第1話 常連客
土曜の午後二時。柴田隼人は、駅前広場の大時計の下で、もう十五分も立っていた。
約束は二時ちょうど。遅刻されているわけではない。隼人が十五分早く来ただけ。
改札から吐き出される人の波が、香水と柔軟剤と整髪料の匂いを、次々と運んでくる。隼人は、そっと鼻の下にハンカチを当てた。
昨日の商談もひどかった。取引先の担当者の整髪料の香りがきつすぎて、途中から頭痛で数字が頭に入らなかった。スポーツ用品の営業という仕事柄、人に会わない日はない。なのに、隼人は鼻が利きすぎる。子どもの頃からずっとそうだった。香害という言葉が市民権を得る、ずっと前からの悩みだ。
三か月前、会社の先輩に「たまには息抜きしろよ」と冗談半分でレンタル彼女の店を教えられた。そんなビジネスがあるのかと興味を持ち、一度試してみるだけのつもりだった。
そのとき待ち合わせ場所に来たのは、少し吊り目の、愛想のない女の子だった。
人混みの中で、隣に立ったその子からだけ、何の匂いもしなかった。いや、正確には、香水の匂いがしなかった。代わりに、日なたのような、柔らかい匂いがした。
その日、隼人は久しぶりに、人の多い場所で深呼吸をした。
ただ、その子は、一度も笑わなかったのだ。
冗談を言っても、真顔で「面白くないです」と返された。評判のパンケーキの店に連れていけば、黙々と食べて「普通です」。営業で鍛えた話術も、取引先で鉄板の小ネタも、ひとつも通用しなかった。
正直悔しかった。どうしても一度、この子が笑ったところを見てみたい。隣にいると、鼻が楽だから。それに、まだ一度も笑わせていないから。
それ以来、毎週土曜は、その子の予約で埋まっている。
「……来た」
改札の人波の向こうに見慣れた姿を見つけた瞬間、隼人の背筋はぴんと伸びた。
肩までの柔らかそうな髪に、少し吊り気味の大きな目。白いカーディガンの袖を指先まで伸ばして、彼女はまっすぐこちらへ歩いてくる。急ぐでもなく、のんびりするでもなく、自分の歩幅を守って。
レンタル彼女屋「cat’s paw」所属、鈴。
「こんにちは、鈴さん!」
「……こんにちは」
鈴は隼人の顔を一度だけ見上げて、すぐに視線をそらした。
「今日も早いですね、柴田さん」
「いや、たまたま」
「先週もたまたまでしたよね」
「……先週もたまたまでした」
「先々週も」
「そこまで覚えてるんですか」
「毎週同じことを言ってるからです」
「じゃあ、来週は言わないようにします」
「どうせ無理でしょう」
鈴の口元が、ほんの少しだけ緩む。笑ったのかどうか分からないくらいの、小さな変化。
三か月通って、ようやくここまで来た。それだけで、隼人の一週間の疲れは吹き飛んだ。
めったに表情を崩さない鈴が、ふとした瞬間に見せる、隙のような笑顔。最初の頃は全く笑わない人かと思っていた。でも、何回か会ううちに、実は喜怒哀楽をきちんと表しているのだとわかった。ほんのわずかな変化を初めて見つけたとき、隼人は宝物でも見つけたような気持ちになった。
隣に並んだ鈴から、ふわりと、干したての布団と、縁側を混ぜたような、ほのかに甘い匂いがした。店のほかの女の子たちとも、どこか違う匂いだ。
隼人は鈴の方にさりげなく顔を近づけ、こっそり鼻から息を吸い込んだものの、自分で自分が気持ち悪くなって、慌てて咳払いをした。
「……何ですか」
「なんでもないです」
「今、深呼吸しました?」
「してないです。今日は水族館に行こうと思ってて」
「話をそらしましたね」
「そらしました」
鈴はじっと隼人を見て、それから小さく「水族館」とだけ繰り返した。その目が、ほんの一瞬きらりと光ったのを、隼人は見逃さなかった。
駅前の広場を抜けようとしたときだった。
向こうから、流行りの柔軟剤の香りを何重にもまとった若者の集団が、笑いながら歩いてくる。隼人は思わず息を止めた。
その袖を、くい、と引っぱられた。鈴だった。鈴は何も言わずに、隼人の袖をつまんだまま、広場の脇の細い道へ曲がっていく。
「あの、鈴さん? 水族館、あっちの道の方が近いですけど」
「こっちの方が、空いてるので」
鈴は振り返らなかった。
細い道には、ほとんど人がいなかった。隼人は止めていた息を吐いた。頭の奥で鳴り始めていた痛みが、すっと引いていく。助かった、と隼人は思った。鈴さんは、人混みが嫌いなのかな。
袖をつまむ指先は、水族館に着くまで、離れなかった。
◇
水族館の鈴は、別人だった。
大水槽の前に立つなり、ガラスに両手をつき、額がくっつきそうな距離で魚の群れを追いかけ始めたのだ。右へ流れるイワシの群れに合わせて首が右へ。左へ折り返せば、首も左へ。
「鈴さん、あっちにペンギンも――」
「静かにしてください。今、いいところなので」
「いいところ」
「あの銀色の、一匹だけ遅れてる子がいるんです」
隼人には、どれのことだか分からなかった。
それから三十分、鈴は大水槽の前から動かなかった。隼人はその隣に立ち、魚ではなく、魚を見つめる鈴の横顔を見ていた。
水槽の青い光が、鈴の頬に揺れている。真剣に見開かれた目に、銀色の群れが映っては流れていく。
レンタル彼女といえば、もっとこう、こちらに気を遣ってくれるものだと思っていた。腕を組んで、話を合わせて、楽しそうに笑ってくれるものだと。
鈴は違う。気が乗らなければ返事もしないし、興味のあるものを見つければ、隼人のことなど忘れてしまう。でも隼人はそれが嫌じゃなかった。
むしろ、こういうところが好きなのだと思う。自分のために作られた笑顔より、イワシを追いかける真剣な横顔の方が、ずっと本物に見えるから。
「……追いついた」
鈴が、小さくつぶやいた。遅れていた一匹が、群れに戻ったらしい。ほっとしたように緩んだその表情は、隼人が一度も見たことのない顔だった。笑顔と呼ぶには、まだ少し足りない。けれど、三か月のうちで、いちばん笑顔に近い顔だった。
あれを、俺に向けてくれたらいいのに。
イワシに負けたのが少し悔しいけれど、その横顔を見られたことに感謝した。
◇
水族館を出ると、海沿いの遊歩道に、冬の初めの日差しが斜めに落ちていた。
鈴は、日の当たるベンチを見つけるなり、迷わずそこに座った。隼人が隣に腰を下ろすと、鈴は目を細め、ゆっくりと息を吐く。
「……あったかい」
「寒くないですか。何か温かいもの買ってきましょうか」
「いりません。動かないでください」
「え?」
次の瞬間、隼人の肩に、こてん、と重みが乗った。鈴の頭だった。思っていたより、ずっと軽い。柔らかい髪が首筋をくすぐる。
隼人は温かい飲み物を買いに行こうと、カバンから財布を出しかけたまま固まった。思わずごくりと唾をのむ。
「す、鈴さん」
「動かないでくださいって、言いました」
「……はい」
そこから二十分、隼人は石像になった。
右肩から先の感覚がなくなっても、首が攣りそうになっても、動かなかった。
頭上でカモメの一群が鳴き交わした。頼むから今は鳴かないでくれ、と隼人は本気で祈った。
散歩中の犬が、なぜか隼人に向かって吠えた。お前にも分かるのか、この幸せが、と隼人は心の中で語りかけた。
右腕は、もうほとんど自分のものではなかった。今、腕が取れても悔いはない、と思った。
鈴は、小さな寝息を立てていた。この時間が、ずっと続けばいいのに。隼人は本気でそう思った。
◇
ところが。
鈴は、ぱちりと目を開けると、何事もなかったように体を起こした。しばらく空を見上げていたが、腕時計に目を落とした瞬間、表情が変わった。
「帰ります」
「え、もう?」
予約は三時間のコースだ。まだ三十分以上残っている。
「帰ります。今日は、ここまでで」
「あ……はい。じゃあ、駅まで送ります」
「いいです。一人で帰れます」
鈴はカーディガンの袖を引っぱって、ぺこりと頭を下げた。
「……今日は、楽しかったです。たぶん」
「たぶん」
「はい、たぶんです」
そう言って、鈴は振り返らずに歩いていった。人混みの中でも迷わない、あの自分だけの歩幅で。
隼人は、しびれた右腕をさすりながら、その背中を見送った。
鈴は、いつもこうだ。約束の時間より早く、ふいに帰ってしまう。まるで、何かに急かされているみたいに。理由を聞いたことはない。聞いたら、もう会ってもらえない気がするから。
ポケットのスマートフォンが、短く震えた。
〈本日はcat’s pawをご利用いただき、誠にありがとうございました。またのご利用を心よりお待ちしております〉
店からの、自動送信のメールだった。隼人は、画面をしばらく見つめた。
肩には、まだ鈴の頭の重みが残っている。首筋には、髪のくすぐったさが残っている。それなのに、この三時間は、メール一通で「ご利用」として締めくくられてしまう。
分かっている。自分はお客さんで、鈴は仕事をしているだけだ、と思いつつも胸の奥が少しだけきしんだ。
「……来週も、指名しよう」
隼人はつぶやいて、それから自分の肩に、まだ少しだけ残っている日なたの匂いに気づいて、一人で赤くなった。
◇
その夜。
路地奥の雑居ビルの二階、「cat’s paw」の看板の明かりが、ふっと消えた。
店の奥の控え室では、仕事を終えた女の子たちが、思い思いにくつろいでいる。
白い髪の女の子がソファの上で大きく伸びをした。そのまま、くるりと体を丸める。次の瞬間、ソファの上にいたのは、一匹の真っ白な猫だった。
隣で雑誌をめくっていた茶色い髪の女の子があくびをひとつ。ぽん、と軽い音がして、そこには茶トラの猫が転がっている。
部屋の隅の段ボール箱の中では、黒髪の女の子が、いつの間にか黒猫になっていた。窓辺では、キジトラの猫が、外を飛ぶ蛾を目で追いかけている。
そして、月明かりが照らす窓際の座布団の上で、三毛猫が一匹、小さく鳴いた。
白衣を着た初老の男が、事務所の机から顔を上げ、部屋を見渡して、目を細める。
「今日も、お疲れさん」
男は明かりを消した。
レンタル彼女屋「cat’s paw」。
ここで働く女の子たちは、全員、猫である。




