第11話 レンタルじゃないデート
乗り過ごした駅から、歩いて帰った。家に着いたのは、夜中の二時だった。シャワーを浴びても、布団に潜っても、鈴の声が耳から離れない。
それから二日、隼人は、まともに鈴の顔を見られてないのが続いている。
昼の営業では、取引先との打ち合わせ時間を一時間間違えた。夜の店では、ゆきのおやつの袋をみかんに渡し、くるみの箱に、とわのボルダリングシューズを入れた。
「店長、今日、ぽんこつ」
みかんに言われても言い返す気力もなかった。
月曜の夜、事務所の椅子で天井を見上げていると、鈴の声がよみがえった。
――残された方には、一生一緒にって言葉だけが残るんです。
そうだ。自分だって、置いていかれた側だ。空っぽのオフィスに残ったのは、「一生」という言葉だけだった。だから分かる。残された人が欲しかったのは、言葉じゃない。
鈴さんの前にいた男に、勝てるかどうかは分からない。でも、勝たなくてもいい。いなくならない方の男になればいい。不言実行だ。
椅子から体を起こした。
そのためには、まず、そばにいる時間を作るところからだ。店長と従業員としてじゃなく、仕事の外で。
◇
そう決意してから二日がたった。
店長が、従業員をデートに誘う。それは、まずいのではないだろうか。
水曜の夜、控え室のソファで、隼人はスマートフォンを握りしめたまま三十分も固まっていた。画面には、鈴に送るメッセージの下書きが表示されている。
〈今度の日曜、空いてたら〉
そこから先が、どうしても打てなかった。
「店長、さっきから何してんの?」
ソファの背もたれから、みかんが顔をのぞかせた。
「な、何でもないです」
「鈴ちゃんでしょ」
「……なんで分かるんですか」
「顔に書いてある。あと尻尾も振れてる」
「今は生えてないです!」
みかんは、けらけらと笑った。
「誘っちゃえばいいじゃん。鈴ちゃん、店長のこと嫌いじゃないよ」
「でも、俺、店長だし。断れない立場の人を誘うのは、よくないっていうか」
「ふーん。じゃあ、断れるように誘えばいいじゃん」
隼人は、顔を上げた。なるほど。断れるように誘おう。下書きを書き直した。
〈今度の日曜、空いてたら、どこか出かけませんか。店長としてじゃなくて個人的なお誘いです。もちろん、断ってくれて大丈夫です。断っても、仕事には何も影響しません〉
送信ボタンを押してから、隼人は毛布をかぶってソファの上で丸くなった。
返事は、三時間後に来た。
〈いいですよ〉
毛布の中で隼人は声にならない声を上げた。
◇
日曜の午後。待ち合わせ場所は植物園の入口にした。
水族館は、もう行った。だから今回は、日なたの多い場所を選んだのだ。大きなガラスの温室があって、冬でも中はぽかぽかと暖かい。
「……ここ、いいですね」
温室に入るなり、鈴は目を細めた。天井まで届くヤシの木。色とりどりの蘭。ガラス越しの日差しが、床の上に、まだらな光の模様を作っている。
鈴は日の当たるベンチを見つけると、迷わずそこに座った。隼人も、少しだけ距離をあけて、その隣に腰を下ろした。
いつもの土曜とは何かが違う。時間を気にしなくていい。料金もない。終わったあとに、「ご利用ありがとうございました」のメールも来ない。隣に座っているのはレンタル彼女の鈴ではなく、ただの鈴だ。
「店長」
「今日は、店長じゃなくていいです」
「……柴田さん」
鈴は膝の上で指を組んだ。
「どうして私を誘ったんですか」
少し考えてから正直に答えた。
「一回、ちゃんと普通に出かけてみたかったんです。お客さんとしてじゃなくて」
鈴は何も言わなかった。けれど、立ち上がって帰ろうともしなかった。
◇
温室を出て園内の小さな喫茶店に入ることにした。
窓際の席で、鈴はホットミルクを、隼人はコーヒーを頼んだ。鈴は、ホットミルクの表面にできた膜を、スプーンの先でじっと見つめている。隼人は意を決して、鞄から小さなノートを取り出した。
「鈴さん。実は、これ」
「何ですか、それ」
「ネタ帳です」
鈴の眉が、ぴくりと動いた。
「……ネタ帳?」
「鈴さんを笑わせるためのネタ帳です。三か月分」
隼人はノートを開いて、テーブルの上に置いた。
どのページにも、びっしりと文字が書き込まれている。日付と、ネタと、結果。
〈九月第一週 取引先で鉄板のダジャレ「このシューズ、シュッとしてる」→ 結果:無表情〉
〈九月第二週 評判のパンケーキ店→ 結果:「普通です」〉
〈九月第三週 手品(コインが消える)→ 結果:コインを床に落とす。鈴さん拾ってくれる。笑わない〉
〈十月第一週 自分の失敗談(会議で社長の名前を間違えた話)→ 結果:「それは笑えません」〉
「……全部だめだったんです」
隼人は頭をかいた。
「でも、今日こそはと思って、新しいネタを五つ用意してきました。まず一つ目なんですけど――」
ぷっ、と小さな音がした。
顔を上げると、鈴が口元を手で押さえていた。肩が小刻みに震えている。
「……鈴さん?」
「な、なんで、そんなもの、真面目に、三か月も……」
鈴の声が途中で崩れた。
次の瞬間、鈴は笑った。口元を押さえていた手が外れて、声を上げて笑った。目尻に涙をにじませて、ネタ帳を指さして、お腹を抱えて。
隼人は息をするのを忘れた。
三か月。ネタ帳一冊分。どんなダジャレも、手品も、パンケーキも、届かなかった。それなのに、ネタ帳そのものが鈴を笑わせた。
鈴の笑顔は想像していたよりも、ずっと子どもっぽかった。目がくしゃっと細くなって、頬が丸くなって、イワシを見つめていたときの横顔とも、ほんの少し緩んだ口元とも、まるで違っていた。
「……笑った」
思わず口から言葉がこぼれる。鈴は、はっとしたように口元を押さえ直した。
「わ、笑ってません」
「笑いました」
「笑ってません」
「今、すごく、笑いました」
鈴は、ぷいと窓の外を向いた。耳まで真っ赤だった。
隼人は、テーブルの下で、こっそりガッツポーズをつくった。もし今、尻尾が生えていたら、喫茶店じゅうのものをなぎ倒していたに違いない。
◇
喫茶店を出ると、空は夕方の色に変わり始めていた。
植物園の出口へ向かう並木道を二人で並んで歩く。落ち葉を踏む音が、さくさくと耳に心地よい。
「今日、楽しかったです」
隼人は前を向いたまま伝えた。
「また来たいな、ここ」
隣を歩く鈴の足が、ほんの一瞬止まりかけた。
「……私も」
小さな声だった。でも確かに聞こえた。隼人が振り向こうとした、そのとき。鈴が、急に立ち止まった。自分の腕を、ぎゅっと抱え込んでいる。
「鈴さん?」
「……すみません。帰ります」
「え?」
「今日は、ここまでで」
あの、いつもの台詞だ。
鈴は、隼人の顔を見ずに、早足で並木道を駆けていった。追いかけようとした隼人の前で、角を曲がって、あっという間に見えなくなる。
隼人は、並木道の真ん中に一人で取り残された。
◇
駅へ向かう帰り道。
隼人は、とぼとぼと歩きながら何度もため息をついた。
笑ってくれた。また来たいと言ったら、「私も」と言ってくれた。それなのに、最後はいつものように、逃げるように帰ってしまった。何か、まずいことを言ってしまったのだろうか。
ふと、ビルとビルの間の細い路地に、何かが座っているのが見えた。三毛猫だ。隼人は、足を止めたが、三毛猫は逃げもせず、じっと隼人を見上げている。
一瞬、心臓がどきりとした。まさか、と思って、鼻をひくつかせる。しかし、路地の奥にある焼き鳥屋の換気扇から、タレの焦げる煙がもうもうと吐き出されていて、ほかの匂いは何ひとつ分からなかった。それに、鈴が走っていったのは、植物園の奥の方だ。駅へ向かうこの道とは、まるで逆の方向だった。
「……まさか、鈴さんじゃ、ないよな」
あくびをした三毛猫をみて苦笑いした。
「そんなわけないか。三毛猫なんて、どこにでもいるし」
白と茶と黒のまだら模様。店の鈴よりも、茶色の部分が少し多い気がする。暗くて、よく分からないけれど。
「……お前、迷子か?」
隼人は路地の入口にしゃがみ込んだ。三毛猫は、やはり逃げなかった。
「なあ。ちょっと聞いてくれるか」
猫に話しかけるなんて我ながらどうかしているが、誰かに聞いてほしかった。
「好きな人がいるんだけどさ。その人、猫なんだよね」
三毛猫の耳が、ぴくりと動いた。
「おかしいだろ。俺も、そう思う。しかも俺、犬なんだって。犬と猫だよ。どう考えても無理だろ」
隼人は膝の上に顎を乗せた。
「でもさ。今日、初めて笑ってくれたんだ。三か月かかって、やっと」
路地の奥で、三毛猫が、ゆっくりとまばたきをした。
「すっげえ、いい顔だった。あれ見たら、猫とか犬とか、どうでもよくなっちゃってさ。……でも、最後、逃げられちゃった。俺、何か、まずいことしたのかな」
三毛猫は、ただ、隼人の顔を、じっと見つめていた。
「ごめんな。変な話、聞かせて」
隼人は立ち上がって、膝の埃を払った。
「お前も、早くおうちに帰れよ」
隼人は、駅の方へ歩き出した。
路地の入口で、三毛猫は遠ざかっていく隼人の背中を、見えなくなるまで見送っていた。その尻尾の先が、不安を示すように、ゆらゆら揺れていた。




