみ込む。袖をそろえ、襟を整えて、丁寧に畳んでいく。畳み終えた白衣を胸に抱えて、鈴は、ほんの少しだけ目を閉じた。それから、何事もなかったように立ち上がり、白衣を事務所の椅子の上にそっと置いた。
隼人は、声をかけられなかった。
鈴はキャットフードの袋を拾い上げると、隼人の横をすり抜けて、控え室に入った。とたんに、猫たちがわらわらと鈴の足元に集まってくる。
「ゆき、ごはんよ。みかんは食べすぎだから半分ね。とわ、カーテンに登らない。くるみ、大丈夫、この人は怖くないから」
皿にフードを分け、水を替え、カーテンからキジトラを引きはがす。手際がいい。猫たちも鈴の言うことは素直に聞くようだ。
「……聞きました。店長になるって」
「あ、はい。成り行きで」
「成り行きで店を継ぐ人なんて、初めて見ました」
鈴は、ため息をひとつついた。
「鈴さんは、全部知ってたんですよね。この店のこと」
「当たり前です」
隼人は、猫たちに囲まれた鈴の背中を見つめた。変だな、と思った。店のことを一番分かっているのは、どう見ても鈴だ。猫たちをまとめているのも鈴だ。それなら、湯島はどうして、昨日会ったばかりの自分なんかに店を任せたのだろう。
「じゃあ、私も、そろそろ時間なので」
鈴は空になったフードの袋を畳むと、控え室の奥の小部屋に入っていった。ぱたん、とドアが閉まる。
「時間って――」
しばらくして、ドアの隙間から、するりと何かが出てきた。三毛猫だった。昨日、階段の踊り場で見た、あの三毛猫だ。小部屋の中をのぞくと、床の上に、白いカーディガンが畳んで置いてあった。
◇
十分後。
隼人は、控え室のソファに座り込んでいた。足元では茶トラが靴ひもにじゃれつき、背後の棚の上からは白猫が見下ろし、段ボール箱の中からは黒猫の目が二つ光っている。キジトラは、またカーテンに登っていた。
そして、少し離れた座布団の上に、三毛猫が一匹、背中を向けて丸まっていた。隼人は、ちらりと三毛猫の背中を見た。隼人は、両手で顔を覆った。
「俺、猫に恋してたのか……」
三毛猫の耳が、ぴくりとこちらを向いた。隼人は気づかない。部屋にいるのは、猫ばかりだ。人間は、誰も聞いていない。そう思うと、独り言は止まらなかった。
「いや、でも、好きなもんは好きだし……いや待て、猫だぞ。猫って、恋愛対象になるのか?なっていいのか?法律的にどうなんだ?」
三毛猫の背中が、小さく固まった。
「でも、イワシ見てるときのあの顔は……いや、そりゃ猫だからイワシ見るよな……」
隼人は、ふと黙り込んだ。
「……猫って、笑うのか?」
三か月かけても、一度も笑わせられなかった。もし鈴が猫なら、そもそも笑うことなんてないのかもしれない。それでも、と隼人は思った。あの、ほんの少し緩んだ口元を、もう一度見たい。隼人は天井を仰いだ。
三毛猫は、背中を向けたまま、じっと動かなかった。ただ、尻尾の先だけが、落ち着きなく揺れていた。
こうして、柴田隼人は、猫だらけの店の店長になった。
好きな人は、猫だった。




