第12話 ネズミの客
その客は、予約の時間ちょうどに、店のドアを開けた。
ちりん、とドアベルが鳴った瞬間、受付にいた隼人は思わず顔を上げた。
匂いだ。香水ではない。須藤のときのような、鼻に突き刺さる匂いとは違う。もっとかすかで、乾いていて、どこか懐かしいような。穀物の袋の奥のような、古い紙の束のような匂い。
「予約した、根津だ」
入ってきたのは、三十代後半くらいの痩せた男だった。仕立てのいいスーツに銀縁の眼鏡。髪はきっちりと撫でつけられ、背筋は定規を当てたようにまっすぐだ。
「ようこそ根津様。ご指名は鈴さんでお間違いないですか」
「間違いない」
根津は店の中をぐるりと見回した。その目が、受付の奥の控え室のドアで止まった。
ドアの隙間から、白猫の頭と、茶色い髪の女の子の頭と、キジトラの猫の頭が、上下に三つ並んでこちらをのぞいていた。
根津の顔から、すうっと血の気が引いた。
◇
鈴の今日の予約は、店内の応接スペースで、お茶を飲みながら話をするだけの「お茶会プラン」だった。
根津は、ソファの端に浅く腰をかけていた。膝の上で両手を固く握りしめている。
そのすぐそばの棚の上に、白猫が一匹、悠然と寝そべっていた。ゆきだ。今日は出勤日ではないので、猫の姿のまま店の中を好きに歩き回っている。
ゆきの青い目が、じっと根津を見下ろしていた。根津のこめかみを、一筋の汗が流れ落ちた。
「……あの、根津様。猫、苦手でしたら別の部屋に移しますけど」
お茶を運んできた隼人が声をかけると、根津は、びくりと肩を震わせた。
「苦手などではない。断じて」
「でも、汗が」
「暖房が効きすぎているだけだ」
根津はハンカチで額を拭った。
鈴が、根津の向かいに座った。ゆきの尻尾が、ゆらりと揺れる。根津の喉が、ごくりと鳴った。
「……本題に入らせてもらう」
根津は眼鏡を押し上げた。
「わたしは、この店が何なのかを知っている」
隼人の手の中でティーポットが小さく音を立てた。
「ここで働いている女たちは人間ではない。湯島玉三郎が作った薬で、動物を人の姿に変えている。違うか」
鈴は表情を変えなかった。
「何のお話でしょうか」
「とぼけなくていい。わたしは学会で湯島の研究を最後まで糾弾した人間だ」
根津は声を低くした。
「人と獣の血を混ぜることは、古代の過ちだ。遠い昔、人と獣が同じ知性を持ち、交わり、血を混ぜ合わせた時代があった。その過ちを正すために、先人たちは血を分けた。人は人に、獣は獣に。それを、湯島は掘り返そうとしている」
根津は、そこで一度言葉を切った。口元を、さりげなく手で覆う。
隼人は首をかしげた。癖なのかもしれないが、根津は、話の途中で何度も口元を隠していた。
「この店の存在を、しかるべきところに告発する。薬も押収させてもらう」
根津は、胸ポケットから万年筆を取り出すと、手帳に何かを書きつけ始めた。
隼人の目が、その万年筆に吸い寄せられた。
黒く艶のある、高そうな万年筆だった。ところが、その尻の部分だけ、塗装がすっかり剥げている。近づいてよく見ると、細かい歯形が、びっしりと刻まれていた。まるで、何かの小動物が、毎日少しずつかじり続けたみたいに。
根津は、書き終えた万年筆を、無意識のように口元へ運びかけた。はっとして手を止め、ハンカチで再び額を拭いた。
棚の上で、ゆきが、くわっと大きなあくびをした。鋭い牙が、むき出しになった。
根津は、ソファの上で文字どおり飛び上がった。
◇
そこからが、ひどかった。
「お茶のおかわり、どうぞー」
事務所から、みかんがティーポットを持って現れた。猫に戻れなくなって以来、みかんは人間の姿のまま、勝手に店の手伝いをしている。
みかんは根津のカップにお茶を注ぐと、そのまま根津のすぐ隣に、ぴったりと腰を下ろした。
「……な、何だ、君は」
みかんは答えず、根津の首筋に、すんすんと鼻を近づけた。
「このお客さん、なんかいい匂いする」
「い、いい匂い……?」
「うん。おいしそう」
根津の顔が真っ白になった。
「みかん、下がって」
鈴が静かに言うと、みかんは「えー」と口をとがらせながらも、ソファの反対の端へ移った。そこから、まだじっと根津を見つめている。
その隙に、棚の上のゆきが、音もなくテーブルに降り立った。
ゆきは、根津の手帳の上に置かれた、あの万年筆を、前足でちょいとつついた。万年筆が、ころりと転がる。もう一度つつく。ころり。テーブルの端まで転がったところで、ゆきは、根津の目をまっすぐ見たまま、最後のひと押しをした。
万年筆が、床に落ちた。ゆきは、空いた手帳の上に、悠然と腰を下ろした。
「……そこを、どきたまえ」
根津が手を伸ばすと、ゆきの前足が、ぴしりとその手を払う。
根津は、仕方なく床の万年筆を拾おうと身をかがめた。
その頭上で、何かがきらりと光った。カーテンレールの上に、キジトラの猫が一匹、身を低くして張りついている。とわだった。黄色い目が身をかがめた拍子に揺れた根津のネクタイを、ひたと捉えている。お尻が小刻みに左右に揺れ始めた。
「あ」
隼人が声を上げたのと、とわが跳んだのは、ほとんど同時だった。とわは、根津のネクタイに見事に飛びついた。
「ちゅっ!」
応接スペースに甲高い声が響いた。直後、部屋が静まり返る。
根津はネクタイにぶら下がったとわをそのままに、ゆっくりと体を起こした。それから咳払いをひとつした。
「……失礼。むせた」
とわがネクタイから、ぽとりと床に落ちた。
◇
隼人は根津の様子をじっと見ていた。
猫を見るたびに青ざめる。汗をかく。口元を隠す。歯形だらけの万年筆。今の、どう聞いても人間のものではない声。そして、店に入ってきたときから漂っている、あのかすかな匂い。穀物の袋の奥のような。古い紙の束のような。
ネズミの匂いだ。
隼人は自分の鼻を疑った。しかし、疑う理由はなかった。この鼻は、とわの匂いをたどって、公園のケヤキの木までまっすぐ歩いていったのだ。犬の遺伝子があるから、鼻がいい。鈴は、そう言っていた。
それなら。
「根津さん」
隼人はテーブルの横にしゃがみ込んで、根津と目線を合わせた。
「失礼ですけど。根津さんも、何か持ってますよね」
根津の顔が凍りついた。
「……何を言っている」
「俺、鼻がいいんです。犬の遺伝子があるらしくて。それで分かるんです。根津さんからは、すこしばかりネズミの匂いがします」
部屋が、再び、しんと静まり返る。根津は口元を押さえたまま、隼人を見つめていたが、長くは続かなかった。眼鏡の奥の目が、すっと冷たく細められる。
「……証拠は、あるのか」
さっきまで猫に怯えていた男とは思えない低い声だった。でも、隼人の鼻は、ごまかせなかった。根津の、あの乾いた匂いに、冷や汗の匂いが混じっている。
「君の鼻が何の証拠になる。わたしが告発すれば、この店は終わりだ。犬の鼻が嗅ぎつけた、などという話を誰が信じる」
「そうですね。証拠は、ないです」
隼人は、あっさり認めた。
「でも、根津さんが告発したら、湯島さんの研究は全部表に出ますよね。薬のことも遺伝子のことも。そうしたら、きっと、たくさんの人が調べ始める」
根津の指先が、ぴくりと動いた。
「調べる人が増えたら、根津さんの体のことも、いつか、誰かが気づくかもしれない。俺みたいに鼻のいいやつが、ほかにもいるかもしれないし」
根津は何も言わなかった。膝の上で握りしめた手が震えていた。
「告発されたら困ります。この店には、ほかに行き場のない子たちがいるので」
隼人は、できるだけ穏やかな声で言った。
「でも、根津さんのことも、俺は誰にも言うつもりはないです。だから、お互い黙っていませんか」
長い沈黙のあと、根津は、ゆっくりと口元から手を下ろした。前歯が、のぞいた。人より、ほんの少しだけ長い前歯だった。
「……脅しているつもりか」
「いいえ。お願いしてるだけです」
根津は、しばらく隼人の顔を見つめていた。
「わたしは、この体で、ここまで来た。誰にも知られずに、だ」
絞り出すような声だった。
「純血を説く人間が、獣の血を引いている。そんなことが知れたら、わたしの積み上げてきたものは、すべて終わる」
根津は床の万年筆を拾い上げた。歯形だらけの尻の部分を親指でそっと隠す。
「今日のところは引き下がろう。だが、この店から目を離すつもりはない。湯島の薬が、また誰かを獣に近づけるなら、そのときは」
根津は最後まで言わずに立ち上がった。
◇
出口へ向かう廊下の途中で、根津は、ふと足を止めた。
控え室のドアが少しだけ開いている。その隙間の奥、段ボール箱の中で、黒猫が一匹、小さく丸まって震えていた。
くるみだった。知らない人間の匂いに怯えて、箱の隅で、精一杯体を縮めている。
根津は、しばらく、その姿を見つめていた。それから、何も言わずに、一歩、ドアから離れた。もう一歩。くるみの箱から、できるだけ遠くへ。
足音を忍ばせて廊下を進む根津の背中は、店に入ってきたときより、少しだけ丸まって見えた。隼人は、その背中を黙って見送った。
◇
ドアの前で、根津は振り返り、見送りに出てきた鈴の顔を、じっと見つめた。眼鏡の奥の目が、わずかに細くなる。
「……君からは、湯島の家の匂いがする」
鈴の顔から血の気が引いた。
「君は、もしかして――」
「お気をつけて、お帰りください」
鈴が根津の言葉を、きっぱりと遮る。
根津は口をつぐんで、それから、鈴の顔と隼人の顔を順番に見た。何かを言いかけたが、結局、言わなかった。
ちりん、とドアベルが鳴って、根津は階段を下りていった。
「湯島の家の匂いって、どういう意味ですかね」
隼人は首をかしげた。
「湯島さんの店で働いてるから、湯島さんの匂いがうつった、ってことかな」
返事はない。
振り向くと、鈴は、ドアの前に立ち尽くしたまま真っ青な顔をしていた。
「……鈴さん?」
「何でもありません」
鈴は、くるりと背を向けて、控え室の奥へ消えていった。その背中は、それ以上の質問を拒んでいた。




