第三百五十三話 秋冷の渓流釣り
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
十月、朝。
朝の空気には、九月の頃よりもはっきりとした冷たさが感じられる。
館の庭では、草の葉に朝露が宿り
木々の梢も少しずつ秋の色を帯び始めていた。
伊東祐兵と島津豊久は
朝餉を済ませると、山の渓流へ出かける支度をしていた。
「今日はヤマメを釣りに行こうと思う。山の水も、ずいぶん冷たくなっているだろうな」
祐兵が釣り道具を確かめながら言った。
「この時季の渓流は、空気も澄んでいて気持ちがよいでしょうな。ヤマメもよく肥えているかもしれませぬ」
豊久は釣り竿を肩に担ぎ、楽しげに笑った。
小春と黒猫も、二人の出立を察したのか
そろって足元へ寄ってきた。
「お前たちも行くのか」
祐兵が声をかけると
小春は小さく鳴き、黒猫も尻尾を立てた。
「二匹とも、山へ行くのが楽しみなのでしょう」
「そうだな。では、二人と二匹で出かけるとしよう」
こうして一行は、館を後にした。
山道に入ると、木々の間から差し込む朝日が
地面に長い影を落としていた。
道端には、色づき始めた木の葉がちらほらと見える。
まだ山全体が紅葉するには早いが
緑の中に赤や黄色が混じり、秋の訪れを感じさせた。
小春は道の端を歩きながら、落ち葉の匂いを確かめている。
黒猫もそのすぐそばを歩き、ときおり小春の方を振り返った。
「山の景色も、少しずつ変わってきましたな」
豊久が木々を見上げた。
「これから日を重ねるごとに、色づいていくだろう。山の秋は、町よりも早く深まる」
「紅葉が見頃になった頃、また皆で来るのもよいですな」
「それもよいな。今日はまず、釣りを楽しもう」
やがて、渓流のせせらぎが聞こえてきた。
川辺に着くと、二人は水の流れを確かめながら、釣り場を探した。
水は澄み、川底の石までよく見える。
手を浸してみると、思わず指を引きたくなるほど冷たかった。
「これは冷たい。夏とはまるで違うな」
祐兵が手を拭きながら笑った。
「山の水は、もうすっかり秋の水ですな」
豊久は流れの緩やかな場所を見つけ、足場を確かめた。
二人は小春と黒猫が休める場所を選び
川辺の平らな石のそばに腰を下ろせるようにした。
小春は石の上に座り、黒猫はその隣で丸くなった。
「ここなら、しばらく待っていられそうだな」
祐兵は二匹に声をかけてから、釣り糸を垂らした。
川の流れに合わせて、糸が静かに揺れる。
しばらく待つと、竿先が小さく動いた。
「おや」
祐兵が竿を引くと、水面がぱしゃりと跳ねた。
銀色の魚が流れに逆らって身を躍らせる。
「かかりましたな!」
豊久が声を上げた。
祐兵は慌てず、魚の動きを見ながら少しずつ糸を手繰り寄せる。
やがて、手のひらほどのヤマメが水面から姿を現した。
「まずは一匹だ」
祐兵は魚を丁寧に外し、魚籠へ入れた。
豊久も負けじと、少し上流の流れに釣り糸を垂らした。
こちらはなかなか当たりがない。
豊久は場所を少し変え、岩陰の深みを狙った。
すると、竿先が大きくしなった。
「おお、これは大きい!」
豊久が竿を引くと、魚は勢いよく流れの中を走った。
「豊久殿、慌てるな。流れに逆らわせすぎると逃げられるぞ」
「分かっております!」
豊久は竿を支え、魚の動きに合わせて糸をたぐった。
何度か水面を跳ねた末、ようやく一匹のヤマメが岸へ寄ってきた。
祐兵が手を貸し、豊久は魚籠へ収めた。
「なかなかの大きさですな」
「見事なヤマメだ。今夜の膳が楽しみになってきた」
二人はその後も場所を変えながら釣りを続けた。
小春は水面を泳ぐ魚影を目で追い
黒猫は小春の隣から流れを眺めている。
魚が跳ねるたびに、小春の耳がぴくりと動いた。
「小春殿も、魚が気になるようですな」
豊久が笑うと、祐兵も頷いた。
「だが、川へ飛び込んではいけないぞ。水が冷たいからな」
小春は返事をするように一声鳴いた。
黒猫もその隣で、ゆっくりと尻尾を動かしていた。
昼近くになる頃には、籠の中に何匹かのヤマメが収まっていた。
二人は釣りを切り上げ、川辺の平らな場所で昼餉を取ることにした。
持ってきた握り飯を取り出し、豊久が水筒代わりの竹筒を傾ける。
中には温めた麦湯が入っていた。
「山の中で飲む麦湯も、なかなかよいものですな」
「冷えた身体に、温かいものが染みる」
祐兵は握り飯を頬張り、渓流の音に耳を傾けた。
小春と黒猫にも、持参した餌を分けてやる。
二匹は並んで食べ終えると、日の当たる石の上で身を寄せ合った。
「秋になったと思えば、もう十月か。月日の経つのは早いものだ」
祐兵が山の木々を眺めながら言った。
「夏の暑さも、今では遠いことのように思えますな」
「これからは紅葉に、栗に、柿に、楽しみが多い」
「山の幸も、里の実りもございます。秋はよい季節ですな」
「そうだな。今夜はこのヤマメを料理してもらおう。焼いてもよいし、汁にしてもよい」
「私は塩を振って焼いたものが好みです。皮目が香ばしく、身もふっくらとしておりますからな」
「それもよい。何匹かは焼き、残りは汁にしてもらおう」
二人は、帰ってからの夕餉を思い浮かべながら笑った。
昼餉を終えると、川辺でしばらく休み、帰り支度を始めた。
小春と黒猫は、名残惜しそうに渓流を振り返った。
澄んだ水は、秋の日差しを受けてきらきらと輝いている。
「また来よう。紅葉が深まった頃にな」
祐兵が声をかけると、小春は軽く鳴いた。
黒猫も一度だけ川の方を見てから、二人の後を追った。
山道を下る頃には、日差しも少し傾き始めていた。
朝の冷たさとは違い、午後の山には穏やかな温もりが残っている。
木々の間を抜ける風が、色づき始めた葉を静かに揺らしていた。
館へ戻ると、二人は釣ったヤマメを料理人に渡した。
「今夜はこれを焼き物と汁にしてもらおう」
「承知いたしました」
料理人は魚の大きさを確かめ、さっそく夕餉の支度に取りかかった。
祐兵と豊久は
庭先で小春と黒猫の様子を眺めながら、釣りの話を続けた。
十月最初の山行きは、澄んだ流れと秋の景色に恵まれた一日となった。
今夜の山女の味を思い浮かべながら
二人と二匹は、静かな夕暮れを迎えた。




