第2話 鈴をレンタルから外してください
木曜の夜七時。仕事帰りの隼人は、雑居ビルの階段の下で、三回目の深呼吸をしていた。
二階には「cat’s paw」の小さな看板がかかっている。指名の予約はいつもスマートフォンで済ませているから、店に直接来るのは、初めて会員登録をしたとき以来だ。
言うことは決めてある。
鈴さんを、レンタルから外してください。
無茶なことを言おうとしているのは、自分でも分かっていた。客が店に「この子を辞めさせてくれ」と頼むようなものだ。出禁になってもおかしくない。それでも、土曜の三時間だけでは、もう足りなかった。
土曜日、鈴が帰ったあとに届いた自動送信のメールを、隼人はまだ消せずにいる。「またのご利用を、心よりお待ちしております」。あの一文を思い出すたびに、胸の奥がぎゅっとつかまれたような気持になる。断られたら、土曜日ごと失うかもしれない。それでも、「ご利用」のままでいるよりは、ましだと思った。
階段を2階まで上がる。床材のパネルが、ところどころ無くなっている廊下の向こうに木製のドアが見えている。『レンタルショップ&カフェ ~cat's paw~』というプレートが貼ってある。ドアノブに「営業中」の札がぶら下がっていた。
隼人はドアを開けた。ちりん、とドアベルが鳴る。
受付カウンターの向こうに、白い髪の女の子が座っていた。プロフィール写真で見たことがある。店でいちばん人気の、ゆきだ。
「……ご予約は」
「いえ、予約じゃなくて。オーナーさんに、お話があって」
ゆきは、隼人を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。それから、鼻をひくりと動かして、露骨に顔をしかめた。
「……奥」
それだけ言うと、ゆきはカウンターに突っ伏して、目を閉じてしまった。接客業とは思えない態度だった。
廊下を進むと、控え室のドアが少しだけ開いていた。中から、茶色い髪の女の子が顔を出す。
「わ、鈴ちゃんの土曜の人だ」
面白いものを見つけたように、にんまり笑う。その後ろで、黒髪の女の子がさっと物陰に隠れた。なんだか、歓迎されていない気がする。隼人は軽く頭を下げて、奥へ進んだ。
店の中は、不思議な匂いがした。香水の匂いはほとんどしない。代わりに、日なたと、干した毛布と、それから――何か、動物の匂い。猫、だろうか。
突き当たりのドアには「事務所」と手書きの札がかかっていた。ノックをすると、「どうぞ」と低い声が返ってくる。
部屋に入ると、白衣を着た初老の男が、書類の山の向こうから顔を上げた。疲れた顔だった。目の下の隈が深く、頬は少しこけている。それなのに、目だけが妙に澄んでいた。
「こんばんは。湯島です。この店の、まあ、責任者だね」
「柴田です。いつもお世話になっています」
「知っているよ。鈴の、土曜の常連さんだ」
湯島は椅子をすすめると、隼人をじっと見た。品定めとは違う。もっと静かで、遠慮のない目だった。顕微鏡をのぞく研究者みたいな。湯島の鼻先が、ほんのわずかに動いた気がした。
「それで、話というのは」
隼人は膝の上で拳を握った。
「鈴さんを、レンタルから外してください」
湯島は表情を変えなかった。
「理由を聞いてもいいかね?」
「好きなんです!」
言ってしまってから、顔が熱くなった。膝の上の拳の中で、手のひらが汗ばんでいる。声が少し裏返ったのが、自分でも分かった。それでも、止めなかった。
「お金を払っておいて何を言ってるんだって、自分でも思います。でも、レンタルの時間の中でしか会えないのが、もう嫌なんです。料金を払って会うんじゃなくて、ちゃんと、普通に会いたい」
「普通に」
「はい。鈴さんって、作った笑顔をしないんです。水族館に行けばイワシを三十分見てるし、日なたがあれば寝ちゃうし、時間が余ってても急に帰るし」
湯島の口元が、かすかに動いた。
「でも、そういうところが全部、本物に見えるんです。俺に合わせて作られた鈴さんより、イワシを見てる鈴さんの方が、ずっと好きで」
湯島の目が、ふと机の端に置かれた写真立てに向いた。窓辺で日なたぼっこをする、灰色の猫。ほんの一瞬、その目がひどく優しくなった気がした。
「それに……鈴さん、一回も笑ってくれないんです。三か月通って、一回も」
「ほう」
「でも、いつか笑わせたいんです。お客さんとしてじゃなくて」
しばらく、湯島は黙っていた。
「鈴が、君をどう思っているかは?」
「分かりません。たぶん、変な客だと思われてます」
今度こそ、湯島は小さく笑った。乾いた咳が、その笑いに混じった。
「外すのは、構わないよ」
「本当ですか!」
思わず身を乗り出した隼人を、湯島は片手を上げて制した。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「この店を、君が引き継いでくれないか」
隼人は、まばたきを三回した。
「……は?」
「店ごと、だ。経営も、ここで働く子たちの面倒も、全部」
「いや、ちょっと待ってください。俺、ただの客ですよ」
「わたしはね、もうすぐ、ここにいられなくなるんだ」
湯島は、写真立てに目をやった。
「体の都合でね。けれど、店を閉めるわけにはいかない。ここには、ほかに行き場のない子たちがいるんだ」
声は穏やかだったが、冗談を言っている顔ではないようだ。
「鈴をレンタルから外すかどうかを決めるのも、店の主人の仕事だ。君が主人になれば、君が決めればいいことになる」
「そんな、ずるい言い方……」
「研究者は、たいていずるいものだよ」
湯島は片方の口の端を少し上げた。
「どうして、俺なんですか。会ったばかりの客に」
「君は三か月、鈴の気まぐれを一度も責めなかった。早く帰られても、次の週にはまた来た」
湯島は、指を一本ずつ折って数えるように言った。
「それに――君は、群れを見捨てない顔をしている」
「群れ?」
「失礼。職業病だ。昔、動物の研究をしていてね」
隼人は、膝の上の拳をほどいた。硬く握りすぎて、手のひらに跡がついている。
めちゃくちゃな話だった。断るのが普通だ。それなのに、頭のどこかで、営業の自分が勝手に計算を始めていた。この店の常連は驚くほど多い。隼人自身、三か月も通っている。気まぐれで、愛想がなくて、それでも離れられない。ニッチだが、熱狂的なファンがついている。広告の打ち方次第では、まだまだ伸びる。
実は、隼人は一度、自分の会社を持っていたことがある。仲間と一から作って、その仲間に奪われた会社だ。最後の日、鍵を返して振り返ったオフィスは、机もホワイトボードも運び出されて、がらんとしていた。仲間と夜通し語り合った場所が、ただの四角い部屋に戻っていた。
あれ以来、もう一度何かを一から作りたいという気持ちを、ずっと胸の奥にしまい込んでいた。
心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。半分は鈴のせいで、もう半分は、きっとこの店のせいだった。
「……やります」
気づけば、口がそう言っていた。湯島は、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう。では、明日の閉店後に、もう一度来てくれないか」
「明日?」
「引き継ぐ前に、君に見せておかなければならないものがある」
湯島はそれ以上、何も言わなかった。
◇
事務所を出て階段を下りかけたところで、隼人は足を止めた。踊り場の窓辺に、一匹の三毛猫が座っていた。店の猫だろうか。三毛猫は逃げもせず、まっすぐに隼人を見上げている。黄色い目が、街灯の光を受けてきらりと光った。
「お前も、ここの子か」
しゃがんで手を伸ばしかけて、隼人はふと鼻をひくつかせた。日なたの匂いがした。干したての布団と、縁側を混ぜたような。鈴と、よく似た匂いだった。
「……猫って、みんなこういう匂いなのかな」
三毛猫は、ふい、と顔をそらすと、隼人の脇をすり抜けて、階段の上へ駆けていった。少しだけ開いていた店のドアの隙間に、するりと体を滑り込ませる。ちりん、とドアベルが鳴った。猫が一匹通っただけの、小さな音だった。それなのに、隼人には、明日からの自分を迎える音に聞こえた。
ビルの外に出ると、夜風が冷たかった。
隼人は、ポケットからスマートフォンを取り出した。受信箱のいちばん上に、土曜日のメールが残っている。
〈またのご利用を、心よりお待ちしております〉
どうしても消せなかった、あの一文。隼人は、しばらく画面を見つめた。それから、親指を動かした。削除しますか、という確認の表示に、迷わず「はい」を押す。受信箱から、土曜日のメールが消えた。
これからは、もう「ご利用」する側じゃない。




