第13話 雨の夜
土曜の朝、天気予報は、昼過ぎから大雨だと告げていた。
それを聞いた瞬間、控え室の空気が変わった。
ゆきは薬の小皿に見向きもせず、棚のいちばん奥に引っ込んだ。くるみは段ボール箱のふたを内側から閉めた。とわは窓辺で空をにらみつけ、低くうなっている。雨の日は鳥が飛ばないからだ。
「雨の日は、だいたいこうです」
鈴が慣れた様子で予約表に線を引いていく。
ただ一人、みかんだけは元気があふれている。
「店長、見て見て!」
控え室から飛び出してきたみかんは、どこで見つけてきたのか、黄色いカッパを着て、赤い長靴を履いていた。猫に戻れなくなってから、人間の服を選ぶのが、すっかり楽しくなったらしい。
「雨の日デート、しよ!水たまり踏んでみたい!」
「お客さんがいれば、ですけど……」
その言葉が終わらないうちに、事務所の電話が鳴った。みかんの常連の須藤からだった。
〈すみません、この雨じゃ、ちょっと……〉
次の電話は、くるみの抽選に当たった客。その次は、とわの佐伯。電話が鳴るたびに、隼人は受話器に向かって頭を下げた。
昼過ぎ、窓の外が白くかすむほどの雨が降り出したころには、予約表はキャンセルの線で埋まっていた。
「……じゃあ、一人で行ってくる!」
みかんはカッパのフードをかぶると、止める間もなく階段を駆け下りていった。
一時間後、帰ってきたみかんは、頭のてっぺんから長靴の中まで、ずぶ濡れ。フードはどこかで脱げたらしく、茶色い髪から、ぽたぽたと雫が垂れている始末。
ところが、みかんがカッパの前を開けると、胸元から商店街の肉屋のコロッケの袋が出てきた。紙袋には、雨粒ひとつついていない。湯気まで立っている。カッパは、みかんではなくコロッケを守っていた。
「水たまり、冷たかった!でも、コロッケは濡らしちゃだめだから!おまけしてもらったの!」
鈴がタオルを持って駆け寄り、みかんの頭をごしごしと拭いた。隼人は、床に広がった水たまりを雑巾で拭いた。
コロッケを三つ平らげたみかんは、タオルにくるまったまま、ソファで寝息を立て始めた。
それきり、店は静かになった。
◇
昼過ぎに降り出した雨は、夜になって、ますます強くなってきた。
窓ガラスを大粒の雨が叩いている。雑居ビルの前の通りには、人影ひとつない。
猫たちは、それぞれの寝床で丸くなっている。ゆきは棚の上、みかんはタオルにくるまったまま控え室のソファ、くるみは段ボール箱の中。とわは窓辺で、鳥の代わりに流れ落ちる雨粒を目で追いかけていた。
事務所には、隼人と鈴の二人だけ。
「今日は、もう閉めましょうか」
「……そうですね」
鈴は帳簿を閉じた。
二人とも、なんとなく席を立たなかった。
絶え間ない雨音だけが事務所を満たしていた。
「この前の日曜」
先に口を開いたのは、鈴だった。
「途中で帰って、すみませんでした」
隼人は、首を横に振った。
「いいんです。また来たいって、言ってくれたので」
鈴は膝の上で指を組んだ。しばらく、その指先を見つめていたが、カーディガンのポケットに手を入れて、小さな布の袋を取り出した。古びた、お守り袋のような袋だった。
袋の口をほどくと、中から、小さな鈴が出てきた。銀色で、くすんでいて、ところどころに細かい傷がついている。鈴の割れ目には、白い綿が、ぎゅっと詰め込まれていた。
「……綿、詰めてるんですか」
「鳴ると、いろいろ思い出すので。でも、捨てることもできなくて」
鈴が、その綿を取り出すと、手のひらの上で、ちりん、と澄んだ音が鳴った。
「母の、形見なんです」
「お母さんの」
「父と母が、おそろいで持っていたものだそうです。もともとは、二つで一組で。こっちが、母の分」
鈴は、鈴を指先でつまんで、明かりにかざした。
「対の鈴は、音の高さが、ほんの少しだけずれているんです。一つずつ鳴らすと、普通の鈴の音。でも、二つ一緒に鳴らすと和音になる。母が、そう言っていたそうです」
「そう言っていた、そうです?」
「私は、母に会ったことがないので」
雨音が、ふいに存在感を増した。
「母は、私を産んだときに亡くなりました。この鈴も、母から聞いた話も、全部ほかの人から受け取ったものです」
隼人は返す言葉が見つからなかった。
「父の方は」
鈴は、ちりん、と鈴を鳴らした。
「気ままだったそうです。ふらっと現れて、ふらっといなくなる。自分のしたいことを、何より優先して」
鈴の声は、淡々としていた。まるで、知らない誰かの話をしているかのようだ。
「ある日、もっといい暮らしができるって話に乗って、母のところから出ていったそうです。この鈴の片方とともに。……母のお腹に、私がいることも知らずに」
「知らずに……」
「たぶん、今も知らないと思います。自分に、娘がいることなんて」
隼人は、この前の夜のことを思い出していた。帳簿の上で、ぎゅっと握りしめられていた鈴の手。
――男の人の「一生」の約束って、信じられないんです。
あの言葉の向こうに、こんな話があったのだ。
「……だから、男の人の『一生』の約束が、信じられないんですか」
鈴の手に少し力がこもる。それから、無言で、取り出した綿を、また鈴の中に詰め直した。
◇
「柴田さん」
しばらくして、鈴が顔を上げた。その目が、まっすぐに隼人を見ている。
「私、本当は――」
鈴の言葉が、途中で止まった。急に自分の腕を、ぎゅっと抱え込む。肩が、小刻みに震えている。
「鈴さん?」
「……ごめんなさい。また、今度」
鈴は椅子から立ち上がろうとした。
でも、その前に、鈴の輪郭が、ふわりとやわらいだ。白いカーディガンが、椅子の上に、ぱさりと落ちた。
その中から、三毛猫が一匹、もぞもぞと顔を出した。
隼人は、しばらく、椅子の上の三毛猫を見つめていた。
鈴は何を言おうとしたのだろう。本当は。その続きを、聞きたかった。
三毛猫は、カーディガンの中で、所在なさげに身を縮めていた。耳を伏せて、隼人と目を合わせようとしない。
隼人は、そっと三毛猫を抱き上げた。三毛猫は、一瞬だけ体を固くしたけれど、逃げなかった。
三毛猫を膝の上に乗せた。それから、椅子の上のカーディガンを手に取って、三毛猫の背中に、ふわりとかけてあげた。
膝の上の三毛猫は温かく、そして、干したての布団と、縁側を混ぜたような、日なたの匂いがした。
隼人は、窓の外の雨を見ながら、三毛猫の背中を、ゆっくりと撫でた。
「……猫でも、好きなもんは好きなんだよな」
誰に言うともなく、隼人はつぶやいた。告白のつもりではなかった。ただ、心に浮かんだことが、そのまま口からこぼれただけ。
「気ままでも、すぐ帰っちゃっても、何考えてるか分からなくても。好きになっちゃったら、それはもう、しょうがないんだよな」
膝の上で、三毛猫の体が、ぴくりと震えた。
「いなくなったりしないよ、俺は」
隼人は三毛猫の頭を、そっと撫でた。
「犬だからさ。一回好きになったら、たぶん、ずっとだよ」
三毛猫は何も答えない。ただ、隼人の膝の上で、ゆっくりと目を閉じた。
◇
夜が更けても、雨はやまなかった。
隼人は、三毛猫を膝に乗せたまま、事務所の椅子でうとうとしていた。
机の上には、湯島の研究ノートが一冊、開いたままになっている。この前、研究室から持ち出して、まだ読みかけのままだったものだ。
開いたページの隅に、湯島の几帳面な字で、走り書きのメモがあった。
〈最終工程 費用不足。目途立たず〉
〈材料(遺跡由来) 残り一回分〉
隼人は、まだ、そのメモに気づいていなかった。
窓の外では、雨の音が、静かに続いている。膝の上で、三毛猫が、ごろごろと小さく喉を鳴らした。




