第三百五十二話 薬師のお墨付き
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
明朝。
館の庭には、秋の澄んだ空気が流れていた。
伊東祐兵は縁側に座り、静かに庭を眺めていた。
少し前まで腹を痛めて寝込んでいたことが
遠い昔のことのように感じられる。
今では朝の鍛錬もできる。
城下町を歩くこともできる。
昨日は近所の寺へ行き、落ち葉集めまで手伝った。
それでも、祐兵には一つだけ気になっていることがあった。
薬師から、まだ正式に「大丈夫」と言われていないことだ。
「今日、薬師殿が来る日だったな」
祐兵が言うと、隣にいた島津豊久が頷いた。
「ええ。そろそろ様子を見に来られる頃でしょう」
小春と黒猫は、二人の足元で並んでいる。
やがて、門のほうから人の足音が聞こえてきた。
「来られたようですな」
豊久が立ち上がる。
ほどなくして、馴染みの薬師が館へ入ってきた。
「おはようございます」
「薬師殿、おはようございます」
祐兵も立ち上がった。
薬師は祐兵の顔を見ると、穏やかに頷いた。
「顔色がよくなりましたな」
「体の具合も、もう問題ない」
「それでは、少し診てみましょう」
祐兵は縁側に座り、薬師の診察を受けた。
腹の具合を確かめ、脈を取り、体の様子を一つずつ確認していく。
豊久は少し離れたところで、その様子を見守っていた。
小春と黒猫も、祐兵のそばから離れない。
しばらくして、薬師が顔を上げた。
「腹の痛みは、もうありませんな」
「ああ。すっかりなくなった」
「食欲はどうです」
「問題ない。昨日も朝からしっかり食べた」
「栗ごはんも召し上がったと聞いています」
豊久が少し笑う。
「ええ。鍛錬の後に、かなり美味しくいただきました」
薬師も笑った。
「それなら、もう心配はいらないでしょう」
祐兵は少し驚いたように薬師を見る。
「本当に?」
「はい。体の具合はすっかり戻っています」
薬師ははっきりと言った。
「もう養生を続ける必要もありません。普段通りの生活に戻ってよいでしょう」
豊久の顔にも笑みが浮かぶ。
「それは何よりですな」
祐兵はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「そうか。これで本当に元通りか」
「ええ。もちろん、食べ物にはこれまで通り気をつけてください。特に肉は、しっかり火を通すことです」
「分かった」
薬師は頷いた。
「無理に昔以上の鍛錬をする必要はありませんが、体調を見ながら動く分には問題ありません」
「そうしよう」
祐兵の表情が、ようやく完全に緩んだ。
豊久も嬉しそうに笑っている。
「これで安心しましたな」
「ああ」
祐兵は頷いた。
足元を見ると、小春と黒猫がこちらを見上げている。
「小春殿も黒猫も、ずっと心配してくれていたからな」
祐兵が小春の頭を撫でる。
小春は気持ちよさそうに目を細めた。
黒猫もその隣へ寄り添う。
「もう心配することはないぞ」
祐兵が言うと、小春が小さく鳴いた。
「返事をしたようですな」
豊久が笑う。
「そうだな」
薬師はその様子を見ながら、荷物をまとめた。
「それでは、私はこれで」
「世話になったな」
祐兵が頭を下げる。
「こちらこそ、元気になられて安心しました」
薬師はそう言って、館を後にした。
門が閉じる。
祐兵はしばらくその場に立っていた。
「これで、ようやく本当に戻れたな」
「ええ」
豊久が頷く。
「では、これからはどうしますか」
「そうだな」
祐兵は庭を見渡した。
朝の光が木々の間から差し込んでいる。
「まずは今日も、いつも通り過ごそう」
「それが一番ですな」
二人は笑った。
小春と黒猫も、二人の間を歩き始める。
病に倒れてから、長いようで短かった。
鍛錬を控えた日。
館で静かに過ごした日。
少しずつ散歩を再開した日。
山の湯へ行った日。
そして、再び木刀を手に取った日。
一つ一つの日々を重ねて、ようやく薬師からのお墨付きをもらった。
もう、特別に体を気遣う必要はない。
これからは、以前のように好きなことを楽しめる。
「豊久」
「はい」
「今日は何をする?」
豊久は少し考えた。
「せっかくですから、まずは庭で軽く体を動かしますか」
祐兵は笑った。
「そうしよう」
小春と黒猫が二人の後についていく。
秋の朝の庭に、穏やかな笑い声が響いた。
ようやく戻った、いつもの日々。
二人と二匹の新しい一日が、静かに始まった。




